画は 曾我蕭白(そが しょうはく)
享保15年(1730年)〜 天明元年(1781年)
江戸時代の絵師。 号は蛇足軒。 作
「富嶽清見寺圖」です。
☆曇り、夜半雪積もる。
葛西紀明選手41歳、銀メダル! 惜しい、もう少しで金でした。
マスゴミはオリンピック一色だが、
関東甲信越の大雪は大変な事態になっておるようです、報道せい!
◆http://saigaijyouhou.com/blog-entry-1815.html
真実を探すブログ 2014/02/15 Sat.
◎【注意】2月19日からまた雪が降る模様! 大雪の被害は拡大中!
JR中央線、除雪車が雪に乗り上げて脱線! 雪崩も発生!
今回の大雪は東日本大震災を彷彿とさせるような大被害となっています。
関東を中心に積雪対策が弱かった地域では、雪の重さで施設の崩壊が発生。
高速道路などの主要なインフラも、
雪と水の影響で使い物にならない状態が今も続いています。
更にはJR中央線でも除雪車が大雪に乗り上げて、脱線するという事故も発生しました。
高尾から西の区間は明朝からの運転もほぼ不可能とのことです。
2月8日から計2回も記録的な量の大雪が降った関東ですが、最新の天気予報によると、
2月19日にも同じ様な大雪が降る可能性があると発表されています。
19日(水曜)は今回と似たような気圧の配置状況になるようで、
東京を中心に東日本の広範囲で雪には注意が必要だと言えるでしょう。
しかしながら、連日の大雪の影響で、スコップや除雪剤などが
何処も売り切れ状態になっています。
コンビニやスーパーからも一時的に乾物やパン類等が消えてしまっていますし、
今から備えるにしても、物が無くなっているかもしれません・・・。
まあ、皆さんは地震用などの備蓄食料や対策用品があるから大丈夫だとは思いますが、
「地震なんて来ない」とか言って、今まで全く備えをして来なかった方は自業自得です。
全く備えをしていない方はこれをキッカケに、
ちゃんとした備蓄食料や防災用品を準備しておきましょう。
*ちなみに、2月14日から2月15日の大雪は関東や甲信越で
観測史上一位の記録を更新しました。
まずは、壺三の地元紙だ、
◆http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/yousaitosisimonosekinotuukonnnokeiken.html
長周新聞 2014年2月12日付
要塞都市下関の痛恨の経験
現代に蘇る重要な教訓
大陸侵略の戦略的要衝
関門海峡を控え大陸の玄関口だった下関は、日清・日露戦争のときから、
「戦略的要衝の地」 「西日本における国防の拠点」として位置づけられた
全国有数の要塞都市であり、当初は九州の重要な地点も掌握していた。
69年前の第2次世界大戦の戦時下、要塞都市での市民生活と凄惨な空襲の体験は、
当時を経験した人人のなかに今も鮮明な記憶として残っている。
現在、下関で進む人工島を中心にした巨大道路をはじめとする不気味な都市改造は、
その痛恨の経験を蘇らせ、「二度と軍事都市にしてはならない」との思いが語られている。
☆重なる人工島軸の都市改造
伊崎に住む80代の漁師の男性は、幼少の頃、子どもたち10人ほどで船をこいで、
金比羅の下に魚釣りに行った経験を語る。そこには魚があふれるほどおり、
みなで釣りを楽しんでいた。しかし、たくさん釣り上げた頃に突然、
金比羅の山の上から「こらーっ!」と怒鳴られたという。
呼ばれて要塞まで上がっていくと、役人のような人にさんざん説教されたうえに
釣った魚を全部持っていかれてしまった。
「子どもは知らなかったが、金比羅と老の山は要塞だったので、
その下は漁をするのも、ゴカイ(魚のエサ)を浜でとるのも許可証が必要だった。
金比羅の西の海岸では演習があり、そのときは一週間くらい漁ができなかった。
要塞の近くでの漁は基本的に禁止されていたから、魚がたくさんいたのだ。
みんなで“あれは兵隊の晩ご飯になったのだろう”と話した」と語った。
別の80代の男性は、当時小月基地にいた「月光」という2人乗りの戦闘機をめぐって
忘れられない経験があるという。
「憲兵隊の下士官から、“B29を撃つには下から撃ちあげて死角を狙うしかない”
と聞いたので、理髪店の知人に話した。理髪店の人がそのことをお客のひげを剃りながら話すと、
そのお客が憲兵で、“なにをいうか、だれがいったのか”ということになり、
私を捕まえることになった。だがちょうど私は徴兵で出征したところだった」。
戦争から帰ってきて、理髪店の店主が1カ月間独房に入れられたこと、
出てきてから体を痛めており、亡くなったことを聞いたのだという。
「自分の話がきっかけでそうなったことを申し訳なく、忘れられない。
当時はなにか話すとまわりに聞き耳を立てている者がいて、捕まえていく状況だった」
と語った。
「王江小学校の辺りに住んでいた。学校から海が見えていたが、“海を写してはいけない”
“写真をとっている人がいたらすぐに教えなさい”といわれていた」(八〇代婦人)
という経験も共通して語られている。
いったい下関市はどんな町だったのだろうか。
第2次大戦時、旧下関税務署の場所には下関要塞司令部が置かれ、
隣接して下関陸軍病院(旧国立病院の場所)があり、
金比羅、一里山、丸尾山、火の山、老の山、数珠山、戦場ヶ原、彦島田の首など、
関門海峡や響灘を見下ろせる小高いところには、多数の砲台が設置されていた。
なかでも戦場ヶ原砲台の地下室は800人収容できる大規模なもので、
飲料水としての深い貯水所も備えていたという。
満州事変以後には、潜水艦対策として蓋井島や大島、白島、沖の島、角島、六連島などの島々に
砲台が新たにつくられた。
椋野トンネル入口前の社会福祉センターや旧済生会病院、ハローワークの辺りには
下関重砲兵連隊が置かれ、一帯は倉庫や火薬庫、医務室、兵舎などの関連施設が密集していた。
また現在の梅光女学院・短大や下関体育館、陸上競技場、運動公園などのある広大な場所は
大畑練兵場として軍が占拠。小月には第12飛行師団司令部を置く防空戦闘機隊、
吉見には第七艦隊の主力である下関海軍防備隊が配置されており、
西日本最大の要塞地帯だった。
火の山や金比羅にあった高射砲が、米軍機に向けて撃つものの、
まったく当たらなかったことも市民のなかで語り継がれている。
☆全国から出征兵士集結 戦地への輸送港
下関には全国から出征していく兵士が集結し、市民の家に宿泊して
満州や朝鮮、フィリピンやボルネオといった南方の島など戦地へと赴いていった。
軍需品や食料をはじめとした重要な輸送港で、
安岡の野菜もそのほとんどが大陸に送られていたと語られている。
豊前田町に住む80代の婦人は、下関駅(細江町)で下車した兵隊が、
船に乗るために休憩場所として豊前田の稲荷神社をつかっていたことを覚えているという。
「いつも稲荷神社に1時間くらい兵隊さんがたむろして、戦地へと出て行っていた」。
後でその兵隊たちはボルネオに行ったことがわかったが
手紙を送ってくれた兵隊1人だけが生き残って日本に帰ってきたという。
日和山には暁部隊がおり、一般市民は上がることができなかったが、
その将校の奥さんたちを麓に住む人人が自宅に住まわせていたこと、
吉見地区でも海軍の軍人たちを5、6人ずつ地域の人たちが住まわせていた
ことが語られている。
名池小学校や下関高女(現・下関南高)、下商などの学校にも軍隊が駐屯した。
☆三菱や神鋼は軍事工場 学徒動員で武器製造
80代の婦人は小学校を卒業後、阿部高女(早鞆高の前身)に通っていたが、
2年目から学徒動員がかかった。神戸製鋼で飛行機の部品をつくっていたが、
「軍事工場」といってはいけなかった。
入口の兵隊に名前を見せなければ工場内に入れない厳重さ。
汽車で学校に通っていた女学生たちはみな鳥居前にあった寮に強制的に入れられた。
食事が粗末で、寮生は肺浸潤(結核の初期)になったり、病気があたりまえの状況だった。
勤務は3交代で、朝六時出勤と、夜は8時出勤で朝の7時に帰るという過酷なもので、
「どうしてもやめたい人は日赤の看護婦の試験を受けていた」という。
戦争が終わり、8月20日に解散になったが、勉強もしていないうえに就職もなく、
着るもの、食べるものもなくみな路頭に迷ったという。
市内には三菱、神鋼という大きな軍事工場があり、出征した男手のかわりに、
こうした学生や市民が動員されて軍事工場を担っていた。
終戦の前年の昭和19年4月に国鉄幡生工場に入社した男性は、
「技能養成所に通ったが、そこでは2時間は手榴弾を投げる練習と竹槍の訓練だった。
あとは現場での仕事だが、幡生工場は戦闘機の補助タンクをつくっていた。
なぜ補助タンクかというと突撃して死んでいくので片道の燃料だけでよかったからだ。
この補助タンクを学徒動員の女学生がやり、部品は幡生工場でつくっていた。
国鉄の本来の仕事はやらず、軍需工場そのものだったが、それは秘密でやられていた」
と話していた。
旧制中学の5年生で三菱に学徒動員で行った男性は、
「萩の方からも含めて1800人の学徒が生産の主力を担って働いていた。
第2工場では上陸用舟艇を12杯つくっていた。駆逐艦も入っていたし、
商船に機銃を積む仕事もした。
人間魚雷『回天』をクレーンで吊って沈ませているのも見た」と話す。
すでに資材はなく、航空機の補助タンクはベニヤ板でつくっていたこと、
門司の日本銀行にアルミでできた硬貨をとりに行って、
溶鉱炉で溶かして飛行機の翼をつくっていたことなど、
日本の敗戦を多くの市民が感じていたことが語られている。
☆消防も軍事工場最優先 警察の指揮下で
下関消防署も昭和18年1月15日に下関警察署の指揮下に入った。
当時勤務していた男性は「私は昭和19年から彦島出張所に勤務していたが、
軍需工場である三菱重工を重点的に守れということだった。
7月2日の空襲のときも三菱を守るために待機していたが、
そこには焼夷弾はまったく落ちてこなかった。数十分待機するうち、
見ると対岸の豊前田の盛り場辺りから火の手が上がり、大火事になっている。
“豊前田の谷を消火してくれ”と連絡が入り、本村から旧橋を渡った」と語っている。
田中町に住んでいた婦人は、下関空襲の前に田中川沿いの30軒が強制疎開になったさい、
「警防団が集められ、夫も若手の一人として参加した。憲兵が
“なんでここを疎開するかいうてみい。なにか大事なものがあるじゃろうが”
と問いただしたそうだ。老人の一人が“裏町の芸者を守るためですか”と答えて、
憲兵から“なにをとぼけたことをいうとるか。大事な通信網があるじゃろう”としぼられた
ことを聞いている。空襲を受ける前は一般の者には
それほど身近には感じられなかったということだと思う」と話していた。
☆大空襲で民家火の海に 関門海峡は機雷投下
こうして終戦間際を迎えた下関の町は、米軍の空襲によって焼き払われた。
下関の戦争被害は、「中国地方では広島に次ぐ大きなものであった」(『下関市史』)。
それは昭和20年6月と7月の2回の大きな空襲とともに、
関門海峡への機雷投下によるものだった。
米軍は「海上封鎖」と称して全国の湾岸に機雷を投下した。
関門地域には3月27日夜B29 99機が来襲。機雷1000個を投下して以後、
敗戦前日の8月14日までほぼ連日、昼夜の別なく投下した。
全国に投下した機雷は日本全土で1万2000個だが、
関門海峡にはその半数の5500個を投下した。
「近所の人が陸・海軍の運送をしていて、徴用にとられたり、
関釜連絡船に乗る人もいたが、魚雷に当たって死んでしまった。
戦争末期にはドカーン、ドカーンと音が聞こえた。
だれもが“また船がやられた”とわかるが、見に行くことはできない。相当な数がやられた」
(90歳男性)。
海峡には沈んだ船のマストが林立し、「船の墓場」と化した。
少年航空兵の無惨な遺体が200体六連島に流れ着き、
荼毘に付されたことも伝えられている。
6月29日にはB29の大編隊が壇ノ浦上空にあらわれ、
宮田町、唐戸町、東南部方面に焼夷弾を投下した。
7月2日には豊前田から西細江、入江、丸山から東大坪、高尾、観音崎、南部、西ノ端、
田中、園田、宮田各町など、彦島・新地をのぞく旧市内中心部が焼き尽くされた。
米軍が燃えやすくするためにガソリンをまいてから焼夷弾を落としたこと、
みるみるうちに火に包まれて、逃げまどったことを体験者は口口に語っている。
焼夷弾が屋根を突き抜けて直撃して亡くなった人、岬之町では岩盤の防空壕の上が焼かれて、
壕の中で市民が蒸し焼きで殺された。
大正通りの丸世製粉に逃げた市民が布団をかぶったまま、集団で死んでいるのも発見された。
もっとも悲惨だったのは清和園で、空襲を逃れて高台に上った約80人が、
折り重なるようにして犠牲になった。
3日後に祖父を捜しに行った婦人は、「そこで見た惨状は本当に卒倒しそうだった。
祖父はすでに息絶えていて、時計だけが動いていた。私たちがおじいさんと声をかけたとたん、
祖父の鼻から血がどっと出た。まだ体から煮え血がたぎる音がしていた」と話した。
下関空襲では、米軍が要塞司令部や重砲兵連隊、砲台も、三菱や神鋼などの軍需工場も
いっさい爆撃せずに残したことが、
軍隊が市民を守るのにまったく役に立たなかったこととあわせて語られている。
関門海峡を控える下関が歴史的に軍事的要衝とされてきたかは、
明治維新につながった四国連合艦隊の襲来による下関攘夷戦争、
日清、日露戦争で下関がどのように位置づけられたか、
また朝鮮戦争で米軍を助ける掃海艇の出撃基地となったことを見てもわかることである。
ここ数年、「アジア重視戦略」を掲げるアメリカが下関を、
有事にはいつでも使える重要港湾に指定。
全国最初のテロ訓練がおこなわれたり、米軍艦船や自衛艦が頻繁に寄港したり、
オスプレイを飛来させたり、
天皇が来てまるで戦時体制かと思われるような警備体制がとられるなど
戦時下を思い起こさせるような出来事が続いてきた。
地元出身の安倍首相が中国や韓国と一触即発の状態を作り出すなかで、
市街地を寂れさせる一方で、人工島を中心にした巨大道路建設が着着と進み、
第二関門トンネルの建設が浮上している。
今度はアメリカのための戦争に日本全土を総動員するうえで、
下関の軍事的位置を高めようとするものである。
それは、今度は下関をミサイルの火の海に投げ込むことも辞さない
危険きわまりないものである。
戦争体験者は戦時中の全経験と重ねて「絶対に戦争をくり返してはいけない」と語っている。
69年前の痛恨の経験を
下関の未来を担う子どもたちや現役世代に語り継ぎ現代に蘇らせることが求められている。
↑
壺三はユダメリカ戦争屋の犬コロなのですよ。
曾我蕭白、二枚目、
「蟻通し圖」です。
蟻通神社 (泉佐野市): (Wikipedia)
蟻通明神とも言う。大国主命を祀る。
昔、紀貫之が和泉の国を旅する途中
うっかりと蟻通明神の神域に騎馬のまま乗り込んで罰を受ける。
馬が倒れたのを見て神の怒りを悟った貫之はとっさに
「かきくもり あやめもしらぬ おほそらに ありとほしを おもふべしやは」
(二重の意味を読み込んだ歌で、曇り空に星を思うというのが表の意味、
裏読みすると無知ゆえに神の怒りを買ったことを謝罪する意味になる)と詠み、
神は心を和らげて馬を復活させたという。
のちに世阿弥がこの故事を素材に能曲「蟻通」を作曲したため有名になり、
笠森お仙を描いた鈴木春信の浮世絵にも背景として取り上げられている。
ゲンダイ、二本、
◆http://gendai.net/articles/view/news/147908
日刊ゲンダイ 2014年2月12日 掲載
◎失策アベノミクス 過去最悪の“隠れ倒産”2013年の惨状
“アベノミクスの失敗”が、またひとつ明らかになった。
東京商工リサーチの調査によると「2013年の休廃業・解散企業数」が過去10年で最悪
となる2万8943件を記録した。
この数字は倒産件数(13年)の2.6倍に達するという。
「昨年の倒産件数は22年ぶりの低水準でした。これを真に受けると、
アベノミクスで株価は上昇し、景気も多少は回復したことになります。でも実態はまるで違った。
“隠れ倒産”が、これほどあったとは驚きです」(市場関係者)
“隠れ倒産”とは、休業や廃業、解散による会社清算だ。
あくまで“自主倒産”なので、倒産件数にはカウントされないが、会社が消滅したことに変わりはない。
電機メーカーの下請け会社の60代社長が言う。
「アベノミクスの恩恵は届かなかった。円安による資材高の影響で業績は相変わらず思わしくなく、
最大の納入先から自主廃業を勧められた。今、会社を清算すれば
従業員に退職金も支払うことができる。廃業を決断するしかなかった」
そんな悲痛な叫びを上げる中小企業経営者が続出している。
昨年3月末に中小企業の延命策だった金融円滑化法が終了したことで
倒産激増が予想されたが、フタを開けたら増えるどころか減少だった。
「カラクリがあります。円滑化法の終了とほぼ同時に、金融庁は金融機関に対し、
負債総額1000万円未満の倒産を報告するよう義務付けた。
銀行にしてみれば、ウチは中小零細を倒産させましたと打ち明けるようなもの。
金融庁から睨まれたら大変なので、可能な限り延命させている。
だから倒産が増えていないのです」(金融機関関係者)
何のことはない、
金融庁はアベノミクスの成果を強調するため、意図的に中小企業の倒産を先延ばししているのだ。
東京商工リサーチ情報本部長の友田信男氏が言う。
「4月の消費税増税後が心配です。
売り上げ減少で、資金繰りに行き詰まる中小企業が続出しかねません。
安倍政権の賃上げ要請も追い打ちをかけるでしょう。
給与をアップさせないと従業員を確保できない状況だからです。
コストはアップするのに、業績は改善しない。危険な経営環境に直面します」
行き着く先は、自主廃業か倒産だ。
08年以降、倒産と休廃業の合計件数は年間約4万件と高止まりしている。
「今年はもっと増える恐れがある」(友田信男氏)
上っ面の経済統計だけでは、日本経済の実態は見えてこない。
◆http://gendai.net/articles/view/news/147947
日刊ゲンダイ 2014年2月13日 掲載
◎新党改革「不正流用」 舛添都知事デタラメ弁明で早くも墓穴
税金で党の借金2億5000万円を返済したのではないか――。
記者からの追及には逃げの一手だった。
12日、都庁に初登庁し、就任会見に臨んだ東京都の舛添要一・新知事(65)。
選挙期間に発覚した政党交付金の違法流用疑惑について、
「その件は今の新党改革代表の荒井広幸氏が説明済み」と言及を避けたが、
この荒井の説明がメチャクチャだった。墓穴を掘った舛添に、もう逃げ道はない。
舛添が2010年に結成した「新党改革」は、同じ年に銀行から2億5000万円を借り入れた。
12年に完済したが、その原資に公金である政党助成金や立法事務費を充てた疑いがある。
いずれの公金も借金返済に使うことは法律で禁じられている。
舛添は就任会見で「荒井氏が記者会見を開き、これは間違っている、
これはどうだということをすでにおっしゃっていますんで、それをご覧ください」と、
対応を荒井に丸投げ。 当時の党代表としての説明責任を果たそうとしなかった。
荒井は先月24日に会見を開き、その動画は新党改革のHPに公開されている。
「借金のうち約1億6350万円が使わずに残り、返済原資に充てた。
残る約8650万円の返済原資に政党交付金は含まれていない」と荒井は強弁したが、
「立法事務費は返済に活用した」とあっさり認めた。
これは驚きだ。
立法事務費は税金から所属議員の数に応じて国会の各会派に支給される。
法律は「議員の立法に関する調査研究の推進に資する(=助ける)ため必要な経費」と定めている。
荒井は血税の「目的外使用」を認めたようなものだが、こんな屁理屈をこねるのだ。
「(新党改革の)調査研究を推進するため、早期に借金を返済して立法体制を作ることが必要と判断した。
よって調査研究の必要経費となり、目的外使用に当たらない」
ナンて説明だ! デタラメ過ぎてあきれるしかない。
こうして新党改革は11〜12年に支給された計3120万円の立法事務費から、
約2520万円を借金返済に充てたという。
「荒井氏の説明は『詭弁』以外の何モノでもありません。
どう言い訳しても法の趣旨に反しているのは明らか。 舛添知事もこの説明に同調するのなら、
公金の流用を認めたようなものです」
(政治資金オンブズマン共同代表で、神戸学院大教授の上脇博之氏)
荒井は「私と舛添氏は議員歳費(月額約130万円)から月々35万円ずつ“天引き”して
党に寄付し、返済に充ててきた」とも語った。
歳費からの返済額を増やせば、立法事務費に手を出す危険を冒さなくて済んだはずだが、
舛添は借金返済を棚上げ。 自身の資金管理団体のカネで絵画を買い漁っていた。
この不要不急な出費は12年分で100万円以上に上る。
「<早期の借金返済が必要>で税金に手をつけたのなら、舛添氏の絵画購入はもってのほか。
荒井氏の釈明は墓穴を掘った印象です」(上脇博之氏)
舛添には、知事選の個人演説会で来場者に「五輪バッジ」(時価3000円相当)を配った
公選法違反(寄付の禁止)疑惑も浮上している。
疑惑まみれの男は、もはや問答無用。
潔く「私には荷が重過ぎました」と、都知事の座を返上すべきだ。
曾我蕭白、三枚目、
「寿老人圖」です。
やっと気がついたようだが、遅いねw
後始末が大変だな、まさに「他山の石」とせねば、
◆http://melma.com/backnumber_45206_5979079/
宮崎正弘の国際ニュース・早読み(カナダ政府、中国移民を制限へ)発行日:2/14
イナゴの大群をなんとかしろ、移民に寛大なカナダも中国人対策を変更へ
「投資ヴィザ」の条件を強化、足並みを揃えだした大英連邦のくにぐに
***************************************
カナダ政府が2月11日に発表した移民プログラムの変更は世界的な話題となった。
この措置を殆ど無視した日本のマスコミは別として、
『ウォールストリート・ジャーナル』も『サウス・チャイナ・モーニング・ポスト』も
大きな扱いで、カナダの決定を伝えた。 在米華字紙も詳細なニュースを配信している。
何が問題か。
カナダ政府は従来、80万カナダ・ドル(およそ7600万円)を五年間、
無利子で投資する投資家の移民申請に「滞在ヴィザ」を発給してきた。
このためバンクーバーは「ホンクーバー」と渾名されるほど、香港からの移民が目立った。
モントリオールやトロントなど各都市にも忽然とチャイナタウンが出現し、
公共施設を汚したりするので問題となり、中国からの移民に悪印象が拡がっていた。
かれらは認められた滞在期間中に、次の手を使って永住ヴィザを取得する。
1970年代までカナダへの移民は75%以上が欧州からだった。
80年代になるとインド、パキスタン、フィリピンからの移民が急増したため
「公用語貳ヶ国」(英語、フランス語)のどれかを支障なく喋ることを優先条件にする
という政策変更条項を移民法に「つけ加えるか、現状維持か」でカナダ政界は揉め続けた。
インド、パキスタン、フィリピンからの移民は就労が目的であり、
ならば富裕層に投資をよびかける作戦に切り換えたのだ。
もとより多元的価値観、文化多元主義を掲げるカナダは、
「人道」「平等」「自由」という概念が強いため、インドなどから
「公用語強要は民族差別だ」と訴えられると引き下がってしまう。
90年代にはアジアからの移民が60%を越えるようになり、
とりわけ過去数年間、顕著な動きが中国の富裕層のヴィザ申請である
(2011年統計でカナダへの移民全体の11・5%が中国人だった)。
環境変化は各国のヴィザ発給条件を変える。
たとえば米国の移民プログラムは
50万ドル(およそ5250万円) + アメリカ人の雇用十名以上
という厳しい規則が投資プログラム(EB−5)が適用され、
この条件をクリアするとグリーン・カードが発給される。
この抜け道は中国各地にある「移民斡旋エージェント」で、
「見せ金」「偽造書類」はお手のもの、
従業員をよそおう中国人(アメリカ籍)を総動員して、移民受け入れのシステムが出来た。
なにしろ偽札を容易につくる国であるから、
偽造書類など赤子の手をひねるほどに簡単なことなのだ。
このため米国では2013年11月だけの統計をみても、
6900名の中国人がグリーン・カードを入手していた。
全米どこへ行ってもチャイナタウン、
その周辺にへばりつくように形成されたのがコリアン・タウンだ。
そしてインチキの寿司バアなんぞも儲かるからと適当に経営し、
酢飯も炊けない人たちが「寿司」なるまがい物を「健康食」だと言って売っている。
米国でも中国からの移民は大問題、在米コリアンと並んで巨大な政治ロビィを築きあげた。
▼カナダが申請を拒否した中国人は46000名
中国の富裕層でカナダ政府へ投資プログラムによる移民申請をし、拒否された人々は、
およそ46000名に及び、彼らが受けた衝撃は甚大である。
在米華字紙の「多維新聞」(2月12日)は、こう書いた。
「中国富豪美夢破砕」
カナダ政府は苦情の殺到に対応し、「移民を抑圧することはない」と声明を出す一方で
「従来のヴィザ条件は、あたらしく制定を検討している
『イミグラント・インベスター・ベンチャーキャピタル・ファンド』が代替するだろう」
としている。
さて、カナダの移民政策変更の動きは大英連邦に共通している。
英国は従来、留学生が大学卒業後もそのまま住みつくスタイルの中国移民が多かったため、
欧州各国より、比較的静かなチャイナタウンぶりだった。
が、それも様変わり。「中国移民を帰国してもらおう」という市民運動がロンドンで起きた。
「外国人を叩き出せ」というのはイタリアの北部同盟である。
欧州各地も移民排斥の保守勢力がぐんと支持を伸ばしている。
豪は、習近平の実弟が豪邸を保有し、
前国家副主席だった曾慶紅の息子が事実上、豪に移住したように、
中国人富豪の投資先である。
豪の投資ヴィザの条件は5000万豪ドルの居住用住宅を購入すると
四年間の居住ヴィザが降りた。
豪不動産相場が高騰し、外国人が584億豪ドル分の不動産を購入した統計があるが、
このうち7%が中国人だった。豪も新政権誕生後、政策変更が行われる見通しである。
↑
まさにイナゴ、「蝗害」といいますよ。
支那畜を一切入国させぬこと、これが大鉄則、
現在おるものは速やかに帰国させること。 これに尽きるのです。
「支那を信じるものは必ず裏切られる」これ、哲理。
享保15年(1730年)〜 天明元年(1781年)
江戸時代の絵師。 号は蛇足軒。 作
「富嶽清見寺圖」です。
☆曇り、夜半雪積もる。
葛西紀明選手41歳、銀メダル! 惜しい、もう少しで金でした。
マスゴミはオリンピック一色だが、
関東甲信越の大雪は大変な事態になっておるようです、報道せい!
◆http://saigaijyouhou.com/blog-entry-1815.html
真実を探すブログ 2014/02/15 Sat.
◎【注意】2月19日からまた雪が降る模様! 大雪の被害は拡大中!
JR中央線、除雪車が雪に乗り上げて脱線! 雪崩も発生!
今回の大雪は東日本大震災を彷彿とさせるような大被害となっています。
関東を中心に積雪対策が弱かった地域では、雪の重さで施設の崩壊が発生。
高速道路などの主要なインフラも、
雪と水の影響で使い物にならない状態が今も続いています。
更にはJR中央線でも除雪車が大雪に乗り上げて、脱線するという事故も発生しました。
高尾から西の区間は明朝からの運転もほぼ不可能とのことです。
2月8日から計2回も記録的な量の大雪が降った関東ですが、最新の天気予報によると、
2月19日にも同じ様な大雪が降る可能性があると発表されています。
19日(水曜)は今回と似たような気圧の配置状況になるようで、
東京を中心に東日本の広範囲で雪には注意が必要だと言えるでしょう。
しかしながら、連日の大雪の影響で、スコップや除雪剤などが
何処も売り切れ状態になっています。
コンビニやスーパーからも一時的に乾物やパン類等が消えてしまっていますし、
今から備えるにしても、物が無くなっているかもしれません・・・。
まあ、皆さんは地震用などの備蓄食料や対策用品があるから大丈夫だとは思いますが、
「地震なんて来ない」とか言って、今まで全く備えをして来なかった方は自業自得です。
全く備えをしていない方はこれをキッカケに、
ちゃんとした備蓄食料や防災用品を準備しておきましょう。
*ちなみに、2月14日から2月15日の大雪は関東や甲信越で
観測史上一位の記録を更新しました。
まずは、壺三の地元紙だ、
◆http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/yousaitosisimonosekinotuukonnnokeiken.html
長周新聞 2014年2月12日付
要塞都市下関の痛恨の経験
現代に蘇る重要な教訓
大陸侵略の戦略的要衝
関門海峡を控え大陸の玄関口だった下関は、日清・日露戦争のときから、
「戦略的要衝の地」 「西日本における国防の拠点」として位置づけられた
全国有数の要塞都市であり、当初は九州の重要な地点も掌握していた。
69年前の第2次世界大戦の戦時下、要塞都市での市民生活と凄惨な空襲の体験は、
当時を経験した人人のなかに今も鮮明な記憶として残っている。
現在、下関で進む人工島を中心にした巨大道路をはじめとする不気味な都市改造は、
その痛恨の経験を蘇らせ、「二度と軍事都市にしてはならない」との思いが語られている。
☆重なる人工島軸の都市改造
伊崎に住む80代の漁師の男性は、幼少の頃、子どもたち10人ほどで船をこいで、
金比羅の下に魚釣りに行った経験を語る。そこには魚があふれるほどおり、
みなで釣りを楽しんでいた。しかし、たくさん釣り上げた頃に突然、
金比羅の山の上から「こらーっ!」と怒鳴られたという。
呼ばれて要塞まで上がっていくと、役人のような人にさんざん説教されたうえに
釣った魚を全部持っていかれてしまった。
「子どもは知らなかったが、金比羅と老の山は要塞だったので、
その下は漁をするのも、ゴカイ(魚のエサ)を浜でとるのも許可証が必要だった。
金比羅の西の海岸では演習があり、そのときは一週間くらい漁ができなかった。
要塞の近くでの漁は基本的に禁止されていたから、魚がたくさんいたのだ。
みんなで“あれは兵隊の晩ご飯になったのだろう”と話した」と語った。
別の80代の男性は、当時小月基地にいた「月光」という2人乗りの戦闘機をめぐって
忘れられない経験があるという。
「憲兵隊の下士官から、“B29を撃つには下から撃ちあげて死角を狙うしかない”
と聞いたので、理髪店の知人に話した。理髪店の人がそのことをお客のひげを剃りながら話すと、
そのお客が憲兵で、“なにをいうか、だれがいったのか”ということになり、
私を捕まえることになった。だがちょうど私は徴兵で出征したところだった」。
戦争から帰ってきて、理髪店の店主が1カ月間独房に入れられたこと、
出てきてから体を痛めており、亡くなったことを聞いたのだという。
「自分の話がきっかけでそうなったことを申し訳なく、忘れられない。
当時はなにか話すとまわりに聞き耳を立てている者がいて、捕まえていく状況だった」
と語った。
「王江小学校の辺りに住んでいた。学校から海が見えていたが、“海を写してはいけない”
“写真をとっている人がいたらすぐに教えなさい”といわれていた」(八〇代婦人)
という経験も共通して語られている。
いったい下関市はどんな町だったのだろうか。
第2次大戦時、旧下関税務署の場所には下関要塞司令部が置かれ、
隣接して下関陸軍病院(旧国立病院の場所)があり、
金比羅、一里山、丸尾山、火の山、老の山、数珠山、戦場ヶ原、彦島田の首など、
関門海峡や響灘を見下ろせる小高いところには、多数の砲台が設置されていた。
なかでも戦場ヶ原砲台の地下室は800人収容できる大規模なもので、
飲料水としての深い貯水所も備えていたという。
満州事変以後には、潜水艦対策として蓋井島や大島、白島、沖の島、角島、六連島などの島々に
砲台が新たにつくられた。
椋野トンネル入口前の社会福祉センターや旧済生会病院、ハローワークの辺りには
下関重砲兵連隊が置かれ、一帯は倉庫や火薬庫、医務室、兵舎などの関連施設が密集していた。
また現在の梅光女学院・短大や下関体育館、陸上競技場、運動公園などのある広大な場所は
大畑練兵場として軍が占拠。小月には第12飛行師団司令部を置く防空戦闘機隊、
吉見には第七艦隊の主力である下関海軍防備隊が配置されており、
西日本最大の要塞地帯だった。
火の山や金比羅にあった高射砲が、米軍機に向けて撃つものの、
まったく当たらなかったことも市民のなかで語り継がれている。
☆全国から出征兵士集結 戦地への輸送港
下関には全国から出征していく兵士が集結し、市民の家に宿泊して
満州や朝鮮、フィリピンやボルネオといった南方の島など戦地へと赴いていった。
軍需品や食料をはじめとした重要な輸送港で、
安岡の野菜もそのほとんどが大陸に送られていたと語られている。
豊前田町に住む80代の婦人は、下関駅(細江町)で下車した兵隊が、
船に乗るために休憩場所として豊前田の稲荷神社をつかっていたことを覚えているという。
「いつも稲荷神社に1時間くらい兵隊さんがたむろして、戦地へと出て行っていた」。
後でその兵隊たちはボルネオに行ったことがわかったが
手紙を送ってくれた兵隊1人だけが生き残って日本に帰ってきたという。
日和山には暁部隊がおり、一般市民は上がることができなかったが、
その将校の奥さんたちを麓に住む人人が自宅に住まわせていたこと、
吉見地区でも海軍の軍人たちを5、6人ずつ地域の人たちが住まわせていた
ことが語られている。
名池小学校や下関高女(現・下関南高)、下商などの学校にも軍隊が駐屯した。
☆三菱や神鋼は軍事工場 学徒動員で武器製造
80代の婦人は小学校を卒業後、阿部高女(早鞆高の前身)に通っていたが、
2年目から学徒動員がかかった。神戸製鋼で飛行機の部品をつくっていたが、
「軍事工場」といってはいけなかった。
入口の兵隊に名前を見せなければ工場内に入れない厳重さ。
汽車で学校に通っていた女学生たちはみな鳥居前にあった寮に強制的に入れられた。
食事が粗末で、寮生は肺浸潤(結核の初期)になったり、病気があたりまえの状況だった。
勤務は3交代で、朝六時出勤と、夜は8時出勤で朝の7時に帰るという過酷なもので、
「どうしてもやめたい人は日赤の看護婦の試験を受けていた」という。
戦争が終わり、8月20日に解散になったが、勉強もしていないうえに就職もなく、
着るもの、食べるものもなくみな路頭に迷ったという。
市内には三菱、神鋼という大きな軍事工場があり、出征した男手のかわりに、
こうした学生や市民が動員されて軍事工場を担っていた。
終戦の前年の昭和19年4月に国鉄幡生工場に入社した男性は、
「技能養成所に通ったが、そこでは2時間は手榴弾を投げる練習と竹槍の訓練だった。
あとは現場での仕事だが、幡生工場は戦闘機の補助タンクをつくっていた。
なぜ補助タンクかというと突撃して死んでいくので片道の燃料だけでよかったからだ。
この補助タンクを学徒動員の女学生がやり、部品は幡生工場でつくっていた。
国鉄の本来の仕事はやらず、軍需工場そのものだったが、それは秘密でやられていた」
と話していた。
旧制中学の5年生で三菱に学徒動員で行った男性は、
「萩の方からも含めて1800人の学徒が生産の主力を担って働いていた。
第2工場では上陸用舟艇を12杯つくっていた。駆逐艦も入っていたし、
商船に機銃を積む仕事もした。
人間魚雷『回天』をクレーンで吊って沈ませているのも見た」と話す。
すでに資材はなく、航空機の補助タンクはベニヤ板でつくっていたこと、
門司の日本銀行にアルミでできた硬貨をとりに行って、
溶鉱炉で溶かして飛行機の翼をつくっていたことなど、
日本の敗戦を多くの市民が感じていたことが語られている。
☆消防も軍事工場最優先 警察の指揮下で
下関消防署も昭和18年1月15日に下関警察署の指揮下に入った。
当時勤務していた男性は「私は昭和19年から彦島出張所に勤務していたが、
軍需工場である三菱重工を重点的に守れということだった。
7月2日の空襲のときも三菱を守るために待機していたが、
そこには焼夷弾はまったく落ちてこなかった。数十分待機するうち、
見ると対岸の豊前田の盛り場辺りから火の手が上がり、大火事になっている。
“豊前田の谷を消火してくれ”と連絡が入り、本村から旧橋を渡った」と語っている。
田中町に住んでいた婦人は、下関空襲の前に田中川沿いの30軒が強制疎開になったさい、
「警防団が集められ、夫も若手の一人として参加した。憲兵が
“なんでここを疎開するかいうてみい。なにか大事なものがあるじゃろうが”
と問いただしたそうだ。老人の一人が“裏町の芸者を守るためですか”と答えて、
憲兵から“なにをとぼけたことをいうとるか。大事な通信網があるじゃろう”としぼられた
ことを聞いている。空襲を受ける前は一般の者には
それほど身近には感じられなかったということだと思う」と話していた。
☆大空襲で民家火の海に 関門海峡は機雷投下
こうして終戦間際を迎えた下関の町は、米軍の空襲によって焼き払われた。
下関の戦争被害は、「中国地方では広島に次ぐ大きなものであった」(『下関市史』)。
それは昭和20年6月と7月の2回の大きな空襲とともに、
関門海峡への機雷投下によるものだった。
米軍は「海上封鎖」と称して全国の湾岸に機雷を投下した。
関門地域には3月27日夜B29 99機が来襲。機雷1000個を投下して以後、
敗戦前日の8月14日までほぼ連日、昼夜の別なく投下した。
全国に投下した機雷は日本全土で1万2000個だが、
関門海峡にはその半数の5500個を投下した。
「近所の人が陸・海軍の運送をしていて、徴用にとられたり、
関釜連絡船に乗る人もいたが、魚雷に当たって死んでしまった。
戦争末期にはドカーン、ドカーンと音が聞こえた。
だれもが“また船がやられた”とわかるが、見に行くことはできない。相当な数がやられた」
(90歳男性)。
海峡には沈んだ船のマストが林立し、「船の墓場」と化した。
少年航空兵の無惨な遺体が200体六連島に流れ着き、
荼毘に付されたことも伝えられている。
6月29日にはB29の大編隊が壇ノ浦上空にあらわれ、
宮田町、唐戸町、東南部方面に焼夷弾を投下した。
7月2日には豊前田から西細江、入江、丸山から東大坪、高尾、観音崎、南部、西ノ端、
田中、園田、宮田各町など、彦島・新地をのぞく旧市内中心部が焼き尽くされた。
米軍が燃えやすくするためにガソリンをまいてから焼夷弾を落としたこと、
みるみるうちに火に包まれて、逃げまどったことを体験者は口口に語っている。
焼夷弾が屋根を突き抜けて直撃して亡くなった人、岬之町では岩盤の防空壕の上が焼かれて、
壕の中で市民が蒸し焼きで殺された。
大正通りの丸世製粉に逃げた市民が布団をかぶったまま、集団で死んでいるのも発見された。
もっとも悲惨だったのは清和園で、空襲を逃れて高台に上った約80人が、
折り重なるようにして犠牲になった。
3日後に祖父を捜しに行った婦人は、「そこで見た惨状は本当に卒倒しそうだった。
祖父はすでに息絶えていて、時計だけが動いていた。私たちがおじいさんと声をかけたとたん、
祖父の鼻から血がどっと出た。まだ体から煮え血がたぎる音がしていた」と話した。
下関空襲では、米軍が要塞司令部や重砲兵連隊、砲台も、三菱や神鋼などの軍需工場も
いっさい爆撃せずに残したことが、
軍隊が市民を守るのにまったく役に立たなかったこととあわせて語られている。
関門海峡を控える下関が歴史的に軍事的要衝とされてきたかは、
明治維新につながった四国連合艦隊の襲来による下関攘夷戦争、
日清、日露戦争で下関がどのように位置づけられたか、
また朝鮮戦争で米軍を助ける掃海艇の出撃基地となったことを見てもわかることである。
ここ数年、「アジア重視戦略」を掲げるアメリカが下関を、
有事にはいつでも使える重要港湾に指定。
全国最初のテロ訓練がおこなわれたり、米軍艦船や自衛艦が頻繁に寄港したり、
オスプレイを飛来させたり、
天皇が来てまるで戦時体制かと思われるような警備体制がとられるなど
戦時下を思い起こさせるような出来事が続いてきた。
地元出身の安倍首相が中国や韓国と一触即発の状態を作り出すなかで、
市街地を寂れさせる一方で、人工島を中心にした巨大道路建設が着着と進み、
第二関門トンネルの建設が浮上している。
今度はアメリカのための戦争に日本全土を総動員するうえで、
下関の軍事的位置を高めようとするものである。
それは、今度は下関をミサイルの火の海に投げ込むことも辞さない
危険きわまりないものである。
戦争体験者は戦時中の全経験と重ねて「絶対に戦争をくり返してはいけない」と語っている。
69年前の痛恨の経験を
下関の未来を担う子どもたちや現役世代に語り継ぎ現代に蘇らせることが求められている。
↑
壺三はユダメリカ戦争屋の犬コロなのですよ。
曾我蕭白、二枚目、
「蟻通し圖」です。
蟻通神社 (泉佐野市): (Wikipedia)
蟻通明神とも言う。大国主命を祀る。
昔、紀貫之が和泉の国を旅する途中
うっかりと蟻通明神の神域に騎馬のまま乗り込んで罰を受ける。
馬が倒れたのを見て神の怒りを悟った貫之はとっさに
「かきくもり あやめもしらぬ おほそらに ありとほしを おもふべしやは」
(二重の意味を読み込んだ歌で、曇り空に星を思うというのが表の意味、
裏読みすると無知ゆえに神の怒りを買ったことを謝罪する意味になる)と詠み、
神は心を和らげて馬を復活させたという。
のちに世阿弥がこの故事を素材に能曲「蟻通」を作曲したため有名になり、
笠森お仙を描いた鈴木春信の浮世絵にも背景として取り上げられている。
ゲンダイ、二本、
◆http://gendai.net/articles/view/news/147908
日刊ゲンダイ 2014年2月12日 掲載
◎失策アベノミクス 過去最悪の“隠れ倒産”2013年の惨状
“アベノミクスの失敗”が、またひとつ明らかになった。
東京商工リサーチの調査によると「2013年の休廃業・解散企業数」が過去10年で最悪
となる2万8943件を記録した。
この数字は倒産件数(13年)の2.6倍に達するという。
「昨年の倒産件数は22年ぶりの低水準でした。これを真に受けると、
アベノミクスで株価は上昇し、景気も多少は回復したことになります。でも実態はまるで違った。
“隠れ倒産”が、これほどあったとは驚きです」(市場関係者)
“隠れ倒産”とは、休業や廃業、解散による会社清算だ。
あくまで“自主倒産”なので、倒産件数にはカウントされないが、会社が消滅したことに変わりはない。
電機メーカーの下請け会社の60代社長が言う。
「アベノミクスの恩恵は届かなかった。円安による資材高の影響で業績は相変わらず思わしくなく、
最大の納入先から自主廃業を勧められた。今、会社を清算すれば
従業員に退職金も支払うことができる。廃業を決断するしかなかった」
そんな悲痛な叫びを上げる中小企業経営者が続出している。
昨年3月末に中小企業の延命策だった金融円滑化法が終了したことで
倒産激増が予想されたが、フタを開けたら増えるどころか減少だった。
「カラクリがあります。円滑化法の終了とほぼ同時に、金融庁は金融機関に対し、
負債総額1000万円未満の倒産を報告するよう義務付けた。
銀行にしてみれば、ウチは中小零細を倒産させましたと打ち明けるようなもの。
金融庁から睨まれたら大変なので、可能な限り延命させている。
だから倒産が増えていないのです」(金融機関関係者)
何のことはない、
金融庁はアベノミクスの成果を強調するため、意図的に中小企業の倒産を先延ばししているのだ。
東京商工リサーチ情報本部長の友田信男氏が言う。
「4月の消費税増税後が心配です。
売り上げ減少で、資金繰りに行き詰まる中小企業が続出しかねません。
安倍政権の賃上げ要請も追い打ちをかけるでしょう。
給与をアップさせないと従業員を確保できない状況だからです。
コストはアップするのに、業績は改善しない。危険な経営環境に直面します」
行き着く先は、自主廃業か倒産だ。
08年以降、倒産と休廃業の合計件数は年間約4万件と高止まりしている。
「今年はもっと増える恐れがある」(友田信男氏)
上っ面の経済統計だけでは、日本経済の実態は見えてこない。
◆http://gendai.net/articles/view/news/147947
日刊ゲンダイ 2014年2月13日 掲載
◎新党改革「不正流用」 舛添都知事デタラメ弁明で早くも墓穴
税金で党の借金2億5000万円を返済したのではないか――。
記者からの追及には逃げの一手だった。
12日、都庁に初登庁し、就任会見に臨んだ東京都の舛添要一・新知事(65)。
選挙期間に発覚した政党交付金の違法流用疑惑について、
「その件は今の新党改革代表の荒井広幸氏が説明済み」と言及を避けたが、
この荒井の説明がメチャクチャだった。墓穴を掘った舛添に、もう逃げ道はない。
舛添が2010年に結成した「新党改革」は、同じ年に銀行から2億5000万円を借り入れた。
12年に完済したが、その原資に公金である政党助成金や立法事務費を充てた疑いがある。
いずれの公金も借金返済に使うことは法律で禁じられている。
舛添は就任会見で「荒井氏が記者会見を開き、これは間違っている、
これはどうだということをすでにおっしゃっていますんで、それをご覧ください」と、
対応を荒井に丸投げ。 当時の党代表としての説明責任を果たそうとしなかった。
荒井は先月24日に会見を開き、その動画は新党改革のHPに公開されている。
「借金のうち約1億6350万円が使わずに残り、返済原資に充てた。
残る約8650万円の返済原資に政党交付金は含まれていない」と荒井は強弁したが、
「立法事務費は返済に活用した」とあっさり認めた。
これは驚きだ。
立法事務費は税金から所属議員の数に応じて国会の各会派に支給される。
法律は「議員の立法に関する調査研究の推進に資する(=助ける)ため必要な経費」と定めている。
荒井は血税の「目的外使用」を認めたようなものだが、こんな屁理屈をこねるのだ。
「(新党改革の)調査研究を推進するため、早期に借金を返済して立法体制を作ることが必要と判断した。
よって調査研究の必要経費となり、目的外使用に当たらない」
ナンて説明だ! デタラメ過ぎてあきれるしかない。
こうして新党改革は11〜12年に支給された計3120万円の立法事務費から、
約2520万円を借金返済に充てたという。
「荒井氏の説明は『詭弁』以外の何モノでもありません。
どう言い訳しても法の趣旨に反しているのは明らか。 舛添知事もこの説明に同調するのなら、
公金の流用を認めたようなものです」
(政治資金オンブズマン共同代表で、神戸学院大教授の上脇博之氏)
荒井は「私と舛添氏は議員歳費(月額約130万円)から月々35万円ずつ“天引き”して
党に寄付し、返済に充ててきた」とも語った。
歳費からの返済額を増やせば、立法事務費に手を出す危険を冒さなくて済んだはずだが、
舛添は借金返済を棚上げ。 自身の資金管理団体のカネで絵画を買い漁っていた。
この不要不急な出費は12年分で100万円以上に上る。
「<早期の借金返済が必要>で税金に手をつけたのなら、舛添氏の絵画購入はもってのほか。
荒井氏の釈明は墓穴を掘った印象です」(上脇博之氏)
舛添には、知事選の個人演説会で来場者に「五輪バッジ」(時価3000円相当)を配った
公選法違反(寄付の禁止)疑惑も浮上している。
疑惑まみれの男は、もはや問答無用。
潔く「私には荷が重過ぎました」と、都知事の座を返上すべきだ。
曾我蕭白、三枚目、
「寿老人圖」です。
やっと気がついたようだが、遅いねw
後始末が大変だな、まさに「他山の石」とせねば、
◆http://melma.com/backnumber_45206_5979079/
宮崎正弘の国際ニュース・早読み(カナダ政府、中国移民を制限へ)発行日:2/14
イナゴの大群をなんとかしろ、移民に寛大なカナダも中国人対策を変更へ
「投資ヴィザ」の条件を強化、足並みを揃えだした大英連邦のくにぐに
***************************************
カナダ政府が2月11日に発表した移民プログラムの変更は世界的な話題となった。
この措置を殆ど無視した日本のマスコミは別として、
『ウォールストリート・ジャーナル』も『サウス・チャイナ・モーニング・ポスト』も
大きな扱いで、カナダの決定を伝えた。 在米華字紙も詳細なニュースを配信している。
何が問題か。
カナダ政府は従来、80万カナダ・ドル(およそ7600万円)を五年間、
無利子で投資する投資家の移民申請に「滞在ヴィザ」を発給してきた。
このためバンクーバーは「ホンクーバー」と渾名されるほど、香港からの移民が目立った。
モントリオールやトロントなど各都市にも忽然とチャイナタウンが出現し、
公共施設を汚したりするので問題となり、中国からの移民に悪印象が拡がっていた。
かれらは認められた滞在期間中に、次の手を使って永住ヴィザを取得する。
1970年代までカナダへの移民は75%以上が欧州からだった。
80年代になるとインド、パキスタン、フィリピンからの移民が急増したため
「公用語貳ヶ国」(英語、フランス語)のどれかを支障なく喋ることを優先条件にする
という政策変更条項を移民法に「つけ加えるか、現状維持か」でカナダ政界は揉め続けた。
インド、パキスタン、フィリピンからの移民は就労が目的であり、
ならば富裕層に投資をよびかける作戦に切り換えたのだ。
もとより多元的価値観、文化多元主義を掲げるカナダは、
「人道」「平等」「自由」という概念が強いため、インドなどから
「公用語強要は民族差別だ」と訴えられると引き下がってしまう。
90年代にはアジアからの移民が60%を越えるようになり、
とりわけ過去数年間、顕著な動きが中国の富裕層のヴィザ申請である
(2011年統計でカナダへの移民全体の11・5%が中国人だった)。
環境変化は各国のヴィザ発給条件を変える。
たとえば米国の移民プログラムは
50万ドル(およそ5250万円) + アメリカ人の雇用十名以上
という厳しい規則が投資プログラム(EB−5)が適用され、
この条件をクリアするとグリーン・カードが発給される。
この抜け道は中国各地にある「移民斡旋エージェント」で、
「見せ金」「偽造書類」はお手のもの、
従業員をよそおう中国人(アメリカ籍)を総動員して、移民受け入れのシステムが出来た。
なにしろ偽札を容易につくる国であるから、
偽造書類など赤子の手をひねるほどに簡単なことなのだ。
このため米国では2013年11月だけの統計をみても、
6900名の中国人がグリーン・カードを入手していた。
全米どこへ行ってもチャイナタウン、
その周辺にへばりつくように形成されたのがコリアン・タウンだ。
そしてインチキの寿司バアなんぞも儲かるからと適当に経営し、
酢飯も炊けない人たちが「寿司」なるまがい物を「健康食」だと言って売っている。
米国でも中国からの移民は大問題、在米コリアンと並んで巨大な政治ロビィを築きあげた。
▼カナダが申請を拒否した中国人は46000名
中国の富裕層でカナダ政府へ投資プログラムによる移民申請をし、拒否された人々は、
およそ46000名に及び、彼らが受けた衝撃は甚大である。
在米華字紙の「多維新聞」(2月12日)は、こう書いた。
「中国富豪美夢破砕」
カナダ政府は苦情の殺到に対応し、「移民を抑圧することはない」と声明を出す一方で
「従来のヴィザ条件は、あたらしく制定を検討している
『イミグラント・インベスター・ベンチャーキャピタル・ファンド』が代替するだろう」
としている。
さて、カナダの移民政策変更の動きは大英連邦に共通している。
英国は従来、留学生が大学卒業後もそのまま住みつくスタイルの中国移民が多かったため、
欧州各国より、比較的静かなチャイナタウンぶりだった。
が、それも様変わり。「中国移民を帰国してもらおう」という市民運動がロンドンで起きた。
「外国人を叩き出せ」というのはイタリアの北部同盟である。
欧州各地も移民排斥の保守勢力がぐんと支持を伸ばしている。
豪は、習近平の実弟が豪邸を保有し、
前国家副主席だった曾慶紅の息子が事実上、豪に移住したように、
中国人富豪の投資先である。
豪の投資ヴィザの条件は5000万豪ドルの居住用住宅を購入すると
四年間の居住ヴィザが降りた。
豪不動産相場が高騰し、外国人が584億豪ドル分の不動産を購入した統計があるが、
このうち7%が中国人だった。豪も新政権誕生後、政策変更が行われる見通しである。
↑
まさにイナゴ、「蝗害」といいますよ。
支那畜を一切入国させぬこと、これが大鉄則、
現在おるものは速やかに帰国させること。 これに尽きるのです。
「支那を信じるものは必ず裏切られる」これ、哲理。