画は 歌川 國芳(くによし)
寛政九年(1797)〜文久元年(1861)
号は一勇齋、朝櫻楼など 作
「摂州大物浦 平家怨霊顕る圖」です。
☆雪、粉雪降り止まず、寒気ひとしほ。
まずは、反日レイシストにしてキ印ユダヤ、F・D・ルーズベルト、
◆http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20130208/243504/?bv_ru&rt=nocnt
日経ビジネス 2013年2月14日(木)
◎中国共産党も知っていた、蒋介石が「尖閣領有を断った」事実
遠藤 誉
中国が尖閣諸島の領土主権を主張する最大の根拠は何か。
一つは日本が日清戦争時代(1894〜95年)に、清王朝が弱体化したことを良いことに、
「ドサクサ」にまぎれて釣魚島(尖閣諸島)を清国から不当に奪ったというものである。
もう一つは2012年9月27日に中国の外交部の楊潔篪部長(外相)が、国連総会で述べた根拠である。
それは「第二次世界大戦後、『カイロ宣言』と『ポツダム宣言』などの国際文書に基づいて、
釣魚島を含む島嶼は、日本に占領されたその他の中国領土と共に中国に返還された」というものだ。
中国共産党の機関紙「人民日報」の日本語版が伝えている。
この表現は同紙のウェブサイトからダウンロードした(リンクはこちら)。
☆http://j.people.com.cn/94474/7965863.html
ところが、この二つとも事実とは全く逆であることを証明する決定的な情報があった。
しかも、その情報は中国共産党の「中国共産党新聞網」(網はこの場合ウェブサイト)、
および中国政府の新聞である新華社の「新華網」が載せていた(リンク先参照)ことを、
☆http://news.xinhuanet.com/politics/2008-01/16/content_7428667.htm
このたび発見した。
現在の中国政府の主張と、彼らが(と言っていいだろう)自らのウェブサイトに載せている情報は
完全に相反し、決定的に矛盾する。
記事のタイトルは「蒋介石后悔拒収琉球群島」
(蒋介石は琉球群島を領有するのを拒んだことを後悔した)で、発表されたのは2008年1月16日。
中国の雑誌「各界」に王幸福という人が書いたものを転載したようだ。
その評論を胡平という人が隔週の雑誌「中国人权双周刊」第86期(2012年8月24日−9 月6日)に
出していることから、筆者はこの情報を知るに至った。
☆「カイロ会談」での蒋介石とルーズベルトの密談
この記事で語られているのは、1943年12月23日から25日にかけて行われた
「カイロ密談」の内容とその舞台裏だ。
今回は、ここに書かれている「カイロ密談」の舞台裏を読み解くことによって、
尖閣問題の解決を握るカギを模索したい。
1943年12月1日に日本の戦後処理を巡って連合国側から「カイロ宣言」が出されたことは周知のとおり。
後のポツダム宣言のひな形はここで作られた。しかし、
その宣言が出される前に当時の中国、
すなわち「中華民国」の蒋介石主席とアメリカ合衆国のルーズベルト大統領との間に交わされた
機密会談を知る人は、戦中・戦後史の研究家を除けばそう多くはない。
イギリスのチャーチル首相は参加せず、蒋介石とルーズベルトの二人だけによる、完全な密室会談だ。
中国のウェブサイトの記事の内容は
「アメリカのルーズベルト大統領が中華民国国民政府の蒋介石主席に
『日本を敗戦に追いやった後、琉球群島をすべて中華民国(中国)にあげようと思うが、どう思うか』
と何度も聞いたのに、蒋介石が断った」というものである。
☆琉球群島を巡る権力者の生々しいやりとり
現在の日本人にとってはルーズベルトの発言はショッキングだろう。
「戦後の体制を、米英中ソの四カ国で固めよう」と考えたルーズベルトが、
中国の大国化を支援するために気前の良い提案をした、とされるが、ここでは置く。
この記事の前半、「米中で琉球群島を共同管理しよう」という提案の部分までは
一定程度知られている内容だ(※『日米戦争と戦後日本』五百旗頭真著、講談社学術文庫などを参照)。
しかし、中国のこの二つのウェブサイトに掲載された内容には
「蒋介石がルーズベルトのオファーを断り、断った後に、ひどく後悔し、
絶対に口外するなと部下に口止めをした」といった内部情報が生々しく書いてある。
この「拒絶と後悔」および「口止め」の部分は、私が知る限りこの時点までは公になっていなかった。
中国国外でも、これに注目した動きはなかったようだ。
今回の「カイロ密談の舞台裏」に基づいて今日の尖閣問題を読み解く試みは、
何よりもこの情報が中国共産党と中国政府のウェブサイトに書いてある、ということがキーポイントだ。
詳細は2月20日に発売される『チャイナ・ギャップ 噛み合わない日中の歯車』で述べている。
版元の都合を言えば発売後に公開したいところではあろうが、
尖閣諸島を中心とした東シナ海情勢が危険な水域に達し始めたので、思い切ってここで公開させていただく。
(中略)
つまりアメリカが当時の中国(中華民国)に「共同出兵して日本を占領しよう」と申し出たのに、
中国は「出兵に参加しなかった」ということである。
「中華民国」の蒋介石主席は自分が提案した「米中による共同管理」さえ自ら放棄した。
なぜなら毛沢東が率いる中国共産党を倒すことに全力を尽くしていて、
他国の事などに力を注ぐゆとりはなかったからなのである。
カイロ宣言を出す前に蒋介石とルーズベルトの二人だけの間で「会談」があったことは、
一部の関係者や研究者は知っている。ルーズベルトが我々の感覚からすると、
あまりに日本をないがしろにした提案をしたことも、研究論文や書籍に出たことがある。
しかし、蒋介石が「琉球群島はいらない」と、ルーズベルトのプレゼントを拒否してしまったことをひどく後悔し、
「この密談はなかったことにしろ」と部下に命じたことまでは、あまり知られていない。
もちろん、中国人の間では何となく囁かれてはいた。だから筆者もそれを追いかけてきた。
筆者は、この中国側が正式に公表したに等しい「カイロ密談」の内幕を読み解くことによって、
尖閣問題解決の糸口が見い出せるのではないかと考えている。
中国は今、「一つの中国」を大原則としている。
ならば、「中華民国」の主席だった蒋介石が国際舞台で言明したことは引き継ぐべきだろう。
日本は決して清王朝が弱体化したのをいいことにしてその「ドサクサ」に紛れて尖閣諸島を掠め取ったのではない。
中国の楊外交部長は2012年9月、国連総会においてもこの「掠め取った」という言葉を用いて日本を攻撃した。
そして冒頭に書いたように
「カイロ宣言」で釣魚島を含む島嶼は日本に占領されたその他の中国領土と共に中国に返還されたと語った。
しかし事実は全く逆だった。
1943年11月、カイロ密談が行われていたとき、中国(当時の「中華民国」)は権力の絶頂期にあった。
世界の三大強国として米英とともにカイロに集まったほどなのだ。
もし中国がこのとき「尖閣諸島=釣魚島」に関心を持ち、それを「欲しい」と言えば、100%、
ルーズベルトはそれを承認したはずだ。それどころか
ルーズベルトが「琉球全体を中国にあげるよ」と言っているのに、中国が「いらない」と言ったのである。
また「カイロ宣言」にある「一切の島嶼」の中に琉球群島(沖縄県)が入っていない根拠を、
中国にっとって最も権威ある「中国共産党新聞網」と「新華網」に載せているのだから、
現在の中国政府が認めたということになる。(後略)
↑
キ印どもにまんまと嵌められて、後世に禍根を残したのは?
そう、誰あろう「昭和天皇」ですよ。 戦争を全て仕切ったし、戦後政治にも容喙した。
國芳、二枚目、
「鏡山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)」 「忠孝 局岩藤」です。
◆http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201302170000/
櫻井ジャーナル 2013.02.17
◎隕石の落下で被害が出たこともあり、ロシアでは防空システムが議論になっているが、
そのロシアが東アジアの空でアメリカとつばぜり合いを演じている
幅が17メートル、重さは約1万トンと推測される隕石が2月15日にロシアのウラル地方へ落下、
建造物に被害があり、約1200名が負傷したという。
この隕石にミサイルは発射されず、ロシアのドミトリー・ロゴジン副首相は
新しい防空システムが必要だと語ったという。が、弾道ミサイルを撃墜することは現実的でない。
「ミサイル防衛」のシステムが機能するのは、ターゲットが航空機の場合ぐらいだろう。
ところで、ロシア政府も注目しているアメリカの「宇宙兵器」がある。
X-37Bと呼ばれる無人のスペース・シャトルだ。
NASAの開発したX-37A(2004年からDARPAが管理)を改良したものがX-37Bで、所属は空軍。
X-37Bの1号機は2010年4月22日、2号機は11年3月5日に打ち上げられている。
2012年12月11日には1号機が再び打ち上げられ、まだ飛行中のはずである。
何を行っているかは秘密で、軍事衛星や「隕石」を宇宙へ放出することも可能だろう。
その一方、2月7日にロシア空軍のSu-27が2機、北海道の利尻島南西沖の日本領空を侵犯した
と日本の外務省は発表、この際に自衛隊のF-2が迎撃したというが、ロシア側はこの主張を否定している。
そして12日には核兵器を搭載していると思われるロシアの爆撃機Tu-95が2機、
グアムの近くを飛行して米軍のF-15が迎撃したと伝えられている。
このF-15は沖縄の嘉手納基地からグアムへ移動していた戦闘機らしい。
ロシアの爆撃機がグアムまで飛んでくるのは異例のようで、
西太平洋の基地を復活させつつあるアメリカ軍の動きに絡んでの爆撃機飛来なのか、
あるいはアメリカに対する何らかの別の「警告」なのか・・・
冷戦時代は「ソ連脅威論」で飯を食い、ソ連が消滅してからは「中国脅威論」を叫んできた
ONA=最終評価局(ONA : Office of Net Assessment)のアンドリュー・マーシャルを信奉するネオコンは
東アジアの軍事的な緊張を高めようとしている。それに同調する日本人も多い。
そうした動きに対し、開戦になれば中国と日本との「局地戦」ではなく、
ロシアとアメリカを巻き込む全面核戦争になることをロシア政府は示したのかもしれない。
X-37Bが何らかの形で関係している可能性もある。
◆http://tyuubukou.blog.shinobi.jp/Entry/463/
播州武侯祠遍照院 現在別院 {政治向け}2013/02/17
◎明治維新は詐欺。
☆http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201302150000/
櫻井ジャーナル 2013.02.15
当ブログ既報ですw
抜粋終わり
大日本帝国は、「英国詐欺師集団」の傀儡政権だった。
天皇は、維新志士たち(の)妄想の押し付けで、庶民に洗脳を強要した。
それの総決算が、大東亜戦争の敗北だ。
龍馬は、彼らネオコン・英国詐欺師の飼い犬だった。
だが、最後は「大政奉還」という形でかみついたので、殺された。
彼らの戦略を見抜いていた横井小楠も、
それ(を)わかりかけた西郷も、詐術とテロを駆使して殺された。
売国奴の犬が「偉人」とされるのは、明治以降変わらない。
「朝鮮完全併呑」を拒んだ伊藤博文も、
たぶんネオコンに反する行為だっただろうか、暗殺された。
英米にも学ぶところはある。
だが教育制度はじめ、
多くはまねしたら確実に今では日本は滅びるだろう悪魔の連中である。
再見!
國芳、三枚目、
「名誉三十六合戦」 「平親王将門」です。
異形としての明治天皇制、
◆http://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen/e/0bad89b074d5351ddeeda0f23d48fa4b
思索の日記 2013-02-07
◎天皇制ってなんだろう −「私」の生活から考える (1) 武田康弘
より抜粋、
わたしたちの国では、不思議なことに天皇や皇室について考え・語ることはほとんどなく、
ましてその制度を批判的に考え・語ることはタブー視されてきたようです。でも、
古代の天皇制律令政治の時代ならまだしも、近代民主主義の現代においてなお
語りえぬタブーがあるとしたら、ひどく不健康な社会ということになってしまいます。
わたしは、不健康は誰にとってもよくないと思いますので、
健康な少年の心を失わずに語ってみようと思います。
2、3年前のことでしたが、教え子の小学生の典ちゃんが、
「どうしてあいこさまなの? のりと同じ年なのに、へんよ。」と言いました。
まさか「皇室に生まれた子は特別な人なので『さま』と言うの、
あなたは、ふつうの家の子だから『ちゃん』なの。」と言うわけにはいきません。
「うん、確かにおかしいよね、あいこちゃんとうべきだと思うけど、
天皇は神のようなものという古い日本の考えがなかなか変わらないのでね。」と応えましたが、
あなたならどう応えられますか?
同じ疑問を後に「小説の神様」と呼称された白樺派の志賀直哉は、大学時代のノートに記しています。
1906年(明治39年)、23歳の時です。
「天皇とは一体なんだろう? どうして何の為に出来たのだろう? 誠に妙なものだ。
こんな奇妙なものがなければならないのかしら? 天皇というのは恐らく人間ではあるまい、
単に無形の名らしい。その名がそんなにありがたいとは実に可笑(おか)しい
その無形の名の為に死し、その為に税を納めて。
その名の主体たる、一つの平凡なる人間を及びその一族
(交際する事以上何事も知らぬ。交際せんが為に生まれて来た人間)を
ゼイタクに遊ばせて加えてそれを尊敬する、何の事か少しも解らぬ、
そういう人から爵位をもらって嬉しがる、
嬉しがって君のためなら何時でも死す、アア、実に滑稽々々。・・・・」
この後もかなり続き、
「天皇廃止論をして国家の敵!!!になり暗殺されるが、僕に同情するものは一人もいない」
という話と、「そういう筋で小説を書き、発行・発売禁止となり裁判になるが、
僕は親友の法律家と共に裁判で警察をやっつける、愉快だな。・・・
しかし世間の同情を失い、迫害が来る。
僕の子どもまでが小学校から退学させられてしまう。・・・・」
と書かれています。
以上は、政治には疎く社会思想には興味を持たなかった志賀直哉の
「明治天皇から始まった近代天皇制」への嫌悪感の表出ですが、
志賀は他の白樺のメンバーと同じく皇室の藩屏(皇族を守り育てる)としてつくられた
学習院で学びましたので、日々、皇族と接していての率直な思いだったようです。
すなおで純粋な心の小学生や、全身が鋭利な感覚神経のような若き志賀直哉が
異議を唱えた天皇・皇室という存在について、
千代田区神田に生まれ育ったわたし(学校は越境入学で文京区でしたが)もまた、
皇居前を通るたびにヒドイ違和感を覚えたものです。
日比谷の子ども図書館に行く途中、いつも、なぜ一つの家族がこんなに広い場所を占有しているのか?
と気持ちが悪くなりました。小学校で『皇居』は知将の太田道灌が建てた『江戸城』のことだ
と教わっていましたから、「天皇家とは何の関係もないのにおかしい!
天皇が中心の『大日本帝国憲法』から国民主権の『日本国憲法』に変わったのに、
いつまでも居続けるのは許せない」と友人と話し、
「天皇一家は京都に帰り、江戸城はみんなが遊べる公園にすべし!」と幼いながら正論を吐きました。
少し脱線しますが、戦後はじめての神田祭の日に神田で生まれたわたしは、
初参りも七五三も結婚式もみな神田明神(かんだみょうじん)で行いました。
神田明神は将門を祀った神社です。関東地方では一番人気の平将門は、
日本の歴史上ただ一人京都の天皇に反旗を翻し、自ら新皇を名乗った民衆の英雄でした。
彼は、下総国石井(現・茨城県岩井)で朝廷軍に敗れてさらし首にされましたが、伝説では、
その首を京都からひそかに縁者が持ち帰り、残党狩りの厳しい下総を避けて
現在の大手町に葬ったとされます。それがいまも残る将門塚です。
将門死後360年に時宗の真教上人
(他力念仏門・法然の孫弟子で一遍を継いで踊念仏を広めた・徹底した民衆主義の遊行僧)が
「蓮阿弥陀仏」(れんあみだぶつ)という法号を与え、供養し、
その霊を祀るために荒れ果てた社を改修して「神田明神」としました。
神社は、徳川家康が江戸城に入った時に現在の場所に移転しましたが、
塚だけはそのまま残されました。ここから不思議なことが起きます。
関東大震災の時、この塚は崩れ同じ敷地にあった大蔵省庁舎も全焼しましたが、
復興の時に塚を取り崩し池を埋めて仮庁舎を建てたところ、
大蔵大臣が病死、現職の課長ら十数人が死亡し、庁舎内ではケガ人が続出したため、
「タタリ」であるとの噂が広まり、塚を復元して慰霊祭が行われたのです。
その後、敗戦の年に米軍が塚の周辺に駐車場を造ろうとしましが、
ブルドーザの運転手が墓のようなものの前で転落して死亡する事件が起き、
塚はまたも破壊されずに残りました。というわけで、現在に至るもこの将門塚は畏敬の対象であり、
新年には必ず近くの大企業の代表者たちが参拝しています。
また、将門を主祭神とする「神田明神」は、江戸時代には江戸の総鎮守とされ、
徳川家の信仰も篤かったのですが、王政復古の明治となり、
天皇に反逆した将門を祀ることへの強い批判が出ました。ところが明治天皇は、明治7年に参拝します。
これは極めて異例のことで、天皇が東京の神社を参拝したのは、
明治政府がつくった天皇教の総本山である「靖国神社」以外では、神田明神のみです。
明治天皇は将門のタタリを恐れたのでしょう。
このようなわけで、関東地方と天皇家とは折り合いが悪いのです。
いつまでも江戸城に住まわれるのはよろしくないと思います。
脱線しましたので、話を戻します。
生きている人間を神格化し、また特定の家の子を生まれながらにして特別な人間として遇するというのは、
現代のふつうの生活感覚をもつ人にとってはなんとも釈然とせず、理クツが通らぬことですが、では、
なぜ、わが日本の政府は近代になってこのような新興宗教のような思想(天皇教=靖国思想)をつくり
国民を教化したのでしょうか。次にそれについて考えてみたいと思います。
(続く)
(1)の続きです。
幕末にはじめて黒船を間近に見た日本人は、西洋文明の高さに驚愕あるいは感動したと言われますが、
このショックは、欧米の進んだ文明がどこからくるのかを考えさせました。
伊藤博文は憲法を研究するためにヨーロッパに行き、
宗教がなければ憲法をつくっても意味がないことを知りますが、
わが国にはキリスト教のような強い宗教=一神教がないので、その代わりとして、
幕末に武士たちが心酔した尊王思想(日本は神国であり天皇は現人神)を用い、
皇室を利用して天皇を神とする新宗教をつくることを思いつきます。
「憲法を制定するにあたっては基軸を定めなければならず、それはヨーロッパでは宗教であるが、
日本では基軸となるべき宗教がない。わが国において基軸とすべきは独り皇室あるのみ。」
と伊藤博文は1888年(明治21年)に枢密院で演説しています。
翌年には、
「将来、いかなる事変に遭遇するも天皇は、上元首の位を保ち、決して主権は民衆に移らない。」
と府県会の議長たちに説示しました。
彼は、神の前の平等という欧米の民主主義に倣って、
天皇の前の平等という日本的民主主義をつくったのですが、
尊王思想をバックボーンとした「天皇教」を創作したことで、
日本はアジアで唯一の資本主義国となり、天皇の恩寵(おんちょう・上からの恵み)として
一定の民主化にも成功しました。
このように日本の近代化は、キリスト教思想のかわりに天皇教思想を用いて遂行されました。
憲法制定による人権と民主主義の政治と資本主義経済という『近代化』には
強い宗教が不可欠であることを見抜いた伊藤博文の慧眼が、
わが国を歴史上例をみないスピードで近代国家へと押し上げたと言えるでしょう。しかし、
天皇教思想はまた、戦争や植民地政策の正当化と、
わたしたち日本人に世界にも稀な「精神の負債」(哲学の貧困)をつくり出し、
現在に至るも個人の生の輝きを奪う「不幸」を生み続けています。
明治前半期までは国民の過半数の支持を得ていた自由民権運動は、
伊藤博文、山県有朋、桂太郎らにより明治天皇を中核とする保守政治の敵とされ、
「民権運動の息の根を止める」という根絶やし戦略により潰されました。
個々人の自立、一人ひとりのかけがえのない人生という考え方は後景に追いやられ、
「公=天皇=国家」のためを当然とする国体思想で全国民は一つにされたのです。
まことに天皇教とは竹内芳郎さん(哲学者)の言う通り、日本的集団同調主義の別名だと言えます。
このような考え方は、今日の保守政治家にも引き継がれています。
もし太平洋戦争による敗北がなければ、
天皇教者たちによる保守政治は今日までそのまま続いていたわけですが、
現代の保守主義をかかげる政治家も思想の本質は同じで
【国体思想】(多様な人々の自由対話によりつくられる政治=社会契約に基づく近代民主主義を嫌い、
天皇制を中心とする日本というあるべき姿の枠内に個々人を位置付かせるという国家主義。
従ってその枠外の人間は非国民となる)なのです。
戦前との違いはハードかソフトかだけです。
では、明治政府作成の新興宗教と言うべき『天皇教』とはいかなるものなのか、
それを「靖国神社」の理論的重鎮である小堀桂一郎さん(東京大学名誉教授)に聞いてみましょう。
「靖國神社の誕生は、官軍(天皇側の軍)の東征軍(江戸を征伐する軍)の陣中慰霊祭からはじまったのです。
慶応四年(1868年)5月、まだ京都にあった新政府の行政官である太政官府からの布告で、
嘉永六年(1853年)のペリー来航以来の「殉教者」の霊を祀ることが書かれています。
「殉教者」とは「皇運の挽回」のために尽力した志士たちのことで、その霊魂を「合祀」するという考えです。
またこの布告には、合祀されるのは、今度の兵乱のために斃れた者たちだけではなく、今後も皇室のため、
すなわち国家のために身を捧げた者である、と明示されています。
靖國神社は、陣中の一時的な招魂祭にとどまることなく、
王政復古、【神武創業の昔に還る】という明治維新の精神に基づいて
お社(やしろ)を建立した点に特徴があります。・・
靖國神社の本殿は、あくまでも当時の官軍、つまり新政府の為に命を落とした人達をおまつりするお社である、
という考えで出発したのであり、それは非常に意味のあることだと思うのです。
日本の国家経営の大本は、「忠義」という徳ですが、この「忠」というのは、
「私」というものを「公」(天皇)のために捧げて、ついに命までも捧げて「公」を守るという精神です。
この「忠」という精神こそが日本を立派に近代国家たらしめた精神的エネルギー、
その原動力にあたるだろうと思います。・・
その意味で靖國神社の御祭神は、国家的な立場で考えますと、
やはり天皇の為に忠義を尽くして斃れた人々の霊であるということでよいと思います。」
以上の小堀桂一郎さんの解説(靖国神社売店の最前列にあるパンフレット『靖国神社を考える』より)で
「天皇教」とは「靖国思想」と同義であることがよく分かります。
なお、ここで、【神武創業の昔に還る】と言われている神武天皇とは、初代天皇とされる架空の人物ですが、
その伝説は以下の通りです。
「日本書紀、古事記によると、初代天皇とされる神武天皇(在位:前660年〜前585年)は
日向(宮崎)地方から、瀬戸内海を東に進んで難波(大阪)に上陸しましたが、
生駒の豪族に阻まれたため、南下して熊野に回りました。
そこで出会った3本足の「八咫烏」(やたがらす)というカラスに導かれて、
吉野の険しい山を越えて大和に入り、周辺の勢力も従えて、大和地方を平定しました。
そして、紀元前660年の1月1日に橿原宮で即位し、初代の天皇になりました」
{奈良県橿原(かしはら)市のホームページより}。
神武の在位は75年間、126歳の長寿で、弥生時代前期の人ということになります。
時間・歴史をも天皇教に合致させるというのが「紀元節」ですが、明治5年(1872年)に、
神武天皇が即位したとされる2月11日(太陽暦換算)を紀元節の祝日とし、
西暦より660年も古いことを誇りました。世界の中心は日本の天皇である。という思想は、
田辺元(天皇制は宇宙の原理と合致する)や西田幾太郎(国体は、皇室を中心にリズミカルに統一されてきた)
という戦前を代表する哲学教授たちが主張し広められましたが、紀元節と共に戦後は一旦は廃止されました。
しかし、1967年に多くの反対を押し切って佐藤自民党内閣は2月11日を建国記念の日として祝日とし、
「紀元節」復活に道をつけました。ここには、
自民党など保守派政治家の根深い「天皇教」への思いがあらわれていますが、
これは「靖国神社」を敬愛することと軸を一にしているのです。
自民党は、現『日本国憲法』を廃棄して新たな憲法をつくることを「党の約束」としています。
それは、彼らが天皇教を引きずる国体思想から抜けられないことをあらわしています。
安倍首相は、自著『美しい国へ』で
「日本の歴史は、天皇を縦糸として織られてきた長大なタペストリー(綴織つづれおり)で、
日本の国柄をあらわす根幹が天皇制である。」と述べていますが、これは、
《人間存在の対等性に基づき、互いの自由を承認し合うことでつくられるルール社会》
という近代民主主義の原則とは明らかに矛盾します。
「歴史的に天皇が中心の時代があった」というのではなく、市民社会が成立した後の現代もなお
「天皇制が国の根幹である」としたのでは、「おじさん、勝手に言ってれば〜〜」の世界でしかありませんが、
どうも「哲学の貧困」のわが国では、
このような国体思想が跋扈(ばっこ・のさばり、はびこること)してしまうので危険です。
なお、ここで注意しなければならないのは、明治からの天皇制とは、伊藤博文が中心となってつくった
近代天皇制=天皇教のことであり、それ以前の日本の歴史・伝統とは大きく異なるということです。
明治政府は、皇室独自の儀式に拠る「皇室神道」と「神社神道」を直結させて
新たな政治神道=国家神道をつくったのですが、これは、
日本古来の八百万の神=「多神教」を、天皇を現人神とする「一神教」に変えてしまい、
祭司にすぎなかった天皇が現人神(あらひとがみ)となったのですから、ビックリ仰天!
というほかありません。
敵・味方の区別なく祀るという神道の教義も、味方だけを祀ると変更。
なんとも凄まじい宗教改革ですが、これを官僚政府が政治権力を用いて徹底させたのですから、
いまなお、わたしたち日本人が「私」からはじまる思想を恐れ、受験知や事実学だけを貯め込み、
また「もちはもちや」と小さく固まってしまう生き方になるのも頷(うなず)けます。
北朝鮮の比ではありません。将軍ではなく現人神なのですから。
誰もが知る通り、太平洋戦争での敗戦により、一旦はこの天皇教は明確に否定されました。
1946年に天皇の裕仁は、「天皇を現人神とし、日本民族を他の民族に優越するものというのは誤り」とし、
天皇は人間であるとするいわゆる「人間宣言」を出しましたが、
こんな珍妙な宣言をせざるをえないまでにわが日本人の意識は深く犯されてきたわけです。
皇室の祭祀と政治を直結させていた天皇の祭祀大権は、『日本国憲法』の誕生により否定され、
皇室祭祀は完全に天皇家の【私事】となりました。
第5条―天皇は国政に関する権能を有しない。
第20条―国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない。
けれども、天皇家と国家とを結びつけることで日本国は成立すると考える保守的な政治家は、
「天皇の男系DNAを守れ!」との言に象徴されるように
敗戦による大改革を反故(ほご)にすることに激しい情熱を燃やし、既成事実の積み重ねにより
成し崩し的に天皇教を復活させようとしてきたのです。
いまに至る戦後の有力政治家の大部分は、戦前の権力者たちの子孫ですが、
それにしても、敗戦による新しい日本を「戦後レジーム(体制)」と否定的に捉え、
これを終わらせることを最大の使命だとする首相が現れるまでになったのですから、クワバラクワバラです。
では、次に、天皇教は私たち日本人にどのように作用しているかを書きましょう。
国の近代化のために、キリスト教のかわりに天皇教を用いたことは、
「私」を消去してしまい、底しれぬ「精神の不幸」からの脱出を困難にしている、
とわたしは見ていますが、聖書に象徴される豊かな内容をもつキリスト教とは逆に、
まったく内容のない宗教である天皇教(教典すらなく、型・儀式だけがある)は、
日本人の無意識領域までも犯しているために、これを顕在化させるのはなかなか大変です。
(続く)
↑
全てに同意はできぬが、いいとこ突いてはおる。
「菊のカーテン」をめくってみれば、なんという事もなしだ。
壮大な騙しの仕掛けだった、ということですよ。 洗脳から覚醒すべきです、よろずここからだ。
寛政九年(1797)〜文久元年(1861)
号は一勇齋、朝櫻楼など 作
「摂州大物浦 平家怨霊顕る圖」です。
☆雪、粉雪降り止まず、寒気ひとしほ。
まずは、反日レイシストにしてキ印ユダヤ、F・D・ルーズベルト、
◆http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20130208/243504/?bv_ru&rt=nocnt
日経ビジネス 2013年2月14日(木)
◎中国共産党も知っていた、蒋介石が「尖閣領有を断った」事実
遠藤 誉
中国が尖閣諸島の領土主権を主張する最大の根拠は何か。
一つは日本が日清戦争時代(1894〜95年)に、清王朝が弱体化したことを良いことに、
「ドサクサ」にまぎれて釣魚島(尖閣諸島)を清国から不当に奪ったというものである。
もう一つは2012年9月27日に中国の外交部の楊潔篪部長(外相)が、国連総会で述べた根拠である。
それは「第二次世界大戦後、『カイロ宣言』と『ポツダム宣言』などの国際文書に基づいて、
釣魚島を含む島嶼は、日本に占領されたその他の中国領土と共に中国に返還された」というものだ。
中国共産党の機関紙「人民日報」の日本語版が伝えている。
この表現は同紙のウェブサイトからダウンロードした(リンクはこちら)。
☆http://j.people.com.cn/94474/7965863.html
ところが、この二つとも事実とは全く逆であることを証明する決定的な情報があった。
しかも、その情報は中国共産党の「中国共産党新聞網」(網はこの場合ウェブサイト)、
および中国政府の新聞である新華社の「新華網」が載せていた(リンク先参照)ことを、
☆http://news.xinhuanet.com/politics/2008-01/16/content_7428667.htm
このたび発見した。
現在の中国政府の主張と、彼らが(と言っていいだろう)自らのウェブサイトに載せている情報は
完全に相反し、決定的に矛盾する。
記事のタイトルは「蒋介石后悔拒収琉球群島」
(蒋介石は琉球群島を領有するのを拒んだことを後悔した)で、発表されたのは2008年1月16日。
中国の雑誌「各界」に王幸福という人が書いたものを転載したようだ。
その評論を胡平という人が隔週の雑誌「中国人权双周刊」第86期(2012年8月24日−9 月6日)に
出していることから、筆者はこの情報を知るに至った。
☆「カイロ会談」での蒋介石とルーズベルトの密談
この記事で語られているのは、1943年12月23日から25日にかけて行われた
「カイロ密談」の内容とその舞台裏だ。
今回は、ここに書かれている「カイロ密談」の舞台裏を読み解くことによって、
尖閣問題の解決を握るカギを模索したい。
1943年12月1日に日本の戦後処理を巡って連合国側から「カイロ宣言」が出されたことは周知のとおり。
後のポツダム宣言のひな形はここで作られた。しかし、
その宣言が出される前に当時の中国、
すなわち「中華民国」の蒋介石主席とアメリカ合衆国のルーズベルト大統領との間に交わされた
機密会談を知る人は、戦中・戦後史の研究家を除けばそう多くはない。
イギリスのチャーチル首相は参加せず、蒋介石とルーズベルトの二人だけによる、完全な密室会談だ。
中国のウェブサイトの記事の内容は
「アメリカのルーズベルト大統領が中華民国国民政府の蒋介石主席に
『日本を敗戦に追いやった後、琉球群島をすべて中華民国(中国)にあげようと思うが、どう思うか』
と何度も聞いたのに、蒋介石が断った」というものである。
☆琉球群島を巡る権力者の生々しいやりとり
現在の日本人にとってはルーズベルトの発言はショッキングだろう。
「戦後の体制を、米英中ソの四カ国で固めよう」と考えたルーズベルトが、
中国の大国化を支援するために気前の良い提案をした、とされるが、ここでは置く。
この記事の前半、「米中で琉球群島を共同管理しよう」という提案の部分までは
一定程度知られている内容だ(※『日米戦争と戦後日本』五百旗頭真著、講談社学術文庫などを参照)。
しかし、中国のこの二つのウェブサイトに掲載された内容には
「蒋介石がルーズベルトのオファーを断り、断った後に、ひどく後悔し、
絶対に口外するなと部下に口止めをした」といった内部情報が生々しく書いてある。
この「拒絶と後悔」および「口止め」の部分は、私が知る限りこの時点までは公になっていなかった。
中国国外でも、これに注目した動きはなかったようだ。
今回の「カイロ密談の舞台裏」に基づいて今日の尖閣問題を読み解く試みは、
何よりもこの情報が中国共産党と中国政府のウェブサイトに書いてある、ということがキーポイントだ。
詳細は2月20日に発売される『チャイナ・ギャップ 噛み合わない日中の歯車』で述べている。
版元の都合を言えば発売後に公開したいところではあろうが、
尖閣諸島を中心とした東シナ海情勢が危険な水域に達し始めたので、思い切ってここで公開させていただく。
(中略)
つまりアメリカが当時の中国(中華民国)に「共同出兵して日本を占領しよう」と申し出たのに、
中国は「出兵に参加しなかった」ということである。
「中華民国」の蒋介石主席は自分が提案した「米中による共同管理」さえ自ら放棄した。
なぜなら毛沢東が率いる中国共産党を倒すことに全力を尽くしていて、
他国の事などに力を注ぐゆとりはなかったからなのである。
カイロ宣言を出す前に蒋介石とルーズベルトの二人だけの間で「会談」があったことは、
一部の関係者や研究者は知っている。ルーズベルトが我々の感覚からすると、
あまりに日本をないがしろにした提案をしたことも、研究論文や書籍に出たことがある。
しかし、蒋介石が「琉球群島はいらない」と、ルーズベルトのプレゼントを拒否してしまったことをひどく後悔し、
「この密談はなかったことにしろ」と部下に命じたことまでは、あまり知られていない。
もちろん、中国人の間では何となく囁かれてはいた。だから筆者もそれを追いかけてきた。
筆者は、この中国側が正式に公表したに等しい「カイロ密談」の内幕を読み解くことによって、
尖閣問題解決の糸口が見い出せるのではないかと考えている。
中国は今、「一つの中国」を大原則としている。
ならば、「中華民国」の主席だった蒋介石が国際舞台で言明したことは引き継ぐべきだろう。
日本は決して清王朝が弱体化したのをいいことにしてその「ドサクサ」に紛れて尖閣諸島を掠め取ったのではない。
中国の楊外交部長は2012年9月、国連総会においてもこの「掠め取った」という言葉を用いて日本を攻撃した。
そして冒頭に書いたように
「カイロ宣言」で釣魚島を含む島嶼は日本に占領されたその他の中国領土と共に中国に返還されたと語った。
しかし事実は全く逆だった。
1943年11月、カイロ密談が行われていたとき、中国(当時の「中華民国」)は権力の絶頂期にあった。
世界の三大強国として米英とともにカイロに集まったほどなのだ。
もし中国がこのとき「尖閣諸島=釣魚島」に関心を持ち、それを「欲しい」と言えば、100%、
ルーズベルトはそれを承認したはずだ。それどころか
ルーズベルトが「琉球全体を中国にあげるよ」と言っているのに、中国が「いらない」と言ったのである。
また「カイロ宣言」にある「一切の島嶼」の中に琉球群島(沖縄県)が入っていない根拠を、
中国にっとって最も権威ある「中国共産党新聞網」と「新華網」に載せているのだから、
現在の中国政府が認めたということになる。(後略)
↑
キ印どもにまんまと嵌められて、後世に禍根を残したのは?
そう、誰あろう「昭和天皇」ですよ。 戦争を全て仕切ったし、戦後政治にも容喙した。
國芳、二枚目、
「鏡山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)」 「忠孝 局岩藤」です。
◆http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201302170000/
櫻井ジャーナル 2013.02.17
◎隕石の落下で被害が出たこともあり、ロシアでは防空システムが議論になっているが、
そのロシアが東アジアの空でアメリカとつばぜり合いを演じている
幅が17メートル、重さは約1万トンと推測される隕石が2月15日にロシアのウラル地方へ落下、
建造物に被害があり、約1200名が負傷したという。
この隕石にミサイルは発射されず、ロシアのドミトリー・ロゴジン副首相は
新しい防空システムが必要だと語ったという。が、弾道ミサイルを撃墜することは現実的でない。
「ミサイル防衛」のシステムが機能するのは、ターゲットが航空機の場合ぐらいだろう。
ところで、ロシア政府も注目しているアメリカの「宇宙兵器」がある。
X-37Bと呼ばれる無人のスペース・シャトルだ。
NASAの開発したX-37A(2004年からDARPAが管理)を改良したものがX-37Bで、所属は空軍。
X-37Bの1号機は2010年4月22日、2号機は11年3月5日に打ち上げられている。
2012年12月11日には1号機が再び打ち上げられ、まだ飛行中のはずである。
何を行っているかは秘密で、軍事衛星や「隕石」を宇宙へ放出することも可能だろう。
その一方、2月7日にロシア空軍のSu-27が2機、北海道の利尻島南西沖の日本領空を侵犯した
と日本の外務省は発表、この際に自衛隊のF-2が迎撃したというが、ロシア側はこの主張を否定している。
そして12日には核兵器を搭載していると思われるロシアの爆撃機Tu-95が2機、
グアムの近くを飛行して米軍のF-15が迎撃したと伝えられている。
このF-15は沖縄の嘉手納基地からグアムへ移動していた戦闘機らしい。
ロシアの爆撃機がグアムまで飛んでくるのは異例のようで、
西太平洋の基地を復活させつつあるアメリカ軍の動きに絡んでの爆撃機飛来なのか、
あるいはアメリカに対する何らかの別の「警告」なのか・・・
冷戦時代は「ソ連脅威論」で飯を食い、ソ連が消滅してからは「中国脅威論」を叫んできた
ONA=最終評価局(ONA : Office of Net Assessment)のアンドリュー・マーシャルを信奉するネオコンは
東アジアの軍事的な緊張を高めようとしている。それに同調する日本人も多い。
そうした動きに対し、開戦になれば中国と日本との「局地戦」ではなく、
ロシアとアメリカを巻き込む全面核戦争になることをロシア政府は示したのかもしれない。
X-37Bが何らかの形で関係している可能性もある。
◆http://tyuubukou.blog.shinobi.jp/Entry/463/
播州武侯祠遍照院 現在別院 {政治向け}2013/02/17
◎明治維新は詐欺。
☆http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201302150000/
櫻井ジャーナル 2013.02.15
当ブログ既報ですw
抜粋終わり
大日本帝国は、「英国詐欺師集団」の傀儡政権だった。
天皇は、維新志士たち(の)妄想の押し付けで、庶民に洗脳を強要した。
それの総決算が、大東亜戦争の敗北だ。
龍馬は、彼らネオコン・英国詐欺師の飼い犬だった。
だが、最後は「大政奉還」という形でかみついたので、殺された。
彼らの戦略を見抜いていた横井小楠も、
それ(を)わかりかけた西郷も、詐術とテロを駆使して殺された。
売国奴の犬が「偉人」とされるのは、明治以降変わらない。
「朝鮮完全併呑」を拒んだ伊藤博文も、
たぶんネオコンに反する行為だっただろうか、暗殺された。
英米にも学ぶところはある。
だが教育制度はじめ、
多くはまねしたら確実に今では日本は滅びるだろう悪魔の連中である。
再見!
國芳、三枚目、
「名誉三十六合戦」 「平親王将門」です。
異形としての明治天皇制、
◆http://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen/e/0bad89b074d5351ddeeda0f23d48fa4b
思索の日記 2013-02-07
◎天皇制ってなんだろう −「私」の生活から考える (1) 武田康弘
より抜粋、
わたしたちの国では、不思議なことに天皇や皇室について考え・語ることはほとんどなく、
ましてその制度を批判的に考え・語ることはタブー視されてきたようです。でも、
古代の天皇制律令政治の時代ならまだしも、近代民主主義の現代においてなお
語りえぬタブーがあるとしたら、ひどく不健康な社会ということになってしまいます。
わたしは、不健康は誰にとってもよくないと思いますので、
健康な少年の心を失わずに語ってみようと思います。
2、3年前のことでしたが、教え子の小学生の典ちゃんが、
「どうしてあいこさまなの? のりと同じ年なのに、へんよ。」と言いました。
まさか「皇室に生まれた子は特別な人なので『さま』と言うの、
あなたは、ふつうの家の子だから『ちゃん』なの。」と言うわけにはいきません。
「うん、確かにおかしいよね、あいこちゃんとうべきだと思うけど、
天皇は神のようなものという古い日本の考えがなかなか変わらないのでね。」と応えましたが、
あなたならどう応えられますか?
同じ疑問を後に「小説の神様」と呼称された白樺派の志賀直哉は、大学時代のノートに記しています。
1906年(明治39年)、23歳の時です。
「天皇とは一体なんだろう? どうして何の為に出来たのだろう? 誠に妙なものだ。
こんな奇妙なものがなければならないのかしら? 天皇というのは恐らく人間ではあるまい、
単に無形の名らしい。その名がそんなにありがたいとは実に可笑(おか)しい
その無形の名の為に死し、その為に税を納めて。
その名の主体たる、一つの平凡なる人間を及びその一族
(交際する事以上何事も知らぬ。交際せんが為に生まれて来た人間)を
ゼイタクに遊ばせて加えてそれを尊敬する、何の事か少しも解らぬ、
そういう人から爵位をもらって嬉しがる、
嬉しがって君のためなら何時でも死す、アア、実に滑稽々々。・・・・」
この後もかなり続き、
「天皇廃止論をして国家の敵!!!になり暗殺されるが、僕に同情するものは一人もいない」
という話と、「そういう筋で小説を書き、発行・発売禁止となり裁判になるが、
僕は親友の法律家と共に裁判で警察をやっつける、愉快だな。・・・
しかし世間の同情を失い、迫害が来る。
僕の子どもまでが小学校から退学させられてしまう。・・・・」
と書かれています。
以上は、政治には疎く社会思想には興味を持たなかった志賀直哉の
「明治天皇から始まった近代天皇制」への嫌悪感の表出ですが、
志賀は他の白樺のメンバーと同じく皇室の藩屏(皇族を守り育てる)としてつくられた
学習院で学びましたので、日々、皇族と接していての率直な思いだったようです。
すなおで純粋な心の小学生や、全身が鋭利な感覚神経のような若き志賀直哉が
異議を唱えた天皇・皇室という存在について、
千代田区神田に生まれ育ったわたし(学校は越境入学で文京区でしたが)もまた、
皇居前を通るたびにヒドイ違和感を覚えたものです。
日比谷の子ども図書館に行く途中、いつも、なぜ一つの家族がこんなに広い場所を占有しているのか?
と気持ちが悪くなりました。小学校で『皇居』は知将の太田道灌が建てた『江戸城』のことだ
と教わっていましたから、「天皇家とは何の関係もないのにおかしい!
天皇が中心の『大日本帝国憲法』から国民主権の『日本国憲法』に変わったのに、
いつまでも居続けるのは許せない」と友人と話し、
「天皇一家は京都に帰り、江戸城はみんなが遊べる公園にすべし!」と幼いながら正論を吐きました。
少し脱線しますが、戦後はじめての神田祭の日に神田で生まれたわたしは、
初参りも七五三も結婚式もみな神田明神(かんだみょうじん)で行いました。
神田明神は将門を祀った神社です。関東地方では一番人気の平将門は、
日本の歴史上ただ一人京都の天皇に反旗を翻し、自ら新皇を名乗った民衆の英雄でした。
彼は、下総国石井(現・茨城県岩井)で朝廷軍に敗れてさらし首にされましたが、伝説では、
その首を京都からひそかに縁者が持ち帰り、残党狩りの厳しい下総を避けて
現在の大手町に葬ったとされます。それがいまも残る将門塚です。
将門死後360年に時宗の真教上人
(他力念仏門・法然の孫弟子で一遍を継いで踊念仏を広めた・徹底した民衆主義の遊行僧)が
「蓮阿弥陀仏」(れんあみだぶつ)という法号を与え、供養し、
その霊を祀るために荒れ果てた社を改修して「神田明神」としました。
神社は、徳川家康が江戸城に入った時に現在の場所に移転しましたが、
塚だけはそのまま残されました。ここから不思議なことが起きます。
関東大震災の時、この塚は崩れ同じ敷地にあった大蔵省庁舎も全焼しましたが、
復興の時に塚を取り崩し池を埋めて仮庁舎を建てたところ、
大蔵大臣が病死、現職の課長ら十数人が死亡し、庁舎内ではケガ人が続出したため、
「タタリ」であるとの噂が広まり、塚を復元して慰霊祭が行われたのです。
その後、敗戦の年に米軍が塚の周辺に駐車場を造ろうとしましが、
ブルドーザの運転手が墓のようなものの前で転落して死亡する事件が起き、
塚はまたも破壊されずに残りました。というわけで、現在に至るもこの将門塚は畏敬の対象であり、
新年には必ず近くの大企業の代表者たちが参拝しています。
また、将門を主祭神とする「神田明神」は、江戸時代には江戸の総鎮守とされ、
徳川家の信仰も篤かったのですが、王政復古の明治となり、
天皇に反逆した将門を祀ることへの強い批判が出ました。ところが明治天皇は、明治7年に参拝します。
これは極めて異例のことで、天皇が東京の神社を参拝したのは、
明治政府がつくった天皇教の総本山である「靖国神社」以外では、神田明神のみです。
明治天皇は将門のタタリを恐れたのでしょう。
このようなわけで、関東地方と天皇家とは折り合いが悪いのです。
いつまでも江戸城に住まわれるのはよろしくないと思います。
脱線しましたので、話を戻します。
生きている人間を神格化し、また特定の家の子を生まれながらにして特別な人間として遇するというのは、
現代のふつうの生活感覚をもつ人にとってはなんとも釈然とせず、理クツが通らぬことですが、では、
なぜ、わが日本の政府は近代になってこのような新興宗教のような思想(天皇教=靖国思想)をつくり
国民を教化したのでしょうか。次にそれについて考えてみたいと思います。
(続く)
(1)の続きです。
幕末にはじめて黒船を間近に見た日本人は、西洋文明の高さに驚愕あるいは感動したと言われますが、
このショックは、欧米の進んだ文明がどこからくるのかを考えさせました。
伊藤博文は憲法を研究するためにヨーロッパに行き、
宗教がなければ憲法をつくっても意味がないことを知りますが、
わが国にはキリスト教のような強い宗教=一神教がないので、その代わりとして、
幕末に武士たちが心酔した尊王思想(日本は神国であり天皇は現人神)を用い、
皇室を利用して天皇を神とする新宗教をつくることを思いつきます。
「憲法を制定するにあたっては基軸を定めなければならず、それはヨーロッパでは宗教であるが、
日本では基軸となるべき宗教がない。わが国において基軸とすべきは独り皇室あるのみ。」
と伊藤博文は1888年(明治21年)に枢密院で演説しています。
翌年には、
「将来、いかなる事変に遭遇するも天皇は、上元首の位を保ち、決して主権は民衆に移らない。」
と府県会の議長たちに説示しました。
彼は、神の前の平等という欧米の民主主義に倣って、
天皇の前の平等という日本的民主主義をつくったのですが、
尊王思想をバックボーンとした「天皇教」を創作したことで、
日本はアジアで唯一の資本主義国となり、天皇の恩寵(おんちょう・上からの恵み)として
一定の民主化にも成功しました。
このように日本の近代化は、キリスト教思想のかわりに天皇教思想を用いて遂行されました。
憲法制定による人権と民主主義の政治と資本主義経済という『近代化』には
強い宗教が不可欠であることを見抜いた伊藤博文の慧眼が、
わが国を歴史上例をみないスピードで近代国家へと押し上げたと言えるでしょう。しかし、
天皇教思想はまた、戦争や植民地政策の正当化と、
わたしたち日本人に世界にも稀な「精神の負債」(哲学の貧困)をつくり出し、
現在に至るも個人の生の輝きを奪う「不幸」を生み続けています。
明治前半期までは国民の過半数の支持を得ていた自由民権運動は、
伊藤博文、山県有朋、桂太郎らにより明治天皇を中核とする保守政治の敵とされ、
「民権運動の息の根を止める」という根絶やし戦略により潰されました。
個々人の自立、一人ひとりのかけがえのない人生という考え方は後景に追いやられ、
「公=天皇=国家」のためを当然とする国体思想で全国民は一つにされたのです。
まことに天皇教とは竹内芳郎さん(哲学者)の言う通り、日本的集団同調主義の別名だと言えます。
このような考え方は、今日の保守政治家にも引き継がれています。
もし太平洋戦争による敗北がなければ、
天皇教者たちによる保守政治は今日までそのまま続いていたわけですが、
現代の保守主義をかかげる政治家も思想の本質は同じで
【国体思想】(多様な人々の自由対話によりつくられる政治=社会契約に基づく近代民主主義を嫌い、
天皇制を中心とする日本というあるべき姿の枠内に個々人を位置付かせるという国家主義。
従ってその枠外の人間は非国民となる)なのです。
戦前との違いはハードかソフトかだけです。
では、明治政府作成の新興宗教と言うべき『天皇教』とはいかなるものなのか、
それを「靖国神社」の理論的重鎮である小堀桂一郎さん(東京大学名誉教授)に聞いてみましょう。
「靖國神社の誕生は、官軍(天皇側の軍)の東征軍(江戸を征伐する軍)の陣中慰霊祭からはじまったのです。
慶応四年(1868年)5月、まだ京都にあった新政府の行政官である太政官府からの布告で、
嘉永六年(1853年)のペリー来航以来の「殉教者」の霊を祀ることが書かれています。
「殉教者」とは「皇運の挽回」のために尽力した志士たちのことで、その霊魂を「合祀」するという考えです。
またこの布告には、合祀されるのは、今度の兵乱のために斃れた者たちだけではなく、今後も皇室のため、
すなわち国家のために身を捧げた者である、と明示されています。
靖國神社は、陣中の一時的な招魂祭にとどまることなく、
王政復古、【神武創業の昔に還る】という明治維新の精神に基づいて
お社(やしろ)を建立した点に特徴があります。・・
靖國神社の本殿は、あくまでも当時の官軍、つまり新政府の為に命を落とした人達をおまつりするお社である、
という考えで出発したのであり、それは非常に意味のあることだと思うのです。
日本の国家経営の大本は、「忠義」という徳ですが、この「忠」というのは、
「私」というものを「公」(天皇)のために捧げて、ついに命までも捧げて「公」を守るという精神です。
この「忠」という精神こそが日本を立派に近代国家たらしめた精神的エネルギー、
その原動力にあたるだろうと思います。・・
その意味で靖國神社の御祭神は、国家的な立場で考えますと、
やはり天皇の為に忠義を尽くして斃れた人々の霊であるということでよいと思います。」
以上の小堀桂一郎さんの解説(靖国神社売店の最前列にあるパンフレット『靖国神社を考える』より)で
「天皇教」とは「靖国思想」と同義であることがよく分かります。
なお、ここで、【神武創業の昔に還る】と言われている神武天皇とは、初代天皇とされる架空の人物ですが、
その伝説は以下の通りです。
「日本書紀、古事記によると、初代天皇とされる神武天皇(在位:前660年〜前585年)は
日向(宮崎)地方から、瀬戸内海を東に進んで難波(大阪)に上陸しましたが、
生駒の豪族に阻まれたため、南下して熊野に回りました。
そこで出会った3本足の「八咫烏」(やたがらす)というカラスに導かれて、
吉野の険しい山を越えて大和に入り、周辺の勢力も従えて、大和地方を平定しました。
そして、紀元前660年の1月1日に橿原宮で即位し、初代の天皇になりました」
{奈良県橿原(かしはら)市のホームページより}。
神武の在位は75年間、126歳の長寿で、弥生時代前期の人ということになります。
時間・歴史をも天皇教に合致させるというのが「紀元節」ですが、明治5年(1872年)に、
神武天皇が即位したとされる2月11日(太陽暦換算)を紀元節の祝日とし、
西暦より660年も古いことを誇りました。世界の中心は日本の天皇である。という思想は、
田辺元(天皇制は宇宙の原理と合致する)や西田幾太郎(国体は、皇室を中心にリズミカルに統一されてきた)
という戦前を代表する哲学教授たちが主張し広められましたが、紀元節と共に戦後は一旦は廃止されました。
しかし、1967年に多くの反対を押し切って佐藤自民党内閣は2月11日を建国記念の日として祝日とし、
「紀元節」復活に道をつけました。ここには、
自民党など保守派政治家の根深い「天皇教」への思いがあらわれていますが、
これは「靖国神社」を敬愛することと軸を一にしているのです。
自民党は、現『日本国憲法』を廃棄して新たな憲法をつくることを「党の約束」としています。
それは、彼らが天皇教を引きずる国体思想から抜けられないことをあらわしています。
安倍首相は、自著『美しい国へ』で
「日本の歴史は、天皇を縦糸として織られてきた長大なタペストリー(綴織つづれおり)で、
日本の国柄をあらわす根幹が天皇制である。」と述べていますが、これは、
《人間存在の対等性に基づき、互いの自由を承認し合うことでつくられるルール社会》
という近代民主主義の原則とは明らかに矛盾します。
「歴史的に天皇が中心の時代があった」というのではなく、市民社会が成立した後の現代もなお
「天皇制が国の根幹である」としたのでは、「おじさん、勝手に言ってれば〜〜」の世界でしかありませんが、
どうも「哲学の貧困」のわが国では、
このような国体思想が跋扈(ばっこ・のさばり、はびこること)してしまうので危険です。
なお、ここで注意しなければならないのは、明治からの天皇制とは、伊藤博文が中心となってつくった
近代天皇制=天皇教のことであり、それ以前の日本の歴史・伝統とは大きく異なるということです。
明治政府は、皇室独自の儀式に拠る「皇室神道」と「神社神道」を直結させて
新たな政治神道=国家神道をつくったのですが、これは、
日本古来の八百万の神=「多神教」を、天皇を現人神とする「一神教」に変えてしまい、
祭司にすぎなかった天皇が現人神(あらひとがみ)となったのですから、ビックリ仰天!
というほかありません。
敵・味方の区別なく祀るという神道の教義も、味方だけを祀ると変更。
なんとも凄まじい宗教改革ですが、これを官僚政府が政治権力を用いて徹底させたのですから、
いまなお、わたしたち日本人が「私」からはじまる思想を恐れ、受験知や事実学だけを貯め込み、
また「もちはもちや」と小さく固まってしまう生き方になるのも頷(うなず)けます。
北朝鮮の比ではありません。将軍ではなく現人神なのですから。
誰もが知る通り、太平洋戦争での敗戦により、一旦はこの天皇教は明確に否定されました。
1946年に天皇の裕仁は、「天皇を現人神とし、日本民族を他の民族に優越するものというのは誤り」とし、
天皇は人間であるとするいわゆる「人間宣言」を出しましたが、
こんな珍妙な宣言をせざるをえないまでにわが日本人の意識は深く犯されてきたわけです。
皇室の祭祀と政治を直結させていた天皇の祭祀大権は、『日本国憲法』の誕生により否定され、
皇室祭祀は完全に天皇家の【私事】となりました。
第5条―天皇は国政に関する権能を有しない。
第20条―国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない。
けれども、天皇家と国家とを結びつけることで日本国は成立すると考える保守的な政治家は、
「天皇の男系DNAを守れ!」との言に象徴されるように
敗戦による大改革を反故(ほご)にすることに激しい情熱を燃やし、既成事実の積み重ねにより
成し崩し的に天皇教を復活させようとしてきたのです。
いまに至る戦後の有力政治家の大部分は、戦前の権力者たちの子孫ですが、
それにしても、敗戦による新しい日本を「戦後レジーム(体制)」と否定的に捉え、
これを終わらせることを最大の使命だとする首相が現れるまでになったのですから、クワバラクワバラです。
では、次に、天皇教は私たち日本人にどのように作用しているかを書きましょう。
国の近代化のために、キリスト教のかわりに天皇教を用いたことは、
「私」を消去してしまい、底しれぬ「精神の不幸」からの脱出を困難にしている、
とわたしは見ていますが、聖書に象徴される豊かな内容をもつキリスト教とは逆に、
まったく内容のない宗教である天皇教(教典すらなく、型・儀式だけがある)は、
日本人の無意識領域までも犯しているために、これを顕在化させるのはなかなか大変です。
(続く)
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全てに同意はできぬが、いいとこ突いてはおる。
「菊のカーテン」をめくってみれば、なんという事もなしだ。
壮大な騙しの仕掛けだった、ということですよ。 洗脳から覚醒すべきです、よろずここからだ。