画は谷内 六郎(たにうち ろくろう)
1921年(大正10年)〜1981年(昭和56年)
日本の画家、 「週刊新潮」の創刊号から表紙絵を担当。 作
「北風とぬりえ」より「夜の公衆電話」です。
☆晴れ、冷え込み一段と。
昨日もご観覧、4,957PV とのことで、連休中にもかかわらず、
ありがとうございます。
さて、北鮮よりも中東情勢ではないのか、同じ書き出しですが、
◆http://japanese.ruvr.ru/2011/12/24/62811459.html?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter
ロシアの声 24.12.2011,
◎イラン ホルムズ海峡で大型軍事演習開始
イランは24日、ホルムズ海峡東部からアデン湾の水域で大規模な海上軍事演習を開始した。
コードネーム「ヴェラヤート90」の軍事演習は10日間にわたって行われ、
水上艇、潜水艦、無人飛行艇、沿岸砲兵隊が参加する。
英BBCラジオの報道では、演習では新型ミサイルや魚雷が用いられる。
イランの演習水域に程近い地点には米国の空母「ジョン・ステンニス」が待機している。
ペルシャ湾とオマーン湾をつなぐホルムズ海峡は戦略的意味が大きい上、
世界の石油の4割以上が通過する海上交通路としても重要な位置を占めている。
↑
中東、つまりシリア、イランですよ。
イスラエルのイラン攻撃にはロシア、支那が共同で? 対処するようです。
ロシアは反プーチンデモ(裏にはユダ金)から国民の目をそらす恰好の作戦になる。
やるでしょう。 だからイスラエルの暴発が怖い、一挙に第三次世界大戦突入もありうる。
目が離せませんよ、 戦争経済で一気に借金踏み倒しの悪謀が企図されておる可能性大だ。
谷内 六郎、二枚目、
右「リンゴのサンタさん」、左「シーッ おとなりに来てる」です。
キムチ菅の後ろには「米帝」がいたのですよ、今もいます、
◆http://blog.goo.ne.jp/tarutaru22/e/1c8a27932b90a557d9a83aa225592c97
暗黒夜考〜崩壊しつつある日本を考える〜 2011年12月25日
◎【福島第1原発事故】 握りつぶされた「最悪シナリオ」 〜半径250キロ圏が強制移住レベルとの試算〜
___________________________________________________
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111224-00000034-mai-soci
毎日新聞 12月24日(土)
◎<福島第1原発>「最悪シナリオ」原子力委員長が3月に作成
東京電力福島第1原発事故から2週間後の3月25日、菅直人前首相の指示で、
近藤駿介内閣府原子力委員長が「最悪シナリオ」を作成し、菅氏に提出していた
ことが複数の関係者への取材で分かった。
さらなる水素爆発や使用済み核燃料プールの燃料溶融が起きた場合、
原発から半径170キロ圏内が
旧ソ連チェルノブイリ原発事故(1986年)の強制移住地域の汚染レベルになると試算していた。
近藤氏が作成したのはA4判約20ページ。第1原発は、全電源喪失で冷却機能が失われ、
1、3、4号機で相次いで水素爆発が起き、2号機も炉心溶融で放射性物質が放出されていた。
当時、冷却作業は外部からの注水に頼り、特に懸念されたのが1535本(原子炉2基分相当)の
燃料を保管する4号機の使用済み核燃料プールだった。
最悪シナリオは、1〜3号機のいずれかでさらに水素爆発が起き原発内の放射線量が上昇。
余震も続いて冷却作業が長期間できなくなり、4号機プールの核燃料が全て溶融したと仮定した。
原発から半径170キロ圏内で、土壌中の放射性セシウムが1平方メートルあたり148万ベクレル以上
というチェルノブイリ事故の強制移住基準に達すると試算。
東京都のほぼ全域や横浜市まで含めた同250キロの範囲が、避難が必要な程度に汚染されると推定した。
近藤氏は「最悪事態を想定したことで、冷却機能の多重化などの対策につながったと聞いている」と話した。
菅氏は9月、毎日新聞の取材に「放射性物質が放出される事態に手をこまねいていれば、
(原発から)100キロ、200キロ、300キロの範囲から全部(住民が)出なければならなくなる」
と述べており、近藤氏のシナリオも根拠となったとみられる。
___________________________________________________
この手の国家権力にとって都合の悪い情報が、今回のクリスマスイブのように世間の意識が他にいっているような時に
こっそりと報じられるのは毎度のことである。
で、今回、当時の菅政権と原子力委員が「最悪のシナリオ」として試算しつつ握りつぶしていたのが、
上記記事にあるように、東日本のほぼ全域が壊滅的な放射能汚染に苛まれるという代物である。
事態がそのレベルにまでは至らなかったからよいものの、
事故当時、東日本に暮らす多くの住民が深刻な放射能汚染に晒されるという、極めて危険な状態にあったということである。
即ち、最悪の場合、東日本に暮らす住民は政府から何も知らされないまま、その大多数が被曝しても仕方なし
との判断が下されていたということである。
早い話、「棄民」として見捨てられる可能性があったということである。
今になってこのような重大な情報が報道された訳であるが、これは既に過ぎ去った危機・昔話ではなく、
何かの弾みでフクシマ原発が上記にあるような危機的状況に陥ることがあっても不思議ないとみるべきであろう。
今後、「F1」(福1)の廃炉作業の過程で何が起きるかは予断を許さず、
仮にF1が再び東日本大震災級の地震に襲われれば、一気に事態が悪化することも想定するべきであろう。
それにしても、「最悪シナリオ」の強制移住地域の範囲図をみると、
以前のエントリーに取り上げた”未来からの使者”ジョン・タイターの予言どおりであり、薄ら寒さを覚える次第である。
甘すぎる暫定基準値により汚染食材を全国に流通させると共に、汚染瓦礫を全国にばら撒くことにより、
多くの国民を被曝させんとする現政府は、日本全土を崩壊させようとしているとしか思えない
”愚行”蛮行”の限りを尽くしているが、なるほど、3月の時点で少なくとも東日本に暮らす国民は既に見捨てられていたのである。
一度は見捨てることも想定した東日本の国民であれば、現在、福島県を中心に行われている
「低線量被曝人体実験」としか思えない”蛮行”も十分に合点がいく話である。
国家権力というものは、いざとなれば国家の保全を最優先し、
国民がどうなろうが知ったことではないということを、我々国民は肝に銘じるべきである。
我々は「国が何とかしてくれる」という”無駄な希望””儚い願望”などとっとと捨てて、
自分と家族の身の安全は自分自身で守るという意識を持つことが何よりも重要であろう。
↑
菅、野豚は小泉チョン一郎同然の売国御三家ですから、ダメリカの犬コロです。
来年の大命題は「政権交代」のやり直し、ですね。
小沢よ、新党結成で政界大再編の幕を切って落とせ! あんたの最後の勝負になるだろう。
もう国民の忍耐も限界に近づきつつあるわ、重い腰を上げろ!
谷内 六郎、三枚目、
右「暮」、左「船の子のクリスマス」です。
◆http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0328.html
松岡正剛と千夜千冊【0328】 2001年7月4日
◎谷内六郎『北風とぬりえ』
ぼくの周辺には小さな谷内六郎が何人もいる。
そういう絵を描いたり、そういう写真を撮ったり、そういうオブジェをつくる。
ぼくの日々の近くにいるごく親しい者たちだ。
そのことをおもうと、これまでの生活の仕方も悪くなかったとおもえるほど、このことにホッとする。
しかし、本物の谷内六郎にはやはりかなわない。そこでときどきは谷内六郎の絵を見る。
すると、もっとホッとする。シャガールではこうならないし、ムーミンでもこうならない。
けれども、谷内六郎の少年時代そのものを覗いたことはなかった。
そうしたいとはおもっていたが、そういう機会がなかった。
本書でそれが果たせてホッとした。本書は谷内六郎が自分の少年期を思い出して絵と文を書いているからだ。
いつもホッとするためだけに谷内六郎に出会っているようだが、もう少し深い共感も少なくない。
本書には『虫郎物語』と『北風とぬりえ』が収録されている。
いずれも少年期の記憶にもとづいて少しずつ描き、少しずつ綴ったものらしく、
これまでまとめて発表されていなかった。
『虫郎物語』は「びんの色」で始まる。お使いで酒屋でビールを買って帰るとき、
ビール瓶に目をくっつけてあたりを見ると、風景が赤茶けて江戸時代のように見え、
草むらには勤皇の志士がうごめいて見えたり、関東大震災のような恐ろしい光景にもなるという話である。
そういう話が1話120〜140字ずつ綴ってあって、それに一枚ずつの絵がついている。
モノクロで描いたものに本人がのちに着色したのだという。
床屋で見た雑誌の中の大杉栄虐殺のニュース、兄がつくるカルメ焼が待ちどおしい話、
サーカスのクラリネットに聞いたこと、向かいの西洋館で感じた幻想、
言葉でいえないほど華やかだった正月の記憶、日だまりの匂いのする日光写真、人さらいに脅えた思い出、
そういうことが次々に紙芝居のように描かれる。
『北風とぬりえ』のほうは、ひとつひとつの文章が長い。それに1枚ずつのファンタジックな絵がついている。
主人公はやはり虫郎で、谷内自身である。少年時代の幻視の光景がそうとうに詳細に綴られている。
柱時計だけがボーンぼーんと鳴る部屋で、ボール紙の中に入れたおもちゃの汽車が
壊れかかっているのを見ているうちに生まれてくる幻想。そこへやってくる小さな坑夫たちや大工さん。
その汽車のついている窯から出てきそうな蒸気。いつかやってきた富山の薬屋さんが話してくれた汽車とラッパの話。
その汽車が結局は柱時計の中に入ったりする幻想。そういう話が次から次に思い出されている。
風呂屋に行くと、時代劇のポスターや映画館や洗濯屋さんや薬屋さんのプレートや張り紙が貼ってある。
それを見ているとその中に入っていってしまう。風呂屋からの帰り道には月も踊っているし、
豆屋のそばの池にはブリキ製のボンポン船がローソクにゆらめている。どこにだって物語が待っていた。
虫郎は貧しい家に育っている。母親は造花の内職をしていた。
その造花はケーキの上に飾るというもので、それを想像するだけで虫郎にはいくつもの御伽噺が仕上がった。
その造花の仕事を頼んできた西田さんというお金持ちからは、ときたまいい匂いのする飲み物が運ばれる。
きっとソーダ水のようなものなのだろうが、虫郎はその色を見ながら恍惚となる。
そしてかつて遊んだシャボン玉とソーダ水がどこかで一緒になっていく。
小学校を出ると、近所のブリキ建ての工場に働きに出る。電球工場である。
ここにもたくさんの冒険と恐怖が待っていた。電球の中のフィラメントはティンカーベルであり、
ガラス球は天体そのものだし、電気そのものが魔法であった。
それでも貧しいので虫郎は豆屋でパラフィン紙の袋をつくることになった。そのパラフィン紙が美しい。
ともかくなにもかもが夢なのである。
谷内六郎という人、その夢をいつまでも憶えている。そして、それをそっくり絵にできた。
絵は好きだった。町角のペンキ屋に奉公に出たこともあった。
泥絵具をニカワでといて、立看板の絵を塗りたくる。
5円の給金は安かったので、賞金10円の漫画募集に応募することにした。似顔絵にも応募した。
ときどき賞金が入ってきたが、画用紙と絵具を買えるぶんを残してお母さんに渡した。
そのうち絵を送った浅草橋のオモチャ問屋が虫郎の絵を使うと言ってきた。
児童用のカバンの絵付けに使うということだった。
虫郎はそのオモチャ屋の問屋の屋根裏に住みこむことにした。
「ぬりえ」がいっぱい倉庫に眠っていた。戦争が間近い16歳のころのことである。
谷内六郎の絵と文は、時代を少しずつ進むようで、どこかで折り返してしまう。
たいていは16、7歳で折り返しがやってくる。そこまでが谷内の少年時代なのである。
そこから先は、ない。
このこと、とてもよくわかる。ぼくの場合は少年時代は中学3年までである。
そこまでの話はたしかに何度も折り返しがあり、折り畳まれてはまた開かれ、
また何度となくそのうえに色が塗られている。そこで思いついたシュルレアルな幻想は、
その先まで発展していったマックス・エルンストやアンドレ・マッソンとはちがって、
その時点のままに折り紙になっていく。
それが谷内六郎なのである。ぼくは中学3年をすぎて東京に出てしまい、そこで未熟な大人になっていった。
そしてドストエフスキーなどに出会うことになる。折り紙は潰れた。
けれども虫郎こと六郎は、折り紙をつくりつづけた。
谷内六郎はイディオ・サパンではない。「少年」の幻視を描きつづける才能の持ち主なのである。
下町のヒルデガルトであって、ぬりえの宮沢賢治だった。
その谷内六郎に「週刊新潮」がおもいのたけだけ夢を見てもらおうと決断したのは、
日本のメディア史上の画期的な英断だった。考えられるかぎりの最高のギャラリーだった。
おそらく大半の日本人はその不思議な絵の世界に共感をおぼえたにちがいない。
そこには「日本の少年」というものの決定的な原型があったからである。
けれどもその谷内がどんな少年期を送ったかは、おそらくは知られていない。
本書はそれを知る唯一の「よすが」ではないかとおもう。 ぼくは泣いてしまった。
*イディオ サヴァン(仏語 idiot savant)
知能指数は障害児と判定されるレベルでありながら、
絵画や記憶などのある特定の事柄において
天才的な能力を発揮する人。俗に「専門ばか」
*ヒルデガルト・フォン・ビンゲン(1098年 - 1179年)は、
中世ドイツのベネディクト会系女子修道院長であり神秘家、作曲家。
40歳頃に「生ける光の影」(umbra viventis lucis)の幻視体験(visio)をし、
女預言者とみなされた。
↑
しみじみとしたいい文章だと思います。
1921年(大正10年)〜1981年(昭和56年)
日本の画家、 「週刊新潮」の創刊号から表紙絵を担当。 作
「北風とぬりえ」より「夜の公衆電話」です。
☆晴れ、冷え込み一段と。
昨日もご観覧、4,957PV とのことで、連休中にもかかわらず、
ありがとうございます。
さて、北鮮よりも中東情勢ではないのか、同じ書き出しですが、
◆http://japanese.ruvr.ru/2011/12/24/62811459.html?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter
ロシアの声 24.12.2011,
◎イラン ホルムズ海峡で大型軍事演習開始
イランは24日、ホルムズ海峡東部からアデン湾の水域で大規模な海上軍事演習を開始した。
コードネーム「ヴェラヤート90」の軍事演習は10日間にわたって行われ、
水上艇、潜水艦、無人飛行艇、沿岸砲兵隊が参加する。
英BBCラジオの報道では、演習では新型ミサイルや魚雷が用いられる。
イランの演習水域に程近い地点には米国の空母「ジョン・ステンニス」が待機している。
ペルシャ湾とオマーン湾をつなぐホルムズ海峡は戦略的意味が大きい上、
世界の石油の4割以上が通過する海上交通路としても重要な位置を占めている。
↑
中東、つまりシリア、イランですよ。
イスラエルのイラン攻撃にはロシア、支那が共同で? 対処するようです。
ロシアは反プーチンデモ(裏にはユダ金)から国民の目をそらす恰好の作戦になる。
やるでしょう。 だからイスラエルの暴発が怖い、一挙に第三次世界大戦突入もありうる。
目が離せませんよ、 戦争経済で一気に借金踏み倒しの悪謀が企図されておる可能性大だ。
谷内 六郎、二枚目、
右「リンゴのサンタさん」、左「シーッ おとなりに来てる」です。
キムチ菅の後ろには「米帝」がいたのですよ、今もいます、
◆http://blog.goo.ne.jp/tarutaru22/e/1c8a27932b90a557d9a83aa225592c97
暗黒夜考〜崩壊しつつある日本を考える〜 2011年12月25日
◎【福島第1原発事故】 握りつぶされた「最悪シナリオ」 〜半径250キロ圏が強制移住レベルとの試算〜
___________________________________________________
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111224-00000034-mai-soci
毎日新聞 12月24日(土)
◎<福島第1原発>「最悪シナリオ」原子力委員長が3月に作成
東京電力福島第1原発事故から2週間後の3月25日、菅直人前首相の指示で、
近藤駿介内閣府原子力委員長が「最悪シナリオ」を作成し、菅氏に提出していた
ことが複数の関係者への取材で分かった。
さらなる水素爆発や使用済み核燃料プールの燃料溶融が起きた場合、
原発から半径170キロ圏内が
旧ソ連チェルノブイリ原発事故(1986年)の強制移住地域の汚染レベルになると試算していた。
近藤氏が作成したのはA4判約20ページ。第1原発は、全電源喪失で冷却機能が失われ、
1、3、4号機で相次いで水素爆発が起き、2号機も炉心溶融で放射性物質が放出されていた。
当時、冷却作業は外部からの注水に頼り、特に懸念されたのが1535本(原子炉2基分相当)の
燃料を保管する4号機の使用済み核燃料プールだった。
最悪シナリオは、1〜3号機のいずれかでさらに水素爆発が起き原発内の放射線量が上昇。
余震も続いて冷却作業が長期間できなくなり、4号機プールの核燃料が全て溶融したと仮定した。
原発から半径170キロ圏内で、土壌中の放射性セシウムが1平方メートルあたり148万ベクレル以上
というチェルノブイリ事故の強制移住基準に達すると試算。
東京都のほぼ全域や横浜市まで含めた同250キロの範囲が、避難が必要な程度に汚染されると推定した。
近藤氏は「最悪事態を想定したことで、冷却機能の多重化などの対策につながったと聞いている」と話した。
菅氏は9月、毎日新聞の取材に「放射性物質が放出される事態に手をこまねいていれば、
(原発から)100キロ、200キロ、300キロの範囲から全部(住民が)出なければならなくなる」
と述べており、近藤氏のシナリオも根拠となったとみられる。
___________________________________________________
この手の国家権力にとって都合の悪い情報が、今回のクリスマスイブのように世間の意識が他にいっているような時に
こっそりと報じられるのは毎度のことである。
で、今回、当時の菅政権と原子力委員が「最悪のシナリオ」として試算しつつ握りつぶしていたのが、
上記記事にあるように、東日本のほぼ全域が壊滅的な放射能汚染に苛まれるという代物である。
事態がそのレベルにまでは至らなかったからよいものの、
事故当時、東日本に暮らす多くの住民が深刻な放射能汚染に晒されるという、極めて危険な状態にあったということである。
即ち、最悪の場合、東日本に暮らす住民は政府から何も知らされないまま、その大多数が被曝しても仕方なし
との判断が下されていたということである。
早い話、「棄民」として見捨てられる可能性があったということである。
今になってこのような重大な情報が報道された訳であるが、これは既に過ぎ去った危機・昔話ではなく、
何かの弾みでフクシマ原発が上記にあるような危機的状況に陥ることがあっても不思議ないとみるべきであろう。
今後、「F1」(福1)の廃炉作業の過程で何が起きるかは予断を許さず、
仮にF1が再び東日本大震災級の地震に襲われれば、一気に事態が悪化することも想定するべきであろう。
それにしても、「最悪シナリオ」の強制移住地域の範囲図をみると、
以前のエントリーに取り上げた”未来からの使者”ジョン・タイターの予言どおりであり、薄ら寒さを覚える次第である。
甘すぎる暫定基準値により汚染食材を全国に流通させると共に、汚染瓦礫を全国にばら撒くことにより、
多くの国民を被曝させんとする現政府は、日本全土を崩壊させようとしているとしか思えない
”愚行”蛮行”の限りを尽くしているが、なるほど、3月の時点で少なくとも東日本に暮らす国民は既に見捨てられていたのである。
一度は見捨てることも想定した東日本の国民であれば、現在、福島県を中心に行われている
「低線量被曝人体実験」としか思えない”蛮行”も十分に合点がいく話である。
国家権力というものは、いざとなれば国家の保全を最優先し、
国民がどうなろうが知ったことではないということを、我々国民は肝に銘じるべきである。
我々は「国が何とかしてくれる」という”無駄な希望””儚い願望”などとっとと捨てて、
自分と家族の身の安全は自分自身で守るという意識を持つことが何よりも重要であろう。
↑
菅、野豚は小泉チョン一郎同然の売国御三家ですから、ダメリカの犬コロです。
来年の大命題は「政権交代」のやり直し、ですね。
小沢よ、新党結成で政界大再編の幕を切って落とせ! あんたの最後の勝負になるだろう。
もう国民の忍耐も限界に近づきつつあるわ、重い腰を上げろ!
谷内 六郎、三枚目、
右「暮」、左「船の子のクリスマス」です。
◆http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0328.html
松岡正剛と千夜千冊【0328】 2001年7月4日
◎谷内六郎『北風とぬりえ』
ぼくの周辺には小さな谷内六郎が何人もいる。
そういう絵を描いたり、そういう写真を撮ったり、そういうオブジェをつくる。
ぼくの日々の近くにいるごく親しい者たちだ。
そのことをおもうと、これまでの生活の仕方も悪くなかったとおもえるほど、このことにホッとする。
しかし、本物の谷内六郎にはやはりかなわない。そこでときどきは谷内六郎の絵を見る。
すると、もっとホッとする。シャガールではこうならないし、ムーミンでもこうならない。
けれども、谷内六郎の少年時代そのものを覗いたことはなかった。
そうしたいとはおもっていたが、そういう機会がなかった。
本書でそれが果たせてホッとした。本書は谷内六郎が自分の少年期を思い出して絵と文を書いているからだ。
いつもホッとするためだけに谷内六郎に出会っているようだが、もう少し深い共感も少なくない。
本書には『虫郎物語』と『北風とぬりえ』が収録されている。
いずれも少年期の記憶にもとづいて少しずつ描き、少しずつ綴ったものらしく、
これまでまとめて発表されていなかった。
『虫郎物語』は「びんの色」で始まる。お使いで酒屋でビールを買って帰るとき、
ビール瓶に目をくっつけてあたりを見ると、風景が赤茶けて江戸時代のように見え、
草むらには勤皇の志士がうごめいて見えたり、関東大震災のような恐ろしい光景にもなるという話である。
そういう話が1話120〜140字ずつ綴ってあって、それに一枚ずつの絵がついている。
モノクロで描いたものに本人がのちに着色したのだという。
床屋で見た雑誌の中の大杉栄虐殺のニュース、兄がつくるカルメ焼が待ちどおしい話、
サーカスのクラリネットに聞いたこと、向かいの西洋館で感じた幻想、
言葉でいえないほど華やかだった正月の記憶、日だまりの匂いのする日光写真、人さらいに脅えた思い出、
そういうことが次々に紙芝居のように描かれる。
『北風とぬりえ』のほうは、ひとつひとつの文章が長い。それに1枚ずつのファンタジックな絵がついている。
主人公はやはり虫郎で、谷内自身である。少年時代の幻視の光景がそうとうに詳細に綴られている。
柱時計だけがボーンぼーんと鳴る部屋で、ボール紙の中に入れたおもちゃの汽車が
壊れかかっているのを見ているうちに生まれてくる幻想。そこへやってくる小さな坑夫たちや大工さん。
その汽車のついている窯から出てきそうな蒸気。いつかやってきた富山の薬屋さんが話してくれた汽車とラッパの話。
その汽車が結局は柱時計の中に入ったりする幻想。そういう話が次から次に思い出されている。
風呂屋に行くと、時代劇のポスターや映画館や洗濯屋さんや薬屋さんのプレートや張り紙が貼ってある。
それを見ているとその中に入っていってしまう。風呂屋からの帰り道には月も踊っているし、
豆屋のそばの池にはブリキ製のボンポン船がローソクにゆらめている。どこにだって物語が待っていた。
虫郎は貧しい家に育っている。母親は造花の内職をしていた。
その造花はケーキの上に飾るというもので、それを想像するだけで虫郎にはいくつもの御伽噺が仕上がった。
その造花の仕事を頼んできた西田さんというお金持ちからは、ときたまいい匂いのする飲み物が運ばれる。
きっとソーダ水のようなものなのだろうが、虫郎はその色を見ながら恍惚となる。
そしてかつて遊んだシャボン玉とソーダ水がどこかで一緒になっていく。
小学校を出ると、近所のブリキ建ての工場に働きに出る。電球工場である。
ここにもたくさんの冒険と恐怖が待っていた。電球の中のフィラメントはティンカーベルであり、
ガラス球は天体そのものだし、電気そのものが魔法であった。
それでも貧しいので虫郎は豆屋でパラフィン紙の袋をつくることになった。そのパラフィン紙が美しい。
ともかくなにもかもが夢なのである。
谷内六郎という人、その夢をいつまでも憶えている。そして、それをそっくり絵にできた。
絵は好きだった。町角のペンキ屋に奉公に出たこともあった。
泥絵具をニカワでといて、立看板の絵を塗りたくる。
5円の給金は安かったので、賞金10円の漫画募集に応募することにした。似顔絵にも応募した。
ときどき賞金が入ってきたが、画用紙と絵具を買えるぶんを残してお母さんに渡した。
そのうち絵を送った浅草橋のオモチャ問屋が虫郎の絵を使うと言ってきた。
児童用のカバンの絵付けに使うということだった。
虫郎はそのオモチャ屋の問屋の屋根裏に住みこむことにした。
「ぬりえ」がいっぱい倉庫に眠っていた。戦争が間近い16歳のころのことである。
谷内六郎の絵と文は、時代を少しずつ進むようで、どこかで折り返してしまう。
たいていは16、7歳で折り返しがやってくる。そこまでが谷内の少年時代なのである。
そこから先は、ない。
このこと、とてもよくわかる。ぼくの場合は少年時代は中学3年までである。
そこまでの話はたしかに何度も折り返しがあり、折り畳まれてはまた開かれ、
また何度となくそのうえに色が塗られている。そこで思いついたシュルレアルな幻想は、
その先まで発展していったマックス・エルンストやアンドレ・マッソンとはちがって、
その時点のままに折り紙になっていく。
それが谷内六郎なのである。ぼくは中学3年をすぎて東京に出てしまい、そこで未熟な大人になっていった。
そしてドストエフスキーなどに出会うことになる。折り紙は潰れた。
けれども虫郎こと六郎は、折り紙をつくりつづけた。
谷内六郎はイディオ・サパンではない。「少年」の幻視を描きつづける才能の持ち主なのである。
下町のヒルデガルトであって、ぬりえの宮沢賢治だった。
その谷内六郎に「週刊新潮」がおもいのたけだけ夢を見てもらおうと決断したのは、
日本のメディア史上の画期的な英断だった。考えられるかぎりの最高のギャラリーだった。
おそらく大半の日本人はその不思議な絵の世界に共感をおぼえたにちがいない。
そこには「日本の少年」というものの決定的な原型があったからである。
けれどもその谷内がどんな少年期を送ったかは、おそらくは知られていない。
本書はそれを知る唯一の「よすが」ではないかとおもう。 ぼくは泣いてしまった。
*イディオ サヴァン(仏語 idiot savant)
知能指数は障害児と判定されるレベルでありながら、
絵画や記憶などのある特定の事柄において
天才的な能力を発揮する人。俗に「専門ばか」
*ヒルデガルト・フォン・ビンゲン(1098年 - 1179年)は、
中世ドイツのベネディクト会系女子修道院長であり神秘家、作曲家。
40歳頃に「生ける光の影」(umbra viventis lucis)の幻視体験(visio)をし、
女預言者とみなされた。
↑
しみじみとしたいい文章だと思います。