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遅ひ花?

 画は David Mellon

 Born: New Orleans 1955
 Currently residing: The Village Green, Los Angeles 
 http://davidmellon.com/                   作


  「Village_green 1&2」です。(合成しました)


☆晴れ、朝ヒンヤリですが午後から気温上昇とか?

やっと開花となるか。

これぞ奴隷化作戦、愚劣極まる、何度も書いておりますが、

◆http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/minzokunosebonenukueigodukekyouiku.html
長周新聞 2013年5月3日付
  

        民族の背骨抜く英語漬け教育

         日本人民の歴史継承する時

         母国語使わせぬ授業拡大


小学校で5、6年の英語が必修となり、
中学校では3年間の英語の授業時間が国語を上回るようになったのに続いて、
今年4月からは高校で「英語の授業はすべて英語でおこなう」という方針が実行され始めた。

大学でも同様に授業を英語でおこなう方向がうち出され、安倍自民党の教育再生実行本部は、
米国の英語力試験TOEFLを大学入試の受験資格にすることを提言した。
安倍政府のもとで、日本の国でありながら英語の時間に日本語を話すことができず、
それによって大幅な学力低下すら心配しなければならないという、バカげたことが起こっている。

これに対して、学校現場からも親や戦争体験世代からも、
もっとまともな教育をせよとの声が噴出している。
英語教育については、とくに戦争体験世代から「日本語もまともに話せないのに、なぜ英語教育か」
という強い批判がある。それは、日本の将来の担い手たちが立派に成長することへの期待からであり、
また、アメリカは優れており日本は劣っているという民族的劣等意識がつぎこまれることへの危惧(ぐ)
からである。かわいい孫たちが、言葉も気持ちも通じないアメリカナイズした大人になることなど、
想像するだけでも我慢できないことである。 ところが今の学校はどうなっているか。


☆5、6年は必修科目に 小 学 校

小学校では2009年度から、5・6年生の外国語活動(英語)が
週1時間・年間35時間の必修科目となった。
授業の様子を聞くと、まず「ハーイ!」の挨拶から始まり、
「How are you?(ご機嫌いかがですか)」「I am fine(元気です)」
「Nice to meet you(よろしく)」というのがパターン化している。

その後、英語でビンゴゲームやチャンツ(英語の音楽に合わせたダンス)をしたり、
色や時間、数字や果物のいい方をいいあったり、友だちに「誕生日はいつですか?」と
英語で質問したりと、「スピーキング重視」「考えさせるのではなく慣れさせる」とされている。

スペルを覚えたり、文法を学習することはなく、日常会話をゲーム感覚で身につけるとされている。
「桃太郎」や「花さかじいさん」などの日本むかし話の英語版を聞くところもある。
英語のテストもなく、点数も評価もない。
「子どもたちにとってはある意味、週に一度、頭を使わなくてもいい息抜きの時間のようになっている。
ゲームが中心で乗ってくる子はいいが、そうでない子もいる。英語的感覚を身体に染み込ませている感じだ」
という。
教師にとっては、高学年になっても九九や漢字のわからない子どもが多く、
学力面でも生活面でも真剣な指導にあたっている最中に、
その時間だけ「ハーイ!」とテンションを高めて臨むことは難しい。

英語は週一時間とされているが、まるで子どもの実際にあわないので、
他の授業にあてたり、運動会の練習時間などにしている。
「子どもにとってやるべきことはまだ他にある」と教師間で話しあいながら進めている。


☆国語の授業数を上回る 中 学 校

そして小学校時代にゲーム感覚で英語にふれてきた子どもたちは、
中学校で正式にアルファベットを習い、文法を習う。
中学校の教師は、「小学校では遊び感覚で英語に触れてきた子どもたちに、
中学校に入ってからアルファベットをひたすら書かせているが、子どもたちは違和感を感じているようだ」
「中学校になって突然文法が出てきて、英語嫌いが増えるのではないか」
「好きな子と嫌いな子の格差が広がる」といっている。

中学校では、昨年から3年間の英語の授業時間数が国語の授業時間数を上回った。
これまで週3時間だった英語の授業が、週4時間となった。
重視されているのが「コミュニケーション能力の基礎を育成する」ことで、
増えた時間数は「話す、聞く」活動に使われている。

ある高校教師は、「中学校で“話す英語”が重視されているが、生活と関係なくやっているので身についていない。
高校に入ってくる生徒をみると、英語が読めない子が多いのに驚く。
英和辞典をひけないし、英語の成り立ちやスペルが覚えられない。

会話重視といっても、伝えたいことを日本語で思考する力がなければ、英語が話せても中身がない。
問題は、日本人として話す中身を持てるようにどう育てるかだ。なにか転倒している」と話している。


☆英語での英語授業開始 高校は4月から

高校では今年4月から、進学校や実業高校に関係なくすべての高校で
「英語の授業は英語でおこなうのを基本とする」とされた。それを1年生から始めている。

しかし下関の高校で実情を聞くと、日本語を使わずに授業を進めることは無理であり、
これまで通りの英語の授業をおこなっているところが多い。それは生徒が理解できないからである。

英文法を英語で教えるとなると、
「主語」「述語」「代名詞」などの新しい英単語を教えることから始めなければならないし、
英文の読解というのは日本語に訳して理解することだが、
それを英語で理解するということになると、何が何だかわからなくなるからである。

高校の教師のなかでは「英語の授業を英語で教えれば英語力がつくとは思わない。
逆に理論的思考は低下するだろう」と話されている。

ある英語教師は「数学の先生が、“数学の問題を解くのも必要なのはまず国語力だ”といっていた。
英文を理解するにも、日本語を知らなければそれは理解できない。
どれだけの母国語を知っているかで英語の理解力も変わる。
“話せる英語” “英語で授業”といっているが、英語の知識は深まらないし、
国語の軽視が英語の力も潰すことにつながっている」と語っている。


☆英語での講義増を計画 大 学 で も

大学にも、英語で授業をおこなう方向が持ち込まれている。
京都大学では、文科省の補助金を受けた「国際高等教育院」構想のなかで、
「教養科目の半数以上を英語で講義する」「5年間で外国人教員100人を雇用する」ということが、
『朝日』『日経』紙上で突如として発表された。

これに対して京大の人間・環境学研究科教員有志の会は3月14日、
「この計画は、大部分の学生の学力低下を招き、今後、京大のレベルは著しく落ちることになる」
「あたかも植民地政策を思わせるような状況を強制することに反対する」として声明を出した。

声明は、

「学問の基礎となるのは論理的で強靭な思考力であり、
そのような基礎力は教養教育においてこそ培われるものであって……
こうした思考力を育むうえで、母語は最も貴重な言語である。
教養科目の半分以上を英語でおこなうことは、母国語の使用を規制することを意味し、
英語の学力向上に役立つというよりも、学生の知性・精神面を劣化させる害の方が大きい。
母語を軽視することは、やがては日本文化の衰退につながり、
社会に対する大学としての責務を果たせなくなるであろう」とのべている。

また「英語力さえあれば、即グローバルであるという考えは、あまりにも浅薄である。
教養として英語力を持つのみでは、中身がなければ、グローバルな世界では通用しない。
次世代を担う若者たちに、“英語支配”のイデオロギーを一方的に押しつけるようなことをすれば、
母語よりも英語の方が高級な言語であるかのごとくコンプレックスを抱いたりする危険があり、
真の国際人としての自信を育むうえでかえって妨げとなる」とのべている。


☆民族の子として教育を 植民地化打開へ

しかし、そもそも日本の子ども全員がなぜ英語がしゃべれなければならないのか。
中学校では英語の基礎を学ぶことが重要であり、それ以上に必要な者はそれなりの教育を受ければよい
と専門家もいっている。それなのになぜわざわざ基礎を崩して、遊びのような授業によって愚民化を進めるのか。

それはフィリピンやインド、ケニアなど、かつて米英の植民地であった国の悲惨な状態を想起させる。
それらの国では、母語の発達も日常会話レベルで止まり、英語も中途半端にしか理解できず、
それが貧困による格差とからんで、国として悲劇的な状態が生まれている。
独立した国としての誇りが失われ、他国との対等な関係を結ぶことができなくなっている。

安倍内閣の産業競争力会議のメンバーである竹中平蔵や三木谷浩史らは、
労働分野において解雇規制を緩和し、労働力を流動化して
日本は外国人労働者を受け入れる移民国家になる必要があること、それとセットで重要なのが教育改革で、
小・中・高の英語教育を翻訳英語から実用英語に変え、
大学入試をTOEFLをベースにしたものに変えることを「成長戦略」だと主張している。

もうけ第一で国を捨てるグローバル企業のために ごく一握りのエリートをつくるとともに、
大多数の子どもはますます切り捨て、使い捨ての非正規雇用か、米軍の下請戦争の肉弾にしていくものである。
それを企む者は、子どもたちから日本人としての民族的な背骨を抜いた方が都合がよいと考えている。

これに対して言語学者は、母国語の重要性を強調している。
人間は母語でものを考える。そして言語というのはたんなる道具ではなく、思想・文化そのものであり、
その国が置かれた自然条件や歴史のなかで培われてきた生活様式、ものの感じ方、
その喜びや悲しみの有り様を表現するよりどころである。

子どもたちにはまず、母語の読み書きの力をつけることであり、
母語でしっかりした自分の考えや主張を持つことであり、それが英語で話せるようになることの大前提である。

また、白人のネイティブ・スピーカーとの「会話重視」によって、
考え方、行動様式、価値観から風俗習慣に至るまで、日本人よりもアメリカ人が優れているという「白人崇拝」
「アジア人蔑視」の考え方が子どもたちにつぎ込まれることを批判している。

日本の青少年を民族の子どもとして育てる教育運動を、力強く発展させなければならない。
父祖たちの歴史的経験、とりわけ被爆体験や戦争体験に学ばせ、
原爆投下者を憎み、独立した平和な日本をめざして発言し行動できる人間に育てなければならない。

そのことが、母語が異なる民族とも理解しあい協力しあって、平和な世界を築く基礎になるにちがいない。



正確な意図、分析は、上記記事にある。

日本人の発想ではないのさ、まことにキムチ臭いねぇ、

壺三、竹中、三木谷w などなど、  鮮人部落出身だらけなんだろう。

落ち目の三度笠=アングロサクソン言語に、過剰で無駄なエネルギー注力は壮大な国富蕩尽ですよ。

阿呆らしい。



David Mellon、二枚目、

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「Blue_acid 青い錠剤」です。



「グローバリズム」という名の「薬中ヤクチュウ」ですなぁ、すっかりイカれておる、

◆http://blog.tatsuru.com/
内田樹の研究室 2013.05.08
◎改憲案の「新しさ」


より抜粋、


まず、今日本のみならずグローバルなスケールで起きている地殻変動的な「潮目の変化」
について抑えておきたい。大づかみに言えば、私たちが立ち合っている変動は、
グローバル資本主義という「新しい」経済システムと 
国民国家という「古い」政治システムが利益相反をきたし、
国民国家の統治システムそのものが グローバル資本主義の補完装置に頽落しつつあるプロセスのことである。
その流れの中で、「よりグローバル資本主義に親和的な政治勢力」が財界、官僚、マスメディアに好感され、
政治的実力を増大させている。
自民党の改憲草案はこの時流に適応すべく起草されたものである。それは言い換えると、
この改憲案には国民国家解体のシナリオが
(おそらく起草した人間にも気づかれぬまま)書き込まれているということである。

国民国家という統治システムは政治史的には1648年のウェストファリア条約を起点とする近代の装置である。

国境があり、官僚制度があり、常備軍があり、そこに国籍と帰属意識を持つ「国民」というものがいる。
生誕の日付をもつ制度である以上、いずれ賞味期限が切れる。だが、国民国家は擬制的には「無窮」である。

現に、あらゆる国民国家は自国の「年齢」を多めに詐称する傾向がある。
日本では戦前まで神武天皇の即位を西暦紀元前660年に遡らせていた。
朝鮮の檀君王倹が王朝を開いたのは紀元前2333年とされる。自国の発祥をできる限り遠い過去に求める
のは国民国家に共通する傾向である。
その構えは未来についても変わらない。国民国家はできれば不死のものでありたいと願っている。
中央銀行の発行する紙幣はその国がなくなった日にはゴミになる。
翌日ゴミになることがわかっているものを商品と交換する人はいない。
だから、国がなくなる前日において貨幣は無価値である。
残り日数を十日、二十日と延ばしてみても事情は変わらない。

だから、国民国家の財政は「いずれ寿命が来る」という事実を隠蔽することによって成立している。

これに対して企業は自己の寿命についてそれほど幻想的ではない。
統計が教えるところでは、株式会社の平均寿命は日本で7年、アメリカで5年である
(この数字は今後にさらに短縮されるだろう)。
グーグルにしても、アップルにしても、マイクロソフトにしても、それらの企業が
今から10年後にまだ存在しているかどうか、確かな見通しを語れる人はいない。けれども、
そんなことは企業経営者や株主にとっては「どうでもいいこと」である。
企業が永続的な組織であるかどうかということは投資家にとっては副次的なことに過ぎない。

「短期的な利益を追い求めたことで 長期的には国益を損なうリスクのあること」
に私たちはふつう手を出さないが、この場合の「長期的・短期的」という判定を
実は私たちは自分の生物としての寿命を基準に下している。

私たちは「国益」を考えるときには、せめて孫の代まで、三世代百年は視野に収めてそれを衡量している。
「国家百年の計」という言葉はその消息をよく伝えている。

だが、寿命5年の株式会社にとっては「5年の計」が最大限度であり、
それ以上先の「長期的利益」は損益計算の対象外である。

工場が排出する有害物質が長期的には環境に致命的な影響を与えると聞いても、
その工場の稼働によって短期的に大きな収益が上げることが見通せるなら企業は環境汚染をためらわない。
それは企業にとっては全く合理的なふるまいなのである。
そして、これを倫理的に断罪することは私たちにはできないのである。なぜなら、
私たちもまた「こんなことを続けると1000年後には環境に破滅的な影響が出る」と言われても、
そんな先のことは気にしないからである。

グローバル資本主義は「寿命が5年の生物」として ことの適否を判定する。
国民国家は「寿命100年以上の生物」を基準にして判定する。 それだけの違いである。


寿命を異にするだけではない。企業と国家のふるまいは、機動性の違いとして端的に現れる。
グローバル企業はボーダーレスな活動体であり、自己利益を最大化するチャンスを求めて、
いつでも、どこへでも移動する。得物を追い求める肉食獣のように、営巣地を変え、狩り場を変える。

一方、国民国家は宿命的に土地に縛り付けられ、国民を背負い込んでいる。
国家制度は「その場所から移動することができないもの」たちをデフォルトとして、
彼らを養い、支え、護るために設計されている。

ボーダーレスに移動を繰り返す機動性の高い個体にとって、国境を越えるごとに
度量衡が言語が変わり、通貨が変わり、度量衡が変わり、法律が変わる国民国家の存在は
きわめて不快なバリアーでしかない。

できることなら、国境を廃し、言語を統一し、度量衡を統一し、通貨を統合し、法律を統一し、
全世界を商品と資本と人と情報が超高速で行き交うフラットな市場に変えたい。
彼らはつよくそう望んでいる。

このような状況下で、機動性の有無は単なる生活習慣や属性の差にとどまらず、
ほとんど生物種として違うものを作り出しつつある。
戦争が始まっても、自家用ジェットで逃げ出せる人間は生き延びるが、
国境まで徒歩で歩かなければならない人間は殺される。
中央銀行が破綻し、国債が暴落するときも、機動性の高い個体は海外の銀行に預けた外貨をおろし、
海外に買い整えておいた家に住み、かねての知友と海外でビジネスを続けることができる。
祖国滅亡さえ機動性の高い個体群にはさしたる金銭上の損害も心理的な喪失感ももたらさない。

そして、今、どの国でも支配層は「機動性の高い個体群」によって占められている。
だから、この利益相反は前景化してこない。
奇妙な話だが、「国が滅びても困らない人間たち」が国政の舵を任されているのである。

いわば「操船に失敗したせいで船が沈むときにも
自分だけは上空に手配しておいたヘリコプターで脱出できる船長」が船を操舵しているのに似ている。
そういう手際のいい人間でなければ指導層に入り込めないように
プロモーション・システムそのものが作り込まれているのである。
とりわけマスメディアは「機動性が高い」という能力に過剰なプラス価値を賦与する傾向にあるので、
機動性の多寡が国家内部の深刻な対立要因になっているという事実そのものをメディアは決して主題化しない。

スタンドアロンで生き、機動性の高い「強い」個体群と、
多くの「扶養家族」を抱え、先行きのことを心配しなければならない「弱い」個体群の分離と対立、
それが私たちの眼前で進行中の歴史的状況である。



David Mellon、三枚目、

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「Butterfly 蝶」です。



ここでようやく改憲の話になる。

現在の安倍自民党はかつての55年体制のときの自民党と(党名が同じだけで)もはや全くの別物である。
かつての自民党は「国民国家内部的」な政党であり、手段の適否は措いて、
日本列島から出られない同胞たちを「どうやって食べさせるか」という政策課題に愚直に取り組んでいた。
池田内閣の高度経済成長政策を立案したエコノミスト下村治は
かつて「国民経済」という言葉をこう定義してみせたことがある。


「本当の意味での国民経済とは何であろう。それは、日本で言うと、この日本列島で生活している一億二千万人が、
どうやって食べどうやって生きて行くかという問題である。この一億二千万人は
日本列島で生活するという運命から逃れることはできない。そういう前提で生きている。
中には外国に脱出する者があっても、それは例外的である。全員がこの四つの島で生涯を過ごす運命にある。
その一億二千万人が、どうやって雇用を確保し、所得水準を上げ、生活の安定を享受するか、これが国民経済である。」
(下村治、『日本は悪くない 悪いのはアメリカだ』、文春文庫、2009年、95頁)


いまの自民党議員たちの過半はこの国民経済定義にはもはや同意しないだろう。
「外国に脱出するもの」をもはや現政権は「例外的」とは考えていないからである。
今日の「期待される人間像」であるところの「グローバル人材」とは、
「日本列島以外のところで生涯を過ごす」ことも社命なら従うと
誓言した代償に内定をもらった若者のことだからである。

もう今、「この四つの島から出られないほどに機動性の低い弱い日本人」を扶養したり、
保護したりすることは「日本列島でないところでも生きていける強い日本人」にとっては
もはや義務としては観念されていない。むしろ、
「弱い日本人」は「強い日本人」がさらに自由かつ効率的に活動できるように
持てるものを差し出すべきだとされる。国民資源は「強い日本人」に集中しなければならない。
彼らが国際競争に勝ち残りさえすれば、そこからの「トリクルダウン」の余沢が
「弱い日本人」にも多少は分配されるかも知れないのだから。

改憲案はこの「弱い日本人」についての「どうやって強者に奉仕するのか」を定めた命令である。

人権の尊重を求めず、資源分配に口出しせず、医療や教育の経費は自己負担し、社会福祉には頼らず、
劣悪な雇用条件にも耐え、上位者の頥使に従い、一旦緩急あれば義勇公に報じることを厭わないような人間、
それが「弱い日本人」の「強い日本人」に対する奉仕の構えである。
これが安倍自民党が改憲を通じて日本国民に飲み込ませようとしている「新しいルール」である。

少数の上位者に権力・財貨・威信・情報・文化資本が排他的に蓄積される体制を「好ましい」
とする発想そのものについて安倍自民党の考え方は旧来の国民国家の支配層のそれと選ぶところがない。
だが、はっきり変わった点がある。

それは「弱い同胞」を扶養・支援する「無駄なコスト」を最少化し、
「すでに優位にあるもの」がより有利になるように社会的資源を傾斜配分することを
確信犯的にめざしているということである。

自民党の改憲案を「復古」とみなす護憲派の人たちがいるが、それは違うと私は思う。
この改憲案は「新しい」。
それはTPPによる貿易障壁の廃絶、英語の準公用語化、解雇条件の緩和などの
一連の安倍自民党の政策と平仄が合っている。

一言で言えば、改憲を「旗艦」とする自民党政策のねらいは
社会の「機動化」(mobilization)である。
国民の政治的統合とか、国富の増大とか、国民文化の洗練とかいう、
聞き飽きた種類の惰性的な国家目標をもう掲げていない。
改憲の目標は「強い日本人」たちのそのつどの要請に従って即時に自在に改変できるような
「可塑的で流動的な国家システム」の構築である
(変幻自在な国家システムについて「構築」という語はあまりに不適当だが)。

国家システムを「基礎づける」とか「うち固める」とかをめざした政治運動は
これまでも左右を問わず存在したが、
国家システムを「機動化する」、「ゲル化する」、「不定形化する」ことによって、
個別グローバル企業のそのつどの利益追求に迅速に対応できる「国づくり」
(というよりはむしろ「国こわし」)をめざした政治運動はたぶん政治史上はじめて出現したものである。

そして、安倍自民党の改憲案の起草者たちは、彼らが実は
政治史上画期的な文言を書き連ねていたことに気づいていない。

予備的考察ばかりで紙数が尽きかけているが、改憲草案のうち、
典型的に「国こわし」の志向が露出している箇所をいくつか示しておきたい。

一つは九条「平和主義」と九条二項「国防軍」である。

現行憲法の平和主義を放棄して、「したいときにいつでも戦争ができる国」に衣替えする
ことをめざしていることは改憲派の悲願であった。
現行憲法下でも、自衛力の保持と個別的自衛権の発動は主権国家としては当然の権利である
と国民の大多数は考えている。だが、改憲派は「それでは足りない」と言う。
アメリカの指揮で、もっと頻繁に戦争に参加するチャンスに恵まれたいと考えているからである。

国民を危険にさらし、国富を蕩尽し、国際社会に有形無形の敵をつくり、
高い確率で国内でのテロリズムを招き寄せるような政策が
68年の平和と繁栄を基礎づけた平和憲法よりも「望ましい」と判断する根拠はなにか。

改憲派はそれを「国際社会から侮られてきた」屈辱の経験によって説明する。
「戦争ができる国」になれば、このいわれなき侮りはかき消え、
国際社会からは深い敬意が示されるだろうと予測しているようだが、
これまで日本が軍事的コミットメントをためらうことを不満に思い、
しばしば侮言を浴びせてきたのは「国際社会」ではなく、端的にアメリカである。
ヨーロッパにもアジアにも、日本の戦争へのコミットメントが自由化することを歓迎する国はひとつとして存在しない。
改憲派が仮想敵国とみなしている中国や北朝鮮はまさに平和憲法の「おかげで」
軍事的反撃のリスクなしに日本を挑発できているわけで、九条二項はいわば彼らの「命綱」である。
日本がそれを廃絶したときに彼らが日本に抱く不信と疑惑がどれほどのものか。
改憲派はそれも含めて九条二項の廃絶が「諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する」ことだ
と考えているようだが、私にはその理路がまったく理解できない。

「アメリカとの友好関係を増進し、アメリカの平和と繁栄に貢献する」ことを
日本の存在理由とするというのが改憲の趣旨であるというならよくわかるが。

もう一つは13条。現行憲法の13条はこういう文言である。

「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求権に対する国民の権利については、
公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

自民党改憲案はこうだ。
「全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求権に対する国民の権利については、
公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大に尊重されなければならない。」

自民党案は「公共の福祉」というわかりにくい語を「公益及び公の秩序」というわかりやすい語に置き換えた。

「公共の福祉」は基本的人権を制約することのできる唯一の法的根拠であるから、
それが「何を」意味するのかは憲法学上の最大の問題であり、現にいまだ一意的な定義を得ていない。

「公共の福祉」の語源は古くキケロに遡る。
「民の安寧は最高の法たるべし(salus populi suprema lex esto)」。

salus populiを英語はpublic welfareと訳し、日本語は「公共の福祉」と訳した。

あらゆる法治国家において、すべての法律・制度・政策の適否はそれが「民の安寧」に資するかどうか、
それを基準に判定されねばならない。これは統治について久しく万国において受け容れられてきた法理である。

だが、ラテン語salusは「健康、幸運、無事、安全、生存、救助、救済」など深く幅の広い含意を有している。
「民の安寧」salus populi は「至高の法」であるが、それが要求するものはあまりに多い。

それゆえ、自民党改憲案はこれを「公益及び公的秩序」に縮減した。
「公益及び公的秩序」はたしかに「民の安寧」の一部である。だが、全部ではない。

統治者が晴れやかに「公益及び公的秩序」は保たれたと宣している当の国で、
民の健康が損なわれ、民の安全が失われ、民の生存が脅かされている例を
私たちは歴史上無数に挙げることができる。だが、自民党案はあえて「民の安寧」を廃し、
「至高の法」の座を「公益及び公の秩序」という、
統治者がそのつどの自己の都合にあわせて定義を変更できるものに譲り渡した。

先進国の民主主義国家において、自由な市民たちが、強権によらず、自らの意志で、
基本的人権の制約の強化と「民の安寧」の語義の矮小化に同意したことは歴史に前例がない。

歴史上前例のないことをあまり気負いなくできるということは、
この改憲案の起草者たちが「国家」にも「市民社会」にももはやほとんど興味を失っていることを意味している。
「民の健康や無事や安全」を配慮していたら、行政制度のスリム化が進まない。
医療や教育や社会保障や環境保全に貴重な国家資源を投じていたら、企業の収益が減殺する。

グローバル企業が公害規制の緩和や教育の市場化や医療保険の空洞化や雇用条件の切り下げや
第一次産業の再編を求めているなら、仮にそれによって国民の一部が一時的に
その健康や安全や生存を脅かされることがあるとしても、それはもう自己責任で受け止めてもらうしかないだろう。
彼らはそう考えている。


改憲案にはこのほかにも現行憲法との興味深い異同が見られる。

最も徴候的なのは第22条である。
「(居住、移転及び職業選択等の自由等)何人も、居住、移転及び職業選択の自由を有する」。
これが改憲案である。
どこに興味深い点があるか一読しただけではわからない。
でも、現行憲法と比べると重大な変更があることがわかる。

現行憲法はこうなっている。
「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
私が「興味深い」という理由がおわかりになるだろう。

その直前の「表現の自由」を定めた21条と比べると、この改定の突出ぶりがうかがえる。
21条、現行憲法ではこうだ。
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保証する。」
改憲案はこれに条件を追加した。
「前項の規定に、かかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、
並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。」

21条に限らず、「公益及び公の秩序」を保全するためには私権は制約されるべきだ
というのは自民党改憲案の全体を貫流する基本原則である。
それがなぜか22条だけには適用されていない。
適用されていないどころかもともとあった「公共の福祉の反しない限り」
という制約条件が解除されているのである。

起草委員たちはここで「居住、移転及び職業選択の自由」については、
それが「公益及び公の秩序」と違背するということがありえないと思ったからこそ、
この制約条件を「不要」と判断したのである。
つまり、「国内外を転々とし、めまぐるしく職業を変えること」は超法規的によいことだ
という予断を起草委員たちは共有していたということである。

現行憲法に存在した「公共の福祉に反しない限り」を削除して、
私権を無制約にした箇所は改憲案22条だけである。
この何ということもない一条に改憲案のイデオロギーははしなくも集約的に表現されている。

機動性の高い個体は、その自己利益追求行動において、国民国家からいかなる制約も受けるべきではない。
これが自民党改憲案において突出しているイデオロギー的徴候である。

そういう文脈に置いてみると、九条の改定の意図がはじめてはっきりと了解できる。

改憲案はあきらかに戦争に巻き込まれるリスクを高めることをめざしている。
平和憲法下で日本は68年間、九条二項のおかげで戦争にコミットすることを回避できていた。
それを廃するというのは、「戦争をしたい」という明確な意思表示に他ならない。

安倍自民党と改憲で共同歩調をとる日本維新の会は、現行憲法をはっきり「占領憲法」と規定し、
「日本を孤立と軽蔑の対象におとしめ、絶対平和という非現実的な共同幻想を押し付けた元凶」とした。

感情的な措辞だが、「孤立と軽蔑」というのをいったいどのような事実について述べているのかが
私にはわからない。もし、北方領土や中国の領海侵犯や北朝鮮の恫喝について言っているのだとしたら、
これらの問題において日本は別に国際社会では孤立していないし、
すぐに軍事的行動をとらないことについて軽蔑されてもいない。
北朝鮮の軍事的挑発に耐えているという点で言えば、韓国とアメリカの方が日本以上だと思うが、
そのせいで米韓は国際社会で「孤立」しており、「軽蔑」されていると言う人に私は会ったことがない。

同時に「絶対平和という非現実的な共同幻想」という言葉がどういう現実を指示しているのかもわからない。
「絶対平和」などという文言はそもそも日本国憲法のどこにもない。
「日本国民は、恒久の平和を念願し」という言葉はあるが、「念願」している以上、
それが非現実であることは誰にでも分かっていることである
(すでに現実化している事態を「念願」するものはいない)。

戦後の歴代政府の憲法解釈も憲法学も国連も、自衛隊と個別的自衛権を違憲として否定してはいない。
「非武装中立」を訴えた政治勢力もかつては存在したが、今はほとんど存在感を持っていない。
「絶対平和という非現実な共同幻想」のせいで、日本がどのような損害を蒙っているのか、
それを具体的に列挙してもらわなければ話が見えない。

まさか今さら「湾岸戦争のとき世界の笑いものになった」というような定型文を持ち出すわけではないだろうが、
もしかするとそれかもしれないので、一言記しておくが、湾岸戦争のとき日本が世界の笑いものになったのは、
日本が巨額の戦費を供出したにもかかわらず当事国から感謝されなかったからである。

多国籍軍の支援を受けたクウェート政府は戦争終了後に、支援各国に感謝決議を出したが、
日本の名はそこになかった。しかし、その理由は「国際社会の笑いもの」論者たちが言うように
「金しか出さなかった」からではない。

日本が供出した当初援助額1兆2,000 億円のうちクウェートに渡ったのは6億3千万円で、
あとは全部アメリカが持っていったからである。

仮に国際社会がほんとうに日本を笑ったのだとしたら、それは、「国際貢献」という名分で
アメリカにいいようにされた日本の外交的愚鈍を笑ったのである。

改憲派のトラウマの起源が湾岸戦争にあるのだとしたら、
彼らの悲願はアメリカのするすべての戦争へ同盟国としてフルエントリーすることであろう。
そのために戦争をすることへの法制上・国民感情上のハードルが低い国に国を変えたいと彼らは願っている。

現行憲法の下で、世界史上例外的な平和と繁栄を享受してきた国が、あえて改憲して、
アメリカにとって「使い勝手のいい」軍事的属国になろうと願うさまを
国際社会は「狂気の沙汰」と見なすであろう。

私に反論するのはまことに簡単である。
「日本が改憲して『戦争のできる国』になれば、わが国はこれまで侮蔑してきた日本を尊敬し、
これまで遠ざけてきた日本と連帯するだろう」と誓言する国を
ひとつでもいいから「国際社会」から見つけ出して連れてきてくれれば足りる。
そのときはじめて現行憲法が「孤立と軽蔑」の原因であることが証明される。

それでもこの妄想的な九条廃絶論にもひとつの条理は貫いている。
それは「戦争のできる国」になることは、そうでない場合よりも国民国家の解体が加速するということであり、
改憲論者はそれを直感し、それを望ましいことだと思っている。

「戦争ができる国」と「戦争ができない国」のどちらが戦乱に巻き込まれるリスクが多いかは
足し算ができれば小学生でもわかる。
「戦争ができない国」が戦争に巻き込まれるのは「外国からの侵略」の場合だけだが、
「戦争ができる国」はそれに「外国への侵略」が戦争機会として加算される。
「戦争ができるふつうの国」と「戦争ができない変わった国」のどちらに生き残るチャンスが高いか、
これも考えればすぐにわかる。

「私がいなくなっても私の代わりはいくらもいる」という場合と、
「私がいなくなると『私のようなもの』は世界から消えてしまう」という場合では、
圧倒的に後者の方が「生き延びる意欲」は高いからである。

だから、国民国家の最優先課題が「国民国家として生き延びること」であるなら、
その国は「できるだけ戦争をしない国」であること、
「できるだけユニークな国」であることを生存戦略として選択するはずである。

だが、安倍自民党はそのような選択を拒んだ。
改憲案は「他と同じような」、「戦争を簡単に始められる国」になることをめざしている。
それは国民国家として生き延びることがもはや彼らにとっての最優先課題ではなくなっている
ということを意味している。漫然と馬齢を重ねるよりはむしろ矢玉の飛び交う修羅場に身を置いてみたい、
自分たちにどれほどのことができるのか、それを満天下に知らしめてやりたい。
そんなパセティックな想像の方が彼らを高揚させてくれるのである。

でも、その高揚感は「国民国家が解体するリスク」を賭けのテーブルに置いたことの代償として
手に入れたものなのである。「今、ここ」における刹那的な亢奮や愉悦と
「国家百年の存続」はトレードオフできるものではと私たちは考えるが、
それは私たちがもう「時代遅れ」な人間になったことを表わしている。
国民国家のような機動性の低い(というか「機動性のない」)システムはもう不要なのである。
グローバリストが戦争を好むのは、彼らが例外的に暴力的であったり非人道的であったりするからではなく
(そういう場合もあるだろうが)
戦争をすればするほど国民国家や領域国家という機動性のない擬制の有害性や退嬰性が際立つからである。

安倍自民党は(本人たちには自覚がないが)グローバリストの政党である。
彼らが「はやく戦争ができるようになりたい」と願っているのは、国威の発揚や国益の増大が目的だからではない。
戦争機会が増大すればするほど、国民国家の解体が早まるからである。
惰性的な国民国家の諸制度が溶解したとき、そこには彼らが夢見る「機動性の高い個体」たちからなる
少数集団が圧倒的多数の「機動性の低い個体」を政治的・経済的・文化的に支配する格差社会が出現する。

この格差社会では機動性が最大の人間的価値であるから、
支配層といえども固定的・安定的であることは許されない。一代にして巨富を積み、栄耀栄華をきわめたものが、
一朝あけるとホームレスに転落するめまぐるしいジェットコースター的な出世と降位。
それが彼らの夢見るウルトラ・モダン社会のとりあえずの素描である。

改憲案がまず96条を標的にすることの理由もここから知れる。
改憲派が改定の困難な「硬性憲法」を法律と同じように簡単に改廃できる「軟性憲法」に変更したい
と願うのは、言い換えれば、憲法が「国のあるべきかたち」を恒久的に定めることそれ自体が許しがたい
と思っているからである。
「国のあるべきかたち」はそのつどの統治者や市場の都合でどんどん変えればよい。
改憲派はそう考えている。
安倍自民党のグローバリスト的な改憲案によって、基本的人権においても、社会福祉においても、
雇用の安定の点でも、あきらかに不利を蒙るはずの労働者階層のうちに
改憲の熱心な支持者がいる理由もそこから理解できる。
とりあえずこの改憲案は「何一つ安定したものがなく、あらゆる価値が乱高下し、
システムがめまぐるしく変化する社会」の到来を約束しているからである。
自分たちがさらに階層下降するリスクを代償にしても、
他人が没落するスペクタクルを眺める権利を手に入れたいと願う人々の陰惨な欲望に
改憲運動は心理的な基礎を置いている。

自民党の改憲案は今世界で起きている地殻変動に適応しようとするものである。
その点でたぶん起草者たちは主観的には「リアリスト」でいるつもりなのだろう。
けれども、現行憲法が国民国家の「理想」を掲げていたことを「非現実的」として退けたこの改憲案には
もうめざすべき理想がない。
誰かが作り出した状況に適応し続けること、現状を追認し続けること、
自分からはいかなるかたちであれ世界標準を提示しないこと、
つまり永遠に「後手に回る」ことをこの改憲案は謳っている。

歴史上、さまざまな憲法案が起草されたはずだが、「現実的であること」
(つまり、「いかなる理想も持たないこと」)を国是に掲げようとする案はこれがはじめてだろう。



毎度ながら、独特の視座で核心を突いておる。

じっくり熟読をお奨めします。

長周新聞の記事と通底するものがありますねぇ。




追:1:10PM

いいアイデアだと思う、何でもやるべし!

◆http://richardkoshimizu.at.webry.info/201305/article_55.html
richardkoshimizu's blog 2013/05/07
◎ユダヤ裏社会不正選挙対策委員会 : 定点自動撮影ビデオカメラ

☆http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/008/181/20/N000/000/008/136788084116513200457_plus01.jpg

裏社会の手口の基本は「偽低投票率」。

投票所に並ぶ有権者の数と投票数に大きな乖離があるはず。 つまり、多数の票が捨てられていると。

よって、投票所への入場者を記録する手段は?

定点自動撮影ビデオカメラを投票所近くに設置し、

投票所入り口を連続撮影し入場者をカウントする?


◆http://richardkoshimizu.at.webry.info/201305/article_56.html
richardkoshimizu's blog 2013/05/07
◎ユダヤ裏社会不正選挙対策委員会 : 車載用ドライブレコーダー

☆http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/008/181/20/N000/000/008/136788413418013202513_K0000454103.jpg

投票場入り口近くに駐車した車の中のドライブレコーダー。
出入りする有権者を長時間撮影。
後でカウントすれば、選管発表の著しく低い投票率がニセモノだとすぐに発覚する。

ネットで大騒ぎ!
しかも全国の投票所から同様の報告!
ねちねちいやらしく行きましょう。

車をお持ちの方で駐車可能なスペースがあれば車用のドライブレコーダー
(16GB以上あれば開始から終了までOKではないかと)で
入退場者程度の画像なら記録できると思います。

増税反対


ご参照!

◆http://blog.goo.ne.jp/mokushiroku666/e/e383f785bad79f70dc44d5cd65d95aa0
高山清洲・世界平和 人類みんな兄弟 2013-05-06
◎次期、参議院選挙も不正選挙となるのか!




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