◆http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=277944
るいネット 13/06/23
◎広島・長崎原爆で奇形児が少なかった理由のカラクリ
当時、トルーマン大統領は原爆の惨状についての報道を一切禁止し、被爆治療を徹底的に妨害。
そして被爆者を「治療」せず「実験動物」のように観察する組織「ABCC」
(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置した。
また、このABCCの研究対象とされた女性の体験談によると、
アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、
国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止した。
日本政府もそれに協力したという。
リンクより引用します。
http://blog.livedoor.jp/tacodayo/archives/6576065.html
−−−−−−−−−以下、引用−−−−−−−−−−−
以下は
「原爆ホロコースト」の実態 〜 「原爆」と「冷戦」の舞台裏 〜リンク
☆ヘブライの館
からの引用です。
●広島大学の名誉教授である芝田進午氏は、原爆の対日使用は「人体実験」だったとして、
1994年に次のように述べている。
「広島・長崎への原爆攻撃の目的は何だったのか。1つには戦後世界でのアメリカの覇権確立である。
そしてもう1つは、原爆の効果を知るための無数の人間への『人体実験』である。
だからこそ、占領後にアメリカ軍が行なったことは、
第1に、原爆の惨状についての報道を禁止し、『人体実験』についての情報を独占することだった。
第2に、史上前例のない火傷、放射能障害の治療方法を必死に工夫していた広島・長崎の医者たちに
治療方法の発表と交流を禁止するとともに、
死没被爆者のケロイドの皮膚や臓器や生存被爆者の血液やカルテを没収することだった。
第3に、日本政府をして国際赤十字からの医薬品の支援申し出を拒否させることだった。
たしかに、『実験動物』を治療するのでは『実験』にならない。
そこでアメリカ軍は全力を尽くして被爆治療を妨害したのである。
第4に、被爆者を『治療』せず『実験動物』のように観察するABCC
(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置することであった。
加害者が被害者を観察するというその目的自体が被爆者への人権蹂躙ではなかったか。」
トルーマン大統領は原爆の惨状についての報道を一切禁止し、被爆治療を徹底的に妨害した。
そして被爆者を「治療」せず「実験動物」のように観察する組織「ABCC」
(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置した。
●広島で女学生(14歳)のときに原爆にあい、現在も原爆後遺症で苦しむ詩人の橋爪文さんは、
「ABCC」(原爆傷害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)について、
次のような恐ろしい事実を述べている。まさにアメリカがやったことは、「人体実験」だったといえよう。
ー 被爆者である橋爪文さんが書いた 『少女・14歳の原爆体験記』(高文研) (中略) より。ー
「私は広島の生き残りのひとりです。〈中略〉 ここで、ひとつ触れたいことは『ABCC』についてです。
これは日本でもほとんど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、
すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に『原爆傷害調査委員会』(通称ABCC)
を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、
私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの
乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、
さまざまな調査、記録を行ないました。その際私たちは人間としてではなく、
単なる調査研究用の物体として扱われました。
治療は全く受けませんでした。
そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、
外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。
日本政府もそれに協力しました。
こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、
放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。
しかもそれは戦争が終わった後で行なわれた事実なのです。
私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。
あれから50年、『ABCC』は現在、日米共同の『放射線影響研究所』となっていますが、
私たちはいまも追跡調査をされています。
以下は
広島の助産婦の証言 〜原爆による奇形〜リンク
( _____________________________________ )
からの引用です。
私は昭和20年当時、尾長町で産院を開業していました。41歳でした。
その頃はまだ家庭分娩が多うございましたが、だんだん少なくなりまして、
昭和30年頃には、皆産院に吸収されました。
何も記録は持っていませんが、奇形がたくさん出ました。
当時はABCCへ、みな報告しなくてはいけないシステムになっていました。
奇形が出ましても、報告するのを嫌う人もございましたので、しなかったこともあります。
一番多かったのは兎唇でございました 。
それに口蓋裂もあって、泣くと喉の奥まで見えるんです。お乳も飲めないような...
それから肢指過剰ですね。多指です。
それから鎖肛(正常な位置に肛門がなく、直腸が盲端になっており、5千人に1人の確率で発病する)。
肛門のないのも多うございました。
兎唇や多指は数が多うございました。分娩で頭の先がでましたら、
今度も兎唇じゃないかしら と思ったら、やはりそうで、そのたんびに憂いたことを覚えています。
あーどうしてこんなに兎唇が生まれるんかしらと思いました。
すぐ近所でございましたが、二軒に同じように耳のない子が生まれました。
その1人の赤ちゃんのおばあさんは、産婦人科の看護部長をしておられました。
奇形が生まれたということで、すぐに病院に電話をされたれしいですが、
先生が来られたあくる朝、赤ちゃんは逝きましたからね。
もう一軒は可愛い女の子でございましたが、
おばあちゃんは「火葬場に持って行くまでは、泣きだしはしませんから。」と言っておられました。
これは薬を使ったんだなと私は思いました。
もちろん、家族は何も言いませんし、私も 聞きもしませんでした。元気な子でしたがね。
そのおばあちゃんは生涯悩まれたそうです。可愛い子だったですからね。
髪の毛でね、こうやって耳を隠していれば判りはしませんのにね。
耳がないんです。ツルッとしておりました、片方だけ 。
それから、内蔵露出で、グルグルと腸が出ておりまして、思い出してもひどいヘルニアだったんですね。
大学病院で手術をしてもらい、それはどうにか助かりました。
まだそれから、鎖肛、これはたくさんありました。
それから無脳症ですね。
終戦直後ではないから、2〜3年後だと思います。母親は30代でした。
どうしても頭の位置がわかりませんのよ。上の方にあるのは確かに臀部だがと思いましても、
頭部に触れませんのよ。おかしいなと、みよりましたら、無脳症でございました。
氷を氷袋の中にいれて下げたらザラザラしますように、頭蓋骨がぜんぜん固まっていない子でした。
(以下、略)
−−−−−−−引用ここまで−−−−−−−−−−−−−−
どーやら、ここでした。
本文に不正な書式が含まれています。
リンク先のURLだな、不正な書式とやらはw
広島の助産婦の証言 〜原爆による奇形〜リンク
( _____________________________________ )
ヘブライの館
☆「原爆ホロコースト」の実態
〜 「原爆」と「冷戦」の舞台裏 〜
ここですよw
ホロコーストは「焼き殺す」という意味を持つが、
壊滅寸前の日本に対する“炎の絶滅兵器”の使用は、
まさに「原爆ホロコースト」と呼ぶにふさわしい
アメリカが犯した戦争犯罪であった…
最初に断っておくが、当館(ヘブライの館)は、ユダヤ研究をメインにしているので、
今回、原爆の問題を扱う際にも、ユダヤに関する考察が多くなっている。
そのため、ここで紹介される原爆とユダヤのつながりに、
少なからずの抵抗(とまどい)を感じる人もいるだろうが、
原爆の問題を別の角度から考えるいい機会だと思って読んでほしい。
また当館は、「原爆の責任は全てユダヤ人にある」と主張するつもりはない。
Googleで検索されたし、すぐみつかりますよw 「原爆ホロコーストの実態」で。
何なんだろうね? 姑息よなぁ。
これなど、偽ユダヤどもが嫌がるわなぁw
■■第9章:原爆投下を肯定する在米ユダヤ人組織「SWC」
●「サイモン・ヴィーゼンタール・センター(SWC)」というユダヤ人組織がある。
以下ご参照あれ!