画は歌川 國貞 (三代豊國)
天明6年(1786年)〜元治元年(1865年)
号は、香蝶楼・一雄齋・五渡亭など 作
「五節句ノ内」 「皐月」です。
☆曇り、明け方寒かった。
まずは、
◆http://oka-jp.seesaa.net/article/358134158.html
In Deep 2013年05月01日
◎おわらない冬 : 記録的な寒さと降雪に見舞われる北半球。
そして、コントロールを失ったジェット気流
より抜粋、
先週のアメリカの科学メディアであるライブサイエンスに
「どうして、この春はこんなに雪が多いのか?」というタイトルの記事がありまして、
今回は、日本や世界の最近の気温などと共に、その記事をご紹介します。
太陽系の荒れ方もカオス的な状況となっているかもしれない現在ですが、
地球も太陽系の一員として十分にカオスを連動させているように思います。
☆春はいつ来るのか?
昨日、知り合いと電話で話していた時に、
「そういえば、北海道、雪すごいらしいね」と相手が言います。
私 「いくら北海道でも5月近くで雪降らないよ」
相手「ニュースでやってたぞ」
ということで、見てみますと、なるほど、下のような報道がたくさんあります。
____________________________________________
☆http://www.hokkaido-np.co.jp/news/donai/459973.html
北海道新聞 4月22日朝刊掲載
◎春どこへ…道東で降雪 中標津13センチ
道内は21日、太平洋側に低気圧が接近した影響で道東を中心に雪に見舞われた。
札幌管区気象台によると、雪は22日朝まで続き、
太平洋側東部やオホーツク海側南部で10〜20センチの積雪となる見通し。
同気象台によると、21日午後9時までの24時間降雪量は根室管内中標津町で13センチ、
釧路管内厚岸町太田で11センチ、根室市厚床で10センチなど。
この影響で、釧路空港では羽田発の1便が引き返したほか、この折り返し便など3便が欠航した。
一方、低気圧の影響を受けなかった日本海側は穏やかな気候に。
稚内市宗谷岬で最高気温が5月上旬並みの10・3度まで上がるなど、
宗谷、石狩、後志地方の観測5地点で今季一番の暖かさとなった。
札幌の最高気温は平年よりやや低い11・9度だった。
22日は、朝までに道東などの雪は峠を越えるが、気温は全道的に平年よりやや低めとなるという。
☆http://www.hokkaido-np.co.jp/news/donai/461848.html
北海道新聞 4月29日
◎道東、冬に逆戻り ウトロで降雪45センチ
発達した低気圧が停滞している影響で、道内は大型連休2日目の28日も
全道的に平年を下回る気温となった。知床半島を中心に道東の降雪も続き、
オホーツク管内斜里町ウトロでは同日正午までの24時間降雪量が45センチに達するなど、
広範囲で冬景色に戻り、観光客は寒さに震えた。
札幌管区気象台によると、28日正午までの24時間降雪量は釧路管内弟子屈町川湯14センチ、
オホーツク管内遠軽町13センチ、釧路市阿寒湖畔12センチなど。
日中の最高気温はウトロで氷点下0・2度と真冬日になったほか、
阿寒湖畔0・3度、札幌市6・9度など、3月下旬から4月上旬並みの寒さとなった。
最大瞬間風速は弟子屈町で29・8メートル、根室管内中標津町で26・7メートルを観測した。
斜里町の知床五湖は駐車場の積雪が40〜50センチとなり終日閉鎖。
知床自然センターの駐車場では、雪で動けず放置された乗用車もあった。
同日が運航初日だった知床観光船おーろらは強風と高波のため欠航した。
釧路管内弟子屈町では強風のため町営住宅など4軒で屋根のトタン板がはがれるなどの被害が出た。
釧路市阿寒湖畔では吹雪のため温泉街を散策する観光客はまばらだった。
同気象台によると、29日も午前中は道南を除き雪か雨が降りやすい。
気温が平年並みに戻るのは5月5日以降となる見通しだ。
____________________________________________
ついでに今日( 5月1日)の北海道の天気予報を見てみますと・・・。
http://weather.yahoo.co.jp/weather/
明日( 5月2日)の札幌の天気予報に雪のマークがついているのでした。
これは前言を撤回して、知人に「5月も雪は降るみたいだね」と言い直さなければならないようですが、
まあしかし、これは普通とは言い難い部分はあるとは思います。
この「なかなか終わらない冬」に関しては、北半球の多くの地域から報告されていて、
北米大陸などでは、カナダもアメリカも「観測史上で最も寒い春」を迎えている地域が多いそうで、
下はカナダの報道からです。
☆http://www.cbc.ca/news/canada/saskatchewan/story/2013/04/22/sk-cold-spring-1304.html
アメリカの状況もひとつニュースを翻訳してご紹介しておきます。
先週のワシントンポストの記事からです。
☆http://www.washingtonpost.com/blogs/capital-weather-gang/wp/2013/04/24/
historic-cold-records-fall-in-southern-plains/
歴史的な寒さがアメリカ南部の平野部を見舞っている
ということです。
NOAA は「世界全体が寒くなっているということではない」と言いたいようですが、
寒くなっている国と地域が多いのも確かです。
その理由は結局よくわかっていないながらも、「ジェット気流の異変」などもあげられていて、
通常とはかなり違う動きとなっていることなどが今年の初めから観測されていたようです。
そのジェット気流についてもふれていましたライブサイエンスの記事をご紹介しようと思います。
記事はここからです。
☆http://www.livescience.com/29004-record-spring-snow.html
LiveScience 2013.04.24
◎Why Has There Been So Much Snow This Spring?
(訳者注) ジェット気流は、日本も直接的に影響を受ける国のひとつですので、
今後の気候が、上のウェーバーさんの言っているようなことになるのならば、
今年は、というか、今年も大変に荒れた天候に連続して見舞われる可能性は常にあると思います。
上の記事にもありますが、ジェット気流のような早いスピードで大きな影響を与える大気の循環が
「カオス化」してきますと、最近ではよく見られます「突然の強風や竜巻」などの現象や、
あるいは、寒さとは逆に「突然暑くなる」(そしてまた寒くなる)というような
予測しにくい天候の状況も日常になる可能性もあるかもしれません。
しかし、なんだか少しずつ「荒れた気候」にも世界の人々は慣れてきたような感じもあります。
天候は天荒ですし、それを悲観しても仕方ないわけですし、
怪我したり死んだりしないように注意をしながら、しばらく続く「かもしれない」
この荒れた世界の中で生きていくというしかないということも言えるのかもしれません。
日本もまだ少し寒いようです
記事を書き終わってから知ったのですが、
気象庁から北・東日本の長期間の低温に関する全般気象情報というものが発表されていました。
内容は下の通りです。
☆http://oka-jp.up.seesaa.net/image/tei-2013-04-30.png
長野の平年との温度差の「マイナス 4.2」というのはかなりのものですね。
連休は寒いままで終わる地域も多いようです。
春はきっと来ると思いますけれど、なんだかそう言い切る自信もないような。
國貞、二枚目、
「江戸土産浮名のたまづさ」 「あふぎや夕ぎり」 「藤屋伊左衛門」です。
ここは親中ですねぇw
◆http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201304300000/
櫻井ジャーナル 2013.04.30
◎日米両国の支配から脱し、独立しようという気運が沖縄では高まっているようだが、
それこそが自然であり、米国資本の買弁にすぎない日本の支配者とは決別の時
沖縄で独立論を唱える人が増えているらしい。
歴史を振り返ると、独立を主張するのは当然なわけで、むしろ歴史を忘れたこれまでが不自然だった。
沖縄/琉球は17世紀から島津氏の植民地的な存在になった。
中国(明/清)との交易で栄えていたことに目をつけ、侵略したのである。そのため、
利益を生む仕組み、冊封関係は維持されて形式上は独立国家として存在した。
沖縄/琉球が名実ともに日本の支配下に入るのは「明治王朝」が行った「琉球処分」の結果であり、
これが日本の東アジア侵略の出発点になった。
第2次世界大戦で日本が敗北した段階で、独立の道を選ぶことが沖縄にとって自然の道だったが、
実際は天皇とウォール街の取引材料に使われただけで終わる。
平和条約/安保条約が発効すると、
アメリカは沖縄を基地化しはじめ、ラテン・アメリカへの棄民も推進された。
こうした日米の支配を受け、豊かだった沖縄/琉球には貧困が蔓延していく。
その象徴的な現象が売春婦の増加。
竹中労によると、1960年代の後半には 2、3万人に達していたという。当時、沖縄の女性人口は約50万人。
しかも、ある島の商工会議所などは、遊郭をつくって賭博場をひらくという計画を立てていたようだ。
売春は貧困と深い関係があるわけだが、例えば、ボリス・エリツィン時代のロシアでは
クレムリンと結びついた一部の人間が不公正な取り引きで巨万の富を手にする一方、
庶民は貧困化、売春婦が増大したと言われている。
エリツィン時代のロシアは「新自由主義経済」を推進していたが、
その先輩にあたるイギリスでも似たような現象が起こっている。
イギリスのインディペンデント紙によると、
http://www.independent.co.uk/news/uk/home-news/
(How sex work has replaced a bar job for students
who struggle to bills, loans and university fees )
学費を稼ぐために女子学生へ「思慮深い交際」を紹介する「ビジネス」が存在している。
こうした「ビジネス」は蔓延しているようだ。
庶民が教育を受けようとするならば、体を売らなければならない現実がイギリスにはある。
男性ならどうするか・・・。
ともかく、それがマーガレット・サッチャーの残した遺産のひとつ。
昔、日本では売春の世界を「苦界」と表現していた。
貧困は庶民を苦界へ突き落とすのだ。TPPが導入されれば、日本も同じような状況になる可能性がある。
(スケベじじいが溢れる支配層はそれを願っているかもしれないが。)
第2次世界大戦の終盤、沖縄では凄惨な地上戦が展開された。
1944年10月にアメリカ軍は沖縄に大規模な空襲を行い、翌年の3月には慶良間列島に上陸、
7月に沖縄作戦の終了を宣言しているが、その後も局地的な戦闘は続いたと伝えられている。
戦闘の最中には、非戦闘員の「集団自決」もあった。
それだけ日本で行われていた洗脳が徹底していたということだろうが、
戦争の最終盤には「それまで、皇軍協力を叫んできた知識人・教職員が率先して米軍政に走った」
(森杉多著『戦争と教育』近代文藝社)ともいう。
沖縄のエリートは洗脳されていたわけでなく、単に、利己的な理由で権力者に媚びを売っていたのだ。
本ブログでは何度か書いたことだが、1923年の関東大震災を切っ掛けにして、
日本はJPモルガンを中心とするアメリカ金融資本の影響下に入った。
(アングロサクソンということになると、幕末からということになる。)
復興資金の調達をこの巨大金融資本に頼ったことが大きい。
この日米関係のキーパーソンがジョセフ・グルーと大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后(九条節子)。
このふたりは、ジョセフの妻、アリス・ペリー・グルーを介してつながっていた。
1921年11月に裕仁親王(後の昭和天皇)が20歳で摂政に就任するが、
影響力の点では貞明皇后の方が上だっただろう。
関東大震災は摂政就任から3年後ということになる。つまり、昭和天皇は20歳代のころから
JPモルガン(ウォール街)とコネクションができあがっていた。
当時、JPモルガンの総帥はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアだったが、
ジョセフ・グルーはその親戚。
戦後、ウォール街は日本支配を強化してくるが、その中心的な存在がジャパン・ロビーであり、
彼らの活動拠点がACJ(アメリカ対日協議会)。その中心にいたのがグルーだ。
その背後ではウォール街の代理人、ジョン・フォスター・ダレスが暗躍していた。
こうした経緯があるため、敗戦後、昭和(裕仁)天皇はアメリカよりもコミュニストを恐怖している。
そして1947年9月、アメリカ軍の沖縄占領が
「25 年から50年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与というフィクション」のもとで継続されることを望む
という天皇のメッセージが出てくる。(豊下楢彦著『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波現代文庫)
こうした交渉を経て、1952年4月28日に「日本国との平和条約」と
「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」は発効した。
この日、日本が主権を回復したと安倍晋三首相は言う。
日本の支配層にとって、沖縄はアメリカへの貢ぎ物であり、そのひとつの結果が苦界。
そうした状況を作り上げたという点で、日本とアメリカは同罪である。
1972年5月に「施政権」がアメリカから日本へ「返還」されたというが、
これは占領者間の取り引きにすぎない。「返還」の前、屋良朝苗たちが展開した「祖国復帰運動」は
根本的に間違っていたのではないだろうか?
すでに、沖縄はアメリカ軍にとっての重要度は低下しているが、
東アジアの主要都市を結ぶ扇の要の位置に沖縄が存在している事実に変化はない。
アメリカ軍が引き上げれば、東アジアにおける人や物資の移動でハブとして機能できるだろう。
そうなれば、観光客も増えるはずだ。今、沖縄は本来の姿を取り戻そうとしている。
↑
貞明皇后=九条節子は出自が胡乱のようですよ。
公家の九条家とは関係が希薄らしくて、高円寺村の農家で育っておるらしい(鬼塚説)。
ある説では千代田遊郭(明治天皇は漁色家)に奉仕した支那人で朱貞明だ?とも。
宮中某重大事件(きゅうちゅうぼうじゅうだいじけん)に関与。
☆http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/687.html
DVD 『鬼塚英昭が発見した日本の秘密』 成甲書房より ご参照あれ!
「沖縄独立」には賛成しかねる。
必ず支那が獲りに来ます、既に狙って工作を始めておる。
そしてチベット化ですよ、間違いない。
日本人たる沖縄の人たちを、それこそ「苦界」に沈めることになる。
國貞、三枚目、
「見立やみづくし 皐月やみ」 「遠山甚三」です。
「闇」といへば、
◆http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/8d94bf4dc9858bd94d40f7860bb598b7
(新) 日本の黒い霧 2013-04-30
◎JAL123便墜落事故−真相を追う−福岡講演のご報告/犠牲者の死を悼む
より抜粋、
* * *
■忘れてはならない、死の真相
日々の仕事や、講演会の準備で忙しくなると、つい忘れがちになってしまうのが、
何のために123便事件の真実追求を続けているのかということ。
すなわち、このブログを書き始める動機となったあの頃の自分自身の「思い」です。
真実を知りたいという個人的興味をはるかに凌駕する、現実世界の残酷さ、
この世の虚構に対するやるせない無力感、
そしてそれらは余りに理不尽な乗客乗員の死によって表現されています。
ここでは、520名(と言われている)の犠牲者の死が何であったのか、
改めて画像と公的資料で振り返ってみたいと思います。
私のコメントは最小に留めますので、あの日を覚えている、おそらく30代半ば以降の方は、
ぜひ彼らの死がいったい何だったのかを思い出してみてください。
資料1:運輸省 事故調査報告書 結論 (4.1.9乗客乗員の死傷) から
4.1.9.1
前部胴体・中部胴体内にいた乗客・乗組員は墜落時の数百Gと考えられる強い衝撃及び
前部・中部胴体構造の全面的な破壊によって、全員即死したものと考えられる。
4.1.9.2
後部胴体にいた乗客・客室乗務員のうち、前方座席の者は墜落時の100Gを超える強い衝撃で、
ほとんどが即死に近い状況であったと考えられる。
後方座席の者が受けた墜落時の衝撃は数十G程度の大きさであり、
これによってほとんどが致命的な障害を受けたものと考えられる。(以下略)
4.1.9.3
本事故における生存者は4名であり、いずれも重傷を負った。
4名とも後部胴体の後方に着座しており、数十G程度の衝撃を受けたものと考えられるが、
衝突時の着座姿勢、ベルトの締め方、座席の損壊、人体に接した周囲の物体の状況等が
衝撃を和らげる状況であり、胴体内部の飛散物との衝突という
災害を受けることが少なかったこともあって奇跡的に生還し得たものと考えられる。
事故報告書は生存者4名を除く乗客乗員全員が、墜落時に「致命的な傷害を受けた」ということにしたいらしい。
この調査報告について、現場で生存者を目撃されたM氏はきっぱりと
「この調査報告書は嘘である」と断言している。
詳しくは「闇夜に蠢くもの(4)」を参照してほしい。
☆http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/9218d78bddf9f12a9d7bdc8ebec1c10a
資料2 運輸省 事故調査報告書 結論 (4.1.11捜索・救難活動) から
4.1.11.1
墜落地点は登山道がなく、落石の危険が多い山岳地域であり、
夜間の捜索ということもあったため、機体の発見及び墜落地点の確認までに時間を要した
ことはやむを得なかったものと考えられる。
4.1.11.2
救難活動は困難を極めたが、活動に参加した各機関の協力によって
最善を尽くして行われたものと認められる。
装備無しのM氏は、当日登山道なき道を現場に向かっている。
S氏などは何度も夜を徹して墜落現場周囲の山中を歩き回って調査している。
「夜間の山岳地帯=危険=到達困難」というのは明らかに現場を知らない見解。
私も月夜ではない深夜の現地山中を歩いてみたが、思いのほか明るく
目が慣れてくれば急斜面でも歩ける。この地が首都東京から100km圏内の山地であり、
山の頂などからは埼玉・東京方面の街明かりが眩しいほどに見える。
また、この辺が当時の航空幕僚が語るような未開の「日本のチベット」でないことは、
画像4を見れば一目瞭然である。
▼画像1:自衛隊員に抱きかかえられる少年
☆http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/7a/d75c64d8af08daa9b6d9c864d044df41.jpg
ネットでも話題になった写真。この少年は生きているのではないのか?
私の知り合いの医療関係者は、筋肉の張り方など自力で腕を上げていると観察され、
この時点では明らかに生きているだろうと語っている。
私の元へは少年の生存情報(施設に収容)も入ってくるが真偽は定かでない。
▼画像2:手が大きく腫れている犠牲者
☆http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/8d/63d425933a017e61a275cfb6e82c3bf7.jpg
医療関係者によると、手の腫れは墜落後にも血液の循環があったことを示しており、
少なくとも即死はしていないと語っている。生存者の一人、川上さんが、
墜落直後に家族と会話をした、子供の声を聞いたという証言は
多くの123便関連著書に貴重な証言として書き残されている。
▼画像3:焼き殺された子供の遺体
☆http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/00/78df17a104517e92414789748ac798f1.jpg
真雑誌フォーカスから。あまりに凄惨な写真なので、遺体にはモザイクをかけています。
ジェット燃料は高くて1400℃に到達するというが、それは灯油の 1100℃とたいして変らない。
実体はほとんど灯油と同じと考えてよい。写真の子供は頭部の輪郭が崩れる程激しく燃えており、
ジェット燃料(灯油)が原因ならば、まとまった燃料が本人にかかり燃えた、
あるいは近くで激しく燃えていたことになる。しかし、
子供の遺体に寄り添うように生えた木立にはほとんど焦げ跡がない。
しかも雑誌の文面には「紙幣や書類が周囲に散乱していた」と記載されている。
ジェット燃料はこの子だけをめがけ飛び散り、この子だけを燃やして火は収まったというのだろうか?
この不自然な状況を説明する理由を私はこう考える、
「この子はごく間近から火炎放射器で焼かれたのだ」と。
☆http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/a6/ca51ace5a88e0a2dfd21396ed43a806b.jpg
火炎放射器
▼画像4:林業用トロッコ列車の軌道
☆http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/8e/d1c3385ab90cacd3e809c5e3f4caabb7.jpg
群馬県上野村の墜落現場(スゲノ沢)へ向かう林道沿いには、1900年代半ば、
かつて当地で林業が盛んだった時代の名残である、トロッコ列車の軌道の一部が撤去されず
朽ち果てるままにされている。この周辺は事件発生以前から人が出入りしている場所だったのは明らか。
墜落現場は林道終点からわずか2〜3km ほど先でしかなく、この明白な事実を突き付けられても、
関係者はここが「日本のチベットだった」、「危険で近づけなかった」と強弁し続けるのだろうか?
そんな恥ずかしい嘘をつくことが彼らの仕事であるならば、まさに哀れの極みだ。
* * *
↑
死者は記憶の中に生き続けるのです、忘れ去られた時に本当に死ぬ。
靖国の英霊もことさら参拝せずとも、折りにふれ記憶を新しくすることで「生き続ける」。
123便の犠牲者の皆様も然りです。
「思い出してくれ、忘れないでね」 声が聞こえますな。
風化させてはならぬのですよ。
天明6年(1786年)〜元治元年(1865年)
号は、香蝶楼・一雄齋・五渡亭など 作
「五節句ノ内」 「皐月」です。
☆曇り、明け方寒かった。
まずは、
◆http://oka-jp.seesaa.net/article/358134158.html
In Deep 2013年05月01日
◎おわらない冬 : 記録的な寒さと降雪に見舞われる北半球。
そして、コントロールを失ったジェット気流
より抜粋、
先週のアメリカの科学メディアであるライブサイエンスに
「どうして、この春はこんなに雪が多いのか?」というタイトルの記事がありまして、
今回は、日本や世界の最近の気温などと共に、その記事をご紹介します。
太陽系の荒れ方もカオス的な状況となっているかもしれない現在ですが、
地球も太陽系の一員として十分にカオスを連動させているように思います。
☆春はいつ来るのか?
昨日、知り合いと電話で話していた時に、
「そういえば、北海道、雪すごいらしいね」と相手が言います。
私 「いくら北海道でも5月近くで雪降らないよ」
相手「ニュースでやってたぞ」
ということで、見てみますと、なるほど、下のような報道がたくさんあります。
____________________________________________
☆http://www.hokkaido-np.co.jp/news/donai/459973.html
北海道新聞 4月22日朝刊掲載
◎春どこへ…道東で降雪 中標津13センチ
道内は21日、太平洋側に低気圧が接近した影響で道東を中心に雪に見舞われた。
札幌管区気象台によると、雪は22日朝まで続き、
太平洋側東部やオホーツク海側南部で10〜20センチの積雪となる見通し。
同気象台によると、21日午後9時までの24時間降雪量は根室管内中標津町で13センチ、
釧路管内厚岸町太田で11センチ、根室市厚床で10センチなど。
この影響で、釧路空港では羽田発の1便が引き返したほか、この折り返し便など3便が欠航した。
一方、低気圧の影響を受けなかった日本海側は穏やかな気候に。
稚内市宗谷岬で最高気温が5月上旬並みの10・3度まで上がるなど、
宗谷、石狩、後志地方の観測5地点で今季一番の暖かさとなった。
札幌の最高気温は平年よりやや低い11・9度だった。
22日は、朝までに道東などの雪は峠を越えるが、気温は全道的に平年よりやや低めとなるという。
☆http://www.hokkaido-np.co.jp/news/donai/461848.html
北海道新聞 4月29日
◎道東、冬に逆戻り ウトロで降雪45センチ
発達した低気圧が停滞している影響で、道内は大型連休2日目の28日も
全道的に平年を下回る気温となった。知床半島を中心に道東の降雪も続き、
オホーツク管内斜里町ウトロでは同日正午までの24時間降雪量が45センチに達するなど、
広範囲で冬景色に戻り、観光客は寒さに震えた。
札幌管区気象台によると、28日正午までの24時間降雪量は釧路管内弟子屈町川湯14センチ、
オホーツク管内遠軽町13センチ、釧路市阿寒湖畔12センチなど。
日中の最高気温はウトロで氷点下0・2度と真冬日になったほか、
阿寒湖畔0・3度、札幌市6・9度など、3月下旬から4月上旬並みの寒さとなった。
最大瞬間風速は弟子屈町で29・8メートル、根室管内中標津町で26・7メートルを観測した。
斜里町の知床五湖は駐車場の積雪が40〜50センチとなり終日閉鎖。
知床自然センターの駐車場では、雪で動けず放置された乗用車もあった。
同日が運航初日だった知床観光船おーろらは強風と高波のため欠航した。
釧路管内弟子屈町では強風のため町営住宅など4軒で屋根のトタン板がはがれるなどの被害が出た。
釧路市阿寒湖畔では吹雪のため温泉街を散策する観光客はまばらだった。
同気象台によると、29日も午前中は道南を除き雪か雨が降りやすい。
気温が平年並みに戻るのは5月5日以降となる見通しだ。
____________________________________________
ついでに今日( 5月1日)の北海道の天気予報を見てみますと・・・。
http://weather.yahoo.co.jp/weather/
明日( 5月2日)の札幌の天気予報に雪のマークがついているのでした。
これは前言を撤回して、知人に「5月も雪は降るみたいだね」と言い直さなければならないようですが、
まあしかし、これは普通とは言い難い部分はあるとは思います。
この「なかなか終わらない冬」に関しては、北半球の多くの地域から報告されていて、
北米大陸などでは、カナダもアメリカも「観測史上で最も寒い春」を迎えている地域が多いそうで、
下はカナダの報道からです。
☆http://www.cbc.ca/news/canada/saskatchewan/story/2013/04/22/sk-cold-spring-1304.html
アメリカの状況もひとつニュースを翻訳してご紹介しておきます。
先週のワシントンポストの記事からです。
☆http://www.washingtonpost.com/blogs/capital-weather-gang/wp/2013/04/24/
historic-cold-records-fall-in-southern-plains/
歴史的な寒さがアメリカ南部の平野部を見舞っている
ということです。
NOAA は「世界全体が寒くなっているということではない」と言いたいようですが、
寒くなっている国と地域が多いのも確かです。
その理由は結局よくわかっていないながらも、「ジェット気流の異変」などもあげられていて、
通常とはかなり違う動きとなっていることなどが今年の初めから観測されていたようです。
そのジェット気流についてもふれていましたライブサイエンスの記事をご紹介しようと思います。
記事はここからです。
☆http://www.livescience.com/29004-record-spring-snow.html
LiveScience 2013.04.24
◎Why Has There Been So Much Snow This Spring?
(訳者注) ジェット気流は、日本も直接的に影響を受ける国のひとつですので、
今後の気候が、上のウェーバーさんの言っているようなことになるのならば、
今年は、というか、今年も大変に荒れた天候に連続して見舞われる可能性は常にあると思います。
上の記事にもありますが、ジェット気流のような早いスピードで大きな影響を与える大気の循環が
「カオス化」してきますと、最近ではよく見られます「突然の強風や竜巻」などの現象や、
あるいは、寒さとは逆に「突然暑くなる」(そしてまた寒くなる)というような
予測しにくい天候の状況も日常になる可能性もあるかもしれません。
しかし、なんだか少しずつ「荒れた気候」にも世界の人々は慣れてきたような感じもあります。
天候は天荒ですし、それを悲観しても仕方ないわけですし、
怪我したり死んだりしないように注意をしながら、しばらく続く「かもしれない」
この荒れた世界の中で生きていくというしかないということも言えるのかもしれません。
日本もまだ少し寒いようです
記事を書き終わってから知ったのですが、
気象庁から北・東日本の長期間の低温に関する全般気象情報というものが発表されていました。
内容は下の通りです。
☆http://oka-jp.up.seesaa.net/image/tei-2013-04-30.png
長野の平年との温度差の「マイナス 4.2」というのはかなりのものですね。
連休は寒いままで終わる地域も多いようです。
春はきっと来ると思いますけれど、なんだかそう言い切る自信もないような。
國貞、二枚目、
「江戸土産浮名のたまづさ」 「あふぎや夕ぎり」 「藤屋伊左衛門」です。
ここは親中ですねぇw
◆http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201304300000/
櫻井ジャーナル 2013.04.30
◎日米両国の支配から脱し、独立しようという気運が沖縄では高まっているようだが、
それこそが自然であり、米国資本の買弁にすぎない日本の支配者とは決別の時
沖縄で独立論を唱える人が増えているらしい。
歴史を振り返ると、独立を主張するのは当然なわけで、むしろ歴史を忘れたこれまでが不自然だった。
沖縄/琉球は17世紀から島津氏の植民地的な存在になった。
中国(明/清)との交易で栄えていたことに目をつけ、侵略したのである。そのため、
利益を生む仕組み、冊封関係は維持されて形式上は独立国家として存在した。
沖縄/琉球が名実ともに日本の支配下に入るのは「明治王朝」が行った「琉球処分」の結果であり、
これが日本の東アジア侵略の出発点になった。
第2次世界大戦で日本が敗北した段階で、独立の道を選ぶことが沖縄にとって自然の道だったが、
実際は天皇とウォール街の取引材料に使われただけで終わる。
平和条約/安保条約が発効すると、
アメリカは沖縄を基地化しはじめ、ラテン・アメリカへの棄民も推進された。
こうした日米の支配を受け、豊かだった沖縄/琉球には貧困が蔓延していく。
その象徴的な現象が売春婦の増加。
竹中労によると、1960年代の後半には 2、3万人に達していたという。当時、沖縄の女性人口は約50万人。
しかも、ある島の商工会議所などは、遊郭をつくって賭博場をひらくという計画を立てていたようだ。
売春は貧困と深い関係があるわけだが、例えば、ボリス・エリツィン時代のロシアでは
クレムリンと結びついた一部の人間が不公正な取り引きで巨万の富を手にする一方、
庶民は貧困化、売春婦が増大したと言われている。
エリツィン時代のロシアは「新自由主義経済」を推進していたが、
その先輩にあたるイギリスでも似たような現象が起こっている。
イギリスのインディペンデント紙によると、
http://www.independent.co.uk/news/uk/home-news/
(How sex work has replaced a bar job for students
who struggle to bills, loans and university fees )
学費を稼ぐために女子学生へ「思慮深い交際」を紹介する「ビジネス」が存在している。
こうした「ビジネス」は蔓延しているようだ。
庶民が教育を受けようとするならば、体を売らなければならない現実がイギリスにはある。
男性ならどうするか・・・。
ともかく、それがマーガレット・サッチャーの残した遺産のひとつ。
昔、日本では売春の世界を「苦界」と表現していた。
貧困は庶民を苦界へ突き落とすのだ。TPPが導入されれば、日本も同じような状況になる可能性がある。
(スケベじじいが溢れる支配層はそれを願っているかもしれないが。)
第2次世界大戦の終盤、沖縄では凄惨な地上戦が展開された。
1944年10月にアメリカ軍は沖縄に大規模な空襲を行い、翌年の3月には慶良間列島に上陸、
7月に沖縄作戦の終了を宣言しているが、その後も局地的な戦闘は続いたと伝えられている。
戦闘の最中には、非戦闘員の「集団自決」もあった。
それだけ日本で行われていた洗脳が徹底していたということだろうが、
戦争の最終盤には「それまで、皇軍協力を叫んできた知識人・教職員が率先して米軍政に走った」
(森杉多著『戦争と教育』近代文藝社)ともいう。
沖縄のエリートは洗脳されていたわけでなく、単に、利己的な理由で権力者に媚びを売っていたのだ。
本ブログでは何度か書いたことだが、1923年の関東大震災を切っ掛けにして、
日本はJPモルガンを中心とするアメリカ金融資本の影響下に入った。
(アングロサクソンということになると、幕末からということになる。)
復興資金の調達をこの巨大金融資本に頼ったことが大きい。
この日米関係のキーパーソンがジョセフ・グルーと大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后(九条節子)。
このふたりは、ジョセフの妻、アリス・ペリー・グルーを介してつながっていた。
1921年11月に裕仁親王(後の昭和天皇)が20歳で摂政に就任するが、
影響力の点では貞明皇后の方が上だっただろう。
関東大震災は摂政就任から3年後ということになる。つまり、昭和天皇は20歳代のころから
JPモルガン(ウォール街)とコネクションができあがっていた。
当時、JPモルガンの総帥はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアだったが、
ジョセフ・グルーはその親戚。
戦後、ウォール街は日本支配を強化してくるが、その中心的な存在がジャパン・ロビーであり、
彼らの活動拠点がACJ(アメリカ対日協議会)。その中心にいたのがグルーだ。
その背後ではウォール街の代理人、ジョン・フォスター・ダレスが暗躍していた。
こうした経緯があるため、敗戦後、昭和(裕仁)天皇はアメリカよりもコミュニストを恐怖している。
そして1947年9月、アメリカ軍の沖縄占領が
「25 年から50年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与というフィクション」のもとで継続されることを望む
という天皇のメッセージが出てくる。(豊下楢彦著『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波現代文庫)
こうした交渉を経て、1952年4月28日に「日本国との平和条約」と
「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」は発効した。
この日、日本が主権を回復したと安倍晋三首相は言う。
日本の支配層にとって、沖縄はアメリカへの貢ぎ物であり、そのひとつの結果が苦界。
そうした状況を作り上げたという点で、日本とアメリカは同罪である。
1972年5月に「施政権」がアメリカから日本へ「返還」されたというが、
これは占領者間の取り引きにすぎない。「返還」の前、屋良朝苗たちが展開した「祖国復帰運動」は
根本的に間違っていたのではないだろうか?
すでに、沖縄はアメリカ軍にとっての重要度は低下しているが、
東アジアの主要都市を結ぶ扇の要の位置に沖縄が存在している事実に変化はない。
アメリカ軍が引き上げれば、東アジアにおける人や物資の移動でハブとして機能できるだろう。
そうなれば、観光客も増えるはずだ。今、沖縄は本来の姿を取り戻そうとしている。
↑
貞明皇后=九条節子は出自が胡乱のようですよ。
公家の九条家とは関係が希薄らしくて、高円寺村の農家で育っておるらしい(鬼塚説)。
ある説では千代田遊郭(明治天皇は漁色家)に奉仕した支那人で朱貞明だ?とも。
宮中某重大事件(きゅうちゅうぼうじゅうだいじけん)に関与。
☆http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/687.html
DVD 『鬼塚英昭が発見した日本の秘密』 成甲書房より ご参照あれ!
「沖縄独立」には賛成しかねる。
必ず支那が獲りに来ます、既に狙って工作を始めておる。
そしてチベット化ですよ、間違いない。
日本人たる沖縄の人たちを、それこそ「苦界」に沈めることになる。
國貞、三枚目、
「見立やみづくし 皐月やみ」 「遠山甚三」です。
「闇」といへば、
◆http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/8d94bf4dc9858bd94d40f7860bb598b7
(新) 日本の黒い霧 2013-04-30
◎JAL123便墜落事故−真相を追う−福岡講演のご報告/犠牲者の死を悼む
より抜粋、
* * *
■忘れてはならない、死の真相
日々の仕事や、講演会の準備で忙しくなると、つい忘れがちになってしまうのが、
何のために123便事件の真実追求を続けているのかということ。
すなわち、このブログを書き始める動機となったあの頃の自分自身の「思い」です。
真実を知りたいという個人的興味をはるかに凌駕する、現実世界の残酷さ、
この世の虚構に対するやるせない無力感、
そしてそれらは余りに理不尽な乗客乗員の死によって表現されています。
ここでは、520名(と言われている)の犠牲者の死が何であったのか、
改めて画像と公的資料で振り返ってみたいと思います。
私のコメントは最小に留めますので、あの日を覚えている、おそらく30代半ば以降の方は、
ぜひ彼らの死がいったい何だったのかを思い出してみてください。
資料1:運輸省 事故調査報告書 結論 (4.1.9乗客乗員の死傷) から
4.1.9.1
前部胴体・中部胴体内にいた乗客・乗組員は墜落時の数百Gと考えられる強い衝撃及び
前部・中部胴体構造の全面的な破壊によって、全員即死したものと考えられる。
4.1.9.2
後部胴体にいた乗客・客室乗務員のうち、前方座席の者は墜落時の100Gを超える強い衝撃で、
ほとんどが即死に近い状況であったと考えられる。
後方座席の者が受けた墜落時の衝撃は数十G程度の大きさであり、
これによってほとんどが致命的な障害を受けたものと考えられる。(以下略)
4.1.9.3
本事故における生存者は4名であり、いずれも重傷を負った。
4名とも後部胴体の後方に着座しており、数十G程度の衝撃を受けたものと考えられるが、
衝突時の着座姿勢、ベルトの締め方、座席の損壊、人体に接した周囲の物体の状況等が
衝撃を和らげる状況であり、胴体内部の飛散物との衝突という
災害を受けることが少なかったこともあって奇跡的に生還し得たものと考えられる。
事故報告書は生存者4名を除く乗客乗員全員が、墜落時に「致命的な傷害を受けた」ということにしたいらしい。
この調査報告について、現場で生存者を目撃されたM氏はきっぱりと
「この調査報告書は嘘である」と断言している。
詳しくは「闇夜に蠢くもの(4)」を参照してほしい。
☆http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/9218d78bddf9f12a9d7bdc8ebec1c10a
資料2 運輸省 事故調査報告書 結論 (4.1.11捜索・救難活動) から
4.1.11.1
墜落地点は登山道がなく、落石の危険が多い山岳地域であり、
夜間の捜索ということもあったため、機体の発見及び墜落地点の確認までに時間を要した
ことはやむを得なかったものと考えられる。
4.1.11.2
救難活動は困難を極めたが、活動に参加した各機関の協力によって
最善を尽くして行われたものと認められる。
装備無しのM氏は、当日登山道なき道を現場に向かっている。
S氏などは何度も夜を徹して墜落現場周囲の山中を歩き回って調査している。
「夜間の山岳地帯=危険=到達困難」というのは明らかに現場を知らない見解。
私も月夜ではない深夜の現地山中を歩いてみたが、思いのほか明るく
目が慣れてくれば急斜面でも歩ける。この地が首都東京から100km圏内の山地であり、
山の頂などからは埼玉・東京方面の街明かりが眩しいほどに見える。
また、この辺が当時の航空幕僚が語るような未開の「日本のチベット」でないことは、
画像4を見れば一目瞭然である。
▼画像1:自衛隊員に抱きかかえられる少年
☆http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/7a/d75c64d8af08daa9b6d9c864d044df41.jpg
ネットでも話題になった写真。この少年は生きているのではないのか?
私の知り合いの医療関係者は、筋肉の張り方など自力で腕を上げていると観察され、
この時点では明らかに生きているだろうと語っている。
私の元へは少年の生存情報(施設に収容)も入ってくるが真偽は定かでない。
▼画像2:手が大きく腫れている犠牲者
☆http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/8d/63d425933a017e61a275cfb6e82c3bf7.jpg
医療関係者によると、手の腫れは墜落後にも血液の循環があったことを示しており、
少なくとも即死はしていないと語っている。生存者の一人、川上さんが、
墜落直後に家族と会話をした、子供の声を聞いたという証言は
多くの123便関連著書に貴重な証言として書き残されている。
▼画像3:焼き殺された子供の遺体
☆http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/00/78df17a104517e92414789748ac798f1.jpg
真雑誌フォーカスから。あまりに凄惨な写真なので、遺体にはモザイクをかけています。
ジェット燃料は高くて1400℃に到達するというが、それは灯油の 1100℃とたいして変らない。
実体はほとんど灯油と同じと考えてよい。写真の子供は頭部の輪郭が崩れる程激しく燃えており、
ジェット燃料(灯油)が原因ならば、まとまった燃料が本人にかかり燃えた、
あるいは近くで激しく燃えていたことになる。しかし、
子供の遺体に寄り添うように生えた木立にはほとんど焦げ跡がない。
しかも雑誌の文面には「紙幣や書類が周囲に散乱していた」と記載されている。
ジェット燃料はこの子だけをめがけ飛び散り、この子だけを燃やして火は収まったというのだろうか?
この不自然な状況を説明する理由を私はこう考える、
「この子はごく間近から火炎放射器で焼かれたのだ」と。
☆http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/a6/ca51ace5a88e0a2dfd21396ed43a806b.jpg
火炎放射器
▼画像4:林業用トロッコ列車の軌道
☆http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/8e/d1c3385ab90cacd3e809c5e3f4caabb7.jpg
群馬県上野村の墜落現場(スゲノ沢)へ向かう林道沿いには、1900年代半ば、
かつて当地で林業が盛んだった時代の名残である、トロッコ列車の軌道の一部が撤去されず
朽ち果てるままにされている。この周辺は事件発生以前から人が出入りしている場所だったのは明らか。
墜落現場は林道終点からわずか2〜3km ほど先でしかなく、この明白な事実を突き付けられても、
関係者はここが「日本のチベットだった」、「危険で近づけなかった」と強弁し続けるのだろうか?
そんな恥ずかしい嘘をつくことが彼らの仕事であるならば、まさに哀れの極みだ。
* * *
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死者は記憶の中に生き続けるのです、忘れ去られた時に本当に死ぬ。
靖国の英霊もことさら参拝せずとも、折りにふれ記憶を新しくすることで「生き続ける」。
123便の犠牲者の皆様も然りです。
「思い出してくれ、忘れないでね」 声が聞こえますな。
風化させてはならぬのですよ。