画は 葛飾 北斎(葛飾 北齋)かつしか ほくさい
宝暦10年(1760)? ~ 嘉永2年(1849年)
号は、葛飾 北齋、前北齋、戴斗、為一、
画狂老人、卍 など。 作
「百人一首 うはがゑとき 僧正遍照」です。
第12番 僧正遍昭 (そうじょうへんじょう)
天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ
をとめの姿 しばしとどめむ
☆晴れの予報。
二ヶ月おきの通院日ですので、予約投稿になります。
東海アマ氏は FC2ブログ をメインにするようです、
謀略SNS・Twitterなど どーでもいいのではないか、連中はキ印ですよ、
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東海アマブログ 2018-04-06
原発、すべての核施設を即時廃止せよ
◎過疎 その1
「ポツンと一軒家」というテレビ番組を
ごらんになった方も多いと思う。
深い山の中など過疎地帯に家が一軒だけあって、
そこに人が住んでいる事情を取材したものだが、
住民はほとんどの場合、余生の少ない高齢者で、
不便を耐え忍んでも生まれ育った自分の家に愛着を持って、
そこで死にたいと願っている人たちであった。
私は、この番組を視聴して、柳田国男の「山の人生」を思い出していた。
私が登山や民俗学に興味を抱いたのは高校生になってからだが、
全国各地の山を登りながら、深い山のなかで暮らす人たちの生活ぶりや、
自然に対する考え方に強い興味を抱き、
自分の足で歩き、直接、住民と対話しながら、
自分なりの民俗学を見いだそうと夢中になっていた。
このとき、柳田国男や宮本常一の著作は、
私に大きなインスピレーションを与えてくれて、
懐事情の許す限り買いあさり、読みふけった。
今でも、私は自分の足で社会を見ようとした、この二人に、
近藤正二(日本の長寿村・短命村)を加えた三人を神のように崇め、
リスペクトし続けている。
「山の人生」には、自然以外の何も得られない深山での生活の実例が、
いくつも紹介され、
人間の本当の姿を、掛け値なしに示してくれて深い感銘がある。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/52505_50610.html
そして、医療もなく、暖房も食も満足に供給されない山の中で
死を迎える老人たちの心づもりに思いを寄せながら、
人生の意味を考え続け、自分の最期を、
どのように定めるかにも考えを巡らせた。
しかし、そんな思いのなかでツイートしたものが、
5年もたってからツイッター管理員から自殺幇助ツイートとされて
アカウントを凍結されてしまった。
http://tokaiama.minim.ne.jp//tuitter/akaunntoteisi.html
文句を言ったが相手にもしない。
ツイッター社管理員の絶望的な無能さに嫌悪するとともに、
自分の人生観にまで 他人の勝手な利権を関与させてたまるかと
強い怒りがわいた。
自民党など国家主義者は、自分たちの利権のために、
国家の権威、天皇の権威を利用し、
国民の人生観まで縛りをかけ利用しようとしているわけで、
国民の命は国家が勝手に利用するものであって、
国民自身が自分で決めさせてはならない、
徴兵のためには 自死の価値観を許してはならないというわけだ。
ツイッター社管理員も同じ国民管理の発想で縛りをかけてくるのだ。
ツイッター社に人生の価値観を左右する権利がどこにある?
もし安楽死を否定し、私のアカウントを凍結させた論理を適用するなら、
自殺権を容認する ベルギー・オランダ・ルクセンブルグ・スイスの
アカウントを全員凍結しなければならなくなるだろう。
私の祖母は100歳まで生きたが、骨粗鬆症による骨折を繰り返して
最期は老人ホームで餓死させられた。
延命措置を講じないという誓約を行っていたからだ。
今、両親も、ほぼ同じ条件で、最期はおそらく餓死になるだろう。
国家主義者の屁理屈では、これは殺人ということになるが、
本人が何を思うのかは誰も分からない。
「ポツンと一軒家」に登場する老人たちも同じようなもので、
最期は医療もなく、恵まれない環境のなかで
自死に近い形で朽ちるように死んでゆくことになる。
だが、恵まれたと思いこまされている整備された介護環境で
死を迎えることが、ポツンと一軒家の住人に比べて
本当に幸福なのだろうか?
私は、決してそうは思わない。
私なら、ポツンと一軒家の死を選ぶと強く思う。
最期は、たった一人で糞尿にまみれ、痛み止めもない苦しい死を迎える
ことになったとしても、私は自分の愛する豊かな自然のなかで、
小鳥たちのさえずりを聞きながら、静かに朽ちてゆきたい。
誰かに看取られる必要もなければ、畳の上で死ぬ必要もない。
死後、葬式をあげてもらいたいとも思わないし、
人生を顕彰されたいなどとは夢にも思わない。
ただ、誰をも煩わせずに、ひっそりと死んでゆきたい。
病院のものものしい設備で体中に管をつけて
人体実験モルモットのように死んでゆくのは、まっぴら御免だ。
車の騒音や排気ガスも、まっぴら御免だ。
誰もいない静けさのなかで、自分の肉体の崩壊と対話しながら
消えてゆきたいのだ。
私は、山歩きのなかで、「限界集落」をたくさん見てきた。
その限界を超えて完全な廃墟になっている集落もたくさん見た。
私の登山紀行文のなかにも、限界集落をいくつか紹介している。
(常光寺山の項)
http://hirukawanakayama.seesaa.net/article/458505271.html
ここに出てくる、南アルプス深南部、飯田線水窪町や
大井川線界隈の門桁・尾呂久保・石切などは、本当の過疎集落で、
多くは高齢化した住民が最期の時を過ごしている状態である。
小さな限界集落では、住民の一人一人に役割があって、誰かが欠けると、
集落全体の機能が欠けてしまうから、
一つの生き物、群体のように活動して呼吸してきた過疎の集落は、
死へ向かって負の連鎖が続いてゆくことになる。
私は、登山のついでに、滅び行く運命の限界集落の住民と
たくさんの会話をして、その民俗や人生観を知ろうとした。
そうして、対話のなかで、彼らが自分を不幸だと思っている姿に
出くわしたことは皆無である。
彼らの多くが、満ち足りた時を過ごしていた。
迫り来る死に対しても、日々、日常のありふれた自然の推移を楽しみながら、
誰に対しても暖かく接し、悠然と運命を受け入れる姿勢を見てきた。
ケバケバしいネオンもなく、便利な商店街もなく、
レストランも立派なモール街もないが、
裏庭には清冽な水が湧き、美味しい野菜が育ち、
素晴らしく清澄な大気を呼吸し、
周囲に人を妬み、陳腐な嫌がらせをするようなクズもいない。
そこにいる人たちは、自分を愛し、大切にしてくれる人たちだけである。
彼らの、どこを見ても、まるで禅の高僧のような姿で、
悠然という表現が実にふさわしい。
苛立ちも焦りもない。
そこに太古から山が存在するように、運命を従容と受け入れる
生々流転の人生が続いているかのように思えるのだ。
さて、話を私に移そう。
私の住所は、岐阜県中津川市の山奥である。
市町村統合前は蛭川村という江戸時代から続く歴史のある独立村落であった。
この静かな山里に名古屋から私が移住したのは、2003年頃であるから、
すでに15年を、ここで過ごしていることになる。
家は100万円のキットハウスを購入し自力で建てた。
井戸は20万円で掘ってもらったが、配管もトイレも浄化槽まで自作した。
かなり深刻な健康障害があって、血尿と鈍痛が続いて死を覚悟し、
掃除でさえ疲労困憊してできず、家がゴミ屋敷のようになった時期も
長く続いたが、
最近では地獄のような山岳トレーニングの効果が出て、
また普通の生活が送れそうになっている。
我が家の環境といえば、食料品店まで徒歩40分、車だと5分、
近いスーパーまで車で20分、恵那駅まで徒歩4時間、バスで30分ほど。
ただし、バス本数は日4本しかない。
移住してきた15年前は7本あったのだが。
自慢していいのか分からないが、旧村時代から今も、
村内に信号は一ヶ所もなく、コンビニもない。
一番近い恵那市のコンビニまで徒歩1時間以上かかる。
結局、車がないと生活が成り立たない。
冬場、凍結が激しいのでバイクは通年使えない。
その代わり、夜になると毎晩、付近をイノシシが徘徊してるし、
数年に一度は熊も寄ってくる。
春になれば、野鳥が凄まじくうるさくて朝方眠れないほどだ。
年々、減らされるバス便は、もう事実上、交通機関としては生活に役立たない、
単なる行政のアリバイ証明のような路線と本数である。
こうなると、典型的な過疎地帯といってよいだろう。
田舎暮らしにとって、もっとも基本的なライフラインは、
公共交通と食料供給、それに仕事である。
いずれが欠けても、安心できる生活は送れない。
しかし、高齢化するばかりで、どんどん減り続ける人口、無意味な公共交通、
もし車を奪われたなら、生きてゆく手段を奪われるに等しい環境である。
仕事だって、ほとんどないが、介護職のニーズだけは増えてゆくだろう。
なぜ、こんな暮らしにくい村になってしまったのか?
簡単に言えば、自民党政権が大都市優先、金儲け最優先社会を作って、
田舎の価値を理解できず、田舎暮らしを支援しないからであり、
若者たちが、就業先を都会に求めて田舎を離れてゆくからである。
昔は、田舎に住む人も多く、田舎の自然環境こそが
快適な都会生活を保全することに役立っていることが理解され、
田舎の自然を守る価値観が広く浸透し、公共交通だって、
今とは比較にならないほど手厚い援助があって使い安かった。
私が登山をはじめた1970年前後は、日本中の隅々の山奥にまで
バス便が延びていて、どんな辺鄙な山にでも
公共交通機関だけで往復することができた。
当時は日曜しか休みがなかったから、土曜の夜に出発して電車に乗り、
未明に最寄り駅について、午前3時にバスに乗って目的地まで移動する
ことだって容易だった。
甲府・塩山や谷川連峰の山々は、みんなそうして日帰りで登ったのだ。
地方のバス便が、採算性から削減されはじめたのは80年代だが、当初は、
利用者の利便性に奉仕する思想のある交通企業も多くて、
それほど困らなかったのだが、90年代に入って、
採算性一本槍の経営思想が蔓延してくると、利便性など何の関心もなく、
情け容赦のない不採算路線の切り捨てがはじまった。
この頃になると、山を下山しても、あったはずのバス便がなくて、
ひどい目に遭うことも増えた。
田舎暮らしが深刻な困難に直面しはじめたのも、この頃である。
足がない、食料が手に入らない、病院がない、仕事もない。
ないないづくしで田舎に住むことが不可能になり、
山々の荒廃が始まったのである。
それでも故郷に住みたいと願う人たちは、車を所有する家族の助けを得て、
本当にギリギリの不便な暮らしを強いられるようになり、
冒頭に述べた限界集落が全国的に激増するようになった。
私の住む蛭川では、移住後、獣害防止措置を講じてる農家など一軒もなかった。
畑が荒らされること、夜中にイノシシが町中を徘徊するなんてことは
想像もできなかった。
田舎が突然、獣害に晒されるようになったのは、たぶん2007年頃である。
この頃から、イノシシや熊が激増して、農産物を荒らすようになった。
2010年に入ると、もう獣害防止をしない田畑は見当たらなくなった。
なぜ、突然、獣害が激増したかというと、
一つには捕獲規制や猟銃規制が極端に過酷になったことで
狩猟者が激減したこと。
田舎の平均年齢が、狩猟という激務をこなせないほど
高齢化してしまったこと、などであろう。
だが、生活に必要なトラックなど生産手段への課税も強化され、
田舎暮らしの困難さが増してゆく現状で、
自然豊かな田舎暮らしの魅力は薄れる一方であり、
有力な仕事もないことから、若者たちが田舎に寄りつかず、
住まなくなった。
こんな愚かな政策を行っていれば、もう田舎は荒廃の一途をたどるしかなく、
むしろ「田舎」というカテゴリー全体が限界集落を意味するものになりかねない。
自民党議員の多くは、それでも構わない、
金はトヨタやキャノンなど巨大企業がまとめて稼げばいい、
農産物はモンサントの育てたバイオ作物が供給されればいいと
本気で信じているようだ。
田舎や山々の大自然がもたらす意味を、まったく理解できない知能の低さだ。
田舎、山村に人が住まなくなったなら、何が起きるのか?
それは日本全土の荒廃である。
田舎の山林の住民による絶え間のない手入れが河川の安全を支え、
都会住民の安全な飲料水を確保している。
自民党は、農地をモンサントのような国際金融資本バイオ企業に売り飛ばし、
山の大切な水源地は中国人に売り渡している。
そして田舎を手入れし、監視し、都会生活を支える仕事を
奪い取っているのである。
このような愚かな姿勢が、日本の未来をどのように変えてゆくのか?
北齋、二枚目、
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「冨嶽三十六景 東海道品川 御殿山ノ不二」です。
◆http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-303.html
東海アマブログ 2018-04-07
◎過疎 その2
限界集落の激増している日本中の過疎地帯では、今、
大変な事態が起きていて、
国家崩壊の警報シグナルさえ点滅していることに気づいている人は少ない。
私の住む、中津川市蛭川の土地の路線価は坪1000円程度、
実売価格でも坪単価で4000円程度である。
300坪の私の家の実売価格は、120万円程度なのだ。
売価は、さらに安く坪2000円台である。
あと10年もすれば近所にリニア駅が開業するというのに、
価格はまったく上がらず、今、売れば80万円程度だと思う。
軽自動車一台分である。
山林なので固定資産税もかからず、開発規制もかかっていないので、
勝手にやりたい放題の土地である。
しかし、それでも売れない。誰も買わない。
いや、ある特別なグループだけが買う。
中国人と モンサント系農業法人 である。
彼らにとって、土地から将来得られる利益を考えれば、ほとんどタダ同然、
日本政府が自国の大切な資源を荒野に投げ捨てているのを
拾わなければ損という気持ちだろう。
私は若い頃、中国に強い興味を抱き、日中友好協会(正統)に入ったりして
中国との深い関係を持った。
たくさんの中国人とつきあい、中国史も研究した。
そこで理解したことは、中国における価値観を知ろうと思えば、
たくさんの中国映画を見た方が早いということであり、
ドニーイェン主演アクション映画の荒筋が、特別な企画でもなく、
日常生活にありふれていることを知ったことだった。
中国社会で、人を騙して資産を奪い取るという事態は、
日本人の正義感あふれる心優しい価値観からは許しがたい暴挙であるが、
中国では普遍的な社会秩序に組み込まれている。
これがメンツ最優先の儒教社会の価値観から来ていることは、
いうまでもない。
だからこそ、水戸黄門の悪代官みたいな
自腹を肥やすことしか頭にない官僚たちが、中国全土に蔓延しているのだ。
また、何一つ持たざる官僚制度の被害者である民衆でさえも、
ひとたび権力を与えられた瞬間に 悪代官に変身するのである。
中国では人を騙して資産を奪うことは、決して悪とは思われない。
数千年の歴史のなかで振り返れば、中国社会とは、
メンツを最大価値としながらも、
陰謀を重ねた 利権争奪戦争の社会 だったのだ。
この視点をもって、尖閣諸島問題を見れば、
誰でも「なるほど」と納得するだろう。
そうして、中国人による過疎地買収問題を見てみよう。
【 中国人や中国系企業が 日本で土地を購入するケースが相次いでいる。
日本メディアによると、北海道を中心に土地や建物などの不動産が
次々に買収されており、2016年には水源地2411ヘクタール(東京ドーム513個分)
が買収されたという。
しかし、これは水源地に限った数字で、それ以外も含めると、
実際にはこの10倍以上もの土地が中国人の手に渡っているとみられる。
国土の2%がすでに中国人に買収されたと推測されており、
「日本の安全保障や主権が脅かされる」と懸念の声も出ている。】
https://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20171025/Recordchina_20171025080.html
中国による対外侵略の手口は、ウイグルやチベットのような
典型的な侵略行動=武力制圧だけではなく、
ソフトな内部浸透からの事実上の乗っ取りのような手口も知られていて、
それは数千年前から続く華僑による外国進出の伝統的手法の延長にある。
日本では、外国人による国土簒奪の経験が乏しいので、警戒心も薄く、
静かに土地を買い占めて、密かに移住者を増やし、
気づいたら実質的に自治体や国土が 外国政府の支配下にあった
という事態を想定する為政者は、ほぼいない。
為政者である自民党員の大半が、口先だけ愛国心を標榜するが、
本当は自分の利権を拡大することしか頭になく、
本当の侵略に対する警戒心もないため、中国のような非民主独裁政権の
陰湿で、狡猾な侵略手口を 理解することができない。
そこを彼らは狙ってくる。
中国人が狙いを定めて買い占めている土地の多くが、
水源地と飛行場周辺 であると指摘されている。
極右勢力でさえ、この問題を追及しているのだが、
日本政府や自民党は関心を示さない。
http://bunshun.jp/articles/-/3430
これが人権を大切にする民主国家ならば大きな心配はいらないが、
なにせ、相手は官僚独裁による利権を拡大することしか考えない、
まるで戦前の日本のような侵略帝国主義国家なのだから、
今、チベットやウイグルで起きている 凄まじく暴力的な侵略支配の恐怖が
日本にもたらされることへの警戒心を怠ってはならない。
最悪、中国が日本を侵略した場合、戦前の日本軍による中国民衆大虐殺が
逆の立場で再現されることも考えなければならないだろう。
参考までに、1990年代に中国首相だった李鵬による
日本簒奪構想を掲示しておこう。
▼https://blog-imgs-77-origin.fc2.com/t/o/k/tokaiama/nihonsenryou.jpg
まあ、日本の自民党政権も、今はまるで
中国や北朝鮮の独裁政権に憧れ、
踏襲しようとしているようにしか見えないのだが。
論より証拠、沖縄を独裁植民地のように扱っている姿が、
日本政府の本当の姿であろう。
民主主義が存在しないから、非民主主義独裁国家に狙われるのである。
さて、出鼻から話題が逸れたが、日本政府が限界集落の激増する過疎地帯を
対策せずに放置すれば、そこは、やがて日本ではなくなると私は書きたいのである。
自民党政権が地方や過疎地帯を軽視し、何も対策せず、
放置して衰退に任せる有様は尋常ではない。
金儲け最優先原理を地方にも適用し、政治家や役人へのバックリベートで
儲かる軍事費だけに予算を注ぎ込み、
地方からは吸い上げ、衰退させることだけしか考えない。
地方は公共交通を奪われ、生産手段を奪われ、あげく土地を奪われて、
人々は老齢化し、かつて日本国家を支えた地方農村の姿は、
今や風前の灯火である。
もう地方の滅亡は時間の問題であるし、
すなわち日本国の滅亡が目前に迫っているのである。
こうして考えれば、自民党や公明党というのは、
中国独裁政府の手先にしか思えない。
本当に日本という民衆の幸福に奉仕する国家を作りたいのだったら、
まずは過疎地帯に若者を送り込み、生活しやすい環境を整え、
かつての里山社会を復活させなければならないのだ。
人と自然の協調による、人間性豊かな、自然豊かな地方社会があってこそ、
大都市住民の 健全な食生活、飲料水も 保全されるのである。
過疎の進む地方に必要なものは、公共交通機関の充実であり、
豊かな食生活を保証する環境であり、教育、医療、介護福祉など
住民サービスの充実であり、
さらに人々が安心できる収入を保証できる仕事を作り出すことである。
そうして若者たちが地方に戻り、健全な子供を育て、
はじめて日本社会の未来が見えてくるのだ。
自民党保守系議員は、仕事といえば目先の金儲けや補助金ばかり狙って、
原発や巨大産業の誘致というアホ丸出しの想像力しか働かないが、
これも競争と金儲け最優先の愚かな価値観がもたらした
短絡的で矮小な欲望丸出し思想にすぎず、
豊かな人間社会、解放された人間性、人々が笑顔で暮らせる社会とは、
どのようなスタイルかへの想像力、思慮を欠いた下劣低俗な発想である。
過疎の地方で必要な仕事とは、都市住民の安全な食生活、水道を支える
ものであり、人間が癒やされ、苦しみから解き放たれ
笑顔を取り戻すことができる社会なのである。
そうした社会に一番大切な安全な水をもたらす 水源地を守らないで、
何が為政者だ!
すでに、日本の水源地の2%が中国人(背後には中国侵略政権がいる)
に買い占められ、子供たちの未来が暗雲に閉ざされようとしているのだ!
もう一つの恐怖、モンサントによる農地独占にも触れておかねばならない。
▼https://blog-imgs-77-origin.fc2.com/t/o/k/tokaiama/monsanto1.jpg
モンサントの恐ろしさは言うまでもないが、私のかなり以前のブログを紹介しよう。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-220.html
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-219.html
モンサントはカーギルとともに、アメリカの企業というより、
国際多国籍金融資本 ロックフェラーグループによる
農業独占を目指した 陰謀企業体 である。
日本では農地規制法があるため、大企業が自由に農地を所有できなかったが、
モンサントは 傘下に独立法人を設立する手口で、
日本の農地の買収を始めた。
あれれれ、たくさんあったモンサントの傘下にある農業法人による
地方農地買収記事が消えている!
グーグルはモンサントのお仲間なのだ。
また安倍政権を支えている電通も、事実上、モンサントのお仲間
と断言してもいいし、
「自民党安部政権は、モンサントのための利権擁護でしかない種子法を廃止した
張本人であり、モンサントに買収された売国政権と」断言してもよい。
この告発は、モンサントの本質をよく説明している。
http://www.asyura2.com/16/kokusai14/msg/604.html
右翼といわれる三橋貴明でさえ、種子法を厳しく糾弾している。
すべての日本人よ、主要農作物種子法廃止(モンサント法)に反対せよ=三橋貴明
http://www.mag2.com/p/money/169661
また主題が逸れてしまった。
要は、過疎化と高齢化の進む地方の農地を取得しているのが、
日本人や日本企業ではなく、中国人や
国際金融資本バイオ企業であるモンサント(バイエル)であるという点が、
今後の日本国家の命運を示しているということである。
国際資本にとっては、日本の素晴らしい自然に抱かれた地方の農地は
タダ同然で手に入る宝物であり、現に、多くの優れた農地が、
誰も気づかないうちに中国政府や国際金融資本に盗まれている
という現実を我々は知るべきであり、
子供たちの未来にそびえ立つ
巨大な怪獣が姿を現していると知る必要があるのだ。
北齋、三枚目、
![]()
「東海道五十三次 石薬師 四十五」です。
◆http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-304.html
東海アマブログ 2018-04-08(
◎過疎 その3
過疎地域に対する自民党政権の無責任な放置政策が、このまま続くなら、
数百年も連綿と生活を続けて土地を守ってきた住民が、
より生活の便利な地域に移住を余儀なくされるのは確実である。
バスもなければ食料品店もない、病院も学校もなければ、近所の人たちも去って行く、
老齢化すれば免許証も取り上げられる。
どうやって住み続ければいいんだ?
山を守ってきた住民が消えてしまう結果は、水源地帯の荒廃であり、
河川上流の土砂崩れなど保全環境の荒廃であり、森林資源が材木泥棒に荒らされて荒廃し、
不法投棄が激増し、野生動物が異常繁殖して、あらゆる農産物を荒らしまくり、
大昔から続いてきた秩序の保たれた山村が荒廃して二度と人が住めなくなる姿であろう。
さらにいえば、中国人(マレーシア籍の実態のない名義人で背後には中国政府がいる)によって、
生活困難な住民から買収された日本の水源地が、
戦略的な道具として日本に対する侵略の陰謀に利用されることも覚悟しておかねばならないだろう。
日本社会の未来は山村過疎地の健全性の維持にかかっていると私は思う。
山村に人が住めなくなることは、
ひいては都市にも人が住めなくなることを意味するのである。
山村は、水源や河川管理など、見えない部分で、大都市の生活を支えているからだ。
もし311のような巨大震災が、東京や大阪のような大都市を襲ったなら、
どうなるか想像してみればいい。
大都市の繁栄など見せかけの砂上の楼閣にすぎない。
巨大な揺れが襲えば、あらゆるインフラを破壊してしまうのだ。
上水道管はへし折れ、下水管も断層分離や液状化などで崩壊し、
大都市の人口を支えるだけの食料飲料水供給など、わずか数日で底を尽きてしまうだろう。
コンビニやスーパーなど、物資供給インフラである道路が使えなくなれば
一巻の終わりであろう。
こんなとき、山村という逃げ場所、避難場所が確保されていることは、とても大切である。
日本の山には浄水しなくとも飲める清冽な水が湧いている。
農村には食料が存在している。
建物があれば、冬の寒さから身を守ることもできるだろう。
山村は、巨大震災や大火災など非常時における最期のセーフ機能であり、
エスケープ施設である。
日本人は、古来から何に依存して生き抜いてきたかといえば、海辺と山なのである。
そこには人を生き延びさせる資源があった。
海辺には 無尽蔵の貝など海産物があり、命の宝庫だ。
山には動物たちがいた。 豊富な水があり、木の実が落ちていた。
土には百合根や筍やキノコが埋まり、人の生活を支える資源があった。
それらは、都会にはないものだったのだ。
今だって、都会で水供給を奪われた人たちが頼れる場所は、
山村の清冽な沢しかないではないか?
何もかも失っても、山には、たくさんの木があり、
それを利用して簡易シェルターを作るのも難しいことではない。
知恵さえあれば、木の繊維を利用して横井庄一さんのように衣類さえ作り出せる。
最後の最後、何も食べ物がなくなったとき、山村には古代からの非常食、
葛クズがたくさん埋まっている。 時間はかかるが、素晴らしい澱粉が取れる。
何にも役立ちそうもない笹だって、実は茎の一部が食料になる。
その気になれば食用になる資源は他にもたくさんある。
木の皮、新芽、球根など。
太陽の光さえ届いていれば、芋を植えて食料をたくさん増やすこともできる。
都会でやっても盗まれるのがオチだ。
山村に人が住んでいるということは、
大都会の健全性を支えるエスケープ・セーフ機能である
という真実をご理解いただけただろうか?
それでも山村を非常時に機能させるには、
たくさんの知恵ある心優しい人々が住んでいないとダメだ。
その土地を知り尽くした人々の援助を受け、支え合って非常時をしのいでゆかねばならない。
大都会の人々の命を守る最期の防波堤こそ、山村なのだ。
こんな大切な山村から、住民を生活できなくさせて追放してしまっているのが、
自民党政権の施政である。
彼らには山村を守って子供たちの未来を支えようとするビジョンが皆無であり、
援助も手入れも拒否して荒廃に任せ、
過疎地、山村を日本社会から追放してしまおうとしているように思える。
一方で、子供たちの未来を奪うことしかできない原子力産業や
軍事産業に寄生して金儲けに夢中になっている。
山のある土地には心の豊かな子供が育つ。
信州人の人間性が豊かなのは山のおかげである。
大らかで自然を大切にし、
子供たちの未来に奉仕する人生観が大自然によって醸成されるのである。
山村を潰しても構わないと思っている自民党議員たちの大半が
都会しか知らない人たちばかりであり、金儲けだけが人生の価値と勘違いしている人たちだ。
[これから山村を再生させなければならないこと]
過疎の山村を再生させるには何が必要か?
まずはすべての資源の基本、「人」である。
未来ある若者たちに、たくさん山村に住んでもらう必要がある。
若者たちにとって、山村を自分の故郷とし、
魅力にあふれた楽しい人生をもたらす環境に変えてゆかねばならない。
それは個人の名誉や蓄財ではない。
人間と人間が連帯し、支え合って未来を切り開く喜びを見いだせる社会でなければならない。
自然な笑顔の飛び交う心豊かなコミュニティでなければならない。
上から与えられる豊かさではなく、
自分たちの努力で作り出す豊かさを共有できる価値観を持たねばならない。
国家の役割は、住民に金を垂れ流すことではない。
若者たちが、そこで持続的な生活力を生み出せる力を与えるものでなければならない。
私有財産の蓄財を価値観とするような援助は 百害あって一利なしだ。
本当に必要なものは、コミュニティである。
未来に持続する山村コミュニティを生み出すのだ。
入ってきた若者たちを孤立させずに、
連帯して共同体社会を強固に紡いでゆけるものでなければならない。
国家は、最初のインフラとして、公共交通機関の整備と、
教育、医療、介護福祉の設備を用意してあげればよいし、
可能なら、数十名程度の規模の大家族共同体で生活してゆけるような、
例えばキブツのような仕組みを援助してやればよい。
山村特有の資源である山林や、農業、養鶏などを基幹に、
生産活動を共同で行ってゆく仕組みを作り出してゆく必要がある。
生活の困難、人間関係の困難を、孤立した家族ではなく、
たくさんの人々が手を取り合って共同して解決してゆける仕組みを作り出す必要がある。
住居も、大きな建物のなかで、たくさんの個室を作って家族が住めば良い。
毎日顔を合わせて、たくさんの人と、
たくさんの困難を一緒に解決してゆけば楽しい人生が約束される。
大家族制度の良い点は、孤独がないということ、誰とでも対話できるということ、
それに冷蔵庫や洗濯機など共有資産にして、効率的に利用できるということで、
生活コストも孤立家族の数分の一以下ですませることができるのである。
私が相当以前に書いた大家族生活のスタイルを紹介しておこう。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-24.html
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-133.html
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-23.html
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-19.html
客家ハッカのスタイルは、非常に大切である。
実は、中国と周辺国家の優れた指導者の大半が客家出身なのだ。
客家出身者以外の指導者が、愚かな独裁をもたらしている。周近平もそうだ。
その思想は客家独特の大家族生活がもたらしたものと考えられるのである。
孤立した家族から優れた指導者が生まれた例は聞いたことがない。
[大都市と山村の相互関係のあり方]
大都会に住む若者たちは大自然に飢えている。みんな山に憧れている。
だが、そこに自分たちを受け入れてくれる住民がいなければ、
入ってゆくことさえできない。
これからは、大都市と山村の相互関係を濃密に育てていかなければ、
山村の荒廃が加速されるばかりだ。
例えば、私の住む中津川市蛭川の活性化構想はこうだ。
① 木曽川沿いに自転車専用道路を建設し、名古屋と岐阜から
木曽川源流地帯までサイクリングロードを整備する。
終点は御嶽山がいいだろう。
② 自転車の日行程を80Kmと考えれば、ちょうど蛭川まで80Kなので、
ここに宿泊施設を設ける。
③ 蛭川では博石館という観光施設があり、GSや食料品店が連なっているが、
ここに2000坪くらいの「道の駅」を作り、
経営は食料品店=紅梅屋に委嘱すればよい。
このなかに一泊2000円程度で泊まれるバイカー向け宿泊施設と食堂を作り、
さらにバイト紹介所も作り、若者たちが蛭川に定住できるきっかけを作る。
④ 「道の駅蛭川」には地元の農家から農産物を提供してもらい、
観光客などにも販売できれば、蛭川で食べてゆける小さな産業が成立するだろう。
将来的には、自転車専用道を拡充し、下呂から飛騨川にもサイクリングロードを作り、
八百津町で合流するトライアングル走路を作っておけば、
若者たちに魅力ある遊び場になるだろう。
⑤ とにかく若者が移住してくるということが一番大切であって、
彼らを受け入れる仕事、衣食住の環境を整えてあげる必要がある。
一泊2000円の超激安宿泊所は、若者たちを引き込むために絶対に必要だ。
笠置山には全国有数のボルダリングゲレンデが整備されているので、
金なしクライマーたちも、たくさん押し寄せるだろう。
それから彼らが生活できる仕事を作り、やがてキブツのような共同体構想に進めば良い。
↑
至言だと思いますが。
宝暦10年(1760)? ~ 嘉永2年(1849年)
号は、葛飾 北齋、前北齋、戴斗、為一、
画狂老人、卍 など。 作
「百人一首 うはがゑとき 僧正遍照」です。
第12番 僧正遍昭 (そうじょうへんじょう)
天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ
をとめの姿 しばしとどめむ
☆晴れの予報。
二ヶ月おきの通院日ですので、予約投稿になります。
東海アマ氏は FC2ブログ をメインにするようです、
謀略SNS・Twitterなど どーでもいいのではないか、連中はキ印ですよ、
◆http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-298.html
東海アマブログ 2018-04-06
原発、すべての核施設を即時廃止せよ
◎過疎 その1
「ポツンと一軒家」というテレビ番組を
ごらんになった方も多いと思う。
深い山の中など過疎地帯に家が一軒だけあって、
そこに人が住んでいる事情を取材したものだが、
住民はほとんどの場合、余生の少ない高齢者で、
不便を耐え忍んでも生まれ育った自分の家に愛着を持って、
そこで死にたいと願っている人たちであった。
私は、この番組を視聴して、柳田国男の「山の人生」を思い出していた。
私が登山や民俗学に興味を抱いたのは高校生になってからだが、
全国各地の山を登りながら、深い山のなかで暮らす人たちの生活ぶりや、
自然に対する考え方に強い興味を抱き、
自分の足で歩き、直接、住民と対話しながら、
自分なりの民俗学を見いだそうと夢中になっていた。
このとき、柳田国男や宮本常一の著作は、
私に大きなインスピレーションを与えてくれて、
懐事情の許す限り買いあさり、読みふけった。
今でも、私は自分の足で社会を見ようとした、この二人に、
近藤正二(日本の長寿村・短命村)を加えた三人を神のように崇め、
リスペクトし続けている。
「山の人生」には、自然以外の何も得られない深山での生活の実例が、
いくつも紹介され、
人間の本当の姿を、掛け値なしに示してくれて深い感銘がある。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/52505_50610.html
そして、医療もなく、暖房も食も満足に供給されない山の中で
死を迎える老人たちの心づもりに思いを寄せながら、
人生の意味を考え続け、自分の最期を、
どのように定めるかにも考えを巡らせた。
しかし、そんな思いのなかでツイートしたものが、
5年もたってからツイッター管理員から自殺幇助ツイートとされて
アカウントを凍結されてしまった。
http://tokaiama.minim.ne.jp//tuitter/akaunntoteisi.html
文句を言ったが相手にもしない。
ツイッター社管理員の絶望的な無能さに嫌悪するとともに、
自分の人生観にまで 他人の勝手な利権を関与させてたまるかと
強い怒りがわいた。
自民党など国家主義者は、自分たちの利権のために、
国家の権威、天皇の権威を利用し、
国民の人生観まで縛りをかけ利用しようとしているわけで、
国民の命は国家が勝手に利用するものであって、
国民自身が自分で決めさせてはならない、
徴兵のためには 自死の価値観を許してはならないというわけだ。
ツイッター社管理員も同じ国民管理の発想で縛りをかけてくるのだ。
ツイッター社に人生の価値観を左右する権利がどこにある?
もし安楽死を否定し、私のアカウントを凍結させた論理を適用するなら、
自殺権を容認する ベルギー・オランダ・ルクセンブルグ・スイスの
アカウントを全員凍結しなければならなくなるだろう。
私の祖母は100歳まで生きたが、骨粗鬆症による骨折を繰り返して
最期は老人ホームで餓死させられた。
延命措置を講じないという誓約を行っていたからだ。
今、両親も、ほぼ同じ条件で、最期はおそらく餓死になるだろう。
国家主義者の屁理屈では、これは殺人ということになるが、
本人が何を思うのかは誰も分からない。
「ポツンと一軒家」に登場する老人たちも同じようなもので、
最期は医療もなく、恵まれない環境のなかで
自死に近い形で朽ちるように死んでゆくことになる。
だが、恵まれたと思いこまされている整備された介護環境で
死を迎えることが、ポツンと一軒家の住人に比べて
本当に幸福なのだろうか?
私は、決してそうは思わない。
私なら、ポツンと一軒家の死を選ぶと強く思う。
最期は、たった一人で糞尿にまみれ、痛み止めもない苦しい死を迎える
ことになったとしても、私は自分の愛する豊かな自然のなかで、
小鳥たちのさえずりを聞きながら、静かに朽ちてゆきたい。
誰かに看取られる必要もなければ、畳の上で死ぬ必要もない。
死後、葬式をあげてもらいたいとも思わないし、
人生を顕彰されたいなどとは夢にも思わない。
ただ、誰をも煩わせずに、ひっそりと死んでゆきたい。
病院のものものしい設備で体中に管をつけて
人体実験モルモットのように死んでゆくのは、まっぴら御免だ。
車の騒音や排気ガスも、まっぴら御免だ。
誰もいない静けさのなかで、自分の肉体の崩壊と対話しながら
消えてゆきたいのだ。
私は、山歩きのなかで、「限界集落」をたくさん見てきた。
その限界を超えて完全な廃墟になっている集落もたくさん見た。
私の登山紀行文のなかにも、限界集落をいくつか紹介している。
(常光寺山の項)
http://hirukawanakayama.seesaa.net/article/458505271.html
ここに出てくる、南アルプス深南部、飯田線水窪町や
大井川線界隈の門桁・尾呂久保・石切などは、本当の過疎集落で、
多くは高齢化した住民が最期の時を過ごしている状態である。
小さな限界集落では、住民の一人一人に役割があって、誰かが欠けると、
集落全体の機能が欠けてしまうから、
一つの生き物、群体のように活動して呼吸してきた過疎の集落は、
死へ向かって負の連鎖が続いてゆくことになる。
私は、登山のついでに、滅び行く運命の限界集落の住民と
たくさんの会話をして、その民俗や人生観を知ろうとした。
そうして、対話のなかで、彼らが自分を不幸だと思っている姿に
出くわしたことは皆無である。
彼らの多くが、満ち足りた時を過ごしていた。
迫り来る死に対しても、日々、日常のありふれた自然の推移を楽しみながら、
誰に対しても暖かく接し、悠然と運命を受け入れる姿勢を見てきた。
ケバケバしいネオンもなく、便利な商店街もなく、
レストランも立派なモール街もないが、
裏庭には清冽な水が湧き、美味しい野菜が育ち、
素晴らしく清澄な大気を呼吸し、
周囲に人を妬み、陳腐な嫌がらせをするようなクズもいない。
そこにいる人たちは、自分を愛し、大切にしてくれる人たちだけである。
彼らの、どこを見ても、まるで禅の高僧のような姿で、
悠然という表現が実にふさわしい。
苛立ちも焦りもない。
そこに太古から山が存在するように、運命を従容と受け入れる
生々流転の人生が続いているかのように思えるのだ。
さて、話を私に移そう。
私の住所は、岐阜県中津川市の山奥である。
市町村統合前は蛭川村という江戸時代から続く歴史のある独立村落であった。
この静かな山里に名古屋から私が移住したのは、2003年頃であるから、
すでに15年を、ここで過ごしていることになる。
家は100万円のキットハウスを購入し自力で建てた。
井戸は20万円で掘ってもらったが、配管もトイレも浄化槽まで自作した。
かなり深刻な健康障害があって、血尿と鈍痛が続いて死を覚悟し、
掃除でさえ疲労困憊してできず、家がゴミ屋敷のようになった時期も
長く続いたが、
最近では地獄のような山岳トレーニングの効果が出て、
また普通の生活が送れそうになっている。
我が家の環境といえば、食料品店まで徒歩40分、車だと5分、
近いスーパーまで車で20分、恵那駅まで徒歩4時間、バスで30分ほど。
ただし、バス本数は日4本しかない。
移住してきた15年前は7本あったのだが。
自慢していいのか分からないが、旧村時代から今も、
村内に信号は一ヶ所もなく、コンビニもない。
一番近い恵那市のコンビニまで徒歩1時間以上かかる。
結局、車がないと生活が成り立たない。
冬場、凍結が激しいのでバイクは通年使えない。
その代わり、夜になると毎晩、付近をイノシシが徘徊してるし、
数年に一度は熊も寄ってくる。
春になれば、野鳥が凄まじくうるさくて朝方眠れないほどだ。
年々、減らされるバス便は、もう事実上、交通機関としては生活に役立たない、
単なる行政のアリバイ証明のような路線と本数である。
こうなると、典型的な過疎地帯といってよいだろう。
田舎暮らしにとって、もっとも基本的なライフラインは、
公共交通と食料供給、それに仕事である。
いずれが欠けても、安心できる生活は送れない。
しかし、高齢化するばかりで、どんどん減り続ける人口、無意味な公共交通、
もし車を奪われたなら、生きてゆく手段を奪われるに等しい環境である。
仕事だって、ほとんどないが、介護職のニーズだけは増えてゆくだろう。
なぜ、こんな暮らしにくい村になってしまったのか?
簡単に言えば、自民党政権が大都市優先、金儲け最優先社会を作って、
田舎の価値を理解できず、田舎暮らしを支援しないからであり、
若者たちが、就業先を都会に求めて田舎を離れてゆくからである。
昔は、田舎に住む人も多く、田舎の自然環境こそが
快適な都会生活を保全することに役立っていることが理解され、
田舎の自然を守る価値観が広く浸透し、公共交通だって、
今とは比較にならないほど手厚い援助があって使い安かった。
私が登山をはじめた1970年前後は、日本中の隅々の山奥にまで
バス便が延びていて、どんな辺鄙な山にでも
公共交通機関だけで往復することができた。
当時は日曜しか休みがなかったから、土曜の夜に出発して電車に乗り、
未明に最寄り駅について、午前3時にバスに乗って目的地まで移動する
ことだって容易だった。
甲府・塩山や谷川連峰の山々は、みんなそうして日帰りで登ったのだ。
地方のバス便が、採算性から削減されはじめたのは80年代だが、当初は、
利用者の利便性に奉仕する思想のある交通企業も多くて、
それほど困らなかったのだが、90年代に入って、
採算性一本槍の経営思想が蔓延してくると、利便性など何の関心もなく、
情け容赦のない不採算路線の切り捨てがはじまった。
この頃になると、山を下山しても、あったはずのバス便がなくて、
ひどい目に遭うことも増えた。
田舎暮らしが深刻な困難に直面しはじめたのも、この頃である。
足がない、食料が手に入らない、病院がない、仕事もない。
ないないづくしで田舎に住むことが不可能になり、
山々の荒廃が始まったのである。
それでも故郷に住みたいと願う人たちは、車を所有する家族の助けを得て、
本当にギリギリの不便な暮らしを強いられるようになり、
冒頭に述べた限界集落が全国的に激増するようになった。
私の住む蛭川では、移住後、獣害防止措置を講じてる農家など一軒もなかった。
畑が荒らされること、夜中にイノシシが町中を徘徊するなんてことは
想像もできなかった。
田舎が突然、獣害に晒されるようになったのは、たぶん2007年頃である。
この頃から、イノシシや熊が激増して、農産物を荒らすようになった。
2010年に入ると、もう獣害防止をしない田畑は見当たらなくなった。
なぜ、突然、獣害が激増したかというと、
一つには捕獲規制や猟銃規制が極端に過酷になったことで
狩猟者が激減したこと。
田舎の平均年齢が、狩猟という激務をこなせないほど
高齢化してしまったこと、などであろう。
だが、生活に必要なトラックなど生産手段への課税も強化され、
田舎暮らしの困難さが増してゆく現状で、
自然豊かな田舎暮らしの魅力は薄れる一方であり、
有力な仕事もないことから、若者たちが田舎に寄りつかず、
住まなくなった。
こんな愚かな政策を行っていれば、もう田舎は荒廃の一途をたどるしかなく、
むしろ「田舎」というカテゴリー全体が限界集落を意味するものになりかねない。
自民党議員の多くは、それでも構わない、
金はトヨタやキャノンなど巨大企業がまとめて稼げばいい、
農産物はモンサントの育てたバイオ作物が供給されればいいと
本気で信じているようだ。
田舎や山々の大自然がもたらす意味を、まったく理解できない知能の低さだ。
田舎、山村に人が住まなくなったなら、何が起きるのか?
それは日本全土の荒廃である。
田舎の山林の住民による絶え間のない手入れが河川の安全を支え、
都会住民の安全な飲料水を確保している。
自民党は、農地をモンサントのような国際金融資本バイオ企業に売り飛ばし、
山の大切な水源地は中国人に売り渡している。
そして田舎を手入れし、監視し、都会生活を支える仕事を
奪い取っているのである。
このような愚かな姿勢が、日本の未来をどのように変えてゆくのか?
北齋、二枚目、
![](http://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/3e/c9/b9986e74ce04a3a838d05ba769d36973_s.jpg)
「冨嶽三十六景 東海道品川 御殿山ノ不二」です。
◆http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-303.html
東海アマブログ 2018-04-07
◎過疎 その2
限界集落の激増している日本中の過疎地帯では、今、
大変な事態が起きていて、
国家崩壊の警報シグナルさえ点滅していることに気づいている人は少ない。
私の住む、中津川市蛭川の土地の路線価は坪1000円程度、
実売価格でも坪単価で4000円程度である。
300坪の私の家の実売価格は、120万円程度なのだ。
売価は、さらに安く坪2000円台である。
あと10年もすれば近所にリニア駅が開業するというのに、
価格はまったく上がらず、今、売れば80万円程度だと思う。
軽自動車一台分である。
山林なので固定資産税もかからず、開発規制もかかっていないので、
勝手にやりたい放題の土地である。
しかし、それでも売れない。誰も買わない。
いや、ある特別なグループだけが買う。
中国人と モンサント系農業法人 である。
彼らにとって、土地から将来得られる利益を考えれば、ほとんどタダ同然、
日本政府が自国の大切な資源を荒野に投げ捨てているのを
拾わなければ損という気持ちだろう。
私は若い頃、中国に強い興味を抱き、日中友好協会(正統)に入ったりして
中国との深い関係を持った。
たくさんの中国人とつきあい、中国史も研究した。
そこで理解したことは、中国における価値観を知ろうと思えば、
たくさんの中国映画を見た方が早いということであり、
ドニーイェン主演アクション映画の荒筋が、特別な企画でもなく、
日常生活にありふれていることを知ったことだった。
中国社会で、人を騙して資産を奪い取るという事態は、
日本人の正義感あふれる心優しい価値観からは許しがたい暴挙であるが、
中国では普遍的な社会秩序に組み込まれている。
これがメンツ最優先の儒教社会の価値観から来ていることは、
いうまでもない。
だからこそ、水戸黄門の悪代官みたいな
自腹を肥やすことしか頭にない官僚たちが、中国全土に蔓延しているのだ。
また、何一つ持たざる官僚制度の被害者である民衆でさえも、
ひとたび権力を与えられた瞬間に 悪代官に変身するのである。
中国では人を騙して資産を奪うことは、決して悪とは思われない。
数千年の歴史のなかで振り返れば、中国社会とは、
メンツを最大価値としながらも、
陰謀を重ねた 利権争奪戦争の社会 だったのだ。
この視点をもって、尖閣諸島問題を見れば、
誰でも「なるほど」と納得するだろう。
そうして、中国人による過疎地買収問題を見てみよう。
【 中国人や中国系企業が 日本で土地を購入するケースが相次いでいる。
日本メディアによると、北海道を中心に土地や建物などの不動産が
次々に買収されており、2016年には水源地2411ヘクタール(東京ドーム513個分)
が買収されたという。
しかし、これは水源地に限った数字で、それ以外も含めると、
実際にはこの10倍以上もの土地が中国人の手に渡っているとみられる。
国土の2%がすでに中国人に買収されたと推測されており、
「日本の安全保障や主権が脅かされる」と懸念の声も出ている。】
https://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20171025/Recordchina_20171025080.html
中国による対外侵略の手口は、ウイグルやチベットのような
典型的な侵略行動=武力制圧だけではなく、
ソフトな内部浸透からの事実上の乗っ取りのような手口も知られていて、
それは数千年前から続く華僑による外国進出の伝統的手法の延長にある。
日本では、外国人による国土簒奪の経験が乏しいので、警戒心も薄く、
静かに土地を買い占めて、密かに移住者を増やし、
気づいたら実質的に自治体や国土が 外国政府の支配下にあった
という事態を想定する為政者は、ほぼいない。
為政者である自民党員の大半が、口先だけ愛国心を標榜するが、
本当は自分の利権を拡大することしか頭になく、
本当の侵略に対する警戒心もないため、中国のような非民主独裁政権の
陰湿で、狡猾な侵略手口を 理解することができない。
そこを彼らは狙ってくる。
中国人が狙いを定めて買い占めている土地の多くが、
水源地と飛行場周辺 であると指摘されている。
極右勢力でさえ、この問題を追及しているのだが、
日本政府や自民党は関心を示さない。
http://bunshun.jp/articles/-/3430
これが人権を大切にする民主国家ならば大きな心配はいらないが、
なにせ、相手は官僚独裁による利権を拡大することしか考えない、
まるで戦前の日本のような侵略帝国主義国家なのだから、
今、チベットやウイグルで起きている 凄まじく暴力的な侵略支配の恐怖が
日本にもたらされることへの警戒心を怠ってはならない。
最悪、中国が日本を侵略した場合、戦前の日本軍による中国民衆大虐殺が
逆の立場で再現されることも考えなければならないだろう。
参考までに、1990年代に中国首相だった李鵬による
日本簒奪構想を掲示しておこう。
▼https://blog-imgs-77-origin.fc2.com/t/o/k/tokaiama/nihonsenryou.jpg
まあ、日本の自民党政権も、今はまるで
中国や北朝鮮の独裁政権に憧れ、
踏襲しようとしているようにしか見えないのだが。
論より証拠、沖縄を独裁植民地のように扱っている姿が、
日本政府の本当の姿であろう。
民主主義が存在しないから、非民主主義独裁国家に狙われるのである。
さて、出鼻から話題が逸れたが、日本政府が限界集落の激増する過疎地帯を
対策せずに放置すれば、そこは、やがて日本ではなくなると私は書きたいのである。
自民党政権が地方や過疎地帯を軽視し、何も対策せず、
放置して衰退に任せる有様は尋常ではない。
金儲け最優先原理を地方にも適用し、政治家や役人へのバックリベートで
儲かる軍事費だけに予算を注ぎ込み、
地方からは吸い上げ、衰退させることだけしか考えない。
地方は公共交通を奪われ、生産手段を奪われ、あげく土地を奪われて、
人々は老齢化し、かつて日本国家を支えた地方農村の姿は、
今や風前の灯火である。
もう地方の滅亡は時間の問題であるし、
すなわち日本国の滅亡が目前に迫っているのである。
こうして考えれば、自民党や公明党というのは、
中国独裁政府の手先にしか思えない。
本当に日本という民衆の幸福に奉仕する国家を作りたいのだったら、
まずは過疎地帯に若者を送り込み、生活しやすい環境を整え、
かつての里山社会を復活させなければならないのだ。
人と自然の協調による、人間性豊かな、自然豊かな地方社会があってこそ、
大都市住民の 健全な食生活、飲料水も 保全されるのである。
過疎の進む地方に必要なものは、公共交通機関の充実であり、
豊かな食生活を保証する環境であり、教育、医療、介護福祉など
住民サービスの充実であり、
さらに人々が安心できる収入を保証できる仕事を作り出すことである。
そうして若者たちが地方に戻り、健全な子供を育て、
はじめて日本社会の未来が見えてくるのだ。
自民党保守系議員は、仕事といえば目先の金儲けや補助金ばかり狙って、
原発や巨大産業の誘致というアホ丸出しの想像力しか働かないが、
これも競争と金儲け最優先の愚かな価値観がもたらした
短絡的で矮小な欲望丸出し思想にすぎず、
豊かな人間社会、解放された人間性、人々が笑顔で暮らせる社会とは、
どのようなスタイルかへの想像力、思慮を欠いた下劣低俗な発想である。
過疎の地方で必要な仕事とは、都市住民の安全な食生活、水道を支える
ものであり、人間が癒やされ、苦しみから解き放たれ
笑顔を取り戻すことができる社会なのである。
そうした社会に一番大切な安全な水をもたらす 水源地を守らないで、
何が為政者だ!
すでに、日本の水源地の2%が中国人(背後には中国侵略政権がいる)
に買い占められ、子供たちの未来が暗雲に閉ざされようとしているのだ!
もう一つの恐怖、モンサントによる農地独占にも触れておかねばならない。
▼https://blog-imgs-77-origin.fc2.com/t/o/k/tokaiama/monsanto1.jpg
モンサントの恐ろしさは言うまでもないが、私のかなり以前のブログを紹介しよう。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-220.html
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-219.html
モンサントはカーギルとともに、アメリカの企業というより、
国際多国籍金融資本 ロックフェラーグループによる
農業独占を目指した 陰謀企業体 である。
日本では農地規制法があるため、大企業が自由に農地を所有できなかったが、
モンサントは 傘下に独立法人を設立する手口で、
日本の農地の買収を始めた。
あれれれ、たくさんあったモンサントの傘下にある農業法人による
地方農地買収記事が消えている!
グーグルはモンサントのお仲間なのだ。
また安倍政権を支えている電通も、事実上、モンサントのお仲間
と断言してもいいし、
「自民党安部政権は、モンサントのための利権擁護でしかない種子法を廃止した
張本人であり、モンサントに買収された売国政権と」断言してもよい。
この告発は、モンサントの本質をよく説明している。
http://www.asyura2.com/16/kokusai14/msg/604.html
右翼といわれる三橋貴明でさえ、種子法を厳しく糾弾している。
すべての日本人よ、主要農作物種子法廃止(モンサント法)に反対せよ=三橋貴明
http://www.mag2.com/p/money/169661
また主題が逸れてしまった。
要は、過疎化と高齢化の進む地方の農地を取得しているのが、
日本人や日本企業ではなく、中国人や
国際金融資本バイオ企業であるモンサント(バイエル)であるという点が、
今後の日本国家の命運を示しているということである。
国際資本にとっては、日本の素晴らしい自然に抱かれた地方の農地は
タダ同然で手に入る宝物であり、現に、多くの優れた農地が、
誰も気づかないうちに中国政府や国際金融資本に盗まれている
という現実を我々は知るべきであり、
子供たちの未来にそびえ立つ
巨大な怪獣が姿を現していると知る必要があるのだ。
北齋、三枚目、
![](http://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/51/20/edf5ec28b25a5da3d59ce5ef00791296_s.jpg)
「東海道五十三次 石薬師 四十五」です。
◆http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-304.html
東海アマブログ 2018-04-08(
◎過疎 その3
過疎地域に対する自民党政権の無責任な放置政策が、このまま続くなら、
数百年も連綿と生活を続けて土地を守ってきた住民が、
より生活の便利な地域に移住を余儀なくされるのは確実である。
バスもなければ食料品店もない、病院も学校もなければ、近所の人たちも去って行く、
老齢化すれば免許証も取り上げられる。
どうやって住み続ければいいんだ?
山を守ってきた住民が消えてしまう結果は、水源地帯の荒廃であり、
河川上流の土砂崩れなど保全環境の荒廃であり、森林資源が材木泥棒に荒らされて荒廃し、
不法投棄が激増し、野生動物が異常繁殖して、あらゆる農産物を荒らしまくり、
大昔から続いてきた秩序の保たれた山村が荒廃して二度と人が住めなくなる姿であろう。
さらにいえば、中国人(マレーシア籍の実態のない名義人で背後には中国政府がいる)によって、
生活困難な住民から買収された日本の水源地が、
戦略的な道具として日本に対する侵略の陰謀に利用されることも覚悟しておかねばならないだろう。
日本社会の未来は山村過疎地の健全性の維持にかかっていると私は思う。
山村に人が住めなくなることは、
ひいては都市にも人が住めなくなることを意味するのである。
山村は、水源や河川管理など、見えない部分で、大都市の生活を支えているからだ。
もし311のような巨大震災が、東京や大阪のような大都市を襲ったなら、
どうなるか想像してみればいい。
大都市の繁栄など見せかけの砂上の楼閣にすぎない。
巨大な揺れが襲えば、あらゆるインフラを破壊してしまうのだ。
上水道管はへし折れ、下水管も断層分離や液状化などで崩壊し、
大都市の人口を支えるだけの食料飲料水供給など、わずか数日で底を尽きてしまうだろう。
コンビニやスーパーなど、物資供給インフラである道路が使えなくなれば
一巻の終わりであろう。
こんなとき、山村という逃げ場所、避難場所が確保されていることは、とても大切である。
日本の山には浄水しなくとも飲める清冽な水が湧いている。
農村には食料が存在している。
建物があれば、冬の寒さから身を守ることもできるだろう。
山村は、巨大震災や大火災など非常時における最期のセーフ機能であり、
エスケープ施設である。
日本人は、古来から何に依存して生き抜いてきたかといえば、海辺と山なのである。
そこには人を生き延びさせる資源があった。
海辺には 無尽蔵の貝など海産物があり、命の宝庫だ。
山には動物たちがいた。 豊富な水があり、木の実が落ちていた。
土には百合根や筍やキノコが埋まり、人の生活を支える資源があった。
それらは、都会にはないものだったのだ。
今だって、都会で水供給を奪われた人たちが頼れる場所は、
山村の清冽な沢しかないではないか?
何もかも失っても、山には、たくさんの木があり、
それを利用して簡易シェルターを作るのも難しいことではない。
知恵さえあれば、木の繊維を利用して横井庄一さんのように衣類さえ作り出せる。
最後の最後、何も食べ物がなくなったとき、山村には古代からの非常食、
葛クズがたくさん埋まっている。 時間はかかるが、素晴らしい澱粉が取れる。
何にも役立ちそうもない笹だって、実は茎の一部が食料になる。
その気になれば食用になる資源は他にもたくさんある。
木の皮、新芽、球根など。
太陽の光さえ届いていれば、芋を植えて食料をたくさん増やすこともできる。
都会でやっても盗まれるのがオチだ。
山村に人が住んでいるということは、
大都会の健全性を支えるエスケープ・セーフ機能である
という真実をご理解いただけただろうか?
それでも山村を非常時に機能させるには、
たくさんの知恵ある心優しい人々が住んでいないとダメだ。
その土地を知り尽くした人々の援助を受け、支え合って非常時をしのいでゆかねばならない。
大都会の人々の命を守る最期の防波堤こそ、山村なのだ。
こんな大切な山村から、住民を生活できなくさせて追放してしまっているのが、
自民党政権の施政である。
彼らには山村を守って子供たちの未来を支えようとするビジョンが皆無であり、
援助も手入れも拒否して荒廃に任せ、
過疎地、山村を日本社会から追放してしまおうとしているように思える。
一方で、子供たちの未来を奪うことしかできない原子力産業や
軍事産業に寄生して金儲けに夢中になっている。
山のある土地には心の豊かな子供が育つ。
信州人の人間性が豊かなのは山のおかげである。
大らかで自然を大切にし、
子供たちの未来に奉仕する人生観が大自然によって醸成されるのである。
山村を潰しても構わないと思っている自民党議員たちの大半が
都会しか知らない人たちばかりであり、金儲けだけが人生の価値と勘違いしている人たちだ。
[これから山村を再生させなければならないこと]
過疎の山村を再生させるには何が必要か?
まずはすべての資源の基本、「人」である。
未来ある若者たちに、たくさん山村に住んでもらう必要がある。
若者たちにとって、山村を自分の故郷とし、
魅力にあふれた楽しい人生をもたらす環境に変えてゆかねばならない。
それは個人の名誉や蓄財ではない。
人間と人間が連帯し、支え合って未来を切り開く喜びを見いだせる社会でなければならない。
自然な笑顔の飛び交う心豊かなコミュニティでなければならない。
上から与えられる豊かさではなく、
自分たちの努力で作り出す豊かさを共有できる価値観を持たねばならない。
国家の役割は、住民に金を垂れ流すことではない。
若者たちが、そこで持続的な生活力を生み出せる力を与えるものでなければならない。
私有財産の蓄財を価値観とするような援助は 百害あって一利なしだ。
本当に必要なものは、コミュニティである。
未来に持続する山村コミュニティを生み出すのだ。
入ってきた若者たちを孤立させずに、
連帯して共同体社会を強固に紡いでゆけるものでなければならない。
国家は、最初のインフラとして、公共交通機関の整備と、
教育、医療、介護福祉の設備を用意してあげればよいし、
可能なら、数十名程度の規模の大家族共同体で生活してゆけるような、
例えばキブツのような仕組みを援助してやればよい。
山村特有の資源である山林や、農業、養鶏などを基幹に、
生産活動を共同で行ってゆく仕組みを作り出してゆく必要がある。
生活の困難、人間関係の困難を、孤立した家族ではなく、
たくさんの人々が手を取り合って共同して解決してゆける仕組みを作り出す必要がある。
住居も、大きな建物のなかで、たくさんの個室を作って家族が住めば良い。
毎日顔を合わせて、たくさんの人と、
たくさんの困難を一緒に解決してゆけば楽しい人生が約束される。
大家族制度の良い点は、孤独がないということ、誰とでも対話できるということ、
それに冷蔵庫や洗濯機など共有資産にして、効率的に利用できるということで、
生活コストも孤立家族の数分の一以下ですませることができるのである。
私が相当以前に書いた大家族生活のスタイルを紹介しておこう。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-24.html
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-133.html
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-23.html
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-19.html
客家ハッカのスタイルは、非常に大切である。
実は、中国と周辺国家の優れた指導者の大半が客家出身なのだ。
客家出身者以外の指導者が、愚かな独裁をもたらしている。周近平もそうだ。
その思想は客家独特の大家族生活がもたらしたものと考えられるのである。
孤立した家族から優れた指導者が生まれた例は聞いたことがない。
[大都市と山村の相互関係のあり方]
大都会に住む若者たちは大自然に飢えている。みんな山に憧れている。
だが、そこに自分たちを受け入れてくれる住民がいなければ、
入ってゆくことさえできない。
これからは、大都市と山村の相互関係を濃密に育てていかなければ、
山村の荒廃が加速されるばかりだ。
例えば、私の住む中津川市蛭川の活性化構想はこうだ。
① 木曽川沿いに自転車専用道路を建設し、名古屋と岐阜から
木曽川源流地帯までサイクリングロードを整備する。
終点は御嶽山がいいだろう。
② 自転車の日行程を80Kmと考えれば、ちょうど蛭川まで80Kなので、
ここに宿泊施設を設ける。
③ 蛭川では博石館という観光施設があり、GSや食料品店が連なっているが、
ここに2000坪くらいの「道の駅」を作り、
経営は食料品店=紅梅屋に委嘱すればよい。
このなかに一泊2000円程度で泊まれるバイカー向け宿泊施設と食堂を作り、
さらにバイト紹介所も作り、若者たちが蛭川に定住できるきっかけを作る。
④ 「道の駅蛭川」には地元の農家から農産物を提供してもらい、
観光客などにも販売できれば、蛭川で食べてゆける小さな産業が成立するだろう。
将来的には、自転車専用道を拡充し、下呂から飛騨川にもサイクリングロードを作り、
八百津町で合流するトライアングル走路を作っておけば、
若者たちに魅力ある遊び場になるだろう。
⑤ とにかく若者が移住してくるということが一番大切であって、
彼らを受け入れる仕事、衣食住の環境を整えてあげる必要がある。
一泊2000円の超激安宿泊所は、若者たちを引き込むために絶対に必要だ。
笠置山には全国有数のボルダリングゲレンデが整備されているので、
金なしクライマーたちも、たくさん押し寄せるだろう。
それから彼らが生活できる仕事を作り、やがてキブツのような共同体構想に進めば良い。
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至言だと思いますが。