Quantcast
Channel: ギャラリー酔いどれ
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3231

霜月に

$
0
0
 画は拙作にて、

  「幻想 (親鸞聖人)安城の御影? 土偶と聖人」です。

 油彩F10号


☆晴れたり曇ったり、冷え込み一段と。

画題については、中段以降に。

さて、今日から11月、今年もはや、あと2ヶ月となりました。

とりわけ今月は、

ダメリカ大統領選挙、支那共産党大会、激烈な暗闘が続いていますし、

その結果如何で、大きな国際政治の動きが発生する可能性もあります。

国内も民主党から纏まった離党があれば、一気に流動化、

年内総選挙もありうる情勢です。 目が離せぬ年末までの動向です。

まずは、道新でもトップ記事でしたが、

◆http://blog.goo.ne.jp/tarutaru22/e/02ae73bad08722bbdb585354669f76c3
暗黒夜考〜崩壊しつつある日本を考える〜 2012年11月01日
◎大手マスゴミによる「冬の電力不足キャンペーン」真っ盛り 
 〜次なる狙いは北電・泊原発再稼動〜



”脱原発”を訴える声に対する「原発推進派」連中の言い分は、総じて
「すぐに原発を止めろというなら、どうやって原発停止により失われる発電分を補うのかを明きらかにせよ」
という類の論調である。

本ブログにて何度もコメントしてきたように、そもそも論として、
既存の火力発電だけで日本の全原発の発電量を上回っているのが”真相”であり、
原発推進派はこの「不都合な真実」に対しては「火力発電では燃料コスト増に耐えられない」との
”バカのひとつ覚え”を繰り返すばかりである。


ここ数日、本格的な冬を前にして「泊原発再稼動」を目論む「冬の電力不足キャンペーン」が
大々的に始まっているが、これが多分に”嘘くさい”ことは皆さんももうお気づきのことであろう。

今年の夏前にあれだけ「足りない、足りない」と言っておきながら、
蓋を開けてみれば記録的な猛暑であったにも拘らず、「大飯再稼動」などなくとも、
電力は余裕で足りていたのが紛れもない事実・現実である。

にも拘らず、連中はまた性懲りもなく同じ手口にて、今度は「泊原発再稼動」を画策しているのである。

今年4月のエントリーにて、元北電職員が
「泊停止を機に自然エネ転換をおこなえば、原発ゼロでも電気は足りる」と指摘している内容を取り上げたが、
この元北電職員の主張は以下のとおりである。


 「2011年度、自然エネルギーの連系(発電者から電力会社への送電)に風力・太陽光で
  270万kW以上の新規申し込み(北電発表)があり、それらを受け入れれば泊原発など不要」

 「北電は15年かかるというが、同連系申し込みをすべて北電が受け入れたら、
  2年ぐらいで自然エネルギーに転換可能」

 「北海道の冬は風が強く、まさに電力の需要が最も大きくなるその時期に、
  風力発電の稼働率が最も大きくなる。」
 (道庁の公表している風力稼働率26%は実情とちがい、宗谷管内などで40%超、
  1月の胆振管内で67・3%に達した記録あり)



個人的には「火力発電で電力需要は十分補える」との見解は変えるつもりはないが、
どうしても火力発電ではダメだというのであれば、
この元北電職員の主張する「風力を軸にした自然エネへの転換」であればいかがなのであろうか?
是非ともご意見を伺いたいものである。

以下の産経記事にて、”売国知事”高橋はるみが「道内の冬の節電はまさに命の問題だ」などと抜かしている
との報道がなされているが、以前のエントリーにてコメントしたとおり、
この高橋はるみは北電とズブズブの関係にあり、電力会社幹部からの政治献金は勿論のこと、
同知事の資金管理団体「萌春会」の会長が、
北電の南山英雄元会長というのであるから「お里が知れる」とはまさにこのことであろう。

即ち、真っ黒けの”原発利権ムラ”の住民である。


兎にも角にも、本格的な冬を前に、今後、大手マスゴミによるこの手の
「冬の電力不足キャンペーン」が大々的に行なわれ、原発を再稼動すべく”命の恫喝”を喧伝することであろう。

我々国民は「火力発電で電気は十分に足りている」という事実を今一度再認識し、
とにかくこの”脅し”に屈しないことが肝要であろう。

 「原発は常に火力発電のバックアップを受けなければ運用できない発電システム」

 「原発は必ず同出力の火力発電とセットで建設されているため、そもそも原発が止まっても”停電”も”電力不足”も起きない」

 「よって『原発を廃止すればそれに代わる代替エネルギー発電が必要』という論調自体がそもそも”マヤカシ””デタラメ”」

ということである。



※参考1【必見記事】 『元北電職員が実名激白 「原発ゼロでも電気は足りる。泊停止を機に自然エネ転換を」』
http://blog.goo.ne.jp/tarutaru22/e/fb9e22b7b63a73516d0bec3cda930cc9

※参考2「震災後で初! 定期検査中の北海道電力泊原発3号機が営業運転に移行へ」
http://blog.goo.ne.jp/tarutaru22/e/8eab1fc598085e4f9c2df71c47eaf877

※参考3「【読者投稿より】 『原発の大嘘とまともな電力のあり方への復帰』」
http://blog.goo.ne.jp/tarutaru22/e/44b505c8de25d8bad88f065dfd285c40

※参考4「計画停電なる恫喝まで行い「大飯再稼働」を強行した関電・原発利権ムラによる「電力需給見通し」の大ウソ」
http://blog.goo.ne.jp/tarutaru22/e/400e754ca91e1ec1703052a06f0c71de



原発の後ろには「米帝」=「(アングロサクソン+ユダ金)連合」がおるわけで、

壮大な資金還流システムが構築されておるわけだ、再稼働を強要しておるのは「米帝」なのですよ。

「吸血鬼にして死神」が恫喝しておるわけだ。

時代の大転換期に立っておるわけで、悪しき旧弊をぶった斬る好機でもありますし、

そうせねば「亡国一直線」必至です、まさに日本民族興廃の劈頭にあり。



再掲ですが拙作、二枚目、



「親鸞聖人熊皮の御影」です。 油彩F6号  御影、第一作です。(新規撮影しました)


 
親鸞聖人の御影につき、

◆http://tsukijihongwanji.jp/tsukiji/shinpou_0411.html
築 地 本 願 寺 新 報 2 0 0 4 年 11 月 号 よ り

抜粋、

特集
           御影さんに注目(絵像編)
           報恩講を機に親鸞聖人の
           御影さんを親しく拝見

_____________________________________

□『御伝鈔』と御影□

本願寺築地別院、報恩講中の十一月十五日、夕刻六時からお初夜の「正信念仏偈・六首引」のお勤めがあり、
終わって引き続き『御伝鈔』の拝読が始まります。

上巻の第八段は、お弟子の入西房の志を知って、親鸞聖人が定禅法橋という画家を推薦し、
御自身の肖像を描かせなさる話です。やって来た定禅法橋が、驚きます。
目前のモデル親鸞聖人のお姿と、前夜に見た夢に出現した貴僧「善光寺の本願の御房」の姿とがそっくりなのです。
夢の中で「お顔だけを写せばよい」と言われたことなので、法橋はその夢の話のままに、
親鸞聖人のお顔だけをお描き申し上げました。これは仁治三年の出来事だったと、『御伝鈔』は語っています。
仁治三年には、親鸞聖人は七十歳になられています。

毎年、「お取り越し」が各所で営まれる晩秋の此の時期から、歳改まっての京都本山の御正忌報恩講の頃まで、
私たちは親鸞聖人のさまざまな御影やその複製を拝見、その由来を拝聴する機会に恵まれます。
「よき人の仰せ」をうかがうのも勿論大切ですが、「よき人の面影」との出遇いも大きな楽しみではないでしょうか。


□「鏡の御影」の由来譚?□

鏡の御影
http://tsukijihongwanji.jp/tsukiji/image/0411_shin_2.jpg

国宝「鏡の御影」は、よく知られている親鸞聖人の肖像画で、西本願寺の宝物です。
頭部が、細めの筆致でリアルに描かれているのに、首から下は太めの筆致でかなりラフに描かれています。

覚如上人の巻留めの識語によれば、画家は専阿弥陀仏。
全体的には優しい風貌の内に、眼差しには鋭いものを宿し、未完成の画稿のようですが、
よく親鸞聖人の風格を写していると評される傑作です。
現在は否定されていますが、この、頭部の描写が精彩を放っていることから、
「鏡の御影」の製作を『御伝鈔』上巻第八段の話に結び付けて考える説が唱えられたことがあります。

『御伝鈔』では画家の名が定禅法橋、「鏡の御影」の識語では専阿弥陀仏となっていて、
これでは二つの御影を同一と言うわけには参りません。しかし、
そう考えたくなるような何かが、この肖像画にあるような感じがしませんか。 
もしかすると、『御伝鈔』に語られるような場面が他にも何度かあった、
「鏡の御影」のような御影が他にも何幅もあった、そんな想いに、ふと誘われます。


□不思議な「安城の御影」□

安城の御影
http://tsukijihongwanji.jp/tsukiji/image/0411_shin_1.jpg

もう一幅、西本願寺所蔵の宗祖の御影に「安城の御影」があります。
製作は建長七(一二五五)年、聖人八十三歳の時と判っています。
その名の通り、古く三河国安城に伝えられていた御影です。

原本には剥落などかなりの傷みがありますが、蓮如上人が二度にわたって修復され、
摸本が製作されており、さらに、存覚上人が拝見記を書き残されたこと等によって、
当初の画像を充分に知ることができます。

不思議な御影だと言ってよいでしょう。普通、高僧の御影といえば、
尊厳を表わすために経巻や法具仏具が書き添えられました。
それが、存覚上人の記録によれば、敷皮はタヌキ、草履の表や鹿杖の上部にはネコの皮が用いられている。
小袖の裾には茜色の裏地が顔を出し、襟元にはお得意の帽子が襟巻状に巻かれ、
その足元には桐材の火桶があります。

これらの図様について、さまざまな見方がありますが、儀式張った堅苦しい画像でないことは確かです。
屋外用のものと室内用のものと二通りの物が無造作に描き並べてあるのは何故かなど、
よく判らないところもありますが、衣装にも配置された諸道具にも、飾り気のない、
日常の宗祖のお姿が把えられています。私たち真宗門徒にとって、市井の一念仏僧、
私たちと共に悩み共に喜び、共に語り共に歩む親鸞聖人の人間的なお姿を、そこに拝見することが出来る、
そんな想いが致します。

□口笛の親鸞聖人□

「安城の御影」最下部に書かれた火桶・草履・鹿杖
http://tsukijihongwanji.jp/tsukiji/image/0411_shin_4.jpg

存覚上人の拝見記には「ウソヲフカセマシマス御口也」と書き添えられています。
口を窄めて息を強く噴き出す形ですが、口笛を吹くときの形と思えばよい。
この場合、御和讃に合いそうな旋律を口笛に吹いておいでになった……とまで言えば言い過ぎですが、
快い、強い感動の現れた相好と拝見する位は、許されるのではないでしょうか。

この御影の製作について、面白い説があります。
高田派本山・専修寺に所蔵する『教行信証』に、専信房書写が確定している写本があり、
この写本の書写が建長七年六月に完了しているのです。筆者の専信房は三河国居住の人。
となれば、「安城の御影」は、『教行信証』書写を成し遂げた専信房に、
併せて御影見写のお許しが出た結果製作された御影だという事情が有り得るのではないか。

となると、敢えて言えば「安城の御影」は、身近な弟子・専信房の念仏研鑽の道における精励恪勤を喜ばれ、
ご機嫌麗しい親鸞聖人のお姿が写されている。
また、弟子の眼から見た、念仏弘通のために歩を惜しまれなかった恩師、
晩年には草庵に籠って、あの大量の著作に勤しまれた恩師の姿が、懐かしみを込めて、
人間親鸞として描かれている……というような読み方が許されるのではないでしょうか。


□再び『御伝鈔』の世界□

右の「安城の御影」成立についての仮説は、自ずから『御伝鈔』の上巻第五段を想起させます。
『御伝鈔』上巻第五段は、親鸞聖人が恩師法然上人から『選択本願念仏集』書写のお許しを頂く段です。
綽空、後の親鸞は、恩師・源空の著作の書写と、真影の見写とを同時に許されています。
しかもこの真影には恩師の筆で銘文が書き加えられていますが、
「安城の御影」にもご絵像の上に二段、下に一段、銘文が書かれています。
このように、御影についての伝承と『御伝鈔』の文章とを読み比べ、御影を丁寧に拝見することによって、
親鸞聖人ご在世の頃の宗門の人間模様がまざまざと見えて来る、そんな楽しみがあります。

□大幅、「熊皮の御影」□

熊皮の御影
http://tsukijihongwanji.jp/tsukiji/image/0411_shin_3.jpg

もう一幅、よく知られた御影に「熊皮の御影」という大幅があります。
縦四尺×横二尺七寸の大きな画幅で、
「安城の御影」から百年ほど後に製作されたものであろうと推定されています。

もうこの御影が描かれる頃には「安城の御影」にまつわる伝承も途絶えてしまったのでしょう、
ネコ皮の草履も火桶も姿を消してしまいました。
敷皮もタヌキは忘れられて、クマのような毛皮に変わっています。

大きな違いはお相好です。この御影では、眉間に縦皺が刻まれ、総体に厳しさが感じられます。
関東から遠路上京した門弟たちを前に、
「この上は、念仏をとりて信じ奉らんとも、また捨てんとも、面々の御計らひなり」と厳しく説示なされる、
『歎異鈔』の親鸞聖人を、つい想像してしまう、そのような迫力が、この御影にはあります。
ある弟子が、「安城の御影」を拝見した聖人昵近の門徒が
「こりゃ嘘だ。聖人のこんな穏やかなお顔なんて拝見したことがない。俺達にゃずっと厳しくおいでだった」と、
新たな御影の製作を思い立った、その結果の作品だ、という伝承もあるそうですが、
製作年代がかなり下がるとなれば無理でしょうね。
さて、皆さんはどの御影に一番親鸞聖人らしさをお感じになりますか。




興趣は尽きませんね。

手前もどこまで肉薄できるか? 自分なりに研鑽するしかなし、ですなぁ。



再掲ですが、拙作三枚目、



「聖徳太子報徳讃」です。 油彩F6号 (新規撮影しました)



いい文章ですな、

◆http://blogs.yahoo.co.jp/miamasavin/24137502.html
【浄土と忍土】2006/11/28(火)
◎安城の御影 遊女の下着を着た親鸞

私はかつて、
あまり親鸞聖人についてはよく知らなかった頃は、

法然上人が岡山の武士階級の出身で、
本当に庶民の中に分け隔てなく入っていって、
瀕死の人々に手ずから粥を分け与えたり、
漁師や遊女の人々の魂を救ったのに対し、

親鸞は公家出身だし、
歎異抄を読む限りだと
あの世に行ってからでないと人を救うことはできないと述べているし、
やたら漢字ばかりの難しいことを言っているし、
つまらんなあと思っていた。

だが、よくよく調べてみると、
信心とは、たった今生きている時からの利他の心、人々を救う心だと述べているし、
実際誰よりも自らそう生きていたようである。

特に、私にとって衝撃的だったのは、
安城の御影という晩年の親鸞の肖像画についての、
ある解釈を読んだ時のことだった。

安城の御影は親鸞が83歳の時の肖像画らしい。
その服装や一緒に描かれている生活用具が実に不思議で、
狸の皮で作られた座布団や、
猫の皮の草履、
そして木の杖、手あぶり用の火鉢が描かれている。

これらは、
そうした生活用具を使って暮らしていた、
貧しい庶民の中で、
親鸞もそのように暮らしていたことを証拠だてるものでもあろうし、
寒い地域で伝道の旅に明け暮れた生活を偲ばせるものかもしれない。

だが、それだけではなく、
衝撃的なのは、
親鸞聖人が着ている服装の下着が、
遊女の下着ではないかという説だった。

たしかに、茜色の下着の襟や裾で、
不思議な、というか、違和感を持たせるものである。

この時代だと、
色町の身分の低い女性が着用したものらしい。

誰か、身売りされて早くに亡くなったような女性が、
唯一の遺品としてのこしたものだろうか。

こうした服装をすれば、
今でもそうだけれど、
当時はさぞかし奇異の目で見られ、
嘲られ、侮辱されただろうけれど、
まさにそうした立場に、
自ら全く同じに立っている、
立とうとしている。

親鸞というのは、
とんでもない人物というか、
本当にふしぎな、
常識をはるかに越えた人物だったように思われる。

「れふし・あき人、さまざまのものは、
 みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり」
と、
親鸞は唯信鈔文意の中で述べていて、
漁師や商売人や、当時の下層の庶民を、
石や瓦や飛礫のようなものだと、
しかし、そうした人々を「我ら」だと、
自分を完全にその人々の一人に置いて、
同一化している。
そして、石やかわらやつぶても、
阿弥陀仏の光に照らされて、
みんな黄金になるのだと説き続けた。

法然上人もすごかったけれど、
こうしたエピソードを読むと、
親鸞聖人も想像を絶して凄かったと思わざるを得ない。

仏の慈悲というものを、
法然上人を除けば、
親鸞聖人ほど体現した人は、
日本の歴史の中で、
あるいは世界の歴史の中にも、
まずほとんどいなかったと言って良いのではないかと思われる。



その親鸞が古き々土偶を前に何を思ったか?

それが今日の幻想画の画題です。


 

Viewing all articles
Browse latest Browse all 3231

Trending Articles