画は 豊原 國周 (とよはら くにちか)
天保6年(1835) 〜 明治33年(1900)
号は一鶯齋、など。 作
「加賀見山再岩藤(かがみやま ごにちのいわふじ)」
通称、骨寄せの岩藤(こつよせのいわふじ) より、
「浦井左源田 市川小團次」(五代目) 「多賀大領 市川團十郎」(九代目)
「大月花人 尾上菊五郎」(五代目) です。
☆曇り。
まずは、狂気と言おうか、病理と言おうか、
◆http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140621/k10015395201000.html
NHKニュース 2014年(平成26年)6月23日[月曜日]
◎復興庁 原発事故風評被害対策で新指針案
復興庁は、東京電力福島第一原子力発電所の事故を受けた風評被害対策として、
経団連の会員企業などに被災地の農産物の活用を働きかけることや、
観光客の誘致に積極的に取り組むことなどを盛り込んだ新たな指針案をまとめました。
安倍総理大臣は先月、福島市で米作りの現場などを視察したあと記者団に対し、
東京電力福島第一原子力発電所の事故を受けた
風評被害を払拭(ふっしょく)するため、
政府として正確な情報提供に努めていく考えを強調しており、
復興庁は対策を強化するための新たな指針案をまとめました。
それによりますと、被災地の農産物を対象に行っている放射性物質の検査結果を
継続的に公表していくほか、
諸外国に対し 輸入規制の緩和や撤廃を引き続き働きかけていくとしています。
そのうえで、経団連の会員企業などに対し、
被災地の農産物を社内販売や贈答品として活用するよう働きかけるほか、
修学旅行を含めて国内外の観光客の誘致に積極的に取り組むなどとしています。
復興庁は、関係省庁による局長級の会議を週明けに開き、
新たな指針を正式に決定することにしています。
◆http://www.asyura2.com/14/genpatu38/msg/834.html
投稿者: てんさい(い) 日時: 2014 年 6 月 22 日 KqrEdYmDwf7cM
◎「福島を食べて応援」の人物がW杯日本専属シェフだ
米も食材も、すべて福島産放射能汚染物
これで日本代表が勝てるわけがない
より抜粋、
☆http://www.nikkansports.com/brazil2014/news/f-sc-tp0-20140622-1321798.html
日刊スポーツ 2014年6月22日
◎日本代表「疲れたまっている」と休養選ぶ
☆http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2014/05/09/kiji/K20140509008124740.html
ザックジャパン4強見据え…ブラジルに日本の魚を大量輸送
ブラジルに日本の魚を大量に持ち込むことを明かした西シェフ
サッカー日本代表がW杯ブラジル大会(6月12日開幕)でベースキャンプを張る
イトゥに日本の魚を大量に持ち込むことが判明した。
西 芳照専属シェフ(52)が8日、
福島県で自身が経営するレストラン「アルパインローズ」で取材に応じ
「日系人の多いサンパウロは日本の食材が手に入りやすいが、
日本の魚はないので用意する」と明かした。
4強進出を見据え、銀だら、銀むつ、さば、ほっけなどを
100キロ単位で輸送する方向で手続きを進めている。
食材は90品目程度をそろえる予定で、日本から持ち込むのは約10品目。
現地でサーモンなどは調達できるが
「現地感を出すと選手はあまり食べない」との理由から
日本の食材確保に全力を注ぐ。
白米については米国で栽培した日本ブランド米を現地で調達することが可能。
暑熱対策として鉄分の多い、ひじき、レバーなどを積極的にメニューに取り入れる方針だ。
西シェフは「愛する人に料理を作る気持ちになって、マンネリ化しないようにしたい。
選手がびっくりするような料理も用意できれば」とサプライズメニューを仕込むことも示唆した。
☆http://financegreenwatch.org/jp/?p=37327
福島県南相馬市旧太田村の玄米2点からセシウム基準値超 出荷停止。
他はすべて基準の半分以上で、全量出荷(FGW)
10月 19th, 2013
農地の汚染は完全に除去できない。“汚染米”の監視を徹底できるか・・
福島県は18日、本年産米の全量全袋検査の結果、
南相馬市原町区の旧太田村の農家2戸が生産した玄米2点から、
食品の基準値(1キロ当たり100ベクレル)を超える
1キロ当たり110、160ベクレルの放射性セシウムが検出されたと発表した。
また他に100ベクレルちょうどのコメが2件あったほか、
他のコメもすべて基準値の半分以上の値を検出した。
ただ、基準値を超えた玄米2件は隔離処分されるが、
他は出荷可能と認められ、市場に流通することになる。
福島県によると、基準超のセシウムが検出されたのは作付再開準備区域から。
作付再開準備区域では、事前に「平成25年産米に関する管理計画」を作成し、
すべての稲の作付面積や米の生産量を確認、
さらに全量全袋検査を実施することが出荷の条件となっている。
今回、3戸の農家で計100検体を検査した。
このうち、玄米から110ベクレルが検出された農家は、
8日の検査でも基準値超が確認されていた。
160ベクレルが検出された農家は、全袋検査で玄米130袋のうち96袋が
詳細検査に回り、1袋が基準値を超えた。
2袋以外は、市場に出荷することが可能とされたが、それらのコメについても、
いずれも基準値の半分以上のセシウム含有が明らかになっている。
100ベクレル超は出荷不可だが、
1ベクレルでも下回れば出荷可という線引きの妥当性が問われそうだ。
また消費者に、これらの50ベクレル〜100ベクレルのコメについて、
セシウム含有量の表示が十分される形になっていないほか、
産地についても「南相馬市・旧大田村」の表示がされない限り、
他の福島産コメに対しても、疑念が生じることになりかねない。
☆https://twitter.com/tokaiama/status/382859587918888962
玄米にはキロ当たり70〜80ベクレルのカリウム40が含まれている
セシウムがゼロでもカリウムがゼロには絶対にならない。
なるとすれば測定が真っ赤なウソである証明である
19時のNHKニュース,広野町のコメ全袋検査,
PanasonicのTOUGHBOOK,K-40まで0.0Bq/kgと表示
… 実際には100ベクレル近い米が平気で出荷されている
◆http://saigaijyouhou.com/blog-entry-2911.html
真実を探すブログ 2014/06/22 Sun.
◎サッカー日本代表、試合を控えるも練習を急遽キャンセル!
「疲れたまっている」と休養選ぶ!
選手達は福島産の食事を食べている模様・・・
ブラジルのワールドカップに参加してる日本代表が、
急遽練習をキャンセルして休養する方針を発表しました。
報道記事によると、選手達の疲労が予想以上に溜まっているとの事で、
全体練習などをキャンセルして休養にしたようです。
三日後にコロンビア戦を控えていることを考えると、
このような練習をキャンセルしてまでの休養は異例だと言えます。
そういえば、日本代表選手達の食事には福島の米や味噌が使われているようですが、
これは疲労回復を阻害している可能性もあるのではないでしょうか?
放射能というのは全身の細胞を無差別的に攻撃するわけで、
チェルノブイリ事故では異常な疲労感等が報告されていました。
日本代表選手にプレゼントされたお米は、
福島原発から20キロの場所にある福島県広野町産です。
広野町より離れた場所からも
相次いで米や食品から放射性物質が検出されているわけで、
放射能被ばくの影響が心配になります。
☆http://alter.gr.jp/Preview.aspx?id=8691&cls=
◎バンダジェフスキー博士の警告
人体に入った放射性セシウムの医学的生物学的影響
國周、二枚目、
「局つぼね 岩ふじ」です。
キリスト教義では「正教」が一番マトモだと思う、
既報ですが、三位一体に「人間」がある、
◆http://japanese.ruvr.ru/news/2014_06_21/273783260/
ロシアの声 6月 21日 ,
◎日本のロシア正教の神学校の生徒がスパイに
なぜ日本で青年時代を過ごし、教育を受けた人々は、
日本に対するスパイ活動を始めるのだろうか?
ロシアの東洋学者アレクサンドル・クラノフ氏の著書
「昇る太陽の陰で」を読むと、このような問いが浮かんでくる。
最近ロシアの出版社「ヴェーチェ」から刊行された同書籍の銘句には、
日出づる国、日本でロシア正教の教えを広めたニコライ・イポンスキー大主教の
「私たちがより深く日本を知っていたならば、
我々の日本との不幸な戦争はなかったであろう」という言葉が引用されている。
知識は確かに、時おり、不幸をもたらす行動をおさえる助けとなる。
これは、ニコライ大主教・(イワン・ドミートリエヴィチ・カサートキン
Иван Дмитриевич Касаткин)
の人生経験が明確に物語っている。
日本ハリストス正教会の最初の信者となった日本人は、
ニコライ神父を殺害するために同氏のもとを訪れた、
神道の祭司で元「サムライ」の沢辺琢磨氏。
沢辺氏は、1968年(1868年が正)に洗礼を受けて、日本ハリストス正教会の初の信者となった。
沢辺氏は、ハリスト正教会は日本を占領するために他の国が利用しているものだと考えた。
ニコライ神父は、そのことを知らずして判断を下してはならないと指摘し、
沢辺氏は思いとどまった。そしてその後、ニコライ神父は自分の力の許す限り、
正教やロシアに関する日本人の知識、そして日本に関するロシア人の知識を
広めるために努力した。そしてその為に、ロシア正教会の神学校を東京に開校した。
この学校の卒業生たちが、書籍「昇る太陽の陰で」の主人公だ。
そのうちの数人は、ずいぶん前からロシアで知られている。
例えば、ロシアの格闘技「サンボ」の創始者のワシリー・オシェプコフがいる。
オシェプコフは、武道の頂点への道を、
新学校の同級生トロフィモフ・ユルケヴィチと一緒に日本で歩み始めた。(講道館柔道を学ぶ)
だが彼らには、新学校の卒業生
ウラジーミル・プレシャコフやイシドル・ネズナイコなどと同じように、ある共通点があった。
彼らは1920年代にソ連の情報機関の職員となり、
全員が日本を対象とする諜報活動を行ったのだ。
日本語や日本の文化に興味を抱いている現代の多くの人々は、
「日本に住みながら日本に愛着を抱かないなんて不可能だ!
なぜ彼らは、日本を対象とする諜報活動なんかを請け負うができたのだろうか?」と、
神学校の元生徒達の人生における転換に当惑するだろう。
だが、その問いに対する答えは単純だ。
20世紀前半、日本はいま私たちが知っているような快適で平和な国とはほど遠かった。
ロシア人神学生の大部分が日本へ渡った1906年以降、
日本はロシアの政治的パートナーとなったが、
多くの日本人の意識の中でロシア帝国は敵であり、敗戦国であるととらえられていた。
日本社会では、ロシアは日露戦争でいかなる賠償金も支払わなかったため、
日本が勝利に対して得たものはあまりにも少ないという認識が広がっていた。
この状況に対する不満と苛立ちは、ロシアと講和条約に調印した日本の外交官、
そして恐らく、当時日本に滞在していたロシア人にもふりかかったであろう。
1917年の革命後、ボリシェヴィキ政権が日本とのパートナー関係を解消し、
日本は臆面もなくロシア極東に対する武力介入への参加を決めた。
米国の派遣部隊としての日本の行動は、赤軍パルチザンに対する戦闘行為だけでなく、
一般市民に対する懲罰も伴った。そのため、1920年代初めまでに、
軍事、および(あるいは)、東洋学的な教育を受けることができた
上記の元神学生たちの多くが、ソ連の情報機関から日本を対象とした諜報活動を依頼され、
ほとんど迷うことなく受け入れたのは、驚くに値しない。
◆http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%A2%E8%BE%BA%E7%90%A2%E7%A3%A8
◎沢辺 琢磨(さわべ たくま、天保5年(1834)〜 大正2年(1913年)
日本ハリストス正教会初の正教徒(ハリスチャニン=クリスチャン)にして
最初の日本人司祭である。 聖名(洗礼名)はパウェル(パウロ)。
沢辺姓を名乗る前は山本琢磨。
☆出生から箱館まで
天保6年(1835年)、土佐国土佐郡潮江村(現在の高知市)に
土佐藩の郷士である山本代七の長男として生まれる。幼名は数馬。
代七の弟・八平は同じ土佐郷士の坂本家に婿養子として入り坂本直足と改名、
次男に坂本龍馬をもうけており
龍馬とは血縁及び実質上の従兄弟同士である。
また琢磨の母は武市瑞山(半平太)の妻である富子の叔母であった。
武術に優れ江戸に出て三大道場の一つといわれた
鏡心明智流の桃井道場でその腕を一層磨き、師範代を務めるまでになる。
ところがある晩、酒を飲んでの帰り道に拾った金時計を
酔った勢いで一緒にいた友人と共謀し時計屋に売ってしまい
直ちにそれが不法なものであることが発覚して窮地に追い込まれる。
訴追を逃れるために龍馬や半平太の助けを得て江戸を脱出。
東北各地を流れ回った末、新潟にたどり着いたところで出会った前島密に
箱館(現・函館市)に行くことを勧められ箱館に落ち着く。
☆箱館・正教の洗礼
箱館では持ち前の剣術の腕が功をなし、それがきっかけとなって道場を開くと
町の名士たちとも親交を持つようになる。そんな中で知り合った
箱館神明宮(現・山上大神宮)宮司の沢辺悌之助に請われて娘の婿養子となり、
以後、沢辺姓を名乗る。
箱館時代の琢磨について、新島七五三太(新島襄)が米国へ密航するときの
手助けをしたというエピソードが伝わっている。
当時、既に開港していた箱館にはロシア帝国の領事館があり
附属聖堂の管轄司祭として来日していたロシア正教会のニコライ神父は
日本宣教の機会を窺いつつ日本の古典文学や歴史を研究していた。
領事館員の中に子弟に日本の武術を学ばせたいという者がいて
その指南役となり領事館に出入りするようになった琢磨も
ニコライを知ることとなったが、攘夷論者だった琢磨はニコライの日本研究に対して
日本侵略に向けた情報収集との疑念を抱き
ニコライをロシアから遣わされた密偵だと思うようになった。
そして殺害をも辞さぬ覚悟でもって大刀を腰に帯びニコライを訪問、
来日や日本研究の意図を詰問した。
対するニコライは琢磨の問いに理路整然と答えるとともに、
琢磨に対してハリストス正教の教えを知っているかと質問した。知らぬと答えた琢磨に
「ハリストス正教が如何なるものかを知ってから正邪を判断するのでも遅くはなかろう」
と諭した。確かにそれも一理あると考えた琢磨は
以後ニコライの下へ日参して教えを学んでいくうちに心服し、
後に友人の医師酒井篤礼らをも誘って教理を学んだ。そして、ついには
まだキリスト教禁制下の慶応4年4月2日(1868年4月24日)、酒井や浦野太蔵とともに
秘密裡にニコライより聖洗機密(洗礼)を受け
日本ハリストス正教会の初穂(最初の信者)となった。
聖名(洗礼名)は初代教会時代にキリスト教を迫害中、劇的な回心を経験して伝道者となり
キリスト教の世界宗教化への道を開いた後に致命した聖使徒パウェル(パウロ)を与えられた。
受洗後も琢磨はしばらくの間、神明社宮司の座に留まっていた。
祭祀の時には祝詞を漢語訳聖書の聖句に置き換えてカムフラージュをしたりもしていたが、
やがてハリストス正教に改宗したことを公言し神明社を去る。
禁教下において神道の祭司職が邪教へ改宗したということもあって、
琢磨一家に対する迫害は非常に厳しく生活は困窮を極めた。
さらには精神的に参ってしまった妻が自宅に放火をするという事件も起きた。
その後、琢磨は妻子を残して箱館を一時脱出し
布教しながら東北地方を南下するが途中で捕縛・投獄され、後に釈放されて箱館に戻った。
以後の伝道中、仙台にて再び捕縛されるが
明治政府によって禁教が解かれると自由の身となり以前にも増して伝道に力を入れた。
以下ご参照!
國周、三枚目、
「今様六花撰」 「大谷友右衛門」です。
コメントが秀逸ですな、
◆http://my.shadowcity.jp/2014/06/post-5095.html#more
ネットゲリラ (2014年6月22日)
◎邪馬台国はなかった事にしよう そうしよう
より抜粋、
日本は中国と違って、大平原というのがないわけです。
しかも農業がコメの水耕栽培を中心に始まったので、古代には適地は限られていた。
しかもそれがあちこちに点在している。そうした事情から、
中国のような絶大な権力を握る世俗の「皇帝」が出なかった。
各地の豪族をまとめる祭祀係をトップに据えて、
世俗の皇帝は作らず、魂の王国を作った。
☆http://www.asahi.com/articles/ASG6M54KMG6MPOMB00W.html
朝日新聞 2014年6月21日
◎(奈良)大和古墳群、国史跡へ 「邪馬台国論争の鍵」保全
国の文化審議会が20日、国史跡に指定するよう答申した
大和(おおやまと)古墳群(天理市)は、
邪馬台国論争や大和政権成立の鍵を握る存在として注目されてきた。
道路建設などで遺跡の破壊が懸念されただけに、
地元や研究者らは今後のさらなる保全や調査に期待している。
大和古墳群は、巨大な前方後円墳と前方後方墳(こうほうふん)が混在し、
畿内に古墳が現れた3世紀の様子を示す貴重な遺跡だ。
24基の古墳からなり、今回は調査で内容が明らかになっている
3基が指定対象となった。今後、一体的に保護を図る方針だ。
南部にある中山大塚古墳(3世紀後半)は全長130メートルの前方後円墳。
岡山県吉備(きび)地方で発達して埴輪(はにわ)のルーツになった
とみられる特殊器台の破片が、1980年代に見つかった。
中国と違って、権力の源である米作地帯というのが点在しているので、
「首都」はどこでもいいわけです。
ヤマタイ国がどこにあったのか? なんて無駄な論争で、
「あちこちにあった」というのが正しい。
卑弥呼時代の古墳は沼津でも見つかっている。沼津から原にかけては
広大な湿地帯が広がっていて、古代にはコメ栽培の適地だっただろう。
で、中国の使節は近畿までは来なかったんじゃないか?
どうも、九州あたりで「ここが我が国です」と言い含められて、
奥地までは来なかったのか、入れるのを嫌がったのか。
いずれにせよ、古代史が南から近畿に舞台を移して行くのは、
大陸からの干渉を嫌ったからだと思う。既に卑弥呼の時代に、
中国は日本を支配下に置こうという意図を持って接触して来ているわけで、
そこをノラリクラリとかわしながら、日本列島をまとめるためには、
近畿というのは都合の良い立地だった。
北九州あたりに古代日本の「首都」があったら、
今ごろとっくに日本は中国の版図になってますw
古代日本というのは、稲作民族を主体として連合国家を形成するわけだが、
その版図には稲作をしない人たちというのを大量に含んでいるわけです。
彼らは、「日本国民」ではない。日本列島に住んでいる、別人種です。
縄文人種と弥生人種が共存している。
伊豆でも、古代の稲作適地は非常に限定されていて、むしろ人口的にも面積的にも、
縄文的な人の方が多かったのではないか?
ただ、彼らは武装もしてないし、コメの水耕栽培適地に興味もないので、
戦闘にはならない。弥生人は、彼らを手なづけて、共存する途を選ぶ。
とはいえ、彼らが国家に税金を払うようになるまでには長い年月がかかった。
江戸時代までは、国家の財政収入というのは、コメ栽培からあがる年貢だけです。
なので、コメを作って、弥生人化した連中を別とすれば、
彼らは日本に住みながらも、何一つ、国民としての役目を果たさず、
好き勝手に生きていたわけです。
まぁ、ヤマタイ国とかヒミコとか、永遠にわからない方が、
中国から妙なイチャモン付けられなくていいんじゃないかな。
ヒミコの時代から日本は中国の属国アルとか言われたらイヤだしw
コメント
*脆平野 | 2014年6月22日 | 返信
> ただ、彼らは武装もしてないし、
これは違うと思います。 「山の民」≒産鉄民ですから
*ぺこたん | 2014年6月22日| 返信
「魏志倭人伝」は史料の大前提として、
何の疑いもなく我が国の邪馬台国論争に用いられています。
そもそも「魏志倭人伝」とは何なのか?
支那の正史「魏志倭人伝」、「三国志」の一部である「魏書」の第30巻の
「烏丸・鮮卑・東夷伝」の記述の東夷伝の中に
チラッと最後に倭人について出てくるのが、「倭人伝」こと所謂「魏志倭人伝」です。
?「三国志」65巻の内訳は、「魏書」30巻・「呉書」20巻・「蜀書」15巻。
?「魏書」30巻は紀4巻・伝26巻に分かれ、最後の「烏丸・鮮卑・東夷伝」は、
その巻の半分を「東夷」の記述が占める。
?「東夷」は、扶余・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・韓・倭人に分かれている。
パッと見、この三国志は「魏書」についてのボリュームが多いと感じると思います。
更に重要なのは、三国志の魏・蜀・呉の支那以外の「外国」についての記述が、
「烏丸・鮮卑・東夷伝」のただ1巻のみであると云う恣意性・異常性です。
(大陸公路の東の起点にある三国時代の支那と朝貢・貿易を行う
正式の国交があった異国の王朝は、西域だけでも亀茲・于?・大月氏等々がある
にも関わらず全く記載がありません)
三国志の中の「魏志倭人伝」とは、確実に
ある種の政治性を持ったプロパガンダが含まれており、
三国時代より後代に当時の王朝の「正統」を主張するために編纂されたモノなのでしょう。
(意図的に書かれていない事項・事象があるのも当然であり、
恣意的に誇張して記述されている事項・事象があるのも当然なのです)
「正統」の「正史」を構成する「本紀」(紀)と「列伝」(伝)。
この「本紀」があるのは「魏書」のみで、「蜀書」「呉書」には列伝しかありません。
つまり後代の「晋」朝が、「漢」「魏」の正統な後継の「正史」として
編纂されたのが「三国志」であり、その「正統」の根幹を成す「魏書」に於いて
北東アジアの武力平定の舞台を詳述した異色の外国伝が「烏丸・鮮卑・東夷伝」なのでしょう。
ではなぜ「西域伝」が無いのか?
「魏」に於いて遠方にして最大の王朝は西域の大月氏であり、
西暦229年に明帝が大月氏・クシャン朝の朝貢使節に対して「親魏大月氏王」の称号を与え、
その威光を喧伝して隆盛を誇ります。
明帝死後、後の晋朝に繋がる司馬懿の東夷平定のストーリー、
西の大月氏に釣り合う東の大国として、
たかだか倭人30余国を束ねる訳でもない「邪馬台国」を彼の権威付けのために
仮想の大国に見立て、斎王即位の年(西暦239年)に
卑弥呼の朝貢使節に対して贈られた称号が「親魏倭王」となる訳です。
「魏志倭人伝」に書かれた「邪馬台国」は実際よりも極端に誇張され、
その位置も現実とは乖離
(記述の里程を信じるなら小笠原からマリアナあたりに突き出してしまい、
朝鮮半島がインド亜大陸ぐらい巨大なものになってしまいます)し、
政治的プロパガンダに基づく虚像の古代国家の可能性が濃厚です。
その「邪馬台国」の位置は近畿でも九州でもなく瀬戸内のどこかで、
卑弥呼の正体も 片言で言葉が通じる華僑との混血(その子孫)と解する
のが合理的解釈に思えます。
↑
何度も申し上げておりますが、上古、上代は よくわからないw
こじつければ何でもあり、ですから。
日本の記紀も、あくまでも「神武朝」の史書、
「出雲朝」の史書もあっただろうし、「邪馬台国」の史書もあるいはあったかも?
ましてや支那の史書などを典拠にするのは大間違いです。
現代でも統計は適当デタラメ、捏造やり放題ですw
しかも著述者が「又聞きの又聞き?」で実見したわけでもない。
典拠にはなりませんね。
天保6年(1835) 〜 明治33年(1900)
号は一鶯齋、など。 作
「加賀見山再岩藤(かがみやま ごにちのいわふじ)」
通称、骨寄せの岩藤(こつよせのいわふじ) より、
「浦井左源田 市川小團次」(五代目) 「多賀大領 市川團十郎」(九代目)
「大月花人 尾上菊五郎」(五代目) です。
☆曇り。
まずは、狂気と言おうか、病理と言おうか、
◆http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140621/k10015395201000.html
NHKニュース 2014年(平成26年)6月23日[月曜日]
◎復興庁 原発事故風評被害対策で新指針案
復興庁は、東京電力福島第一原子力発電所の事故を受けた風評被害対策として、
経団連の会員企業などに被災地の農産物の活用を働きかけることや、
観光客の誘致に積極的に取り組むことなどを盛り込んだ新たな指針案をまとめました。
安倍総理大臣は先月、福島市で米作りの現場などを視察したあと記者団に対し、
東京電力福島第一原子力発電所の事故を受けた
風評被害を払拭(ふっしょく)するため、
政府として正確な情報提供に努めていく考えを強調しており、
復興庁は対策を強化するための新たな指針案をまとめました。
それによりますと、被災地の農産物を対象に行っている放射性物質の検査結果を
継続的に公表していくほか、
諸外国に対し 輸入規制の緩和や撤廃を引き続き働きかけていくとしています。
そのうえで、経団連の会員企業などに対し、
被災地の農産物を社内販売や贈答品として活用するよう働きかけるほか、
修学旅行を含めて国内外の観光客の誘致に積極的に取り組むなどとしています。
復興庁は、関係省庁による局長級の会議を週明けに開き、
新たな指針を正式に決定することにしています。
◆http://www.asyura2.com/14/genpatu38/msg/834.html
投稿者: てんさい(い) 日時: 2014 年 6 月 22 日 KqrEdYmDwf7cM
◎「福島を食べて応援」の人物がW杯日本専属シェフだ
米も食材も、すべて福島産放射能汚染物
これで日本代表が勝てるわけがない
より抜粋、
☆http://www.nikkansports.com/brazil2014/news/f-sc-tp0-20140622-1321798.html
日刊スポーツ 2014年6月22日
◎日本代表「疲れたまっている」と休養選ぶ
☆http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2014/05/09/kiji/K20140509008124740.html
ザックジャパン4強見据え…ブラジルに日本の魚を大量輸送
ブラジルに日本の魚を大量に持ち込むことを明かした西シェフ
サッカー日本代表がW杯ブラジル大会(6月12日開幕)でベースキャンプを張る
イトゥに日本の魚を大量に持ち込むことが判明した。
西 芳照専属シェフ(52)が8日、
福島県で自身が経営するレストラン「アルパインローズ」で取材に応じ
「日系人の多いサンパウロは日本の食材が手に入りやすいが、
日本の魚はないので用意する」と明かした。
4強進出を見据え、銀だら、銀むつ、さば、ほっけなどを
100キロ単位で輸送する方向で手続きを進めている。
食材は90品目程度をそろえる予定で、日本から持ち込むのは約10品目。
現地でサーモンなどは調達できるが
「現地感を出すと選手はあまり食べない」との理由から
日本の食材確保に全力を注ぐ。
白米については米国で栽培した日本ブランド米を現地で調達することが可能。
暑熱対策として鉄分の多い、ひじき、レバーなどを積極的にメニューに取り入れる方針だ。
西シェフは「愛する人に料理を作る気持ちになって、マンネリ化しないようにしたい。
選手がびっくりするような料理も用意できれば」とサプライズメニューを仕込むことも示唆した。
☆http://financegreenwatch.org/jp/?p=37327
福島県南相馬市旧太田村の玄米2点からセシウム基準値超 出荷停止。
他はすべて基準の半分以上で、全量出荷(FGW)
10月 19th, 2013
農地の汚染は完全に除去できない。“汚染米”の監視を徹底できるか・・
福島県は18日、本年産米の全量全袋検査の結果、
南相馬市原町区の旧太田村の農家2戸が生産した玄米2点から、
食品の基準値(1キロ当たり100ベクレル)を超える
1キロ当たり110、160ベクレルの放射性セシウムが検出されたと発表した。
また他に100ベクレルちょうどのコメが2件あったほか、
他のコメもすべて基準値の半分以上の値を検出した。
ただ、基準値を超えた玄米2件は隔離処分されるが、
他は出荷可能と認められ、市場に流通することになる。
福島県によると、基準超のセシウムが検出されたのは作付再開準備区域から。
作付再開準備区域では、事前に「平成25年産米に関する管理計画」を作成し、
すべての稲の作付面積や米の生産量を確認、
さらに全量全袋検査を実施することが出荷の条件となっている。
今回、3戸の農家で計100検体を検査した。
このうち、玄米から110ベクレルが検出された農家は、
8日の検査でも基準値超が確認されていた。
160ベクレルが検出された農家は、全袋検査で玄米130袋のうち96袋が
詳細検査に回り、1袋が基準値を超えた。
2袋以外は、市場に出荷することが可能とされたが、それらのコメについても、
いずれも基準値の半分以上のセシウム含有が明らかになっている。
100ベクレル超は出荷不可だが、
1ベクレルでも下回れば出荷可という線引きの妥当性が問われそうだ。
また消費者に、これらの50ベクレル〜100ベクレルのコメについて、
セシウム含有量の表示が十分される形になっていないほか、
産地についても「南相馬市・旧大田村」の表示がされない限り、
他の福島産コメに対しても、疑念が生じることになりかねない。
☆https://twitter.com/tokaiama/status/382859587918888962
玄米にはキロ当たり70〜80ベクレルのカリウム40が含まれている
セシウムがゼロでもカリウムがゼロには絶対にならない。
なるとすれば測定が真っ赤なウソである証明である
19時のNHKニュース,広野町のコメ全袋検査,
PanasonicのTOUGHBOOK,K-40まで0.0Bq/kgと表示
… 実際には100ベクレル近い米が平気で出荷されている
◆http://saigaijyouhou.com/blog-entry-2911.html
真実を探すブログ 2014/06/22 Sun.
◎サッカー日本代表、試合を控えるも練習を急遽キャンセル!
「疲れたまっている」と休養選ぶ!
選手達は福島産の食事を食べている模様・・・
ブラジルのワールドカップに参加してる日本代表が、
急遽練習をキャンセルして休養する方針を発表しました。
報道記事によると、選手達の疲労が予想以上に溜まっているとの事で、
全体練習などをキャンセルして休養にしたようです。
三日後にコロンビア戦を控えていることを考えると、
このような練習をキャンセルしてまでの休養は異例だと言えます。
そういえば、日本代表選手達の食事には福島の米や味噌が使われているようですが、
これは疲労回復を阻害している可能性もあるのではないでしょうか?
放射能というのは全身の細胞を無差別的に攻撃するわけで、
チェルノブイリ事故では異常な疲労感等が報告されていました。
日本代表選手にプレゼントされたお米は、
福島原発から20キロの場所にある福島県広野町産です。
広野町より離れた場所からも
相次いで米や食品から放射性物質が検出されているわけで、
放射能被ばくの影響が心配になります。
☆http://alter.gr.jp/Preview.aspx?id=8691&cls=
◎バンダジェフスキー博士の警告
人体に入った放射性セシウムの医学的生物学的影響
國周、二枚目、
「局つぼね 岩ふじ」です。
キリスト教義では「正教」が一番マトモだと思う、
既報ですが、三位一体に「人間」がある、
◆http://japanese.ruvr.ru/news/2014_06_21/273783260/
ロシアの声 6月 21日 ,
◎日本のロシア正教の神学校の生徒がスパイに
なぜ日本で青年時代を過ごし、教育を受けた人々は、
日本に対するスパイ活動を始めるのだろうか?
ロシアの東洋学者アレクサンドル・クラノフ氏の著書
「昇る太陽の陰で」を読むと、このような問いが浮かんでくる。
最近ロシアの出版社「ヴェーチェ」から刊行された同書籍の銘句には、
日出づる国、日本でロシア正教の教えを広めたニコライ・イポンスキー大主教の
「私たちがより深く日本を知っていたならば、
我々の日本との不幸な戦争はなかったであろう」という言葉が引用されている。
知識は確かに、時おり、不幸をもたらす行動をおさえる助けとなる。
これは、ニコライ大主教・(イワン・ドミートリエヴィチ・カサートキン
Иван Дмитриевич Касаткин)
の人生経験が明確に物語っている。
日本ハリストス正教会の最初の信者となった日本人は、
ニコライ神父を殺害するために同氏のもとを訪れた、
神道の祭司で元「サムライ」の沢辺琢磨氏。
沢辺氏は、1968年(1868年が正)に洗礼を受けて、日本ハリストス正教会の初の信者となった。
沢辺氏は、ハリスト正教会は日本を占領するために他の国が利用しているものだと考えた。
ニコライ神父は、そのことを知らずして判断を下してはならないと指摘し、
沢辺氏は思いとどまった。そしてその後、ニコライ神父は自分の力の許す限り、
正教やロシアに関する日本人の知識、そして日本に関するロシア人の知識を
広めるために努力した。そしてその為に、ロシア正教会の神学校を東京に開校した。
この学校の卒業生たちが、書籍「昇る太陽の陰で」の主人公だ。
そのうちの数人は、ずいぶん前からロシアで知られている。
例えば、ロシアの格闘技「サンボ」の創始者のワシリー・オシェプコフがいる。
オシェプコフは、武道の頂点への道を、
新学校の同級生トロフィモフ・ユルケヴィチと一緒に日本で歩み始めた。(講道館柔道を学ぶ)
だが彼らには、新学校の卒業生
ウラジーミル・プレシャコフやイシドル・ネズナイコなどと同じように、ある共通点があった。
彼らは1920年代にソ連の情報機関の職員となり、
全員が日本を対象とする諜報活動を行ったのだ。
日本語や日本の文化に興味を抱いている現代の多くの人々は、
「日本に住みながら日本に愛着を抱かないなんて不可能だ!
なぜ彼らは、日本を対象とする諜報活動なんかを請け負うができたのだろうか?」と、
神学校の元生徒達の人生における転換に当惑するだろう。
だが、その問いに対する答えは単純だ。
20世紀前半、日本はいま私たちが知っているような快適で平和な国とはほど遠かった。
ロシア人神学生の大部分が日本へ渡った1906年以降、
日本はロシアの政治的パートナーとなったが、
多くの日本人の意識の中でロシア帝国は敵であり、敗戦国であるととらえられていた。
日本社会では、ロシアは日露戦争でいかなる賠償金も支払わなかったため、
日本が勝利に対して得たものはあまりにも少ないという認識が広がっていた。
この状況に対する不満と苛立ちは、ロシアと講和条約に調印した日本の外交官、
そして恐らく、当時日本に滞在していたロシア人にもふりかかったであろう。
1917年の革命後、ボリシェヴィキ政権が日本とのパートナー関係を解消し、
日本は臆面もなくロシア極東に対する武力介入への参加を決めた。
米国の派遣部隊としての日本の行動は、赤軍パルチザンに対する戦闘行為だけでなく、
一般市民に対する懲罰も伴った。そのため、1920年代初めまでに、
軍事、および(あるいは)、東洋学的な教育を受けることができた
上記の元神学生たちの多くが、ソ連の情報機関から日本を対象とした諜報活動を依頼され、
ほとんど迷うことなく受け入れたのは、驚くに値しない。
◆http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%A2%E8%BE%BA%E7%90%A2%E7%A3%A8
◎沢辺 琢磨(さわべ たくま、天保5年(1834)〜 大正2年(1913年)
日本ハリストス正教会初の正教徒(ハリスチャニン=クリスチャン)にして
最初の日本人司祭である。 聖名(洗礼名)はパウェル(パウロ)。
沢辺姓を名乗る前は山本琢磨。
☆出生から箱館まで
天保6年(1835年)、土佐国土佐郡潮江村(現在の高知市)に
土佐藩の郷士である山本代七の長男として生まれる。幼名は数馬。
代七の弟・八平は同じ土佐郷士の坂本家に婿養子として入り坂本直足と改名、
次男に坂本龍馬をもうけており
龍馬とは血縁及び実質上の従兄弟同士である。
また琢磨の母は武市瑞山(半平太)の妻である富子の叔母であった。
武術に優れ江戸に出て三大道場の一つといわれた
鏡心明智流の桃井道場でその腕を一層磨き、師範代を務めるまでになる。
ところがある晩、酒を飲んでの帰り道に拾った金時計を
酔った勢いで一緒にいた友人と共謀し時計屋に売ってしまい
直ちにそれが不法なものであることが発覚して窮地に追い込まれる。
訴追を逃れるために龍馬や半平太の助けを得て江戸を脱出。
東北各地を流れ回った末、新潟にたどり着いたところで出会った前島密に
箱館(現・函館市)に行くことを勧められ箱館に落ち着く。
☆箱館・正教の洗礼
箱館では持ち前の剣術の腕が功をなし、それがきっかけとなって道場を開くと
町の名士たちとも親交を持つようになる。そんな中で知り合った
箱館神明宮(現・山上大神宮)宮司の沢辺悌之助に請われて娘の婿養子となり、
以後、沢辺姓を名乗る。
箱館時代の琢磨について、新島七五三太(新島襄)が米国へ密航するときの
手助けをしたというエピソードが伝わっている。
当時、既に開港していた箱館にはロシア帝国の領事館があり
附属聖堂の管轄司祭として来日していたロシア正教会のニコライ神父は
日本宣教の機会を窺いつつ日本の古典文学や歴史を研究していた。
領事館員の中に子弟に日本の武術を学ばせたいという者がいて
その指南役となり領事館に出入りするようになった琢磨も
ニコライを知ることとなったが、攘夷論者だった琢磨はニコライの日本研究に対して
日本侵略に向けた情報収集との疑念を抱き
ニコライをロシアから遣わされた密偵だと思うようになった。
そして殺害をも辞さぬ覚悟でもって大刀を腰に帯びニコライを訪問、
来日や日本研究の意図を詰問した。
対するニコライは琢磨の問いに理路整然と答えるとともに、
琢磨に対してハリストス正教の教えを知っているかと質問した。知らぬと答えた琢磨に
「ハリストス正教が如何なるものかを知ってから正邪を判断するのでも遅くはなかろう」
と諭した。確かにそれも一理あると考えた琢磨は
以後ニコライの下へ日参して教えを学んでいくうちに心服し、
後に友人の医師酒井篤礼らをも誘って教理を学んだ。そして、ついには
まだキリスト教禁制下の慶応4年4月2日(1868年4月24日)、酒井や浦野太蔵とともに
秘密裡にニコライより聖洗機密(洗礼)を受け
日本ハリストス正教会の初穂(最初の信者)となった。
聖名(洗礼名)は初代教会時代にキリスト教を迫害中、劇的な回心を経験して伝道者となり
キリスト教の世界宗教化への道を開いた後に致命した聖使徒パウェル(パウロ)を与えられた。
受洗後も琢磨はしばらくの間、神明社宮司の座に留まっていた。
祭祀の時には祝詞を漢語訳聖書の聖句に置き換えてカムフラージュをしたりもしていたが、
やがてハリストス正教に改宗したことを公言し神明社を去る。
禁教下において神道の祭司職が邪教へ改宗したということもあって、
琢磨一家に対する迫害は非常に厳しく生活は困窮を極めた。
さらには精神的に参ってしまった妻が自宅に放火をするという事件も起きた。
その後、琢磨は妻子を残して箱館を一時脱出し
布教しながら東北地方を南下するが途中で捕縛・投獄され、後に釈放されて箱館に戻った。
以後の伝道中、仙台にて再び捕縛されるが
明治政府によって禁教が解かれると自由の身となり以前にも増して伝道に力を入れた。
以下ご参照!
國周、三枚目、
「今様六花撰」 「大谷友右衛門」です。
コメントが秀逸ですな、
◆http://my.shadowcity.jp/2014/06/post-5095.html#more
ネットゲリラ (2014年6月22日)
◎邪馬台国はなかった事にしよう そうしよう
より抜粋、
日本は中国と違って、大平原というのがないわけです。
しかも農業がコメの水耕栽培を中心に始まったので、古代には適地は限られていた。
しかもそれがあちこちに点在している。そうした事情から、
中国のような絶大な権力を握る世俗の「皇帝」が出なかった。
各地の豪族をまとめる祭祀係をトップに据えて、
世俗の皇帝は作らず、魂の王国を作った。
☆http://www.asahi.com/articles/ASG6M54KMG6MPOMB00W.html
朝日新聞 2014年6月21日
◎(奈良)大和古墳群、国史跡へ 「邪馬台国論争の鍵」保全
国の文化審議会が20日、国史跡に指定するよう答申した
大和(おおやまと)古墳群(天理市)は、
邪馬台国論争や大和政権成立の鍵を握る存在として注目されてきた。
道路建設などで遺跡の破壊が懸念されただけに、
地元や研究者らは今後のさらなる保全や調査に期待している。
大和古墳群は、巨大な前方後円墳と前方後方墳(こうほうふん)が混在し、
畿内に古墳が現れた3世紀の様子を示す貴重な遺跡だ。
24基の古墳からなり、今回は調査で内容が明らかになっている
3基が指定対象となった。今後、一体的に保護を図る方針だ。
南部にある中山大塚古墳(3世紀後半)は全長130メートルの前方後円墳。
岡山県吉備(きび)地方で発達して埴輪(はにわ)のルーツになった
とみられる特殊器台の破片が、1980年代に見つかった。
中国と違って、権力の源である米作地帯というのが点在しているので、
「首都」はどこでもいいわけです。
ヤマタイ国がどこにあったのか? なんて無駄な論争で、
「あちこちにあった」というのが正しい。
卑弥呼時代の古墳は沼津でも見つかっている。沼津から原にかけては
広大な湿地帯が広がっていて、古代にはコメ栽培の適地だっただろう。
で、中国の使節は近畿までは来なかったんじゃないか?
どうも、九州あたりで「ここが我が国です」と言い含められて、
奥地までは来なかったのか、入れるのを嫌がったのか。
いずれにせよ、古代史が南から近畿に舞台を移して行くのは、
大陸からの干渉を嫌ったからだと思う。既に卑弥呼の時代に、
中国は日本を支配下に置こうという意図を持って接触して来ているわけで、
そこをノラリクラリとかわしながら、日本列島をまとめるためには、
近畿というのは都合の良い立地だった。
北九州あたりに古代日本の「首都」があったら、
今ごろとっくに日本は中国の版図になってますw
古代日本というのは、稲作民族を主体として連合国家を形成するわけだが、
その版図には稲作をしない人たちというのを大量に含んでいるわけです。
彼らは、「日本国民」ではない。日本列島に住んでいる、別人種です。
縄文人種と弥生人種が共存している。
伊豆でも、古代の稲作適地は非常に限定されていて、むしろ人口的にも面積的にも、
縄文的な人の方が多かったのではないか?
ただ、彼らは武装もしてないし、コメの水耕栽培適地に興味もないので、
戦闘にはならない。弥生人は、彼らを手なづけて、共存する途を選ぶ。
とはいえ、彼らが国家に税金を払うようになるまでには長い年月がかかった。
江戸時代までは、国家の財政収入というのは、コメ栽培からあがる年貢だけです。
なので、コメを作って、弥生人化した連中を別とすれば、
彼らは日本に住みながらも、何一つ、国民としての役目を果たさず、
好き勝手に生きていたわけです。
まぁ、ヤマタイ国とかヒミコとか、永遠にわからない方が、
中国から妙なイチャモン付けられなくていいんじゃないかな。
ヒミコの時代から日本は中国の属国アルとか言われたらイヤだしw
コメント
*脆平野 | 2014年6月22日 | 返信
> ただ、彼らは武装もしてないし、
これは違うと思います。 「山の民」≒産鉄民ですから
*ぺこたん | 2014年6月22日| 返信
「魏志倭人伝」は史料の大前提として、
何の疑いもなく我が国の邪馬台国論争に用いられています。
そもそも「魏志倭人伝」とは何なのか?
支那の正史「魏志倭人伝」、「三国志」の一部である「魏書」の第30巻の
「烏丸・鮮卑・東夷伝」の記述の東夷伝の中に
チラッと最後に倭人について出てくるのが、「倭人伝」こと所謂「魏志倭人伝」です。
?「三国志」65巻の内訳は、「魏書」30巻・「呉書」20巻・「蜀書」15巻。
?「魏書」30巻は紀4巻・伝26巻に分かれ、最後の「烏丸・鮮卑・東夷伝」は、
その巻の半分を「東夷」の記述が占める。
?「東夷」は、扶余・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・韓・倭人に分かれている。
パッと見、この三国志は「魏書」についてのボリュームが多いと感じると思います。
更に重要なのは、三国志の魏・蜀・呉の支那以外の「外国」についての記述が、
「烏丸・鮮卑・東夷伝」のただ1巻のみであると云う恣意性・異常性です。
(大陸公路の東の起点にある三国時代の支那と朝貢・貿易を行う
正式の国交があった異国の王朝は、西域だけでも亀茲・于?・大月氏等々がある
にも関わらず全く記載がありません)
三国志の中の「魏志倭人伝」とは、確実に
ある種の政治性を持ったプロパガンダが含まれており、
三国時代より後代に当時の王朝の「正統」を主張するために編纂されたモノなのでしょう。
(意図的に書かれていない事項・事象があるのも当然であり、
恣意的に誇張して記述されている事項・事象があるのも当然なのです)
「正統」の「正史」を構成する「本紀」(紀)と「列伝」(伝)。
この「本紀」があるのは「魏書」のみで、「蜀書」「呉書」には列伝しかありません。
つまり後代の「晋」朝が、「漢」「魏」の正統な後継の「正史」として
編纂されたのが「三国志」であり、その「正統」の根幹を成す「魏書」に於いて
北東アジアの武力平定の舞台を詳述した異色の外国伝が「烏丸・鮮卑・東夷伝」なのでしょう。
ではなぜ「西域伝」が無いのか?
「魏」に於いて遠方にして最大の王朝は西域の大月氏であり、
西暦229年に明帝が大月氏・クシャン朝の朝貢使節に対して「親魏大月氏王」の称号を与え、
その威光を喧伝して隆盛を誇ります。
明帝死後、後の晋朝に繋がる司馬懿の東夷平定のストーリー、
西の大月氏に釣り合う東の大国として、
たかだか倭人30余国を束ねる訳でもない「邪馬台国」を彼の権威付けのために
仮想の大国に見立て、斎王即位の年(西暦239年)に
卑弥呼の朝貢使節に対して贈られた称号が「親魏倭王」となる訳です。
「魏志倭人伝」に書かれた「邪馬台国」は実際よりも極端に誇張され、
その位置も現実とは乖離
(記述の里程を信じるなら小笠原からマリアナあたりに突き出してしまい、
朝鮮半島がインド亜大陸ぐらい巨大なものになってしまいます)し、
政治的プロパガンダに基づく虚像の古代国家の可能性が濃厚です。
その「邪馬台国」の位置は近畿でも九州でもなく瀬戸内のどこかで、
卑弥呼の正体も 片言で言葉が通じる華僑との混血(その子孫)と解する
のが合理的解釈に思えます。
↑
何度も申し上げておりますが、上古、上代は よくわからないw
こじつければ何でもあり、ですから。
日本の記紀も、あくまでも「神武朝」の史書、
「出雲朝」の史書もあっただろうし、「邪馬台国」の史書もあるいはあったかも?
ましてや支那の史書などを典拠にするのは大間違いです。
現代でも統計は適当デタラメ、捏造やり放題ですw
しかも著述者が「又聞きの又聞き?」で実見したわけでもない。
典拠にはなりませんね。