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冥府迷走?

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 画は柚木 武士(ゆき たけし)

 柚木武士:
 1921年 出生于台湾省花莲港 1939年毕业于台北第一中学(现台湾省立建国高等中学)
 1942年 毕业于台南高等工业学校(现成功大学) 1946年由日本陆军航空部队复员,
 从中国回日本 1959年 从日本航空自卫队退职 〜 とあり。

 ☆https://fukui-freaks.jp/u/crissnote/HrYaDEKbmAML1Q6htIOf/
 柚木武士『日本軍艦画集』 ご参照!                      作


  「大和」です。


☆雪、まとまって積りました。

昨日もご来場少なからず、ありがとうございます。

まずは、「いつかきた道」、「軍靴の足音」、

「田布施システム」のゾンビどもの冥府、暴走せり、

また日本をユダ金どもの食い物にするつもり、

◆http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-36f6.html
植草一秀の『知られざる真実』
2013年12月 6日 (金)
◎特定秘密保護法可決成立は日本民主主義の自死

より、結論部分、

すべてが暗黒なのである。

日本国憲法が定める「罪刑法定主義」を実現できないのであり、
法律そのものが違憲立法なのだ。

十分な論議が行われないこと以上に重大な問題は、
特定秘密保護法自体が、憲法違反の内容を含んでいることである。

このような法律案を強行採決で成立させた安倍政権は、もはや、
存立を容認できない存在となっている。

主権者がこの政権を打倒することに正統性が存在する。


ご参照あれ!


今日はハワイ時間では「真珠湾攻撃」の日です。

この「戦略なき作戦」を下命したのは「昭和天皇」です。

「たら、れば」ではあるが、

◆http://www.asyura2.com/13/warb11/msg/813.html
投稿者: 赤かぶ 日時: 2013 年 9 月 29 日 igsppGRN/E9PQ
◎戦艦大和の運用次第で、太平洋戦争の戦局は覆っていた!(1)
 /平間洋一(元防衛大学校教授)

より抜粋、


☆http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130929-00000001-php_r-bus_all 
PHP Biz Online 衆知(歴史街道) 9月29日(日)

太平洋戦争のターニングポイントとされる戦いにおいて、
戦艦大和が効果的に運用されていたら、勝敗は逆転し、
日本が優勢となる可能性は高かった。さらに戦術的レベルに留まらず、
戦略的活用に踏み切っていれば、
大和は世界大戦の帰趨さえ変えてしまう力を秘めていたのである。


◆ミッドウェー海戦の IF◆

では日本海軍は、大和をいかに活かすべきだったのか。
「歴史に IF は禁物」というが、大和の場合、特に実現性の高いケースが多く、
それらについて考察することは、現在に通じる様々な示唆を与えてくれるに違いない。

実際の戦闘を取り上げるならば、まず、大和の初陣となった昭和17年(1942)6月の
ミッドウェー海戦である。日米戦争の転換点となったこの海戦で、
日本は虎の子の空母4隻を失うという大敗を喫し、以後、劣勢に立たされる。
この時、大和を軸とする主力部隊は、空母機動部隊の500キロメートルも後方にあり、
ついに戦闘に加わることはなかった。

これは、機動部隊が敵艦隊に一撃を加えた後に戦艦部隊で止めを刺すという、
旧来の艦隊決戦思想に則った戦国序列を重んずるがゆえの配置であった。
しかしながら、やはり大和は機動部隊とともに行動させるべきだった。
そうすることで、ミッドウェーの最大の敗因である「索敵の不備」を防ぐことができたからである。

主砲の攻撃力が注目される大和だが、実は、通信設備も極めて充実していた。
事実、ミッドウェーの作戦行動中、大和は「多数の敵航空機が行動中」との
軍令部特信班からの情報を受信し、アメリカ空母の一部が、
ミッドウェー付近で待ち伏せしている可能性のあることを掴んでいる
(大和の敵信班が、敵空母らしき符号を傍受したとも)。
だが肝心の機動部隊は情報を受信できず、また無線封止中のため、
大和から機動部隊に通報されることもなかった。もし大和が機動部隊と行動をともにしていれば、
戦局を左右するその情報を、発光信号などで伝えることもできた。
となれば索敵に全力をあげることになり、史実のように敵空母部隊の発見が遅れ、
兵装転換の間に攻撃されて、空母4隻を失うことなどなかっただろう。

大和の同行には、もうひとつ大きな利点がある。
敵攻撃隊が機動部隊を襲った際、大和が「盾」となったはずなのだ。
たとえば低空から魚雷を放つ敵雷撃隊に対しては、
空母の手前に大和がいて弾幕を張れば、攻撃を阻止できる。一方、
直掩の零戦隊は急降下爆撃隊の迎撃に専念すればよい。
つまり、大和の存在によって、敵攻撃隊への対処は極めて効率的になるのだ。

また、よしんば互角の戦いとなり、日本の空母が米空母と相撃ちになって損傷しようとも、
大和が追撃戦を敢行していれば、日本の航空隊が損傷を与えた米空母に止めを刺し、
残敵掃討をすることも可能だったろう。
いずれにせよ、当時の日本海軍の練度は米軍を凌いでおり、
大和が機動部隊とともにあればまず負けることはなかった。


◆ガダルカナルに大和を投入すれば◆

ミッドウェー海戦に敗れた後、日本は反攻に転じたアメリカと、
ソロモン諸島のガダルカナル島を巡って死闘を演じた。
昭和17年8月から翌18年2月までの半年間のこの戦いにおいて、
日本は圧倒的物量を誇るアメリカに消耗戦を強いられた挙句、撤退を余儀なくされる。

この間、大和はトラック島に進出していながら、ガダルカナルの戦いに投入されることなく、
「大和ホテル」と椰輸されるほど無為に碇泊する日々を送っていた。もし、
大和が初期のヘンダーソン基地砲撃から戦闘に加わっていれば、戦局は大きく変わっていただろう。

昭和17年10月、陸軍はガダルカナルへの高速補給船派遣を決定。
海軍はそれを支援すべく、アメリカの航空攻撃を封じるために戦艦金剛と榛名を派遣し、
米航空隊の拠点・ヘンダーソン基地に夜間艦砲射撃をさせた。
この砲撃は凄まじく、日本陸軍が「野砲千門に匹敵する」と賞賛したほどだった。

しかし米航空隊は一部残存しており、金剛と榛名が引き揚げた後、
補給船団は米軍の反復攻撃を受けて、壊滅してしまうのである。

もし46センチ砲を誇る大和が初期からこの砲撃に加わり、たびたび艦砲射撃を加えていれば、
米軍は反撃できず、陸軍のヘンダーソン基地制圧作戦も進展していた。

もちろん敵航空隊に大打撃を与え、ラバウルからガダルカナルへの長距離飛行を強いられていた
日本海軍航空隊の負担も、軽減できただろう。

実際のガダルカナル争奪戦において、日本海軍は 2076機の航空機を損失し、
日米開戦初期に世界最高の練度を誇った搭乗員の多くを失ってしまった。
その後の戦局をみても、ガダルカナルにおける熟練搭乗員の損失は痛恨の極みだが、
大和を活用していれば、それを防ぐことができた可能性が高い。

ミッドウェーでもガダルカナルでも、大和が航空兵力を大いに助ける――
そうなっていれば、「航空優勢の時代の無用の長物」などと貶められることもなかったはずだ。

もちろん、大和は実際の海戦でも実力を発揮しただろう。
昭和17年11月の第三次ソロモン海戦において、アメリカは最新鋭戦艦サウスダコタと
ワシントンを惜しげもなく投入。対する日本海軍は旧式戦艦比叡と霧島で迎え撃つが、
両艦とも失われてしまう。しかし大和が出撃していれば、少なくとも両米戦艦にひけは取らず、
絶対に負けはしない。アメリカはレーダー射撃を導入していたというが、
まだ実用化されたばかりであり、そうそう大和がやられることはなかっただろう。



柚木 武士、二枚目、



「赤城」です。



◎戦艦大和の運用次第で、太平洋戦争の戦局は覆っていた!(2)
/平間洋一(元防衛大学校教授)
☆http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130929-00000002-php_r-bus_all
PHP Biz Online 衆知(歴史街道) 9月29日(日)


◆抑止力として、そして艦隊決戦へ◆

以上、実際の戦闘に即して、大和をいかに用いるべきだったかという、
いわば「戦術的」運用について語ってきた。
だが大和は、日米戦争の帰趨自体を変えてしまうような、「戦略」を左右するほどのカを
持った艦でもあったことを、我々は忘れてはなるまい。次に戦略的な活用法を検証してみよう。

まず、第一の戦略的活用ポイントは、「抑止力」である。
日米開戦前夜の当時から、大和型戦艦の存在を公表し、
日米交渉に活用すべきという主張はあった。
戦艦の本質は「抑止力の象徴」であり、確かにこの意見は一理ある。

そもそも米海軍は、日米開戦1カ月前の昭和16年(1941)11月1日には、
ハル国務長官を中心とする対日強硬派に、可能な限り対日戦争の勃発を遅らせるよう申し入れていた。
さらに11月5日、ルーズベルト大統領に、「対日戦争を企図してほならぬ」と開戦に反対している。
要するに、「日本海軍には勝てない」と言っていたのである。

それというのも当時、米海軍はイギリスへの支援に手一杯であり、
また多数の艦艇を一気に建造したために熟練乗組員を方々に転出させねばならず、
太平洋艦隊の練度が著しく低下していた。
米海軍は、これでは日本海軍に勝つのは不可能と考えていたのである。

このような状況において、大和の存在が公表されていたならば、
少なくとも米海軍の意向を汲んで、
ハルノートのような最後通牒を突きつけることは延期されただろう。
大和に対抗できる戦艦を造るためには、莫大な時間を要する。
実は大和建造ではその施設建設に時間がかかっており、
アメリカも同様に時間を取られたであろうことは間違いない。

そうなれば、日本には多くの選択肢が生まれていたはずだ。

第二次大戦の転機であるドイツ軍のモスクワ攻略失敗は、
まさに真珠湾攻撃と同時期に起きている。
もし日米開戦が遅れていれば、日本はその結果を踏まえて、ドイツとの同盟破棄など、
さらに取りうるべき手立てを考えることができたかもしれない。

しかし、それでも日米戦争が起きた場合、大和はいかに用いるべきだっただろうか。
第二の戦略的活用ポイントとして、私は真珠湾攻撃をせず、
当初の対米戦略どおり、艦隊決戦をすべきだったと考える。

日本が真珠湾攻撃をしていなければ、アメリカも当初の対日戦略に基づき、
マーシャル諸島沖を襲撃しようとしたはずだ。
アメリカ人の気質を考えても、米海軍は守りに徹するのではなく、
全力で艦隊決戦を挑んできたであろう。だが、そのためにはやはり準備の日数を要する。

一方、日本は大和を12月16日に竣工させており、その時期には出撃可能だった。
となれば、大和は「日米艦隊決戦」に充分に間に合う。
そもそも日本は、大和の完成を待って宣戦布告してもよかった。

その場合、決戦の帰趨はどうなっただろうか。
当時の日米の航空戦力比は、太平洋正面では空母では10対3、
航空機では2対1と日本の優勢であった。

しかも米太平洋艦隊のキンメル長官は戦艦第一主義者で、
航空機搭乗員を「Fly Boy」(蝿少年)と軽視しており、
日本の航空部隊に対する備えは甘いと見ていい。
また戦艦の砲撃においては、アメリカの決戦距離は約2万メートルで、命中率は3パーセント。
対する日本海軍の砲撃の腕前は世界一で、命中率は少なくともその3倍はあった。

そうした前提を踏まえれば、艦隊決戦が生じれば、日本海軍が勝利したことは疑いようが無い。
米海軍はダメージコントロールに優れているので、壊滅こそ難しいだろうが、
おそらく艦隊に6〜7割の損害を与えることはできたに違いない。
そうすれば、アメリカはしばらく反撃できず、戦争は長期化しただろう。
アメリカ国民の厭戦気分はいやが上にも増し、
その後の戦争の推移は、大いに日本有利になったと考えることができる。


◆戦局を変えられたインド洋作戦◆

大和の有効な戦略的活用ポイントは、もうひとつ挙げられる。

それは、インド洋への投入である。

真珠湾攻撃の成功後、日本海軍は昭和17年4月に、南雲機動部隊をインド洋に派遣し、
セイロン沖海戦でイギリス東洋艦隊を痛撃した。
この作戦終了後、日本海軍は大和以下の水上部隊主力をインド洋に投入し、
通商破壊作戦に従事させるべきであった。

連合国、とりわけイギリスにとって、インド洋はアジア、アフリカとヨーロッパを結ぶ
交通の要衝で、戦争遂行上、欠くことのできない補給の動脈だった。

イギリス本国はオーストラリアからインド洋を経て食糧を、
アフリカのイギリス軍は地中海をドイツに押さえられたために、
インド洋を通じて軍需物資を得ていた。
インド洋はまさにイギリスの命綱であり、それを断ち切ることができれば、
イギリスを窮地に陥れ、第二次大戦の帰趨も大きく変わったに違いない。

しかもこの通商破壊作戦は、極めて成功する可能性が高かった。
当時の英海軍は、マレー沖海戦とセイロン沖海戦に敗れ、
アフリカへの後退を余儀なくされていた。さらに、英海軍は独海軍に対抗するために、
本国や地中海のマルタ島にも戦力を割かねばならず、インド洋に艦艇を派遣する余力はない。

このような状況で大和と護衛用の小型空母を派遣していれば、
インド洋の制海権はまず確保できたであろう。その時、
大きな影響が生じるのは北アフリカ戦線である。

昭和17年5月から、ドイツのロンメル将軍が北アフリカで快進撃を始めていた。
この時、大和を中心とする日本海軍がインド洋を制していれば、
アフリカのイギリス軍はロンメルの進軍を阻止できなくなる。やがて、
ロンメルはスエズ運河を占領し、中東の石油を確保。

さらに、スエズ運河を通じて、日独の中東での連絡も達成され、
日本にも中東の石油が送られることになっただろう。

こうした日独の優勢が続けば、インドとアラブ諸国に与える影響は計り知れない。

インドではただでさえ、緒戦における日本の快進撃を受けて、反英闘争が激化していた。
そうした状況で日本海軍がインド洋を押さえれば、
インドの独立運動は手に負えないほど激しくなっただろう。
その独立運動の熱気はやがてアラブ諸國にも波及し、
イギリスが極めて深刻な打撃を受けたことは疑いようがない。

このように、大和の有効な運用方法は、いくらでもあった。
大和は決して「無用の長物」などではなく、個々の海戦のみならず、
第二次世界大戦の帰趨をも、劇的に変えてしまう力を持っていたのである。


☆http://www.youtube.com/watch?v=uc9JHQJ0f3s#t=15
戦艦大和・その栄光と終焉



柚木 武士、三枚目、



「加賀」です。



コメント

*06. 2013年9月30日 W18zBTaIM6

 御前会議の内容はいつも直ちに吉田茂によってアメリカに伝えられていたのは有名な話

 どんな作戦を取ろうが勝てる訳なかったんだよ

 誰かが昭和天皇を殺していれば勝てたかも知れないけどね

*08. 2013年9月30日 sUpHQ8Q75g

 >>06
 > 御前会議の内容はいつも直ちに吉田茂によってアメリカに伝えられていたのは有名な話

 吉田茂など宮中ヨハンセンクループもそうだが
 米内光政も山本五十六も南雲も
 海軍上層部は根こそぎ油堕菌の工作員

 この最も重要な秘密鍵を見逃すと
 この記事のように無意味なタラレバで時間潰しする羽目に陥るが
 鍵が見えりゃ日米がガチンコで戦ってたんじゃないことも判る

*15. 2013年10月01日 oIjRF9fAyw
 >>13
 >むしろ機動部隊より前進して運用し

 その通りです、戦艦を前面に押し出す戦い方が出来れば、アメリカに勝つとまでは言えないまでも
 そうとうな戦い方が出来た訳です 難しいながらも早期講和へのチャンスは有っただろうと思います

 しかしながら、戦艦部隊を出し惜しみした最大の原因は 遠く日露戦争に有った訳です
 日本海海戦の栄光が忘れられず、戦艦部隊による 「艦隊決戦」 に固執してしまった艦隊決戦派と
 戦艦など必要ないとばかりに、航空部隊だけで戦争してしまった航空主兵派との
 見事な合作により、戦艦を後方に出し惜しむ戦い方をしてしまった訳です

 かくして、日本の航空兵力が崩壊してしまって やむなく戦艦部隊を前面に押し出したのは
 1944年10月の レイテ沖海戦なんですが、もうすでに時遅しなのですが
 皮肉な事に戦後、連合軍からの評価で 日本海軍の採った戦法で最も優秀な戦法は
 このレイテ沖海戦であると認められているそうです。


*16. 2013年10月01日 W18zBTaIM6

 栗田艦隊が謎の反転をしたのは

 昭和天皇がアメリカとは真面目に戦うな、すぐに戦場を去れと栗田に指示したからなんだけどね


*17. 2013年10月01日 G86ZVgPoTQ

 原爆開発中止令にせよ暗号解読出来てた広島原爆投下機への(多分昭和天皇による)
 迎撃不許可とか昭和天皇ってドンダケ勝機ツブしてんだろな ; 平成国民の素直な感想


*40. 2013年10月02日 1 oIjRF9fAyw

 ミッドウェー海戦にしたって、運命の五分間などと言われるが
 (最近ではこの定説も否定されつつあるようですが)
 よーく 調べてみると、米機動部隊からの攻撃機来襲から 空母赤城の被弾まで
 実際には一時間以上の時間が有り、兵装転換による爆弾や魚雷がそこいらじゅうにゴロゴロ
 なんて話は眉唾っぽい 実際に一時間も有れば 外した爆弾くらいは普通は片付けるものだろう

 直掩戦闘機の奮戦と 対空砲火と 艦の操舵による回避とで一時間以上持ち堪えていたのに
 なぜ突然 被弾したか、結局は 結果的な時間差攻撃と 日本側の 油断によるものだと言われつつあります

 敵の攻撃が止み、攻撃機はみんな引き上げたと 気を抜いてほっとしていた所に
 雲間から 突然ひょっこりと 遅れてやってきた急降下爆撃機に 完全に虚を突かれ
 直掩機も対空砲火も艦の操舵も すべて間に合わず なす術が無かったのが実際の所かと思います

 まあ、これを 不運と言うか 油断と言うかは 受け取る人の判断かもしれませんが
 私は、不運も油断も 両方有っただろうと思います。

*43. 2013年10月02日 sUpHQ8Q75g

 >>41
 > 真珠湾で地表に剥き出しの石油タンクを第二派攻撃で潰しておかなかったのは非常に不思議、

 不思議に感じるのは日米がガチンコで戦ったと思い込んでるからだ罠w

 フォード島の南東岸に二列縦隊で老朽艦を並べてたり
 真珠湾に前夜停泊してた空母が2隻とも未明に湾外に出てたり
 早朝哨戒飛行に出るB−17に弾薬を積むなつう命令が出たり

 ルーズベルトに背後から指示する連中の書いたシナリオに従った壮大なヤラセ

 もちろん現場の兵士は命を掛けて真剣に戦わざるを得ないが
 そこに目を奪われるとまさかヤラセのはずがないと思い込む罠に嵌る

 米内光政も山本五十六も南雲も海軍上層部は根こそぎ油堕菌の工作員であり
 日米上層部はツーカーの関係で著作制作油堕菌の日本軍部潰しシナリオに従い
 日本海軍は故意に失敗を重ねたに過ぎないと考えるだけで全て辻褄が合っちまう
 実に不思議だ悩w


*64. 2013年10月04日 W18zBTaIM6

 革命に恐れおののいていた天皇家の人々

 梨本宮伊都子妃の日記

 梨本宮伊都子妃の日記が死後発表された。
 梨本宮伊都子妃は昭和51年まで生き、死後、この日記は発表された。
 よく発表したもんだと思う。プライベートに書き綴ったものを遺族が発表したのだ。
 ここまで書いていたら普通なら発表しない。あるいは、この部分は省略するか、
 あるいは発表する前に破り捨ててしまうか。それをしなかったのは大変な勇気だと思う。

 伊都子妃が、「日本ももうだめだ」と考えたのが昭和33年11月27日だ。
 その4ヶ月前、その皇太子さまも、絶望的な気持ちになっていた。「おことば」はこうだ。

 『昭和33年7月14日。
 きみ、きっと、これが僕の運命だね。明仁皇太子』
 
 どんな運命かというと、「暗殺される運命」だ。島田の「解説」には、こうある。

 『この日、イラク国王ファイサル二世は、軍部のクーデターと民衆の蜂起により暗殺された。
  ご学友の橋本明氏がたまたま御所に招かれていて、一緒にお茶を飲んでいると、
  侍従から報告があったという。

 「皇太子はその瞬間、蒼白になり、手にしていた紅茶が入った茶碗を膝の上に落として、
  数秒だったが、口をおききになれなかった」が、自分を取り戻してこう発言されたそうだ。
  まだ美智子妃の実家、正田家が婚約を固辞していた頃だ。
  二十二才で暗殺された国王の不幸を他人事とは思えなかったのだろう』


 (3)「浩宮の代で最後になるのだろうか」と悲しいおことばを

 昭和33年というのは、1958年だ。60年安保闘争の直前だ。左翼の力が強かった時だ。
 「天皇制打倒!」を叫ぶ人々も多くいた。そうした日本の風潮も知っていたのだ。
 そこにイラク国王の暗殺の報だ。

 しかし、ご学友が遊びに来てる時にわざわざ、こんな事を報告するなんて、侍従もおかしい。
 島田はさらにこう続けている。

 『のちに、戦後初の国賓として来日し、鴨猟で接待したエチオピア皇帝
 ハイレ・セラシェも亡くなり、イランのホメイニ革命によりパーレビ王朝も打倒され、
 アジアからは続々、王制が消えてゆく。

 長男浩宮が生まれると、明仁皇太子は学友たちに
 「浩宮の代で最後になるのだろうか」といったという』


*77. 2013年10月04日 nsRMm7pOyA

 天皇一族輩が犯した大罪は、未来永劫に消え失せ隠蔽できるとは思えません。
 あの世から、天皇家に利用され、謀殺された軍人さんや兵隊さん、民間の人らの怒りが
 火炎となってそちらの方へ吹き付けている様子。霊眼の開けている人には見えるかも。
 隠し通せると思ったら、大間違い。
 米国や国際決済銀行のクラッシュで、明るみに出ることは多いでしょう。


*81. 2013年10月05日 W18zBTaIM6

 軍人は昭和天皇の命令に従って行動していただけだよ

 昭和天皇に逆らおうとした人間は軍部には一人もいなかった


*87. 2013年10月05日 W18zBTaIM6

 これが真相:

 山本五十六は言ってるじゃないですか一年ぐらいはもつって、勝った勝ったでいくだろうと。

 だけど後はもう知らんて、そしたら天皇はそれでもいいからやれちゅーわけですよ。

 やらないと自分の身が危ないと、スキャンダルをみなばらされて全部失うと、スイスに貯めた金も失うと。

 なぜ石油があったか考えてみたことありますか、これはですね
 戦争のときにアメリカは、 日本には石油を売らないと、
 ところがパナマ国籍の船ならば石油を積んでいって日本に売っても、
 自分達は攻撃できないというような理屈で、日本に石油を間接的に売るわけです、本当の話です。

 でこれに三菱が作った昭和通商という会社がそれを引き受けるわけです。
 で昭和通商と三菱は同じですけど、そこでまずいので日本水産という会社が代行するわけです。
 魚を運ぶということではなくて魚の代わりに石油をパナマ国籍からもらって持って帰るので
 戦争は長引くわけです。

 太平洋でいっぱい戦争しました、あれはアメリカの石油をもらってアメリカの石油を使った軍隊と、
 戦争ゴッコをやったっちゅーことですよ、そしてある時になってもう石油をやらないというときに、
 天皇は気がつく、ああ遂に終わりがきたかと、これが真相なんですよ。

 御文庫といって、天皇の宮殿の地下深くに御文庫を作り
 そこに大本営を置いて天皇が参謀たちを集め、 図面を置いて毎日毎日、
 今度はここ行けここ行けと指図をするわけ、

 それを指図ができると、 東条が受けてですね、やるわけです、

 だから参謀たちが天皇を大参謀に、参謀たちが戦争計画を作り、それを東条に渡すわけです、
 首相の東条は大文庫に、御文庫の中には入れないわけです他の連中も。

 そういうシステムで戦争が進んでいくわけです。

 ☆http://www.youtube.com/watch?v=eugXzHoKnes


 昭和天皇の身代わりに処刑された東条英機

 1947年の大晦日、東条への直接尋問のなかで、〔木戸の〕弁護人ログマンはこう質問した。

 天皇の平和に対してのご希望に反して、木戸侯爵が行動をとったか、
 あるいは何かを進言したという事実を何か覚えていますか?

 東条 
 そういう事例はもちろんありません。私が知る限りにおいてはありません。
 のみならず、日本国の臣民が、陛下のご意思に反して、
 かれこれすることはあり得ぬことであります。 いわんや、日本の高官においておや。


 裁判長(ウェッブ) 
 今の質問がどのようなことを示唆しているかは、よく理解できるはずである。

 まさしく、それは誰もが知っていたことだった。



やれやれですな、戦いの始まりですね、 「自主独立の日本」再生へ!




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