画は月岡 耕漁(つきおか こうぎょ)
明治2年〈1869年〉〜 昭和2年〈1927年〉
明治時代から大正時代にかけての浮世絵師、日本画家。
作
「能楽圖繪 隅田川(念佛の心)」です。
☆秋晴れ。
今日は秋分の日、秋彼岸の中日。
彼岸に想いを致し、能楽、三題です。
『隅田川』 (すみだがわ) : (Wikipedia)
* シテ: 狂女、梅若丸の母
* 子方: 梅若丸の霊
* ワキ: 隅田川の渡し守
* ワキヅレ: 京都から来た旅の男
* 大小前に塚の作り物(その中に子方が入っている)
渡し守が、これで最終便だ 今日は大念仏があるから人が沢山集まる といいながら登場。
ワキヅレの道行きがあり、
渡し守と「都から来たやけに面白い狂女を見たからそれを待とう」と話しあう。
次いで一声があり、狂女が子を失った事を嘆きながら現れ、カケリを舞う。
(曲中に挿入される比較的テンポの速い囃子事で、精神の不安定な状態をあらわす)
道行きの後、渡し守と問答するが哀れにも
『面白う狂うて見せよ、狂うて見せずばこの船には乗せまいぞとよ』と虐められる。
狂女は業平の『名にし負はば…』の歌を思い出し、歌の中の恋人をわが子で置き換え、
都鳥(実は鴎)を指して嘆く事しきりである。
渡し守も心打たれ『かかる優しき狂女こそ候はね、急いで乗られ候へ。
この渡りは大事の渡りにて候、かまひて静かに召され候へ』と親身になって舟に乗せる。
対岸の柳の根元で人が集まっているが何だ と狂女が問うと、
渡し守はあれは大念仏であると説明し、哀れな子供の話を聞かせる。
京都から人買いにさらわれてきた子供がおり、病気になってこの地に捨てられ死んだ。
死の間際に名前を聞いたら、「京都は北白河の吉田某の一人息子である。
父母と歩いていたら、父が先に行ってしまい、母親一人になったところを攫われた。
自分はもう駄目だから、京都の人も歩くだろうこの道の脇に 塚を作って埋めて欲しい。
そこに柳を植えてくれ」という。
里人は余りにも哀れな物語に、塚を作り、柳を植え、一年目の今日、
一周忌の念仏を唱えることにした。
それこそわが子の塚であると狂女は気付く。
渡し守は狂女を塚に案内し弔わせる。
狂女はこの土を掘ってもわが子を見せてくれと嘆くが、
渡し守にそれは甲斐のないことであると諭される。やがて念仏が始まり、
狂女の鉦の音と地謡の南無阿弥陀仏が寂しく響く。
そこに聞こえたのは愛児が「南無阿弥陀仏」を唱える声である。
尚も念仏を唱えると、子方が一瞬姿を見せる。
だが東雲(しののめ)来る時 母親の前にあったのは塚に茂る草に過ぎなかった。
☆http://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_012.html
隅田川(すみだがわ)
あらすじ
春の夕暮れ時、武蔵の国隅田川の渡し場で、
舟頭が最終の舟を出そうとしていると旅人が現れ、女物狂がやってくると告げました。
女は都北白河に住んでいましたが、わが子が人買いにさらわれたために心が狂乱し、
息子をさがしにはるばるこの地まで来たのでした。
舟頭が、狂女に、舟に乗りたければ面白く狂って見せろ、と言うので、
女は『伊勢物語』九段の「都鳥(みやこどり)」の古歌を引き、
自分と在原業平(ありわらのなりひら)とを巧みに引き比べて、船頭ほか周囲を感心させ、
舟に乗り込むことができました。
川を渡しながら、舟頭は一年前の今日、三月十五日に
対岸下総(しもうさ)の川岸で亡くなった子ども、梅若丸の話を物語り、
皆も一周忌の供養に加わってくれと頼みます。
舟が対岸に着き、みな下船しても、狂女は降りようとせず泣いています。
船頭が訳を尋ねると、先ほどの話の子は、わが子だというのです。
舟頭は狂女に同情し、手助けして梅若丸の塚に案内し、大念仏で一緒に弔うよう勧めます。
夜の大念仏で、狂女が母として、鉦鼓(しょうこ)を鳴らし、念仏を唱え弔っていると、
塚の内から梅若丸の亡霊が現れます。
抱きしめようと近寄ると、幻は腕をすり抜け、母の悲しみは一層増すばかり。
やがて東の空が白み始め、夜明けと共に亡霊の姿も消え、
母は、ただ草ぼうぼうの塚で涙にむせぶのでした。
↑
手前が一番好きな演目です。
耕漁、二枚目、
「能楽圖繪」「弱法師」です。
能「弱法師(よろぼし)」
☆http://www.hakusho-kai.net/welcome/programs/yoroboshi.html
▼物語
左衛門尉通俊は、ある人の讒言によって我が子・俊徳丸を捨ててしまったことを悔やみ、
天王寺で施しを行います。そこへ杖を突きながら現れたのは、
「弱法師」とあだなされる盲目の青年、俊徳丸。
折りしも彼岸の中日、施しの人々に連なる弱法師の袖に、
満開の梅の花びらが芳香を放って散りかかります。
施しを受けた弱法師は、
仏の慈悲を讃え、天王寺縁起を語り、乞われるままに日想観を拝みます。
心に焼きついた須麿明石難波の浦の景色を今も見えるかのように、
ありありと心に描きつつ、彷徨い歩くのですが、
参詣の人々にぶつかり、ふと現実に戻され、我が身を恥じます。
やがて通俊は、弱法師に父と名乗り、二人は連れ立って高安の里へ帰って行きます。
▼鑑賞
弱法師は盲人であるため、杖にすがって闇の中を歩いています。
心の中にも闇(親に捨てられた悲しみや、恨み)を抱えています。
しかし梅の香を聞き、日想観を拝み、心に焼きついた難波の景色を見て、
「萬目青山は心にあり(目に見える風景は、全て心に映じる)」と言う弱法師。
弱法師の心の闇と光が、この能の見所です。
☆http://www.the-noh.com/jp/trivia/120.html
「弱法師」のハイライトと四天王寺の関係は?
能「弱法師(よろぼうし、よろぼし)」は、人の讒言で息子を追放してしまった父と、
追放後に、弱法師と呼ばれる盲目の乞食法師となった息子が再会し、和解するという物語です。
この能のポイントは、彼らの運命的な再会です。その時と所こそ、
大阪の古刹である四天王寺で彼岸に行われる日想観(じっそうかん)の法要でした。
日想観とは、仏教の修行のひとつで、西方に向かって、沈む夕日を観ながら
極楽浄土を想う行法のことを指します。
四天王寺は、6世紀に聖徳太子が建立したと伝えられる寺院です。
当時の大阪は「難波の津」と言われ、四天王寺の門前まで海が迫り、
ここから眺める夕日の美しさは、広く知られ、歌にも詠まれました。
周辺には夕陽ヶ丘という場所もあります。
平安時代、弘法大師・空海は、西の海に沈む四天王寺の夕陽を見て、
西方浄土に思いをはせる修行を始めたといい、これが日想観の由来となっています。
12、13世紀以降は、春と秋の彼岸の中日に四天王寺に参詣し、
「西門」から鳥居越しに西方に向かって夕日を拝むことが
「難波の四天王寺の日想観」として庶民の間に広まっていました。
四天王寺の西門は、極楽浄土の東門へ通じると信じられていたのです。
耕漁、三枚目、
「能楽圖繪」「佛原」です。
能「佛原」(ほとけのはら)
☆http://www.tessen.org/dictionary/explain/hotokenohara
▼あらすじ
白山禅定を志す僧が加賀の国、仏原の草堂で里の女と出会います。
女は、白拍子の仏御前は都で舞の名手としての名声を得て、後に故郷加賀で亡くなったと述べます。
さらに祇王と仏御前の昔物語を語り、自分は仏御前とほのめかし消え失せました。
里の男から話を聞いた僧が弔いをすると、仏御前の幽霊が現れ、弔いを感謝して舞を舞います。
▼ここに注目
『平家物語』に祇王が清盛の前で謡った今様(流行歌)が以下のように記されています。
仏も昔は凡夫[ぼんぶ]なり 我らも終には仏なり
いづれも仏性[ぶっしょう]具せる身をへだつるのみぞ悲しけれ
物語の中では祇王が、仏御前も同じ人間であるのに清盛が差別しているという意味で謡います。
能〈仏原〉では、この今様を元に シテの仏御前を
すでに仏性(仏の性質)を持っている存在として設定し、それゆえ
仏の原の草木やすべてのものが成仏をするのだという思想を描きます。
主題である人仏不二の真理をシテの舞にこめているといえます。
☆http://blogs.yahoo.co.jp/asanoplay5163/40184663.html
◎「よくわかる能と平家物語」「仏原(ほとけのはら)」
祇王は平清盛に寵愛された白拍子です。その威光で妹の祇女・母、刀自までも
裕福な生活を送っていました。
ある日、都で評判の白拍子・仏御前が清盛に拝謁を求めます。
清盛は図々しい芸人と、門前払いを食わせますが、
同情した祇王のとりなしによって拝謁がかないます。
仏御前は見目麗しく、謡も舞も素晴らしく、
清盛は無情にも祇王を追い出し、仏御前を寵愛するようになりました。
清盛の威光も失せ、つつましく暮らす母子のもとに残酷な使いがやってきます。
「仏御前の気分がすぐれないので参上して謡い舞ってなぐさめよ」というのです。
傲慢な権力者に逆らうこともできず、泣く泣く参上する祇王、
かつて自分が座していた上の座敷から、仏御前が見ています。
祇王は謡います。
「仏もむかしは凡夫なり 我等も終には仏なり
いづれも仏性具せる身を へだつるのみこそ悲しけれ」
あまりの屈辱と悲しさ。自ら命を絶とうとしますが、母に留められ、
母子三人髪をおろし、嵯峨野でしずかに尼として暮らすこととなるのです。
ある日、庵の戸を叩く者があります。
それは清盛のもとを抜け出し、髪をおろした仏御前でした。
仏御前は祇王への恩を仇で返すこととなり、
辞退の意思もかなわぬ力なさに悩み続けた自らの苦しい胸の内を
涙乍らに語り、許しを乞います。
「もし許して頂けるなら、ここで一緒に仏の御心に従って暮らし、
共に西方浄土へ向かいたいのです」と。
祇王は仏御前の手を取って涙を流します。
「ここで念仏三昧の日々を送りながらも、私の胸中には貴方への恨みや嫉妬がこびりつき、
私はとても妄執から逃れ西方浄土へ至ることはできないと絶望していたのです。
貴方がここへ来て下さったことで、その妄執も溶け去りました。
どうぞ共に暮らしてください。
貴方こそ真に尊い仏性を備えた方です。」
↑
如何ですか?
能は基本、怨霊劇ですが、殆ど佛教の功徳で救われる、解脱劇でもあるわけです。
深みがありますよ。
明治2年〈1869年〉〜 昭和2年〈1927年〉
明治時代から大正時代にかけての浮世絵師、日本画家。
作
「能楽圖繪 隅田川(念佛の心)」です。
☆秋晴れ。
今日は秋分の日、秋彼岸の中日。
彼岸に想いを致し、能楽、三題です。
『隅田川』 (すみだがわ) : (Wikipedia)
* シテ: 狂女、梅若丸の母
* 子方: 梅若丸の霊
* ワキ: 隅田川の渡し守
* ワキヅレ: 京都から来た旅の男
* 大小前に塚の作り物(その中に子方が入っている)
渡し守が、これで最終便だ 今日は大念仏があるから人が沢山集まる といいながら登場。
ワキヅレの道行きがあり、
渡し守と「都から来たやけに面白い狂女を見たからそれを待とう」と話しあう。
次いで一声があり、狂女が子を失った事を嘆きながら現れ、カケリを舞う。
(曲中に挿入される比較的テンポの速い囃子事で、精神の不安定な状態をあらわす)
道行きの後、渡し守と問答するが哀れにも
『面白う狂うて見せよ、狂うて見せずばこの船には乗せまいぞとよ』と虐められる。
狂女は業平の『名にし負はば…』の歌を思い出し、歌の中の恋人をわが子で置き換え、
都鳥(実は鴎)を指して嘆く事しきりである。
渡し守も心打たれ『かかる優しき狂女こそ候はね、急いで乗られ候へ。
この渡りは大事の渡りにて候、かまひて静かに召され候へ』と親身になって舟に乗せる。
対岸の柳の根元で人が集まっているが何だ と狂女が問うと、
渡し守はあれは大念仏であると説明し、哀れな子供の話を聞かせる。
京都から人買いにさらわれてきた子供がおり、病気になってこの地に捨てられ死んだ。
死の間際に名前を聞いたら、「京都は北白河の吉田某の一人息子である。
父母と歩いていたら、父が先に行ってしまい、母親一人になったところを攫われた。
自分はもう駄目だから、京都の人も歩くだろうこの道の脇に 塚を作って埋めて欲しい。
そこに柳を植えてくれ」という。
里人は余りにも哀れな物語に、塚を作り、柳を植え、一年目の今日、
一周忌の念仏を唱えることにした。
それこそわが子の塚であると狂女は気付く。
渡し守は狂女を塚に案内し弔わせる。
狂女はこの土を掘ってもわが子を見せてくれと嘆くが、
渡し守にそれは甲斐のないことであると諭される。やがて念仏が始まり、
狂女の鉦の音と地謡の南無阿弥陀仏が寂しく響く。
そこに聞こえたのは愛児が「南無阿弥陀仏」を唱える声である。
尚も念仏を唱えると、子方が一瞬姿を見せる。
だが東雲(しののめ)来る時 母親の前にあったのは塚に茂る草に過ぎなかった。
☆http://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_012.html
隅田川(すみだがわ)
あらすじ
春の夕暮れ時、武蔵の国隅田川の渡し場で、
舟頭が最終の舟を出そうとしていると旅人が現れ、女物狂がやってくると告げました。
女は都北白河に住んでいましたが、わが子が人買いにさらわれたために心が狂乱し、
息子をさがしにはるばるこの地まで来たのでした。
舟頭が、狂女に、舟に乗りたければ面白く狂って見せろ、と言うので、
女は『伊勢物語』九段の「都鳥(みやこどり)」の古歌を引き、
自分と在原業平(ありわらのなりひら)とを巧みに引き比べて、船頭ほか周囲を感心させ、
舟に乗り込むことができました。
川を渡しながら、舟頭は一年前の今日、三月十五日に
対岸下総(しもうさ)の川岸で亡くなった子ども、梅若丸の話を物語り、
皆も一周忌の供養に加わってくれと頼みます。
舟が対岸に着き、みな下船しても、狂女は降りようとせず泣いています。
船頭が訳を尋ねると、先ほどの話の子は、わが子だというのです。
舟頭は狂女に同情し、手助けして梅若丸の塚に案内し、大念仏で一緒に弔うよう勧めます。
夜の大念仏で、狂女が母として、鉦鼓(しょうこ)を鳴らし、念仏を唱え弔っていると、
塚の内から梅若丸の亡霊が現れます。
抱きしめようと近寄ると、幻は腕をすり抜け、母の悲しみは一層増すばかり。
やがて東の空が白み始め、夜明けと共に亡霊の姿も消え、
母は、ただ草ぼうぼうの塚で涙にむせぶのでした。
↑
手前が一番好きな演目です。
耕漁、二枚目、
「能楽圖繪」「弱法師」です。
能「弱法師(よろぼし)」
☆http://www.hakusho-kai.net/welcome/programs/yoroboshi.html
▼物語
左衛門尉通俊は、ある人の讒言によって我が子・俊徳丸を捨ててしまったことを悔やみ、
天王寺で施しを行います。そこへ杖を突きながら現れたのは、
「弱法師」とあだなされる盲目の青年、俊徳丸。
折りしも彼岸の中日、施しの人々に連なる弱法師の袖に、
満開の梅の花びらが芳香を放って散りかかります。
施しを受けた弱法師は、
仏の慈悲を讃え、天王寺縁起を語り、乞われるままに日想観を拝みます。
心に焼きついた須麿明石難波の浦の景色を今も見えるかのように、
ありありと心に描きつつ、彷徨い歩くのですが、
参詣の人々にぶつかり、ふと現実に戻され、我が身を恥じます。
やがて通俊は、弱法師に父と名乗り、二人は連れ立って高安の里へ帰って行きます。
▼鑑賞
弱法師は盲人であるため、杖にすがって闇の中を歩いています。
心の中にも闇(親に捨てられた悲しみや、恨み)を抱えています。
しかし梅の香を聞き、日想観を拝み、心に焼きついた難波の景色を見て、
「萬目青山は心にあり(目に見える風景は、全て心に映じる)」と言う弱法師。
弱法師の心の闇と光が、この能の見所です。
☆http://www.the-noh.com/jp/trivia/120.html
「弱法師」のハイライトと四天王寺の関係は?
能「弱法師(よろぼうし、よろぼし)」は、人の讒言で息子を追放してしまった父と、
追放後に、弱法師と呼ばれる盲目の乞食法師となった息子が再会し、和解するという物語です。
この能のポイントは、彼らの運命的な再会です。その時と所こそ、
大阪の古刹である四天王寺で彼岸に行われる日想観(じっそうかん)の法要でした。
日想観とは、仏教の修行のひとつで、西方に向かって、沈む夕日を観ながら
極楽浄土を想う行法のことを指します。
四天王寺は、6世紀に聖徳太子が建立したと伝えられる寺院です。
当時の大阪は「難波の津」と言われ、四天王寺の門前まで海が迫り、
ここから眺める夕日の美しさは、広く知られ、歌にも詠まれました。
周辺には夕陽ヶ丘という場所もあります。
平安時代、弘法大師・空海は、西の海に沈む四天王寺の夕陽を見て、
西方浄土に思いをはせる修行を始めたといい、これが日想観の由来となっています。
12、13世紀以降は、春と秋の彼岸の中日に四天王寺に参詣し、
「西門」から鳥居越しに西方に向かって夕日を拝むことが
「難波の四天王寺の日想観」として庶民の間に広まっていました。
四天王寺の西門は、極楽浄土の東門へ通じると信じられていたのです。
耕漁、三枚目、
「能楽圖繪」「佛原」です。
能「佛原」(ほとけのはら)
☆http://www.tessen.org/dictionary/explain/hotokenohara
▼あらすじ
白山禅定を志す僧が加賀の国、仏原の草堂で里の女と出会います。
女は、白拍子の仏御前は都で舞の名手としての名声を得て、後に故郷加賀で亡くなったと述べます。
さらに祇王と仏御前の昔物語を語り、自分は仏御前とほのめかし消え失せました。
里の男から話を聞いた僧が弔いをすると、仏御前の幽霊が現れ、弔いを感謝して舞を舞います。
▼ここに注目
『平家物語』に祇王が清盛の前で謡った今様(流行歌)が以下のように記されています。
仏も昔は凡夫[ぼんぶ]なり 我らも終には仏なり
いづれも仏性[ぶっしょう]具せる身をへだつるのみぞ悲しけれ
物語の中では祇王が、仏御前も同じ人間であるのに清盛が差別しているという意味で謡います。
能〈仏原〉では、この今様を元に シテの仏御前を
すでに仏性(仏の性質)を持っている存在として設定し、それゆえ
仏の原の草木やすべてのものが成仏をするのだという思想を描きます。
主題である人仏不二の真理をシテの舞にこめているといえます。
☆http://blogs.yahoo.co.jp/asanoplay5163/40184663.html
◎「よくわかる能と平家物語」「仏原(ほとけのはら)」
祇王は平清盛に寵愛された白拍子です。その威光で妹の祇女・母、刀自までも
裕福な生活を送っていました。
ある日、都で評判の白拍子・仏御前が清盛に拝謁を求めます。
清盛は図々しい芸人と、門前払いを食わせますが、
同情した祇王のとりなしによって拝謁がかないます。
仏御前は見目麗しく、謡も舞も素晴らしく、
清盛は無情にも祇王を追い出し、仏御前を寵愛するようになりました。
清盛の威光も失せ、つつましく暮らす母子のもとに残酷な使いがやってきます。
「仏御前の気分がすぐれないので参上して謡い舞ってなぐさめよ」というのです。
傲慢な権力者に逆らうこともできず、泣く泣く参上する祇王、
かつて自分が座していた上の座敷から、仏御前が見ています。
祇王は謡います。
「仏もむかしは凡夫なり 我等も終には仏なり
いづれも仏性具せる身を へだつるのみこそ悲しけれ」
あまりの屈辱と悲しさ。自ら命を絶とうとしますが、母に留められ、
母子三人髪をおろし、嵯峨野でしずかに尼として暮らすこととなるのです。
ある日、庵の戸を叩く者があります。
それは清盛のもとを抜け出し、髪をおろした仏御前でした。
仏御前は祇王への恩を仇で返すこととなり、
辞退の意思もかなわぬ力なさに悩み続けた自らの苦しい胸の内を
涙乍らに語り、許しを乞います。
「もし許して頂けるなら、ここで一緒に仏の御心に従って暮らし、
共に西方浄土へ向かいたいのです」と。
祇王は仏御前の手を取って涙を流します。
「ここで念仏三昧の日々を送りながらも、私の胸中には貴方への恨みや嫉妬がこびりつき、
私はとても妄執から逃れ西方浄土へ至ることはできないと絶望していたのです。
貴方がここへ来て下さったことで、その妄執も溶け去りました。
どうぞ共に暮らしてください。
貴方こそ真に尊い仏性を備えた方です。」
↑
如何ですか?
能は基本、怨霊劇ですが、殆ど佛教の功徳で救われる、解脱劇でもあるわけです。
深みがありますよ。