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雪虫舞ひⅢ

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 画は エドゥアール・マネ  Edouard Manet

 1832-1883 / フランス / 印象派    作


  「Spring (study-of-jeanne-demarsy-1882)」です。


☆晴れたり曇ったり。

昨日のニュースより、いやはやw

▼http://www3.nhk.or.jp/news/html/20141107/k10013023311000.html
マネの絵画 約75億円で落札


まずは、「ロシアの声」三本、

◆http://japanese.ruvr.ru/news/2014_11_07/279751306/
ロシアの声  7日 11月 2014,
◎プーチン大統領
 「TPP は自分に都合のいい経済機構を創ろうとする米国の試みに過ぎない」


ロシアのプーチン大統領は APEC北京サミットを前に中国メディアの取材に応じた。

中国人記者からの質問に対しプーチン大統領は、
中国との関係強化はロシアの優先的外交方針であり、
露中は多国間協議においても効果的に協力を行い、
アクチュアルな国際問題の解決にあたって緊密に行動を緊密させている、と述べた。

またプーチン大統領は、両国関係の深化の上で画期的な出来事として、
今後30年間にわたりロシアから中国へ
毎年380億立方米のガスを供給する合意が締結されたことを挙げた。

また、国際市場における原油価格の下落の要因として、
プーチン大統領は、経済成長の鈍化、一部諸国におけるエネルギー需要の減少を挙げた。

ただし、原油価格の決定には政治的要因も働いている、との印象がある、
とプーチン大統領。

原油価格の下落に対しロシア政府が取っている対応としては、
ロシア経済の構造および成長要因の多角化および、
欧州市場への資源輸出への過度の依存からの脱却、
その一環としての石油ガスのアジア太平洋地域諸国への輸出増大が挙げられた。

また、TPPのアジア太平洋地域情勢への影響に関しては、
プーチン大統領は、ロシアは地域経済統合に関心を持っているが、しかし、
地域統合の内部で内紛を起こすような試みには反対である、とした。

併せて、TPPはご多分に漏れず、自分にとって都合のいい
地域経済協力機構を構築しようとする米国の試みに過ぎない、との考えを示し、

地域における重要なプレイヤーであるロシアや中国が参加していないのであれば、
効果的な貿易経済協力関係を打ち立てることは望むべくもないだろう、とした。

アジア太平洋地域における多極的経済協力システムが強固なものとなるためには、
地域におけるすべての国の利害を考慮することが必要不可欠である、とプーチン大統領。

   byロシア大統領府




Manet、二枚目、



「Olympia」です。




ソ連の英雄にして、昭和天皇のスターリンへの密使、

◆http://japanese.ruvr.ru/news/2014_11_07/279723138/
ロシアの声  7日 11月 2014,
◎ロシアの外交官 日本にあるゾルゲの墓に献花


ソ連のスパイ、リヒャルト・ゾルゲが、1944年11月7日に巣鴨拘置所で処刑されてから
70周年となる7日、 多磨霊園にあるゾルゲの墓の近くで追悼式が執り行われた。

アファナシエフ駐日ロシア大使や大使館の上級外交官、
ゾルゲ記念 ロシア大使館附属学校の生徒たちが、花を手向けた。

日本では11月、ゾルゲ没後70周年を記念したシンポジウムや会 議が開かれている。
名古屋市にある愛知大学では、 大規模なワークショップが開かれた。 

ゾルゲ、刀の切っ先を走り抜けた男
☆http://japanese.ruvr.ru/2014_11_06/279696416/

11月8日には、東京にある明治大学で、 日ロ歴史研究センター主催による、
「ゾルゲ・尾崎処刑70周年: 新たな真実」と題する国際シンポジウムが開かれる。
シンポジウムには、日本、ロシア、中国、 その他の国から専門家たちが参加する見込み。

ドイツの共産主義者リヒャルト・ゾルゲは、 ソ連の軍事諜報機関の任務を受けて、
1933年に来日した。

ナチス・ドイツによるソ連攻撃の予定日を最初に報告したのは、 ゾルゲだった。
また、ゾルゲによる、
「日本は1941年に対ソ戦 争を行わない」という報告も、大きな価値を持った。
歴史家たちは、 これがモスクワの戦いにおける勝利に大きく貢献したとの見方を表している。

ゾルゲは1941年10月18日に逮捕され、 死刑判決が言い渡され、絞首刑に処された。

死後の1964年、ゾルゲにソ連英雄の称号が授与された。

  byイタル・タス



◆http://japanese.ruvr.ru/2014_11_06/279696416/
ロシアの声  11月 6 日
◎ゾルゲ、刀の切っ先を走り抜けた男


▼http://cdn.ruvr.ru/2014/11/06/1497224946/
 9Bundesarchiv_Bild_183-1985-1003-020_Richard_Sorge.jpg


今から70年前の1944年11月7日、伝説的なソ連のスパイ、
リヒャルト・ゾルゲの心臓の鼓動は止まった。
ゾルゲはラムザイの通称で歴史にその名を残した。
そして今度は今から50年前の1964年の11月、ソ連では初めて、
ゾルゲの諜報活動に関するきちんとした形の評価がなされた。
ロシアの声はこの日にあわせて特別番組を組み、
リヒャルト・ゾルゲの生涯からいくつかのエピソードをぬきだし、
著名な日本研究家のアンドレイ・フェシュン氏、
アレクサンドル・クラノフ氏の見解をご紹介したい。


1944年11月7日の朝、東京の巣鴨拘置所。
人間の歩みで図れば縦が5歩、横は3歩という狭い独房。
天井にぎりぎり近い位置に格子の入った小窓。
小さな電球が1人の受刑者をぼんやりと照らし出している。
閂がかちゃかちゃと音をたてた。扉の敷居には看守と2人の警備員、
そして主任牧師の姿。秩序を遵守しながら、看守が口を開く。

 「あなたの名前は?」

 「リヒャルド・ゾルゲ」

 「年齢はいくつですか?」

 「49歳」

 「東京地方裁判所は絞首刑による死刑を言い渡し、
 最高裁判所は控訴を取り下げました。これはご存知ですか?」

 「はい、知っております」

 「執行は44年11月7日、つまり今日行われることになっております。
 覚悟はよろしいですか?」

  「覚悟は出来ております」

看守は受刑者の視線を床に促した。床の真ん中にはハッチのふたがあった。
ゾルゲはそのふたの上に立った。ゾルゲの首に縄がかけられる。
そしてハッチのふたが開けられた。こうしてリヒャルト・ゾルゲの命は露と消えた。
ゾルゲの死体は拘置所の墓地にある無縁墓地に埋葬された。

ゾルゲの訃報は彼に非常に近しかった女友達の、石井花子に伝えられた。
石井はこれに絶望したが、それでもこの日から彼女の人生は再び新たな意味を帯びた。
石井はゾルゲの遺体を捜し出し、墓を建て、人々にこの人物のことを伝えることを
自分の使命と肝に銘じた。そして1949年、彼女の念願が叶う。
石井花子はゾルゲの遺体を捜し出し、荼毘に付し、東京の多磨霊園に埋葬しなおした。
石井花子のおかげで日本語とドイツ語でリヒャルド・ゾルゲと銘を入れた墓石が立てられた。

ソ連邦がゾルゲの貢献を認めるまでの間の1960年代の初頭まで、
石井花子は1人でゾルゲの墓守をしていた。

1964年11月5日、ソ連最高会議幹部会が次のような勅令を出した。

「祖国に対する貢献と勇敢かつ英雄的行動を讃えて
同士リハルド ・ゾルゲにソ連邦英雄勲章を授与する」

このすぐ後、ソ連政府はゾルゲの墓所に、ロシア語で彼の名を刻んだ墓石を加えた。
そこには「ソ連邦の英雄、リハルド ・ゾルゲ」と記されている。

今のロシア人にとっては、リヒャルド・ゾルゲは記念碑や文学作品に描かれ、
諸都市のあちこちの通り、広場に名を冠する存在であり、
第2次世界大戦時代に英雄的に活躍した輝かしいスパイとして刻まれている。

ゾルゲについてはほとんど全てが明らかにされていると思われているが、
実は全くそうではない。1941年秋、東京でゾルゲとその一味が逮捕された後、
彼の名はソ連では忘れるがままにされていた。

そしてそれからほぼ20年にわたって同じ状態が続いていた。
だがこれは何の不思議もなく、非難されるようなものでもない。
世界で暗躍するスパイのほとんどはその名も知られないまま消え去っていくからだ。

ゾルゲのスパイとしての主な功績は一体なんだったのだろうか。

高等経済学校の助教授で日本専門家のアンドレイ・フェシュン氏は次のように語る。

「1940年12月から始まって ゾルゲはソ連の諜報参謀本部指導部に対し、
わが国への攻撃準備に関する機密情報を送りつけ、文字通りこれを『爆撃し続けた』。

そして攻撃の期間について知らせるだけでなく、
ヒトラー軍がどこに一番の打撃を加えようとしているのか、正確な方向までも報告したのだ。

ところがゾルゲの報告をモスクワは信憑性を欠くとして受け止め、
この点において除外的に注意深く受け止められていた。

ゾルゲの悲劇はまさに、最も重要度の高い戦略的情報でさえも諜報部の疑いを招いていた
という点にある。だがいったん戦争が始まると、ゾルゲの忠誠心は明確になり、
軍事的性格の要請が次から次に寄せられるようになった。」


ゾルゲの功績は彼がソ連に対するヒトラーの攻撃を伝えていただけに留まらない。
ゾルゲはドイツのソ連攻撃の日をはっきりと6月22日と明言していたのだ
(これについては他のエージェンシーも情報を伝えていた)。

1941年秋、ゾルゲは日本は対ソ参戦は行なわず、
太平洋上で米国を相手に戦うだろうと報告した。

これを受けてスターリンは師団の一部を西部戦線およびモスクワ郊外に投入することができ、
まさにこれによってモスクワへと進軍するヒトラー軍を阻止することが叶った。

確かに軍部隊の配置換えはゾルゲの報告だけによるものではなかった。
これには満州にいたソ連のエージェンシーなどの情報源も加味されていた。


ソ連側の疑心はゾルゲを非常に気落ちさせた。

ゾルゲは回想録のなかでこう記している。

「私が集めた情報をすべてモスクワに送ったと考えるのは間違いになるだろう。
いや、私は情報を自分の目の細かい篩ふるい にかけ、絶対的な確信をもって、
これは非の打ち所がない、信憑性があると思われるものだけを送ってきた。
政治状況、軍事状況を分析する際も同じ姿勢で行なってきたのだ。」

ゾルゲのもつ分析能力と広い博識が功を奏して、
彼は日本で様々なコンタクトを取得することに成功する。そのつながりのおかげで
ゾルゲはほぼ第1人者に近い筋からの非常に価値の高い機密情報を得ることが出来た。

ゾルゲが日本に渡ったのは1933年9月。

ドイツの主要な新聞「フランクフルター・ツァイトゥング」の東京特派員としてだった。

新聞にはゾルゲが定期的に執筆する記事が掲載され始める。
そんな記事の見出しを読むと、「日本の軍事力」、「日本の財政配慮」、
「近衛公、日本の力を結集」、「日英の不透明な関係」、
「軍事立法における日本の経済」などが挙げられる。

認識的な資料、日本の将来についての考察がちりばめられたこうした記事は
明確な政治的帰結を含んでいたため、すぐさま注目を集めた。

ゾルゲはオイゲン・オットー駐日ドイツ大使の信用を勝ち得るようになった。

オットー大使はしばらくすると日本がベルリンに宛てた大使館機密情報の編集まで
頼むようになる。後にゾルゲはドイツ大使館の広報担当大使館員兼大使顧問となった。

ゾルゲは最重要証拠の60%をまさに自分の執務室で、
または大使の妻から入手していたのだった。
これにある種の役割を演じたのがゾルゲのもつコミュニケーション能力の高さと
魅力的な人格だった。

だが最たるものは高い知性と多くの問題についての豊富な知識、先を見通し、
全体を見渡して帰結を出すことのできる力だろう。

ゾルゲは日本に渡る前に、日本の歴史、経済、文化について
大量の資料を読み込んでいたが、それはちゃんとした理由があってのことだった。


かなり短い期間でゾルゲは日本で見事に非合法活動を行なう諜報団「ラムゼイ」を作り上げた。
そこには合計30人以上のメンバーが入っており、
中核にはゾルゲ本人、無線技師のマックス・クラウゼン、洋画家宮城与徳、
ジャーナリストのブランコ・ヴケリッチ、日本人ジャーナリストの尾崎秀実がいたが、
尾崎はゾルゲにとっては最も重要な情報源となった。

ゾルゲ諜報団は万人にアクセスが開かれた情報源のみならず、
日本の閣僚、将官団、大産業家などをつかって
最大限、諜報情報を引き出すことに成功していた。

この一団にはたった一人の共産党員もいなかった。

そしてこれはゾルゲのとった第1の安全対策だった。

というのも、日本の警察や特高は共産党員を捕まえようと「赤」狩りをして、
彼らの痕跡を見つけ、諜報団自体の存在を突き止める危険性があったからだ。

数年にわたりこの「ラムゼイ」は日本警察の鼻面の前でたくみに振舞い続けた。
ゾルゲ自身には目に見える、そして見えない様々な監視がついていたにもかかわらず。

いくつかの諜報情報が日本の特務機関に傍受された際も、
特高はそれを解読したり、送信地点をすぐに突き止めることは出来なかった。

ところが送信ステーションはすぐ鼻先の東京郊外にあった。
諜報団がこれだけ見事に成し遂げた理由について、ロシア日本学者協会の幹部、
アレクサンドル・クラノフ氏は次のように語っている。

「まず、これはゾルゲの教育レベルの高さとプロとしての豊かな経験のゆえんだろう。
ゾルゲは忍耐強く非合法活動に接していた。とはいえ、
時にこれを軽蔑していたことを物語る証拠もたくさんある。もちろん、

ゾルゲは非常についていた。彼は危険を犯していた。あたかも運命を相手に競うかのように。
ゾルゲは日本の警察のよけいな疑念を払拭することに成功していた。

なぜならドイツ大使館という格好の隠れ蓑があったからだ。
もうひとつ、ゾルゲの成功を促した要因がある。
1930年代半ば当時、日本の治安維持機関はこれだけの規模の諜報活動を
相手にするには準備が足りなかったのだ。」


だがなぜ、ゾルゲの諜報団は逮捕されてしまったのだろうか? 
これについてフェシュン氏は次のように語っている。

「この一団はずいぶん前から追跡されていたのだが、どうやら証拠不十分だったようだ。
ゾルゲに通信機で、ソ連大使館の代表らが直接彼とコンタクトを取るといわれたとき、
ゾルゲはこの契約は暴露されるだろう、つまり破綻したことが分からないはずはなかった。

このとき、ゾルゲの心中で何が起こっていたのか、我々は知る由もない。だが、
ゾルゲ本人がミスを犯すはずはなかった。ゾルゲを近寄せたのはソ連側の担当者らだった。

諜報員が在東京ソ連大使館職員と直接的にコンタクトを取る場に引き出されたとき、
日本の防諜機関には直ちに出動命令書が出された。

もちろん、有名な外国人ジャーナリストの彼には多くが許されてきたし、
これといって大きな疑惑の念がもたれたことはなかった。

だがソ連大使館の公式的な代表者に呼び出されたということは
判決を言い渡されたも同様だった。

これが内務人民委員部機関の知識不足なのか、
または故意の煽動だったのかは明らかにされていない。」

いくつかの証拠によると、1943年9月29日、ゾルゲに死刑判決が言い渡された後、
日本はソ連に対して、
ゾルゲと、ノモンハン事件で捕虜となった日本人軍人の交換を申し出ていた
ことがわかっている。人質交換を許可できた人物はただ1人、スターリンだけだった。

なぜスターリンはこれに応じなかったのだろうか? 

ひょっとすると、スターリンにはゾルゲが「二重スパイ」である
かのような話が伝わっていたのかもしれない。

本当にゾルゲは二重スパイだったのだろうか? 
これについてクラノフ氏は次のように語っている。

「ゾルゲを『二重スパイ』と呼ぶには条件がある。
ソ連側はゾルゲが送ってくる内容はベルリンにも送られていることは把握していた。

ベルリン側が知っていたのはゾルゲがベルリンに情報を送っているということだけだった。
これはあまりにも大きな違いだ。」

「もし平和な社会に生まれ、政治的に平和な環境にいたら、
私は間違いなく学者になっていたはずだ。少なくとも、
諜報員としての仕事を選ばなかったことは確かだ。」

ゾルゲの独房での手記はこう語っている。

彼は一体どんな人物だったのだろうか? 敵の穴のなかで働き、長い間、
こんなにもうまくカモフラージュできたとは、どんな資質を兼ね備えていたのだろう。
この問いをまずはフェシュン氏にぶつけてみた。

「ゾルゲはロマンチストだった。スパイの仕事を始めながら、
ゾルゲはプロとしてのロマンチシズムの時代を体験している。
スパイとしての自らの課題を彼は日本のソ連侵攻を防御することと捉えていた。
そしてこれは彼にとっては平和を求める闘争のロマンチシズムだったのだ。
これは彼の上海時代に、運命のいたずらで彼がソ連諜報機関のレジデントになり、
甚だ功績を挙げてしまったときにすでに発揮されていた。
ゾルゲのあらゆる方面に均一の取れた性格、
やりくりのうまさ、人付き合いのよさも発揮された。

だが常に緊張の中で生きるというのは誰にでも出来ることではない。
ロマンチストであるからこそ、ゾルゲは神経質にもなった。
それでも彼は人目を惹く人間であり、絶好の話し相手でありつづけることができた。
彼は美しい人物で非常に勇敢だった。女性たちは彼に夢中になった。
おそらくそれだけのものがあったに違いない。
ゾルゲが本当に一貫した、一様な性格の持ち主ではなかったことは確かだ。」

クラノフ氏の意見はこうだ。

「残念ながらゾルゲの恋人だった石井花子の著作、『人間ゾルゲ』は
ロシア語には訳されていない。訳されていれば多くの面白い事実を知る事が出来た
だろうと思う。この人はまちがいなく完全な、そしてあまりにも
高度な知性をもったとても強い人物だ。当時の描写のそこここから、
ゾルゲがいかに敏感で注意深く、強い意志力をもった人間かがわかる。

もちろん、彼は強いエネルギーと芸術家としての資質を兼ね備えていた。
必要と在らばゾルゲは人を魅了し、自分にひきつける事が出来たのだ。

彼は惚れっぽく、数々の女性を相手に名声を上げた。
花子のゾルゲへの愛の物語はロシアでも日本でも十分に評価されていないと思う。
8年ものスパイ活動をゾルゲは常に高度の緊張状態で行なっていた。
このため時に激しい感情の起伏に襲われることがあったが、これは十分に説明がつく。
まあ、まったく普通とは違う人間だった。」

ゾルゲの働きの意味をまとめると、
これは日本とソ連の間の戦争勃発を防御することにあったが、
実際ゾルゲによってこれは見事に果たされた。

たしかにゾルゲは「日本の国益を損傷した」として裁かれたが、
事実上はゾルゲは日本を敵にしたわけではなく、
なんとか日本とソ連に戦争が起きぬように働いていただけなのだ。

今の日本人の解釈はまさにこうであり、だからこそ、未だにゾルゲの墓には花が絶えない。
リヒャルト・ゾルゲについてはロシア人もそして外国人も多くの調査を行い、
執筆を行なっている。残されていた古文書もほとんど全てが公になった。
ゾルゲの名は伝説となり、その歴史はどこまでが真実でどこからが嘘なのか、
見分けがつきにくいほどに数々の伝説がまとわりついている。
何か新たなことを探し出すことは難しい。
この番組ではゾルゲの人生の最後を少し取り上げてみた。
リヒャルト・ゾルゲ没後70周年の前日に再びこの人物を思い起こし、
その功績を讃えたい。


▼http://static.ruvr.ru/2014/11/06/14/ZORGE_2.jpg

▼http://static.ruvr.ru/2014/11/06/14/ZORGE_MOGILA.jpg




Manet、三枚目、



「The-grand-canal-of-venice-blue-venice-1874」です。




これが真実なのだと思はれ、

◆http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/700.html
投稿者 ♪ペリマリ♪ 日時 2011 年 11 月 30 日 8qHXTBsVRznh2
◎山本五十六の真実⑤ 鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密-2・26事件

DVD 『鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密』 成甲書房より転載。

より抜粋、

これからは2・26事件について語ろうと思います。
2・26を追究して、いくらかでもその真実に近づけば、
日本のこれからの未来のためにも役立ちます。

2・26事件というのは若い将校たちが叛乱を起したと。で、
その将校たちの叛乱を気に入らないというので天皇が怒り、
数多くの将校たちが処刑されました。しかし、これには裏があります。

今、私が秩父宮と昭和天皇は父親が違うということを喋りましたが、
これは東久邇(稔彦)が喋ったことなんですね。


笠原和夫は広島のジャンク映画『仁義なき闘い』を初め、色々な芝居の脚本を書いて、
それでなお昭和秘録というようなものに挑戦して、2・26にも挑戦します。
しかし「2・26は映画になりきれなかった。書けなかった」と、
彼は本の中で断念していますが、それはそうなんです。

あれを追究すると映画にはなり得ないんです。
なぜなら、あれは秩父宮が最初に仕掛けたクーデター劇なんです。
これはもう他の人もみなさんご存知なんです。

ところが真相は、秩父宮がある時点で若き将校たちを裏切るんです。
それで彼らは行き場を失うわけです。


秩父宮が安藤輝三(てるぞう)という大尉に話を持ちかけます。
これはまちがいない事実です。そして安藤は非常に冷静な男だったので断ります。

しかし秩父宮は懐から懐中時計を出して「俺の真意を汲んでくれ」と言います。
それで彼がリーダー格となり、若い将校たちを仲間に入れます。
そして革命を起したときに、秩父宮は弘前に逃げます。
そして安藤に言います「弘前で軍人たちを募ってやって来るから」と。
それで安藤と仲間たちの将校は、秩父宮の言葉を信じて革命を起します。
しかしその革命はみなさんがご存知のように失敗します。

なぜ失敗したか? 彼は途中で天皇の味方につくわけです。私はそう思ってます。
それで失敗します。その結果どうなったのか?


結局2・26事件を起した連中は-それとその指導者たちは皇統派と呼ばれています。
で、もう一つ統制派というのがあります。
統制派というのあは陸軍16期生というのがありまして、陸士ですね、
その中で1921年だと思いますが、10月にドイツのバーデンバーデンというところに
ある4人の男たちが集まります。そういう連中がドイツに集まった所に、
東久邇が裏で緒を引いて、結局そこから統制派というのが生まれてくるんです。

リーダーは暗殺された永田鉄山という男ですが、永田鉄山は途中で暗殺される。
これが一番優秀な男だったわけでありますが、
その連中が東久邇と秩父宮にそそのかされて、結局、日本をおかしな方向に持っていくわけです。

で、日本はアメリカとソ連を敵対国とするんですが、
統制派というのはアメリカを打倒しなければダメだという。
まあこれは大体のストーリイですけど。

で、皇統派というのはアメリカと戦っちゃいけないと、
あくまで日本は敵を想定するならソヴィエトだということなんです。


これは大まかなストーリイですけど、そうした中で、みなさんご存知のように
ゾルゲという男がいます。ソ連のスパイをやった男です。

そのゾルゲを尾崎秀実(ほつみ)というのと、
さっいいました西園寺八郎の息子の公一(きんかず)というのが、
ゾルゲに秘密情報を流したというわけです。

どんな本を読んでもそういうストーリイです。
しかしこれは西園寺公一と昭和天皇が兄弟であったと私は申しました。
西園寺八郎が妻に産ませたのが公一です。でその公一と昭和天皇は兄弟です。

昭和天皇は木戸幸一を通すんですけど、自分の弟の公一に、
ソ連のスターリンに向けて発したい情報を伝えるわけです。

それを尾崎秀実という朝日新聞の記者が一緒になって、ゾルゲを却って誘惑するわけです。
ゾルゲにおべらかしやインテリ女を与えて、ゾルゲを懐柔します。

ゾルゲは女遊びをしてオートバイを乗り回してフザケた男ですけど、で、
公安はぜんぶゾルゲをチェックしますけど、天皇一族はゾルゲを野放しにします。


ゾルゲは日本の一番重要な情報をぜんぶ手に入れて、スターリンに渡します。
スターリンはそれを信じるわけです。
だからスターリンは、日本がソヴィエトを攻めてこないということを知るわけです。

天皇を初め統制派の連中ですね、永田鉄山が殺されましたから東条英機が首相になって、
アメリカを攻めるストーリイは最初から作られたということなんです。

戦争というものは必ずどこかで企みがあるものなんです。

昭和天皇が、1938年12月ですから大戦が一年前、これは木戸幸一の日記に出てきます。
木戸幸一にこういうことを言っています
「もう世界大戦は始まる。そして最後に勝つのはソ連とアメリカで、他の国は全部潰される。
日本も同じように潰される。だけど日本人は臥薪嘗胆して質実剛健を維持すれば、
10年後には復活する」と。


これは見事に予言的中しているわけですよ。
その一年後に第二次世界大戦が始まります。真珠湾攻撃をちょうど一年後にやります。
10年後というのはちょうど講和条約の時です。だから考えようによっては、
昭和天皇だけが日本のストーリイを全部知っていたんじゃないか、ということになりませんか? 
僕はそう思います。で、戦争が始まる一年前に近衛が天皇に面会を申し込みます。
天皇は拒否します。それで近衛が木戸に会います。
これもまた木戸日記にちゃんと書いてます。
近衛はどういうことを言ったかと。

「お前は天皇に言え。いいか。海軍は二年しか石油がない、
戦争をすれば一年半持てばいいけど、まあ一年で終わる。
陸軍は石油を一年分しか持ってない。この状態で戦争が出来るわけはない」

と嘆いて木戸の許を去ります。
木戸日記に書いてあります「俺もそう思う。戦争すれば負けるワイ」。
これは木戸日記にはっきり書いてあります。


ところが実際は戦争は4年も5年も続いたじゃないですか。
石油のない時代は、最後の一年間くらいは石油が尽きたけど、石油はあったんですよある程度。
みなさんもご存知のように、ガダルカナルや何とかでいっぱい負けますけど、
やっぱりあれは石油があったんですよ。なぜ石油があったか考えてみたことありますか。
これはですね、戦争の時にアメリカが「日本には石油は売らない」。
ところが「パナマ国籍の船ならば油を積んでいって日本に売っても、
これは自分たちは攻撃できない」という理屈で、日本に石油を間接的に売るわけです。
本当なんです。
三菱が作った『昭和通商』という会社がそれを引き受ける。
『昭和通商』と三菱は同じです。それではマズイというので
『日本水産』(注 白洲次郎は取締役)という会社が代行するわけです。
魚を運ぶということではなくて、魚の代わりに石油をパナマ国籍からもらって持って帰るので、
戦争は長びくわけです。


◎鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日』より該当箇所抜粋。


『多くの資料がソヴィエト連邦解体とともにクレムリンから出てきた。
その資料から、野坂参三の過去がかなり暴かれた。世に言ういう二重スパイ説である。
しかし、野坂参三が天皇のためのスパイであった、とする文書は闇に消えている。

野坂参三が天皇のスパイ、アメリカのスパイ、クレムリンのスパイのみならず、
国際金融同盟、すなわち、闇の支配勢力のスパイであったことは間違いのない事実である。』

『野坂参三は天皇のスパイから出発し、ついにクレムリン、アメリカ、
そして国際金融同盟のスパイに仕上げられ、次に中国共産党の内部深くに侵入していくのである。
その国際金融同盟がつくった太平洋問題調査会の第六回国際会議がアメリカのヨセミテで、
1936年8月14日から29日の間に開かれている。
この会議にゾルゲ機関の一味の尾崎秀実が日本側委員として出席している。』

『私は太平洋問題調査会の第六回国際会議に出席した尾崎秀実とのコネクションを
野坂参三が手配していたと考える。太平洋問題調査会はロックフェラー一味、ロスチャイルド財閥、
そしてソヴィエトの謀略機関であった。
南進策がこの会議では討論されていない。しかし、「北進策を日本がとるべきではない」ことが
討議されたのである。尾崎は帰国後、満州の軍事会社にいた日本共産党員に資料を作らせる。
この背後にも間違いなく野坂参三がいたと思われる。
この年の六月頃から年末にかけて野坂参三の行方は不明となる。
私は尾崎と行動を共にシ、日本に帰国後、秘密裡に満州に入り、モスクワに帰った、とみる。』



◎私見では尾崎秀実を破滅に引き込んだのは吉田茂&白洲次郎である。

次郎のコネクションである牛場友彦と松本次郎が仲介役である。

『白洲次郎の幼馴染の牛場友彦(東大卒業後、オックスフォード大学入学、
その後太平洋問題調査会IPRに入っていた)が近衛文麿に従い、二ヶ月のアメリカ旅行を行った。

その旅には樺山愛輔(注 白洲の岳父)の国際通信社の取締役であった岩永祐吉も同行した。
岩永の推挙もあったようだが、この旅で昭和12年に近衛の組閣に際して、
牛場は近衛の秘書官となるのである。

牛場の証言によると、白洲次郎とは昔から”ジロー””トモ”と呼び合う仲であったが、
昭和12年以降(注 白洲が日本水産の取締役になった年)その親密さは増し、
白洲の近衛の政策ブレーン-後藤隆之助、西園寺公一、あるいは尾崎秀実など-
との交渉も頻繁になっていった。』(青柳恵介『風の男 白洲次郎』新潮社より)

この牛場と松本重治次郎が白洲次郎の汚れ仕事の仲間である。

尾崎秀実を朝飯会に入れた牛場友彦・松本重治・白洲次郎は、
近衛文麿を排除すべく秘密工作もしている。

占領期になると三人は近衛を追い詰める工作をあれこれやる。
近衛の自殺は自殺という形の暗殺である。

前夜二人は白洲次郎に渡された青酸カリを持って近衛を訪問、
二時間余りも脅し強要して自殺させたのである。

『私は(通説とは)逆に、西園寺公一と原田熊雄たちが、
天皇と木戸、近衛に踊らされていた、とみるのである。

ゾルゲ・ルートで一方的に数万点の機密資料を垂れ流した天皇、木戸、近衛は、

一方でソ連に日米和平の仲介を依頼すべく闇のルート(たぶん野坂参三のルート)で知らせ、
その情報を讀賣新聞に流したのだろう。
南進策こそはアメリカとイギリスとの戦争そのものを意味した。』

『私たち平成の世に住む人々は、あの時代の貧乏を理解できない。
農村は働き手を兵隊にとられ、娘たちの多くは売春婦になっていった過去を知ろうとしない。

天皇とその一族が優雅な生活を続ける一方で、
日本人のほとんどは、どん底の生活に落とされていた。

どん底に生きる人々を恐れている神の一族は、たえず何かを仕掛けなければ生きていけない。
そこに暴力性が要求される。』

『2・26事件を私は、天皇と秩父宮が密かに練った偽装クーデターとの説をとる。
秩父宮は密かに仙台から遠回りの鉄道を使い東京に出て来て、高松宮と会談し、
その後で二人で天皇と会っている。この事件をいかに収拾するかについて話している。
8月15日のあの事件と2・26事件は共通する。
前者は三笠宮が策を練り、後者は秩父宮が策を練ったのである。

天皇教はたえず暴力装置を作っては、それを策動して生きながらえてきた。

どん底の人々は、大きく二つに分かれた。

天皇教の側に立って共にその暴力装置に加担する一派と、その逆の立場の人々である。


統制派は天皇側について南進論を推し進めた人々である。

皇統派はその暴力装置に対抗すべく日蓮宗に救いを求めた。

軍人のほとんどが、軍人たちの一部(天皇教の暴力装置に組み込まれた軍人たち)を除き、
アメリカと戦争する拙劣きわまりない行為を知っていた。

それでも天皇とその一族は戦争を仕掛けるのである。

その謎を徹底的に追究しようとして私は書いてきた。』


『ねずまさしは「天皇昭和紀(上)大日本帝国の崩壊」の中で
「2月26日午前4時、第一師団の歩兵および第三連隊の営門から、
部隊は堂々と市内へ出発した・・・・かくて彼らは、目ざす重臣五人を殺した、
と信じて陸軍省などに引き揚げた・・・牧野は早くも旅館からのがれていたため、
護衛の警察官が射殺され、旅館は焼かれた。 西園寺ももちろん、ねらわれたが・・・
襲撃直前になって突然中止した。」と書かれていることに注目したい。

牧野は数多くのテロの標的となってきた。

しかしそのつど、直前にいつも逃亡に成功した。
これは何を意味するのか。 彼が背後でこれらのテロを操っていた黒幕であることを意味する。

岡田啓介首相も難を逃れた。
事前に彼の娘婿の迫水久常(終戦時の鈴木内閣書記官長)が岡田首相を連れ出すのである。
迫水久恒は、皇統派と見られていた。実際は岡田のスパイだった。』


『このクーデターの首謀が秩父宮であることを書いた。
このクーデターを、天皇、高松宮、三笠宮、牧野伸顕、岡田首相らが事前に知っていたのである。
天皇は彼ら将校を「暴徒」と決めつける。
天皇が最初から「暴徒」と断定しえたのは、密かに秩父宮と共同歩調を取ったからだと私は書いた。
しかし、政府要人が数名殺されたり、傷を負ったから、
2・26事件は本物のクーデターとして位置づけられ、誰も疑わない。
ねずまさしも、である。』


『このクーデターと酷似するのが、あの8・15の「日本のいちばん醜い日」である。
将校と兵隊のかわりに、将校と近衛兵を使った。リアリテイを見せるために、
一人とはいえ、森近衛師団長を惨殺した。
石原莞爾がいみじくも指摘した放送局を占拠するというマネまでもしたのである。
この二つの偽装クーデターは、秩父宮と三笠宮の暗躍がなければ決して実行されなかったのである。
真の首謀者の二人は未だに闇の中に消えているのである。』


『この事件の結果、どのように変化したのかを書いておきたい。
北進策をとる皇統派の将軍・将校たちが主流からはずれ、

東条一派-あのバーデンバーデンで密約した一派、東久邇宮と結ばれた一派-の統制派が
軍の要職を占めるのである。

統制派は南進策を主張する人々である。

秩父宮は、自らが天皇になろうとしてクーデターを起させた可能性大である。

笠原和夫もその説をとる。

しかし、私は天皇と秩父宮が密かに結びつき、2・26事件を若手将校に起させ、
南進論一本にすべく行動したのではないかと思っている。』


『この1936年が日本のターニング・ポイントになるのである。
1936年、ゾルゲと西園寺公一と原田熊雄、尾崎秀実の暗躍。
もう一つは日本共産党の野坂参三の動き。
これらと2・26事件が糸のようにもつれあって連動したことは間違いないのである。
2・26事件以降、天皇により軍紀がひきしめられる。
天皇はその役を東条英機に命じ、陸軍大臣から首相に任命する。
東条英機は佐藤賢了中将を軍務局の要職につけ南進策を推進させる。太平洋戦争への道である。』


『天皇は皇統派を一掃し、統制派を参謀本部に配し、
ついに自らの住む御文庫の中に彼らを入れて太平洋戦争に突入するべく机上演習を始める。
誰ひとり天皇に逆らえる者ない、であった。
この机上演習の中から、真珠湾攻撃とシンガポール攻撃が登場してくる。
そのために一番役立ったのがヴェルサイユ会議で日本に与えられた、委任統治権であった。

天皇は太平洋戦争の前から、闇の権力者たちが創作した、
世界のグランド・デザインをどうやら知っていたらしい。
近々日本が「非常に苦心せざるべからざる環境に置かれる」とは、戦争以外のなにものでもない。
大戦後に、まさしくアメリカとソ連が世界を二分する大帝国となることも知っていたらしい。

それにもまして「十年を覚悟し」さえすれば、「有終の美を挙ぐる」とは、
敗戦後五年で、1950年に講和条約ができ、日本は再び独立国となる、ということであろう。
そのために、一年後に戦争に入るべく努力をしているのだ、と天皇は語っているように思える。』


『その裏に見え隠れするのは、
「木戸よ、このようにして日本を導かなければ、天皇一族の運命が風前の灯となるのだよ。
お前も協力してくれ」との天皇の哀訴である。

大室寅之祐の代から天皇に仕えた木戸孝允の孫の木戸幸一は、
「天皇と一蓮托生の命である」と答えたのではないのか。

天皇はあるルートから、一枚の極秘文書を渡されたと私は考える。
その文書に木戸に語っていた内容が書かれていた。

「有終の美を挙ぐるは困難ならず」とは、
「敗北しても、天皇の命は保証され、国体は護持する」との確証を得たとのことではないのか。

日本の国民の 民草に天皇が思いを馳せる素振りをするのは、「終戦の詔書」の中だけである。
それも見せかけ以外のなにものでもない。』


以下ご参照あれ!



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