http://www.asyura2.com/11/genpatu15/msg/396.html
投稿者: あっしら 日時: 2011 年 8 月 09 日 Mo7ApAlflbQ6s
◎国の支配層によって三たびも“核の人体実験”に投げ込まれた日本国民:
NHK「原爆投下 活かされなかった情報」
より抜粋、
1945年夏に“核”をめぐって「活かされなかった情報」は、
2011年春に起きた福島第一の原発事故で、
SPEEDIをはじめとする放射性物質の漏出・拡散に関する情報が秘匿され、
その情報を知ったうえで住民に対応しているはずの政府や自治体が、
被曝を減らすような避難誘導や広域住民の被曝を少なくする防護策に
活かすことさえしなかった現在の現実に直結する。
日本国民は、この66年間に三たび、自分たちの支配層から
“核の人体実験”に投げ込まれるという想像を絶する酷い仕打ちを受けたのである。
■ 番組内容でみる原爆投下に「活かされなかった情報」の経緯
昭和19年7月のサイパン陥落(テニアンは8月陥落)後、
日本のほぼ全土が長距離爆撃機B29の出撃範囲に入った。
(サイパン陥落が東条退陣の契機となる)
昭和20年3月15日の東京大空襲から日本各地で無差別爆撃が繰り返されるようになった。
この事態に対処するため、参謀本部2部(情報)は杉並区内にあった古い洋館の老人ホームに
「陸軍特種情報部」を置き無線傍受を中心とした対米諜報任務を強化した。
B29のモールス信号を傍受するのが任務で、暗号部分はわからないままだったが、
徐々にグアム、サイパン、テニアンを基地にしているB29飛行部隊の概要を知るようになる。
それは、平文で出されるコールサインの分析によるもので、どの島から何機出撃したのか、
日本での行き先はどこなのかも推測できるようになった。
[コールサイン分類]
● V400番台:サイパン
● V500番台:グアム
● V700番台:テニアン
6月になると、テニアンを発信元として、
これまで聞いたことがないV600番台のコールサインを傍受するようになった。
参謀本部2部で対米諜報活動の責任者で「特種情報部」も統括していた堀 栄三少佐は、
16年前に死ぬまで原爆投下を防げなかったことを悔やんでいたという。
そして、死ぬ2、3年前に、肉声でことのいきさつをテープに吹き込んでいた。
「600番台のコールサインを持つ正体不明の部隊は、番号を丹念に拾っていくと
12〜13機ほどしかいない。他の戦隊は100機以上あったのに、
これはおかしい小さすぎると思った。それが契機となり、
その小さな部隊を「特殊任務機」と命名し、動向を探るため通信部隊を増強した」
7月16日:米国がニューメキシコ州でプルトニウム型原爆の実験に成功し、
その情報は断片的に参謀本部に入っていたが原爆だと認めるものは誰もいなかったという。
(陸軍は、6月の原爆開発断念の根拠から米国が開発できたことを認めるわけにはいかない。
テニアンには、広島に投下されるウラン型原爆リトルボーイが7月初旬に運び込まれている。
7月16日のプルトニウム型原爆の実験が行われる前にすでに原爆は存在していたのである。
これはドイツが製造した原爆が運び込まれたものと推定している。)
8月6日午前3時:陸軍特種情報部がV600番台のコールサインを傍受。
「特殊任務機」が日本に向かっていることを確認。
堀少佐談:「8月6日V600番台のコールサインが短い電波を出した。
その電波はワシントン向けだった。それでもこちらはまだわからない。
どういう電波やら中身は全然わからない。
硫黄島の米軍基地に無線電話で『我ら目標に進行中』と話している」
8月6日未明から広島周囲の西宮・今治・宇部がB29に空襲された。
(米国は、原爆の威力をできるだけきちんと知りたいと考え、
原爆の標的と考えていた都市を爆撃しないようにしてきた。
標的とした都市は、広島・小倉・長崎である)
8月6日午前7時過ぎ:1機のB29が気象偵察のため進入。
堀少佐談:「午前7時20分ごろ、豊後水道から広島に入ってきた飛行機がある。B29です。
豊後水道から来た飛行機が電波を出したら、それはだいたい気象偵察だった」
(公開されている米軍の原爆投下作戦命令書にも、まず気象偵察、
V675のコールサインを出してエノラゲイに指示すると書かれている)
堀少佐談:「これが広島の上空を通って、また短い電波を出した。これがやっぱり600番台。
これはただごとじゃない。これは特殊任務機が近づいてきたとわかったわけですね」
しかし、この情報が、参謀本部から広島の司令部に伝えられることはなかった。
広島の司令部は、「特殊任務機」が飛来している真っ只中に警戒態勢を解除した。
(未明からの連続空襲で疲労もしていたという)
午前8時頃:広島の空襲警報解除。
陸軍特種情報部の少尉だった長谷川良治さん(88)は、B29の情報を集める担当だったが、
広島原爆投下のあと、自分たちが上げた情報が活かされなかったことで悔しがる上官の姿を見ていた。
長谷川さんは、「上官は、自分の意見を聞いてもらえなかった、残念だ
という顔がありありと見えていました。これだけ日本が攻められているのに、
判断が鈍いということかわからないけど、参謀本部の他の方々には通じなかった」と、
上官の様子を語った。
8月7日:陸軍は広島壊滅の報を受けても、それが原子爆弾だとは他の組織には認めようとしなかった。
東郷外相が事実確認を迫ったが、陸軍は、米国は原子爆弾とか言っているけれど、
非常に力の強い普通の爆弾と思われると説明したという。
ところが、参謀本部は内部では原子爆弾だと認めていた。
8月8日:杉並の陸軍特種情報部の中庭で、参謀本部による表彰式が行われ、
原爆機のコールサインを突き止めた功績が認められた。
参謀本部の人間は、V600番台のコールサインを出したB29は原子爆弾を積んでいたとし、
「これがもっとも恐ろしい原子爆弾を積んでいる飛行機だ」と説明したという。
8月9日未明:再びV600番台(675)のコールサインを傍受。
それを傍受していた特種情報部の中尉だった太田新生さん(90)が語る。
「広島に原爆を落としたB29が使っていた特別な電波と同じ電波を使って、
テニアンの飛行場から、通信内容はわからないけど電波が出されたとき、普通ではないと感じて
非常な不安を感じた。同じものが、近く、どこだかわからないけれど、
数時間後に日本国内のどこかに落とされる危険大・・・」
8月9日午前9時:長崎に原爆を投下するボックスカーが九州に接近。
豊後水道から小倉に向かったが視界が悪かったため、島原半島を横断して長崎に向かった。
このような情報が陸軍中枢にも伝わっていた事実が防衛省防衛研究所戦史部で見つかったという。
当時の参謀総長・梅津 美治郎に情報を伝える側近だった井上 忠男中佐の「備忘録」に、
「特殊爆弾 V675 通信上、事前に察知 長崎爆撃5時間前」という走り書きがあった。
※ 梅津氏は極東軍事裁判で終身刑を受け獄中死。1978年に靖国神社に合祀。
8月9日:ソ連参戦もわかったこの日、朝から「最高戦争指導者会議」が宮中で開かれ、
ポツダム宣言受諾の可否をめぐって議論が行われていた。
6月9日午前11時2分:空襲警報も発令されないままの長崎に原爆投下
特種情報部の中尉だった太田さんは、その事実に、
「なぜ、活かされなかったのか納得できないよ。惜しいったらありゃしない。
分かっていたんだから、何か努力してくれていたら、だめだったとあきらめられるかもしれないけど、
(情報)を全然使った形跡がないからよけい悔しいです」と憤慨していた。
広島の原爆投下に関して貴重な証言を残していた参謀本部2部の堀少佐は、
長崎原爆投下に関しては寡黙を通し、手帳に次のようなメモを残しているだけだという。
「コールサインを8月9日も同様にキャッチしたが処置なし。あとの祭りとなる」
※ 広島原爆投下に関する証言者の話
広島で爆心地からわずか700mで原爆を体験しながら無事だった岡ヨシエさんは、
学徒動員で広島城に置かれていた中国地方軍司令部で手伝いをしていて、
コンクリートで遮蔽された壕のなかにいたことで助かったという。
岡さんは、「あのとき、空襲警報さえ出ていればと、今も悔やんでいる。
警報が早めに出ていて地下壕や防空壕に入っていたら、あれほどたくさんの人が死なずにすんだ
ではなかったのか、たくさんの人が助かったのではと思った」と語った。
自分が地下壕にいたとき、同級生60名は、近くの広場での朝礼に出ていて全員死亡したという。
岡さんは、「同級生の看病をしていたとき、母親があまりのむごさに、
ほんとに変わり果てた我が娘を抱いて泣かれたんですけど、そのとき、
『お母さん泣かないで、私はお国のお役に立って死んでいくのですから』と言いながら
焼けただれた顔で、それでも、安らかな顔で死んでいった」と語った。
Gataroさんが、「原爆投下 活(い)かされなかった極秘情報」
(http://www.asyura2.com/10/warb7/msg/843.html)に、番組内容をアップされているので、
放送をご覧になっていないかたは是非ともご覧いただきたい。
投稿者: あっしら 日時: 2011 年 8 月 09 日 Mo7ApAlflbQ6s
◎国の支配層によって三たびも“核の人体実験”に投げ込まれた日本国民:
NHK「原爆投下 活かされなかった情報」
より抜粋、
1945年夏に“核”をめぐって「活かされなかった情報」は、
2011年春に起きた福島第一の原発事故で、
SPEEDIをはじめとする放射性物質の漏出・拡散に関する情報が秘匿され、
その情報を知ったうえで住民に対応しているはずの政府や自治体が、
被曝を減らすような避難誘導や広域住民の被曝を少なくする防護策に
活かすことさえしなかった現在の現実に直結する。
日本国民は、この66年間に三たび、自分たちの支配層から
“核の人体実験”に投げ込まれるという想像を絶する酷い仕打ちを受けたのである。
■ 番組内容でみる原爆投下に「活かされなかった情報」の経緯
昭和19年7月のサイパン陥落(テニアンは8月陥落)後、
日本のほぼ全土が長距離爆撃機B29の出撃範囲に入った。
(サイパン陥落が東条退陣の契機となる)
昭和20年3月15日の東京大空襲から日本各地で無差別爆撃が繰り返されるようになった。
この事態に対処するため、参謀本部2部(情報)は杉並区内にあった古い洋館の老人ホームに
「陸軍特種情報部」を置き無線傍受を中心とした対米諜報任務を強化した。
B29のモールス信号を傍受するのが任務で、暗号部分はわからないままだったが、
徐々にグアム、サイパン、テニアンを基地にしているB29飛行部隊の概要を知るようになる。
それは、平文で出されるコールサインの分析によるもので、どの島から何機出撃したのか、
日本での行き先はどこなのかも推測できるようになった。
[コールサイン分類]
● V400番台:サイパン
● V500番台:グアム
● V700番台:テニアン
6月になると、テニアンを発信元として、
これまで聞いたことがないV600番台のコールサインを傍受するようになった。
参謀本部2部で対米諜報活動の責任者で「特種情報部」も統括していた堀 栄三少佐は、
16年前に死ぬまで原爆投下を防げなかったことを悔やんでいたという。
そして、死ぬ2、3年前に、肉声でことのいきさつをテープに吹き込んでいた。
「600番台のコールサインを持つ正体不明の部隊は、番号を丹念に拾っていくと
12〜13機ほどしかいない。他の戦隊は100機以上あったのに、
これはおかしい小さすぎると思った。それが契機となり、
その小さな部隊を「特殊任務機」と命名し、動向を探るため通信部隊を増強した」
7月16日:米国がニューメキシコ州でプルトニウム型原爆の実験に成功し、
その情報は断片的に参謀本部に入っていたが原爆だと認めるものは誰もいなかったという。
(陸軍は、6月の原爆開発断念の根拠から米国が開発できたことを認めるわけにはいかない。
テニアンには、広島に投下されるウラン型原爆リトルボーイが7月初旬に運び込まれている。
7月16日のプルトニウム型原爆の実験が行われる前にすでに原爆は存在していたのである。
これはドイツが製造した原爆が運び込まれたものと推定している。)
8月6日午前3時:陸軍特種情報部がV600番台のコールサインを傍受。
「特殊任務機」が日本に向かっていることを確認。
堀少佐談:「8月6日V600番台のコールサインが短い電波を出した。
その電波はワシントン向けだった。それでもこちらはまだわからない。
どういう電波やら中身は全然わからない。
硫黄島の米軍基地に無線電話で『我ら目標に進行中』と話している」
8月6日未明から広島周囲の西宮・今治・宇部がB29に空襲された。
(米国は、原爆の威力をできるだけきちんと知りたいと考え、
原爆の標的と考えていた都市を爆撃しないようにしてきた。
標的とした都市は、広島・小倉・長崎である)
8月6日午前7時過ぎ:1機のB29が気象偵察のため進入。
堀少佐談:「午前7時20分ごろ、豊後水道から広島に入ってきた飛行機がある。B29です。
豊後水道から来た飛行機が電波を出したら、それはだいたい気象偵察だった」
(公開されている米軍の原爆投下作戦命令書にも、まず気象偵察、
V675のコールサインを出してエノラゲイに指示すると書かれている)
堀少佐談:「これが広島の上空を通って、また短い電波を出した。これがやっぱり600番台。
これはただごとじゃない。これは特殊任務機が近づいてきたとわかったわけですね」
しかし、この情報が、参謀本部から広島の司令部に伝えられることはなかった。
広島の司令部は、「特殊任務機」が飛来している真っ只中に警戒態勢を解除した。
(未明からの連続空襲で疲労もしていたという)
午前8時頃:広島の空襲警報解除。
陸軍特種情報部の少尉だった長谷川良治さん(88)は、B29の情報を集める担当だったが、
広島原爆投下のあと、自分たちが上げた情報が活かされなかったことで悔しがる上官の姿を見ていた。
長谷川さんは、「上官は、自分の意見を聞いてもらえなかった、残念だ
という顔がありありと見えていました。これだけ日本が攻められているのに、
判断が鈍いということかわからないけど、参謀本部の他の方々には通じなかった」と、
上官の様子を語った。
8月7日:陸軍は広島壊滅の報を受けても、それが原子爆弾だとは他の組織には認めようとしなかった。
東郷外相が事実確認を迫ったが、陸軍は、米国は原子爆弾とか言っているけれど、
非常に力の強い普通の爆弾と思われると説明したという。
ところが、参謀本部は内部では原子爆弾だと認めていた。
8月8日:杉並の陸軍特種情報部の中庭で、参謀本部による表彰式が行われ、
原爆機のコールサインを突き止めた功績が認められた。
参謀本部の人間は、V600番台のコールサインを出したB29は原子爆弾を積んでいたとし、
「これがもっとも恐ろしい原子爆弾を積んでいる飛行機だ」と説明したという。
8月9日未明:再びV600番台(675)のコールサインを傍受。
それを傍受していた特種情報部の中尉だった太田新生さん(90)が語る。
「広島に原爆を落としたB29が使っていた特別な電波と同じ電波を使って、
テニアンの飛行場から、通信内容はわからないけど電波が出されたとき、普通ではないと感じて
非常な不安を感じた。同じものが、近く、どこだかわからないけれど、
数時間後に日本国内のどこかに落とされる危険大・・・」
8月9日午前9時:長崎に原爆を投下するボックスカーが九州に接近。
豊後水道から小倉に向かったが視界が悪かったため、島原半島を横断して長崎に向かった。
このような情報が陸軍中枢にも伝わっていた事実が防衛省防衛研究所戦史部で見つかったという。
当時の参謀総長・梅津 美治郎に情報を伝える側近だった井上 忠男中佐の「備忘録」に、
「特殊爆弾 V675 通信上、事前に察知 長崎爆撃5時間前」という走り書きがあった。
※ 梅津氏は極東軍事裁判で終身刑を受け獄中死。1978年に靖国神社に合祀。
8月9日:ソ連参戦もわかったこの日、朝から「最高戦争指導者会議」が宮中で開かれ、
ポツダム宣言受諾の可否をめぐって議論が行われていた。
6月9日午前11時2分:空襲警報も発令されないままの長崎に原爆投下
特種情報部の中尉だった太田さんは、その事実に、
「なぜ、活かされなかったのか納得できないよ。惜しいったらありゃしない。
分かっていたんだから、何か努力してくれていたら、だめだったとあきらめられるかもしれないけど、
(情報)を全然使った形跡がないからよけい悔しいです」と憤慨していた。
広島の原爆投下に関して貴重な証言を残していた参謀本部2部の堀少佐は、
長崎原爆投下に関しては寡黙を通し、手帳に次のようなメモを残しているだけだという。
「コールサインを8月9日も同様にキャッチしたが処置なし。あとの祭りとなる」
※ 広島原爆投下に関する証言者の話
広島で爆心地からわずか700mで原爆を体験しながら無事だった岡ヨシエさんは、
学徒動員で広島城に置かれていた中国地方軍司令部で手伝いをしていて、
コンクリートで遮蔽された壕のなかにいたことで助かったという。
岡さんは、「あのとき、空襲警報さえ出ていればと、今も悔やんでいる。
警報が早めに出ていて地下壕や防空壕に入っていたら、あれほどたくさんの人が死なずにすんだ
ではなかったのか、たくさんの人が助かったのではと思った」と語った。
自分が地下壕にいたとき、同級生60名は、近くの広場での朝礼に出ていて全員死亡したという。
岡さんは、「同級生の看病をしていたとき、母親があまりのむごさに、
ほんとに変わり果てた我が娘を抱いて泣かれたんですけど、そのとき、
『お母さん泣かないで、私はお国のお役に立って死んでいくのですから』と言いながら
焼けただれた顔で、それでも、安らかな顔で死んでいった」と語った。
Gataroさんが、「原爆投下 活(い)かされなかった極秘情報」
(http://www.asyura2.com/10/warb7/msg/843.html)に、番組内容をアップされているので、
放送をご覧になっていないかたは是非ともご覧いただきたい。