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暑中お見舞ひ?

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 画は 二代目 歌川 廣重

 文政9年〈1826年〉〜 明治2年〈1869年〉

 初代歌川廣重の門人。姓は鈴木または森田、名は鎮平。
 立斎、立祥、喜斎と号す。
 初代歌川廣重と同じく定火消し同心の息子であった。       作


  「肥前長崎 唐船の津 諸国名所百景」です。


☆晴れたり曇ったり。

本日は69回目の長崎原爆忌です。          合掌

まずは、

◆http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/194589-7f2a.html
マスコミに載らない海外記事 2014年8月 8日 (金)
◎1945年8月9日の爆撃長崎 キリスト教会と国家についての歓迎されざる真実


Gary G. Kohls 医師  Global Research 2014年8月5日
☆http://www.globalresearch.ca/the-bombing-of-nagasaki-august-9-1945-
 unwelcome-truths-for-church-and-state/5394853


69年前、全員キリスト教徒の爆撃機乗組員が、“ファットマン”、プルトニウム原爆を、
日本の長崎に投下し、何万人もの無辜の一般市民を瞬時に殲滅させたが、

彼等の中でも、不釣り合いなほど多数は、日本人のキリスト教徒で、
更に無数の人々が、永久に残る負傷、あるいは致命傷を負った。

1945年、アメリカは、世界最大のキリスト教国
(つまり、諸々の教会が、圧倒的に、山上の垂訓として教えられているイエスの倫理を、
心から教えたり、忠実に守ったりしそこねている国を、キリスト教と呼べるとすればだが)
だった。

午前11:02に、浦上天主堂上空で原爆が爆発するまで、長崎は、日本最大のキリスト教都市だった。
浦上天主堂は、東アジア最大のキリスト教大聖堂だった。

洗礼と、堅振礼を受けたこのキリスト教徒航空兵達は、
致命的な突然の故障がいくつもあったにせよ、戦時の命令に一字一句従い、
業務を能率的に行い、軍人としての誇りをもって、任務を完遂したのだ。
1945年の大半のアメリカ人なら、もしボックスカー乗組員の立場になっていたら、
まさに同じことをしていただろうし、英雄として処遇されれば、
その後の、精神的苦痛もほとんどなかったろう。

それでも、長崎の様にほとんどが一般市民である都市を破壊する為の、
あの極悪非道の大量破壊兵器使用は、
後にニュールンベルク裁判で定義された様に、国際的な戦争犯罪、人類に対する犯罪だ。

もちろん、当時、乗組員にはそれを知る方法など皆無だった。

原爆が実際に爆発した際、自分達が関与したことに、
若干の疑念を感じたことを認めている乗組員もいる。もちろん、彼等の誰一人として、
犠牲者達の恐るべき苦難を、実際、間近で、直接見てはいない。

“命令は命令”で、戦時には、不服従というものは、他の人間、
特に非武装の人を殺害することは、道徳的に間違いだと
確信できるほど強力な道徳意識を持っているような兵士は、
合法的に即決処刑に値する可能性があり、実際にそうだった。


☆日本を降伏しづらくさせる

原爆が広島を滅ぼした8月6日から、わずか3日後のことだった。

8月9日の爆撃は、ファシスト軍事政権が、- すでに何ヶ月も前から、
戦争に負けたことを理解していて、それゆえ立派に降伏し、
戦争を終わらせる方法を模索していた東京における混沌、混乱のさなかに行われた。

降伏に対する唯一の障害は、連合国諸国が、日本人が神と見なしていた天皇裕仁が、
日本における名目上の長の立場から排除され、戦争犯罪裁判にかけられる可能性を意味する、
無条件降伏を主張していたことだった。

これが交渉を難航させ、絶えがたい要求for日本戦争を長引かせ、
日本が何ヶ月か早く降伏する妨げになっていた。

8月8日、40年前の(ロシアにとって)屈辱的な日露戦争で、
日本に奪われた領土を奪還することを狙って、ロシア軍は日本に対し、戦争を宣言し、
スターリンの軍隊は、満州を前進していた。

ロシア参戦は、ロシアより、アメリカに降伏するほうがずっとましだと
考えている日本にとって、戦争を早急に終わらせる為の強い動機となった。

そして、もちろん、アメリカは、いかなる戦利品も、ロシアと分け合いたくはなく、
ロシアに対して、アメリカが、この世界における新超大国だ
という初期の冷戦メッセージを送りたがっていた。

一発目の原爆の最も早い投下日として、1945年8月1日を想定して、
ワシントンD.C.の標的委員会は、通常のアメリカ空軍の焼夷弾作戦
(1945年上半期中に、60を越える多くの無防備な日本の主要都市を全焼させていた)の対象から
排除すべき、比較的無傷な日本の大都市のリストを作り上げた。

焼夷弾攻撃から守られる都市のリストには、広島、新潟、小倉、京都と長崎が含まれていた。

この比較的無傷な5都市は、焼夷弾爆撃の立ち入りは許されなかった。

これらの都市は、2年間のマンハッタン計画により、
全米で研究開発されて来た“新機軸”兵器の潜在的標的として、保護されるべきものだった。

皮肉にも、8月6日と9日以前には、それらの都市の住民達は、
他の都市ほど爆撃されない自分たちは幸いだと思い込んでいた。

一体なぜ自分たちが虐殺から救われているのかという理由を、彼らは全く知るよしもなかった。


☆トリニティー実験

最初で、唯一の原子爆弾実地試験は、冒涜的なことに“トリニティー=三位一体”という
コード名がつけられていた(明らかにキリスト教用語だ)。

投下に先立つこと三週間、1945年7月16日に、ニュー・メキシコ州アラモゴルドでおこなわれた。

結果は見事なものだったが、爆風は、不運なコヨーテ、ウサギ、ヘビや
他の砂漠の害獣を絶滅させただけだった。

サボテンとヤマヨモギの群を完璧に破壊し、実験の撮影用に、慌ただしく建てられた
家々の中に据えられたマネキン人形の一家を消滅させた。

トリニティー実験では、予期せず、後に“トリニタイト”と呼ばれるようになった、
膨大な量の新たな鉱物をもたらしたが、
これは原爆爆破地点上空の強烈な熱(太陽の温度の二倍)によって生み出された溶岩塊だった。

1945年8月9日午前3時、ボックスカーという“洗礼名を授けられていた”)超空の要塞B-29が、
ルター派とカトリックの従軍牧師の祈祷と祝福を受けて、
南太平洋のテニアン島を離陸した。

離陸する前に、すんでのところで滑走路からはずれるところだったが
(搭載していた10,000ポンドの原爆の重さゆえに)、
一次標的の小倉に向けて北上した。

ボックスカーのプルトニウム原爆は、ウィンストン・チャーチルにちなんで“ファットマン”
というコード名を付けられていた。

三日前に広島を焼いて灰にした原爆、リトル・ボーイは、
最初はシン・マン(=痩せ男) (ルーズベルト大統領にちなんで)と呼ばれていた。

二発目の原爆は、日本の軍事参議院が降伏について議論をしている最中に目的地へと運ばれていた。

広島で起きたことの現実は、東京の軍事参議院には理解できなかった。

だから、日本の軍事参議院は、降伏問題について、合理的な決断をできる状態には決してなかったのだ。

だが、軍事参議院が会議をしている頃には、無線封止をして飛行しているボックスカーは、
任務を、一週間遅らせてしまう可能性のある台風と雲を切り抜けることを願って、
既に日本の南部の諸島に近づいていたので、それはもはや手遅れだった。

ボックスカー乗組員は、必ず目視照準をした上で、原爆を投下するよう指示されていた。

しかし小倉は雲に覆われていた。

そこで、都市上空の雲の上を、原爆投下の為の飛行を三度試みた後、
残り燃料も危険なほど少なくなり、爆撃機は二次目標の長崎に向かった。


☆長崎キリスト教の歴史

長崎は、日本のキリスト教史上で有名だ。

長崎は、日本で最大のキリスト教徒の集中地だった。

浦上天主堂は当時の巨大教会で、12,000人の洗礼を受けた信者を擁していた。

長崎は伝説的なイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが、
1549年に伝道教会を建てた場所だ。

長崎のカトリック教共同体は拡大し、ついには続く数世代、繁栄した。

ところが結局、日本の支配者達は、ポルトガルとスペインの商業権益が、
日本を搾取していることに目覚めたのだ。
やがて間もなく、全てのヨーロッパ人と彼等の外国の宗教は国外追放された。

1600年から1850年まで、日本では、キリスト教徒であることは、死罪に値した。

1600年代初期、信仰取り消しを拒否した日本人キリスト教徒は、
磔刑を含め、言語に絶する拷問を受けた。

恐怖政治時代が過ぎた後、あらゆる観察者にとって、
日本におけるキリスト教は絶滅したかに見えた。

ところが、250年後に、マシュー・ペリー准将が砲艦外交で、沿岸の島を、
アメリカ貿易の為に開放させた後、長崎には、政府には全く知られず、
地下潜伏したような形で、
洗礼を施された何千人ものキリスト教徒達が暮らしていることが発見された。

この屈辱的な発見の後、日本政府は新たな粛清を開始した。

ところが国際的圧力の為、迫害は止められ、長崎のキリスト教が、地上に出現した。

1917年には、政府から何の援助も受けずに、復興したキリスト教共同体が、
長崎の浦上川地区に、壮大なセントメアリー大聖堂を建立した。

9300メートル上空(もう一つは三菱の兵器工場複合体)から確認可能な、
長崎に二つしかない陸標の一つである巨大な天主堂が、
悪名高い爆弾の爆心地となったのは皮肉の極みだ。

ボックスカー爆撃手は、陸標を雲の切れ目から確認し、投下を命じたのだ。

午前11:02、木曜朝ミサのさなか、何百人もの長崎キリスト教徒はゆだり、蒸発し、炭化し、
天主堂上空500メートルで爆発した、焼けつく放射能の火の玉へと消えた。

間もなくきのこ雲から降った黒い雨が、長崎の神道信者、仏教徒やキリスト教徒の入り交じった
多数の亡骸を包んだに違いない。

長崎の黒い雨の神学的な含意は、あらゆる宗派の神学者達の心をひるませるに違いない。


☆長崎キリスト教信者の死者数

大半の長崎のキリスト教徒は、爆破から生き残れなかった。

ゆるしの告解に出席していた全員を含め、6,000人が即死した。

12,000人の教会員のうち、8,500人が原爆の結果として亡くなった。
他の多くの人々も重い病状になった。

三つの女子修道院と、キリスト教女学校が、黒煙となって消滅するか、炭の塊と化した。
何万人もの非戦闘員の神道信者や仏教徒日本人も即死し、
更に多くの人々が、致命傷を負ったり、治療もできないほど負傷したりした。

犠牲者の子孫の中には致命的なプルトニウムや、
原爆が生み出した他の放射性同位元素によって引き起こされた、継代悪性腫瘍や、
免疫不全のために亡くなりつつある方々もいる。

ここで、本記事の重要点の一つをあげよう。

日本の帝国主義政権が、200年間にわたる迫害でできなかったことを(日本キリスト教の破壊)、
アメリカのキリスト教徒は、9秒でなし遂げたのだ。

第二次世界大戦以来の数十年間で、キリスト教が、ゆっくりと復興した今でも、
日本人教会信者数は、総人口のわずか1%というものでしかなく、
キリスト教礼拝への平均出席者は、わずか30人と報じられている。

戦争末期における長崎の絶滅が、一時は活気に満ちていた教会を、損なってしまったことは確実だ。

長崎キリスト教の隠された歴史と、アメリカ人キリスト教徒による、
長崎キリスト教徒絶滅のこころみを学ぶことは重要だ。

ボックスカー爆撃機乗組員は、あらゆる戦争における大半の歩兵同様、
長く複雑な無名の指揮命令系統の最下位に位置していた。

彼らは、大企業が製造し、誰一人として悪魔の様な行為をした
独占的な責任を主張していない他の連中から彼等の手にゆだねられた
原爆兵器の“引き金を引いた”にすぎない。

そしてあらゆる戦争と同様、指揮命令系統の最下位に位置していた、
第二次世界大戦の歩兵達や、引き金をひいた連中や、従軍牧師達は、
自分達が一体誰を殺しているのか - あるいは一体なぜ殺しているのかよく分かってはいなかったのだ。


☆第509混成部隊のカトリック従軍司祭、ジョージ・ザベルカ

(略)

☆戦争の大量虐殺における、キリスト教教会の役割は一体どうあるべきか?

(略)


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(広島)原爆の日の安倍晋三のあいさつは、去年のあいさつのコピペでした。
☆http://kuronekonotango.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/
 post-b742.html#_ga=1.258552013.675099010.1362996393

あの人物が映った瞬間、チャンネルを切り換えるか、テレビを消す習慣が身についているので、
コピペ洗脳を聞かされ、人生を無駄にすることはないが、実にせわしない。

こういう連中におしつけられる『道徳』や歌や旗など認めたいと思わない。悪徳は道徳だ。

(中略)

この属国で、集団的自衛権という、実質、「宗主国侵略戦争用砲弾の餌食提供義務」について、
反対を表明した、宗教団体はいくつあるのだろう?

一緒になって推進している大宗教組織があり、神社関係も大賛成のようだ。

軍神達が、戦った敵国が、宗主国となり、
その為に、大義なき戦争に砲弾の餌食を送り、無言の帰国となった場合、大歓迎して祀るのだろうか?

「原爆投下は、戦争を早く終わらせ、100万人の死者が出るのを防ぐためだった」という
インチキ神話が繰り返されつづけ、アーサー・ビナード氏の指摘するように、

「本命のプルトニウム原爆を投下するまで、なんとか戦争が早く終わらせないように、
宗主国が色々苦労をしていた」事実の報道は、まず皆無だ。

原発は、プルトニウム爆弾製造装置であり、ただ動かすのでは大義名がないので、
余熱で発電をしているのにすぎない。

唯一の原子爆弾実地試験は、冒涜的なことに“トリニティー=三位一体”という
コード名がつけられていた、というが、この属国では、
高速増殖炉なるとんでもない危険物に、為政者、「もんじゅ」という罰当たりな名をつけた。
「ふげん」という廃炉もある。

どこの国でも、為政者は、とんでもない代物の実体を隠すため、
平気でばちあたりな名前をつける。

連中、本当は拝金教信者で、キリスト教信者でも、仏教信者でもないだろう。

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二代目 歌川 廣重、二枚目、



「諸国名所百景」 「肥前長崎月鏡橋」です。




いい記事だ、

◆http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/okasinasennsoudaltuta.htm
長周新聞 2005年11月26日付


   第二次大戦はおかしな戦争だった

       ほとばしる体験者の証言

      敗戦明確な時の国民大虐殺


戦後60年をへたいま、戦争体験者のあいだで当時の苦しかった経験、目撃した
ほんとうのことを語りつがねばならないという思いはつのる一方である。

下関で開催中の「原爆と下関空襲展」(主催・下関原爆被害者の会)では、
これまで子どもや孫にも語ったことがなかったなまなましい体験が、
堰(せき)を切ったように語られている。

論議は、これまで疑問に思っていたことやおおいかくされてきた真実を
明るみにしつつ発展している。こうしたなかで、戦争中から、
戦後の今日にいたるまで一貫して、あの戦争で体験したほんとうのことを語らせぬ力が
働いてきたことが浮き彫りにされている。


☆米軍にも大本営にもつのる疑問

「原爆と下関空襲展」のとりくみをとおして、市内各所で埋もれていた体験が掘り起こされ、
米軍の関門海峡への機雷投下にはじまる下関空襲の全貌(ぼう)がより鮮明にされてきたことが、
市民に歓迎されている。

日本の軍事力が壊滅状態に追いこまれ、敗戦がすでに決定的であったときに、
米軍が機雷による海上封鎖で日本全土を飢餓状態に追いこむ必要がなぜあったのか。

なぜ米軍は軍事施設や軍需工場は温存して、一般市民を焼き殺す作戦を計画的に強行したのか。

こうした疑問は、戦地に兵隊として動員され生死の境をくぐって帰還した体験者の
いまわしい記憶とも響きあい、「あの戦争はいったいなんだったのか」の
問題意識をともなって論議が発展している。

そのなかで、これまでかくされてきた事実、
「おかしな戦争だった」という体験者の特徴的な声を、いくつか上げてみたい。

「真珠湾攻撃のとき、日本を北上して真珠湾にむかったが、
すでにアメリカは日本が攻撃に来ることを知っていて、
カナダの沖で潜水艦を二隻沈めた。そんなことは戦後かくしてきた」

「海軍は一年しかたたかえないとわかっていた。そのとおり一年は戦果があったが
その後海軍の母艦は四隻とも南方で沈められていた。
もう戦地に行けば死ぬことはわかりきっていた」

「ガダルカナルの海戦でも日本海軍は壊滅させられたが、
アメリカは沈没して海に投げ出された兵隊たちにむかって機銃掃射して皆殺しにした」

「硫黄島付近では、一隻に200人の兵隊を乗せて十数隻の船で移動したが、
グラマンが機銃掃射し、助かったのは一隻だけだった。
その一隻に80機のグラマンが集中攻撃してきた。必死で逃げてやっと助かった」

「後田から石神町にかけて、民家の一軒に3、4人ずつのフィリピンにむかう兵隊を
出港までのあいだ、泊めたことがあった。子ども心に表情が暗かったのを覚えている」

「あのころは空で守る戦斗機も、護衛する戦艦もなかった。
輸送船が丸裸で南方にむかうが、バシー海峡にかくれていたアメリカの潜水艦に
みなやられて沈没させられた。大本営はなぜあんなことをしたのか」

「戦艦大和に出撃命令が出たときに乗り組んだが、徳山港を出るときは
片道の石油しか積まなかった。海上特攻隊と命名されて生きては帰れぬといいわたされた。
豊後水道にさしかかるころには、すでに米軍の偵察機に発見され、
種子島のところでアメリカの航空機500機以上が襲いかかって爆弾や魚雷の雨を降らせた。
護衛艦もなく、迎え撃つ飛行機は一機も飛ばなかった。
沈没して油と炎が漂うなかをたくさんの日本兵が必死に泳いで助けを求めていた。
米軍機が海上に浮かんでいる一人一人を狙って機銃で撃ってきた。
あれは人間のやることではない」

「山口の連隊に召集され、昭和20年はじめに中国に渡った。
ほんとうの銃を持たされたのは5人に一人だけで、あとの4人は木製の銃だった。
短剣は竹だった。腰に巻く弾倉の中身は空だった。
戦斗訓練もないまま貨車に乗って、B29の空襲をさけて、昼は動かず夜だけの行動だった。
米軍は中国でも焼夷弾や機銃掃射を毎日のようにやっていた。
日本軍は中国人に顔を覚えられるのを恐れて、顔に墨を塗って行軍していた」

「中国に召集されて湖南省の長沙にいたとき、米軍のB29の編隊が来て、
25万都市を一夜にして焼け野原にしたことを目のまえで見た。
中国人に聞くと“日本軍がいるから、アメリカは都市をみんな焼いていく”といっていた。
日本は中国に侵略したが、アメリカも蒋介石をおして中国を占領しようとしていたのだ」

「兄は関東軍だったのでシベリア送りにならずに帰ってきた。満蒙開拓団や、
一般の兵隊はやられたのに、すぐ帰ってきたのはうれしかったが、おかしいと思ってきた」

このような体験はなにをものがたるか。


☆体験は何を、物語るか  気脈通じた日米支配層

1941(昭和16)年12月の日米開戦は、日露戦争以後、
中国を中心にしたアジアの広大な権益をめぐって対立していた
日本とアメリカの確執が行き着いた結果であった。

当時、アメリカは日本への経済封鎖による戦争挑発を強め、
天皇制軍国主義は、中国侵略戦争で抗日勢力が強大化するなかで、
ようやく点と線を維持するのに精一杯で面を確保することはおよびもつかず、
その打開にむけて右往左往する状況であった。

当時、中国本土に投入された陸軍兵力は138万人。陸軍動員総兵力の65%に達していた。

のちに原爆投下計画の中心を担ったスチムソン米陸軍長官が40年6月までに
ニューヨークタイムズに送った手紙のなかで、
「日本は中国戦線で泥沼に入りはじめた」と記しており、
アメリカは日本政府が「中国側に有利」な和平提案をおこなっていることを公式に認めていた。

こうしたなかで、天皇制政府は1940(昭和15)年、南進政策を強行。

日独伊三国同盟を結んだが、これはアメリカとの戦争に窮余の一策を求めるものであった。

だが、このとき昭和天皇は、

「アメリカに対しても打つ手がないというならば、致し方あるまい。……
自分はこの時局がまことに心配であるが、万一日本が敗戦国となったときに、一体どうだろうか。
この如き場合が到来した時は、総理も自分と労苦を共にしてくれるだろうか」

(『木戸幸一日記』)と、敗戦を想定する状況であった。

海軍の永野修身・軍令部総長は、天皇から対米戦争で「日本海海戦の如き大勝は困難なるべし」と
問われたのにたいして、「日本海海戦の如き大勝は勿論、勝ち得るや否やも覚束なし」
と答える状況で、敗戦は必至とみなしていた。

一方アメリカは、日本の奇襲を待って日本との戦争に乗り出した直後には、
「天皇を象徴として利用」することを対日占領政策として公式に定め、
空襲において皇居の攻撃を禁止することを厳命。

元駐日大使・グルーらが吉田茂、近衛文麿ら日本の「和平派」とされる人脈をつうじて、
その方向を貫いた。

1942年6月のミッドウェー海戦の敗北後、日本の戦局は加速度的に悪化の一途をたどった。
1944(昭和19)年6月、サイパンで日本軍守備隊3万人が玉砕、
住民約一万人が犠牲となった。

これにつづくマリアナ沖海戦でも、日本海軍は空母3隻、航空機430機を失う大敗北。

日本の航空機動部隊は壊滅状態となっていた。

中国戦線では、44年4月から40万の大軍を動員して開始した
大陸打通作戦が鉄道の主要駅とその付近を一時的に占領するだけで、
補給はつづかず、伸びきった戦線はいたるところで反撃にあい、
守備軍をひいたあとには、たちまち八路軍、新四軍と遊撃隊が進出、解放するという状況であった。

7月には、ビルマからインドへの侵攻作戦であるインパール作戦に失敗。
死者3万人と戦傷病者4万5000人を出し、作戦の中止をよぎなくされた。

こうして「大東亜戦争」の象徴的存在として一時、幅をきかせた東条内閣が倒壊するにいたった。

近衛文麿は「サイパン戦以来、海軍当局は連合艦隊はすでに無力化せりといい、
陸軍当局もまた戦局全体として好転の見込み絶対なしというに一致せる者の如し。

即ち、敗戦必至なりとは陸海軍当局の斉(ひと)しく到達せる結論にして、
只今日はこれを公言する勇気なしという現状なり」(『近衛日記』)と記し、

東条内閣のすげ替えを国外に示すことで終戦工作を有利にすすめる算段を示すまでになっていた。

こうして45年2月、吉田茂が起草した近衛の上奏文が天皇に届けられた。
「敗戦よりも敗戦によって起こりうる共産革命」を恐れ、
アメリカが「国体護持」を保障していることを断定的に記したこの上奏は、
近衛がグルーの名を出して天皇に説明したように
明らかにアメリカの支配層と気脈をつうじたものであった。


☆攻撃の対象は人民、軍部ではなかった

制海権、制空権を確保したアメリカは
潜水艦による日本の輸送船をことごとく撃沈する方針をとると同時に、
マリアナ基地からB29による日本本土への空襲を開始。

45年3月10日の東京大空襲を皮切りに、
大阪、名古屋などの大都市から全土の中小都市あわせて94都市の家屋・家財を焼き払い、
広島・長崎への原爆投下を頂点に70万人を殺傷した。

さらに、機雷1万1000個を日本の主要湾岸に投下し、
内航・外航の大小の船舶をことごとく撃沈、
日本国民を徹底的に飢餓状態に追いこむ作戦を強行するにいたった。

アメリカの攻撃の対象は、「戦争の勝敗を決めるのは軍人ではなく、
国民全体が“この戦争は負けだ”と思わないかぎり戦いは終わらない」
という米軍将校の訓辞に見るように、
すでに日本の軍部ではなく、無辜(こ)の非戦斗の人民大衆であった。

人民を抑えつけなければ占領支配ができないという意味であった。

日本は飛び立つ飛行機も軍艦も失い、武器もない状態で反撃能力を完全に喪失していた。
B29は日本本土への空襲で世界の戦史上まれにみる低い損失率を誇り、
七月段階では、ハルゼー提督の艦隊が日本の沿岸を自由に遊弋(よく)し、
艦砲射撃と艦載機による機銃掃射など勝手気ままにふるまった。

この時期、日本から和平打診の情報がアメリカの新聞で報道され、
沖縄戦のさなかの5月には降服の打診がおこなわれたが、
アメリカ政府が公式に拒否した事実も明らかにされている。

当時、アメリカにとっては、なによりも戦後のソ連の影響力を排除し、
日本を単独占領支配すること、
そのために日本の人民の反米的要素、革命的な気力を喪失させる
ことが最大の眼目となっていた。

45年2月のヤルタ会談で、ドイツ敗北後の3カ月後にソ連が参戦することが約束されたことは、
アメリカ支配層がそれまでに計画的に日本を制圧することを至上命令とした。

そのために、原爆の開発と日本への投下計画「マンハッタン計画」をおしすすめ、
広島・長崎への投下を強行したのである。


☆「国体護持」が狙い、原爆投下も感謝

天皇制政府は、ただみずからの支配的地位の温存、「国体護持」だけを求めて、
人民の革命的な決起を恐れつづけ、アメリカに民族的な利益をすべて売り渡し、
人民が肉体的、気力のうえでへとへとに疲れはてることを願っていた。

この点でアメリカの支配層と利害が完全に一致していた。

海軍大臣であった米内光政は広島・長崎に原爆が投下されてすぐの8月12日、
つぎのように語っている。

「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。
国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。
私がかねてから時局収拾を主張する理由は
敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。
一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。
従って今日その国内情勢を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである」

こうして、戦後のアメリカによる占領支配への道が開かれた。


☆占領後は言論弾圧、記録映画も写真も没収

戦争体験者はこれまで、体験が語れなかった状況について、
「子どもからなんで戦争に反対しなかったのかとつめ寄られ、
それから絶対に話さないようになった。戦時中は思っていても口に出していえば
監獄に送られる時代だった」

「戦後は、戦争のせの字でもいうとまわりから白い目で見られてきた。
だからしゃべってこなかった」と共通して語っている。

ここには、天皇制軍国主義の弾圧とともに、戦後の「民主主義」の装いをした
アメリカ賛美の風潮のもとで、
ほんとうのことを語ることがはばかられてきたことが示唆(さ)されている。

マッカーサーが厚木に到着してただちに敷いたプレスコード(新聞紙法)は、
「連合国占領軍について破壊的な批判は一切してはならないし、
また、これらの軍隊に対して不信や憤慨を招く恐れがあることはなにも書いてはならない」
というもので、ほんとうのことをいってはならないという徹頭徹尾の言論弾圧であった。

アメリカはその理由として、
「日本の軍国的国家主義の根絶」と「自由主義傾向の奨励」をあげ、
これに反対するものは、反動的であるかのように宣伝。

なによりもまず、原爆の被害にかんする資料を、
医学資料から日本人が撮影した記録映画、写真にいたるまでことごとく没収して持ち去り、
それにかんする報道をいっさい禁止し、天皇制軍国主義を上回る検閲をおこなった。

プレスコードの「禁止項目」には、
「占領軍・占領政策・アメリカ批判」「占領軍将兵と日本人女性との親密な関係描写」
「左翼宣伝」などとともに、「飢餓の誇張」などがあり、
高度の機密兵器である機雷投下についてふれることは御法度とされた。

これには新聞・雑誌・刊行物、放送、演劇脚本・映画・紙芝居・幻灯など、
言論・文化のあらゆるものが対象とされ、
一般市民の手紙・葉書などの郵便物、電報・電話の傍受にいたるまで徹底したものであった。

しかも、「民主主義」のたてまえから
「検閲が知られるようなことが絶対にないように、
それを暗示することもふくめて、残してはならない」ことまで指示。

違反したものには、沖縄送りなどのきびしい刑罰を設定していたことも、明らかとなっている。

日本の商業マスコミ、「共産党」中央指導部、社会民主主義の政治勢力はおしなべて、
こうした占領政策を賛美し、人民が戦争体験の真実を語ることを抑圧する
支配構造が形成されてきた。 この構図は今日まで生きて作用してきたといえる。


新たな戦争の危険がさし迫るいま、
戦争の犠牲になった肉親、知人、友人の死をむだにしないために、
日本の真の平和を実現するために、
ほんとうのことを語り伝えることは、なににも増して重要になっている。




二代目 歌川 廣重、三枚目、



「東海道 川崎」です。




狂えるマスゴミ、

◆http://takedanet.com/2014/08/stap1_5238.html
武田邦彦 (平成26年8月8日)
◎STAPの悲劇を作った人たち(1) 放送法の意味

☆http://takedanet.com/files/nhk201408081250.mp3

(先日、このブログで笹井さんの自殺について扱ったが、
あまりに可哀想な事件が起こったことから、
記事の調子がこのブログの趣旨(常に前向き)と少し違ったので、
いったん下げてキチンと論述することにした。内容としては同じである)


NHKは国民の預託を受けて放送業をしていますが、その時に国民と約束したことがあります。
それが放送法で、特にその第4条が重要です。

  一  公安及び善良な風俗を害しないこと。

  二  政治的に公平であること。

  三  報道は事実をまげないですること。

  四  意見が対立している問題については、
    できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。


放送はNHKでも民法でも基本的には同じですが、特にNHKは国民から強制的に受信料をとり、
日本人全員が良質な放送を見たり聞いたりできるように特別なシステムを持っていますので、
良い方向を向けば国民にとっては有意義なことになりますが、
間違ったことをしたらその被害はものすごいものになります。

だから、第4条に定められた4つの最低条件は、民放にも及びますが、
まずはNHKが絶対に守る必要があるもので、
この条件を守るからこそNHKというものが存在できるともいえます。

7月27日のNHKスペシャル、STAP事件を扱ったこの番組は
第4条に大きく悖る(もとる、反する)もので、
STAPの悲劇を招いた直接的原因になったと考えられます。

NHKスペシャルは第4条の一、三にも反していますが、
特にここでは“四”の重要性について整理をしてみたいと思っています。

社会生活を送っていると、時々、不意にトラブルに巻き込まれることがあります。
それは自分が原因していることもあれば、他人から仕掛けられることもあります。
日常的な小さなトラブルはともかく、社会的に問題になるようなことが起これば、
その内容はともかく、日本人が相互に約束したこと(法律で決まっていること)によって
裁判所で和解か判決を受けて処理できるという確信があります。

このような日本社会の基本を守ることは、NHKはもとより一国民としても
とても重要なことは言うまでもありません。

“一”に書かれた「善良は風俗」というのをあまり大きく拡大してはいけませんが、
まずは「法律を守ること」や「相手をゆえなく侮辱すること」などが大切でしょう。

ところが、ある特定の人が法律にも訴えずに、
全国民に ある個人の名誉に関係することを一方的に放送したり、報道されたりしたら、
とんでもないことになります。

幸福で平和な生活を一瞬にして特定の人の為に奪われることになります。
そんな場合でも被害を受けたほうが裁判に訴えることができますが、
NHKのような巨大な組織を相手に裁判を起こすこと自体が難しいのです。

まず、裁判になると訴えた一個人の方は仕事もできず、体力も消耗し、お金もかかります。
一方、NHKの方は裁判担当弁護士をお金で雇い、大勢の人が分担し、
それにかかった費用は受信料から支払うことができます。

これでは形式だけ「もしNHKが一個人の名誉を傷つけたら裁判に訴えればよい」と言っても、
それは形式だけであって、現実性のない話になります。

そこで、NHKという組織を置く前提として、
この4つの項目を守ることをNHKは国民と約束しているのですが、特に“四”は重要です。

「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」です。

この条文はとても大切
(法律ですから、国民とNHKの約束なので、もともと「大切」とか「大切ではない」ということはなく、すべて「大切」)
です。

日本国民が法律で罰せられる場合は、キチンとした手続きがあり、十分な弁明の機会が与えられます。
日本の裁判は「起訴されたら有罪」というところがあり、
「裁判は死んだ」とも言われていますが、それでも弁明の機会は与えられます。


しかし、NHKがある特定の個人を葬ろうと思ったら、「放送」という権力を使って、
手続きなしに個人を葬ることができます。
そんなことをされたら、日本という自由で人権がある国に住んでいるとは言えなくなります。
もしそんなことをNHKがしたら、日本は「NHK独裁国家」になり、
いつ何時、社会的に葬り去られるか、
あるいは精神的な圧力を受けて自らの命を絶たなければならない羽目に陥ります。

NHKは政治団体でもなく、宗教団体でもなく、もしくは教育機関でもありません。
単に国民がNHKという情報提供機関を作って、
できるだけ正確な情報の提供を求め、
それによって国民が正しく考えられるシステムを作ったに過ぎないのです。

STAP事件の当事者は、(故)笹井さん、小保方さん、丹羽さん、それに若山さんであり、
この人たちと「意見が対立している人」というのは、「現在の日本にはいません」!! 

だからNHKがSTAP事件を報じるときには、研究者の言っていることを報じることはあり得ますが、
STAP事件を批判している人のことを報じることはあり得ないのです。

STAP事件発生以来、当事者というのは、「STAPの研究者」、「理研」、
それにかなり拡大すれば「文科省」ぐらいで、
あとは「外野」、つまり「利害関係者」ではありません。

それにもかかわらず、NHKが7月27日のNHKスペシャルで、仮想的な「反撃グループ」を中心に据えて、
当事者のことを報じないというあり得ないことをして、
当事者としての研究者に大きな打撃を与え、因果関係はまだはっきりしないものの、
その直後に研究者の自殺を招いたことは日本社会にとってどうしても解明しなければならないことです。



小保方記者会見の時のNHK記者の執拗さは異様だった、強く印象に残っておる。

三木弁護士に制止されても止めないw

何なんだろうねぇ?






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