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神無月です?

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 画は豊原國周 (とよはら くにちか)
 
 天保6年(1835)〜明治33年(1900)

 号は一鶯斎など                作


  「皿屋敷化粧姿見 さらやしきけしょうのすがたみ」です。


☆晴れの予報。

今日は二ヶ月おきの通院日ですので、予約投稿です。

さて、興味深い記事があったので、

◆http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/8a906525300fbfe4eb3ad2a44ac7ecb9
(新)日本の黒い霧 2012-09-29
◎旧陸軍士官が語った歴史の真実(1) − 123便関連事項含む −

より抜粋、

前回の記事から少し間が空きました。今回は、ちょっと趣向を変えて、
ある人物から聞いた先の太平洋戦争に関するお話について、私の記憶に残っている限りここで紹介したいと思います。
当然ながら、遠い過去を語ったことなので、記憶違いや誇張なども入っているでしょう。
また、私自身の理解不足なども含まれると思います。ですから、あくまでも、
「そんなことを言う人がいた」くらいの感覚で受け取っていただければと思います。


■華麗な経歴の持ち主

その方とは、知人の紹介で知り合いました。お会いした当時、本人いわく、
誰でも知っている日本企業の会長職を務め、現役から一歩退いている立場だとのこと。
その企業の創業者の庶子として生まれ、徳川御三家のある一家に嫡男として養子に入ったとのこと。
英語堪能、武道、ピアノ演奏にも秀で、陸軍大学を出てから陸軍の情報部に配属されたとのこと。

もちろん、かなり後世代の私がこの経歴を聞いても、すぐにはピンとはこないのですが、
いわゆる旧華族に属する人物で、日本の実権力を握るグループの一員であることは理解できます。
政府・財界に親類縁者は多数。それだけではただのお話ですが、
目の前で現役の総理大臣に気軽に電話を掛けたこともあり、ただの誇張だけではないことも確認しています。

以下、この方のことをT氏と呼ぶことにします。

現在の代議士の多くが、元議員の2世、3世であると、政治の世襲化が問題になっていますが、T氏のお話によると、
吉田茂、鳩山一郎、岸信介などの古い政治家達、もしくはその奥方の多くがT氏の親族であり、
必然ながら、最近になって総理大臣を務めた多くの代議士が、T氏の近縁・遠縁に当たることになります。
日本を代表する企業群の実質オーナーだったこともあり、血縁だけでなく、
資金面でも有力政治家と関係が深かったことは想像に難くありません。


高齢で財界の重鎮であるT氏の前では、電話の向こう側にいる日本国総理大臣もひよっこ扱いだったのも当然でしょう。
これはこれで凄い話なのですが、投票で広く才能を求め結集させるはずの民主主義が、
人材発掘の根幹部分で、一部の血族、財閥に牛耳られている光景を目の当たりにした瞬間でした。
彼らに悪気があるかどうかは別として、事実としてそうなっていることは、理解しておく必要があります。

T氏の人脈は、自民党、民主党内部に広がっていますが、T氏にとっては、
政党の主義主張などは全く意に介していなかったように見受けられました。
当たり前でしょう、どちらに転んでも自分の意向は確実に権力中枢に伝わるのですから。


■二・二六事件はやらせだったのか?

このブログのタイトルを見ればわかるように、私は松本清張先生のノンフィクション作品を高く評価しています。
「日本の黒い霧」も秀作なのですが、私が最も敬愛する作品は「昭和史発掘」の中の「二・ニ六事件」の章です。
もちろん、昭和初期のあの有名なクーデーター事件を取り扱ったものです。


写真2 (略):文藝春秋社「昭和史発掘」文庫版表紙
     松本作品に出会ってなければこのブログもなかった?


その、膨大な資料の蒐集と緻密な分析には今でも学ぶことの多い作品ですが、
T氏と出会った頃にちょうど同作品を読み込んでいたので、昭和11年の2月26日、T氏がまだ10代前後の少年だった時、
当時東京都内に住んでいたT氏が何を見聞きしたのかを尋ねました。

「前夜から雪が降り始めて、夜に軍靴の音が鳴り響いていた。
学校へは車で送ってもらうのだが、その日は休校になったことを覚えている。」

家の中に居たため、外で何が起こったのかを目撃されてはいなかったのですが、それでも、
そんなわずかな天候の描写と聞こえてくる音の様子で、当日、都心で起きていたことが生々しく想起されます。
私にとっては、T氏のこのリアルな証言だけで十分に満足だったのですが、
それに続いてT氏は奇妙なことを語り始めました。それが余りにも衝撃的だったので、
その時のやりとりをよく覚えています。記憶を辿ってそれを下記に示します。
若干不正確であることはご容赦ください。


  -------------------ここから---------------------

  T氏「私は陸軍に入隊してから、栗原さん(当時中尉:叛乱首謀者の一人)に会いましたよ。」

  日月土「えっ、どういうことですか?栗原中尉は事件後すぐに処刑されたはずですが??」
       (註:T氏が入隊するのは事件から数年後)

  T氏「世間ではそういうことになってますね。でも、私はこの目でお姿を見て、会話もしています。
     それを信じる信じないはあなたにお任せします。なお、私は歴史というものを一切信じていません。」

  日月土「中尉とどんなことをお話されたのですか?」

   T氏「栗原さんは、よく歌を歌いながら兵舎の中をこうやって歩いていましたね(歌と身振りの真似)。
     事件に関わった他の青年将校の方々がどの部隊に配属されたのかも聞いています。」

  日月土「なぜ、将校たちは処刑されなかったのでしょうか?」

  T氏「理由はわかりませんが、やはり、お国のために立ち上がった方々ですから、
     殺すに忍びなかったのだと、私は理解しています。」

  日月土「戦後、陸軍が解体されて彼らはどうなったのでしょう?」

  T氏「それは私にもわかりません。」


  写真3 (略):栗原安秀中尉
         T氏はニ・ニ六事件よりだいぶ後に兵舎内で直接お会いしたことが
         あると言う。栗原中尉は処刑されていなかった!

  -------------------ここまで---------------------


この会話を終えたとき、松本清張先生の作品を愛読していた一読者として、
どれほどショックだったかはお分かりいただけるでしょうか? あれだけの労作の結末、
「首謀者の処刑」という歴史的事実の結末が、実は捏造されたお伽話だったというのですから。
当時、123便事件の真実についてすらまだ何も知らない自分は、この証言に激しく打ちのめされたのです。

あの松本清張先生ですら騙されていたのか!?


■文藝春秋社は何かを隠してる?

T氏のお話が事実だとすると、松本先生のされたお仕事がだたの徒労であったということに成りかねません。
あるいは、松本先生自身がその疑いを持ちつつ、結論を出せぬまま、「処刑」を歴史的事実として渋々綴ったのかもしれません。

T氏のお話に納得しきれない私は、「昭和史発掘」の出版元、文藝春秋社にメールでT氏の語った内容が、
「ニ・ニ六事件」の資料に中に僅かでも含まれているか質問を出しました。

かなり突飛な内容なので、メールへの返事は最初からあまり期待していませんでした。案の状、
今でもその返事は私の元へ届いていません。しかし、メールを出してから数日後、
私の身辺で異変がありました。空き巣に入られたのです。

帰宅して、窓ガラスが破られていることに気がつきました。
アパートの1階部分で、道路沿いの端部屋から2番目の部屋。確かに入られても不思議はないのですが、
何故、入りやすい端の部屋ではなく奥の自分の部屋だったのか?
もっと不思議なのが、何も捕られていないことでした。真新しいノートパソコンが机の上に置いてあり、
預金通帳が見えるところにあるにも拘わらず、何も捕られた気配がありません。
これには、調書を取りに来た警官の方も首を捻ってました。その後、いろいろ調べて、結局、
何も捕られた物はないという結論になりました。被害は、壊された窓の修理代程度のものです。

当時の私は、陰謀論的な話に多少の興味はあっても、社会の裏側や闇組織とかいったものに具体的なイメージはなかったので、
不思議な空き巣事件ということで、勝手に納得していました。
文藝春秋社へのメールと何か関係があると疑うこともありませんでした。

ひょっとしたらメールでの質問と関係があるのではないかと思うようになったのは、
123便事件を調べるようになってからです。123便関連で関わりを深めた国際軍事評論家のB氏に、
ニ・ニ六事件の青年将校が実は処刑されず生かされていた件について尋ねると、

「私もそう聞いてます」

と、実にあっさりとT氏のお話を裏打ちしてくださったのです。青年将校の処刑については、やはり何か隠し事があるようです。

ここで、疑問に思うのが、戦後60年以上たった今、青年将校が生かされていた事実が仮に世に出ても
「愛国者への温情措置」とすれば、さほど抵抗なく新事実として受け止められると思うのですが、
上述の空き巣事件が、重大事実を知った者への嫌がらせ、もしくは警告だとすれば、
どうして、その事実をひた隠しにしようとするのか、今一つ釈然としません。
これについての論考は後述しますが、少なくとも、文藝春秋社へのメールと空き巣事件には何か関連がありそうだということ。
だとすれば、文藝春秋社は何を隠しているのかと、疑問の度合いが必然的にエスカレートしてきます。


■ニ・ニ六事件と戦時体制 − 2つの疑問

T氏の証言「ニ・ニ六事件の叛乱将校は処刑されていなかった」が事実であると仮定し、また、
私の遭遇した「文藝春秋社へのメール後に起きた不可解な空き巣事件」が事実隠蔽工作の一端であったと仮定した場合、
そこから新たな疑問が幾つか派生してきます。それを箇条書きにすると以下のようになります。

 (1) 何故、青年将校達は処刑されなかったのか?

 (2) 何故、半世紀以上昔の事実が隠蔽され続けなければならないのか?

他にも細かい疑問は色々と出てきますが、重要なのは上記2点になるかと思います。
(1)の回答としては、T氏自身が「愛国者達への計らいだったのでは」という推測を述べられていますが、
政府の重鎮が暗殺され、陸軍内の青年将校達のシンパ、
いわゆる皇道派の高官達が事件後粛清されていることを鑑みれば(これも本当かどうか分からない)、
「温情」の一言で処刑を免れたとはとても考えにくいものがあります。
なおかつ、証言によると、彼らは、事件後に陸軍内の実権を握った統制派の下で
職務の継続と行動の自由を与えられていたようなので、これが特別計らいの温情措置であったとは、
常識的には考えにくいものがあります。

この疑問に対する最も簡潔な回答として、以下が考えられます。


 ニ・ニ六事件は、初めから事件後の効果を狙った、皇道派・統制派の両派閥間で巧妙に仕組まれた茶番であった


事件後の効果、あるいはその茶番を企図する一番の目的は、他でもなく"戦争突入"であり、
海軍出身で戦争回避派、また天皇機関説を支持する岡田啓介首相 (当時)、
およびその片腕である高橋是清大蔵大臣が暗殺の対象になったのも、シナリオの流れから俯瞰すれば当然の事である
と考えられます(岡田首相は難を逃れたが、急速に求心力を失う)。



ニ・ニ六事件発生の原因は、東北地方を中心とした地方庶民の困窮と生活苦、
それに対する政府の無策に憤った志高き青年達の暴走という風に、一般的には説明されていますが、
果たしてそんなご立派なものであったのかどうか。あるいは、叛乱した彼ら自身は純粋な理想を抱いていたとしても、
その情熱を上手に弄ばれてしまったのかもしれません。

日本を戦時体制に移行させることにより、軍部は国内の政治経済に強い影響力、そして実際的な権限を得ることになります。
これは軍部にとって大きなメリットです。そのために目障りな和平派の弱体化を図ること、それと同時に、
皇道派など、コントロールが難しい極右勢力の勢いを一定程度削ぎ落とすことが必要になります。

ニ・二六事件は、戦時体制を作り上げるための最後の仕上げとして企図された茶番。
そう考えると、事件後に、政府が弱体化し、東条英機を初めとする統制派が幅を利かすようになり、
同事件の翌年、1937年に盧溝橋事件が勃発。泥沼の日中戦争へと突入し、更には太平洋戦争へと繋がる急展開に、
欧米諸国に追い詰められただけでない、別の説明を与えることができます。
以下はニ・ニ六事件前後の簡略年表です。これを眺めると、
政府要人への殺害行為を契機に戦時体制へ強く牽引されていく日本の体制が見て取れます。また、
1938年の国家総動員法の制定は、事実上、米国との開戦準備であり、日本の軍事政府に和平案など念頭になく、
戦争を遂行することが初めからの規定路線であったことが伺い知れるのです。

1931年 5月15日 五・一五事件 犬養毅首相、他殺害
 同年 9月18日 満州事変
1932年 1月28日 第一次上海事変
 同年 3月 1日 満州国建国宣言
1933年       国際連盟脱退
1934年 12月    ワシントン海軍軍縮条約破棄
1936年 2月26日 二・二六事件 高橋是清大蔵大臣、他殺害
1937年 7月 7日 盧溝橋事件(日中戦争勃発)
1937年 8月13日 第二次上海事変
1938年       国家総動員法制定
1941年 12月 8日 日米開戦(太平洋戦争勃発)

ここで、戦争突入によって最大の利益を得るグループを忘れてはなりません。
ロックフェラーやロスチャイルドなどのユダヤ系国際財閥、日本国内だけを注視すれば、
三菱、三井、住友などに代表される大財閥とその系列企業、そして、その経営者でもある
旧華族・士族に属する人々が、必ずそこに存在するのです。
ニ・ニ六事件の勃発を、財閥系企業はかなり正確に予測していたと言われますが、それが、
企業内の情報部の諜報活動によってと考えるのは、ちょっと人が良すぎる発想かもしれません。
彼ら自身が、直接事件を計画実行した方が、はるかに効率良く
自分たちの利益となる戦時体制へと日本社会を導くことができるはずなのです。

これは、もはや推測の域を出ませんが、日米開戦前に、
その資産をアメリカ国債にシフトしていた日本の企業経営者連中は、いったいどうして米国の勝利を予測できたのか、
疑い始めたら本当にキリがありません。私は、外国勢力を含む日本の軍産複合体は、
ニ・ニ六事件の時に初めてその牙を日本国、日本国民全体に向けたのではないかと考えています。
あたかも、日航機123便事件の背後に見え隠れする、クロカモさん(日本の闇組織)たちのように。
いや、その時既に、クロカモは存在していたのかもしれません。

このように論を進めると、疑問(2)については、次の様なの答が一つ考えられます。

「日本の軍産複合体は二・ニ六事件の頃から存在し、日本を戦争へと駆り立てた。その勢力は現在でも存続し、
同事件の真実を過去のものと切り離すことはできない。日本の秘密結社たる彼らは、
その存在を悟られないことが最大のテーゼであり、『処刑はなかった』という真実から、
自分たち計画者の存在が類推されてしまうことは努めて避けなければならない。」

もちろん、この推論が正しいかどうかなど、今の私には検証のやり様がありません。
しかし、123便調査の経験を通して、ニ・ニ六事件にも123便事件と同じ超国家的な巨大隠蔽の臭いを感じ取ってしまうのです。


 * * *


日産自動車がミサイル開発子会社を所有しているのは知られていますが、
トヨタ自動車が軍事用戦闘ロボット(米軍向)を既にタイで生産していることはほとんど知られていません。
昨年のタイ洪水の時、トヨタの工場内部の映像がほとんど出なかったことに気がつきましたか?
日本では全く報道されませんが、私が滞在していたフィリピンでは、堂々とニュースメディアで取り上げられていました。
フィリピンの方々は無邪気に「日本の技術力は凄い」と褒めてくださるのですが、私の心中は複雑です。
日本は再び、危険な道を歩もうとしているのではないのか。

今月、松下経産大臣自殺の一報がありました。女性問題に悩んだ上と言われてますが、国会議員5期目で、
70代の高齢現職大臣が、そんなことを苦にして自殺などするはずがないでしょう。
そんな脆弱メンタリティーでは、おそらく代議士当選すらおぼつかないはずです。
日本国民はそこまで頭が弱いと思われているのでしょうか?

自殺か他殺の結論はここで問うまでもなく、気にするべきは、政府の要職者が殺された時、
その後に何が続くかという予測です。図らずも、今回のテーマはその解答を導くための絶好の過去事例となってしまいました。
誰が日本をどこに導こうとしているのか、読者様には、事象の細部ではなく、ぜひ、大局を読み取っていただきたいと願います。

なお、T氏からは、「広島に原爆を投下したのはエノラ・ゲイ号ではない」など、
他にも驚くような証言を聞かされています。もう歴史の教科書を読むのが馬鹿らしくなるほどです。
これらについては、機会をみてまたご紹介したいと思います。


 身はいかに なるともいくさ とめにけり
 ただたふれいく 民を思ひて
           昭和20年 昭和天皇




この日月土氏は「昭和天皇」崇拝者、これが痛いねぇ。

いいとこ切り込んでおるのだが、惜しいですよ。



國周、二枚目、



「地名十二ヶ月之内 十月」 「遠藤武者 市川海老蔵」です。



鬼塚英昭さんが言うとこうなる、

◆http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/700.html
◎山本五十六の真実 ?鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密−2・26事件
投稿者: ♪ペリマリ♪  日時: 2011 年 11 月 30 日 8qHXTBsVRznh2

DVD『鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密』成甲書房より転載。


以下本文。 より抜粋、


これからは2・26事件について語ろうと思います。
2・26を追究して、いくらかでもその真実に近づけば、日本のこれからの未来のためにも役立ちます。
2・26事件というのは若い将校たちが叛乱を起したと。で、
その将校たちの叛乱を気に入らないというので天皇が怒り、数多くの将校たちが処刑されました。
しかし、これには裏があります。今、私が秩父宮と昭和天皇は父親が違うということを喋りましたが、
これは東久邇が喋ったことなんですね。

笠原和夫は広島のジャンク映画『仁義なき闘い』を初め、色々な芝居の脚本を書いて、
それでなお昭和秘録というようなものに挑戦して、2・26にも挑戦します。
しかし「2・26は映画になりきれなかった。書けなかった」と、彼は本の中で断念していますが、
それはそうなんです。あれを追究すると映画にはなり得ないんです。
なぜなら、あれは秩父宮が最初に仕掛けたクーデター劇なんです。これはもう他の人もみなさんご存知なんです。
ところが真相は、秩父宮がある時点で若き将校たちを裏切るんです。それで彼らは行き場を失うわけです。

秩父宮が安藤輝三(てるぞう)という大尉に話を持ちかけます。これはまちがいない事実です。
そして安藤は非常に冷静な男だったので断ります。しかし秩父宮は懐から懐中時計を出して
「俺の真意を汲んでくれ」と言います。それで彼がリーダー格となり、若い将校たちを仲間に入れます。
そして革命を起したときに、秩父宮は弘前に逃げます。
そして安藤に言います「弘前で軍人たちを募ってやって来るから」と。
それで安藤と仲間たちの将校は、秩父宮の言葉を信じて革命を起します。
しかしその革命はみなさんがご存知のように失敗します。なぜ失敗したか?
彼は途中で天皇の味方につくわけです。私はそう思ってます。それで失敗します。その結果どうなったのか?

結局2・26事件を起した連中は−それとその指導者たちは皇統派と呼ばれています。で、
もう一つ統制派というのがあります。統制派というのあは陸軍16期生というのがありまして、陸士ですね、
その中で1921年だと思いますが、10月にドイツのバーデンバーデンというところにある4人の男たちが集まります。
そういう連中がドイツに集まった所に、東久邇が裏で緒を引いて、結局そこから統制派というのが生まれてくるんです。
リーダーは暗殺された永田鉄山という男ですが、永田鉄山は途中で暗殺される。
これが一番優秀な男だったわけでありますが、その連中が東久邇と秩父宮にそそのかされて、
結局、日本をおかしな方向に持っていくわけです。で、日本はアメリカとソ連を敵対国とするんですが、
統制派というのはアメリカを打倒しなければダメだという。まあこれは大体のストーリイですけど。で、
皇統派というのはアメリカと戦っちゃいけないと、あくまで日本は敵を想定するならソヴィエトだということなんです。

これは大まかなストーリイですけど、そうした中で、みなさんご存知のようにゾルゲという男がいます。
ソ連のスパイをやった男です。そのゾルゲを尾崎秀実(ほつみ)というのと、
さっいいました西園寺八郎の息子の公一(きんかず)というのが、ゾルゲに秘密情報を流したというわけです。
どんな本を読んでもそういうストーリイです。しかしこれは西園寺公一と昭和天皇が兄弟であったと私は申しました。
西園寺八郎が妻に産ませたのが公一です。でその公一と昭和天皇は兄弟です。
昭和天皇は木戸幸一を通すんですけど、自分の弟の公一に、ソ連のスターリンに向けて発したい情報を伝えるわけです。
それを尾崎秀実という朝日新聞の記者が一緒になって、ゾルゲを却って誘惑するわけです。
ゾルゲにおべらかしやインテリ女を与えて、ゾルゲを懐柔します。
ゾルゲは女遊びをしてオートバイを乗り回してフザケた男ですけど、で、
公安はぜんぶゾルゲをチェックしますけど、天皇一族はゾルゲを野放しにします。

ゾルゲは日本の一番重要な情報をぜんぶ手に入れて、スターリンに渡します。
スターリンはそれを信じるわけです。だからスターリンは、日本がソヴィエトを攻めてこない
ということを知るわけです。天皇を初め統制派の連中ですね、永田鉄山が殺されましたから東条英機が首相になって、
アメリカを攻めるストーリイは最初から作られたということなんです。
戦争というものは必ずどこかで企みがあるものなんです。
昭和天皇が、1938年12月ですから大戦が一年前、これは木戸幸一の日記に出てきます。
木戸幸一にこういうことを言っています
「もう世界大戦は始まる。そして最後に勝つのはソ連とアメリカで、他の国は全部潰される。
日本も同じように潰される。だけど日本人は臥薪嘗胆して質実剛健を維持すれば、10年後には復活する」と。

これは見事に予言的中しているわけですよ。その一年後に第二次世界大戦が始まります。
真珠湾攻撃をちょうど一年後にやります。10年後というのはちょうど講和条約の時です。
だから考えようによっては、昭和天皇だけが日本のストーリイを全部知っていたんじゃないか、
ということになりませんか? 僕はそう思います。で、
戦争が始まる一年前に近衛が天皇に面会を申し込みます。天皇は拒否します。それで近衛が木戸に会います。
これもまた木戸日記にちゃんと書いてます。近衛はどういうことを言ったかと。

「お前は天皇に言え。いいか。海軍は二年しか石油がない、戦争をすれば一年半持てばいいけど、
まあ一年で終わる。陸軍は石油を一年分しか持ってない。この状態で戦争が出来るわけはない」
と嘆いて木戸の許を去ります。木戸日記に書いてあります「俺もそう思う。戦争すれば負けるワイ」。
これは木戸日記にはっきり書いてあります。

ところが実際は戦争は4年も5年も続いたじゃないですか。
石油のない時代は、最後の一年間くらいは石油が尽きたけど、石油はあったんですよある程度。
みなさんもご存知のように、ガダルカナルや何とかでいっぱい負けますけど、やっぱりあれは石油があったんですよ。
なぜ石油があったか考えてみたことありますか。これはですね、戦争の時にアメリカが「日本には石油は売らない」。
ところが「パナマ国籍の船ならば油を積んでいって日本に売っても、これは自分たちは攻撃できない」という理屈で、
日本に石油を間接的に売るわけです。本当なんです。
三菱が作った『昭和通商』という会社がそれを引き受ける。『昭和通商』と三菱は同じです。
それではマズイというので『日本水産』(注 白洲次郎は取締役)という会社が代行するわけです。
魚を運ぶということではなくて、魚の代わりに石油をパナマ国籍からもらって持って帰るので、戦争は長びくわけです。



『この事件の結果、どのように変化したのかを書いておきたい。
北進策をとる皇統派の将軍・将校たちが主流からはずれ、東条一派−あのバーデンバーデンで密約した一派、
東久邇宮と結ばれた一派−の統制派が軍の要職を占めるのである。統制派は南進策を主張する人々である。
秩父宮は、自らが天皇になろうとしてクーデターを起させた可能性大である。笠原和夫もその説をとる。
しかし、私は天皇と秩父宮が密かに結びつき、2・26事件を若手将校に起させ、
南進論一本にすべく行動したのではないかと思っている。』


『この1936年が日本のターニング・ポイントになるのである。
1936年、ゾルゲと西園寺公一と原田熊雄、尾崎秀実の暗躍。もう一つは日本共産党の野坂参三の動き。
これらと2・26事件が糸のようにもつれあって連動したことは間違いないのである。
2・26事件以降、天皇により軍紀がひきしめられる。天皇はその役を東条英機に命じ、
陸軍大臣から首相に任命する。東条英機は佐藤賢了中将を軍務局の要職につけ南進策を推進させる。
太平洋戦争への道である。』


『天皇は皇統派を一掃し、統制派を参謀本部に配し、ついに自らの住む御文庫の中に彼らを入れて
太平洋戦争に突入するべく机上演習を始める。誰ひとり天皇に逆らえる者ない、であった。
この机上演習の中から、真珠湾攻撃とシンガポール攻撃が登場してくる。
そのために一番役立ったのがヴェルサイユ会議で日本に与えられた、委任統治権であった。
天皇は太平洋戦争の前から、闇の権力者たちが創作した、世界のグランド・デザインをどうやら知っていたらしい。
近々日本が「非常に苦心せざるべからざる環境に置かれる」とは、戦争以外のなにものでもない。
大戦後に、まさしくアメリカとソ連が世界を二分する大帝国となることも知っていたらしい。
それにもまして「十年を覚悟し」さえすれば、「有終の美を挙ぐる」とは、
敗戦後五年で、1950年に講和条約ができ、日本は再び独立国となる、ということであろう。
そのために、一年後に戦争に入るべく努力をしているのだ、と天皇は語っているように思える。』


『その裏に見え隠れするのは、「木戸よ、このようにして日本を導かなければ、
天皇一族の運命が風前の灯となるのだよ。お前も協力してくれ」との天皇の哀訴である。
大室寅之祐の代から天皇に仕えた木戸孝允の孫の木戸幸一は、
「天皇と一蓮托生の命である」と答えたのではないのか。天皇はあるルートから、
一枚の極秘文書を渡されたと私は考える。その文書に木戸に語っていた内容が書かれていた。
「有終の美を挙ぐるは困難ならず」とは、「敗北しても、天皇の命は保証され、国体は護持する」
との確証を得たとのことではないのか。日本の国民の民草に天皇が思いを馳せる素振りをするのは、
「終戦の詔書」の中だけである。それも見せかけ以外のなにものでもない。』


『天皇が脅されてなんかいなかったと思っている人が多いであろう。
私はルーズヴェルト大統領も、チャーチル首相も、スターリンも、
闇の支配者たる国際金融資本家たちのグループに脅され続けていた、と書く。天皇においておや、である。
まことに日本は国際決済銀行(BIS)により、利益追求システムの中に組み込まれ、
ついに必然的に戦争状態の中に入っていく。戦争は巨大なマネー・ゲームである。
ヒトラーもスターリンも、それを知り尽くしていた。
ルーズヴェルトとチャーチルはマネー・ゲームをさせられていたのである。
天皇が仕掛けた南進策は、巨大なマネー・ゲームの創造であった。
この面を考察しないから、私たちの日本史は欺瞞だらけのエセ日本史となっている。』



それで戦争を始めるように仕組まれてるわけですよ。
僕がいちばん日本人の作家たちが書いた本を読んで情けないと思ったのは、御前会議ですけど、
次の日にはもうアメリカは内容を全部知ってます、これは吉田茂が樺山愛輔に流し、
樺山愛輔がグルーのところに持って行って、グルーが電報で打って全部次の日には・・・
グルーも『回想十年』で書いてます。「ヨハンセン・グループにもらって全部やった」て。
まあ後に翻訳されますけどね。まあ僕は昭和史を読んでて「悲しいなあ」て思ったのは、
昭和天皇が御前会議の席上、戦争をやれというとき「分った」と。で、
杉山元(はじめ)という参謀長に言います「勝てるか?」。「勝てるかどうかはやって見ないと分りません」。
すると天皇はみんながシーンとしている時に
「四方(よも)の海みな同胞(はらから)と思う世になど波風の立ち騒ぐらん」と読んだ。で、
それが戦後になって昭和天皇が戦争に反対した証しだとか、
昭和天皇は戦争に責任がないという一番の証拠にされるわけです。
この歌を以って反戦の歴史学者もみな賛成するわけです。



この歌は井沢匡(ただし)というドラマの脚本化が書いたり小説書いたりするのがおりまして、
この人は『維新・明治天皇伝』というのを書いています。この中でこの歌は、
西南戦争の時に天皇が西郷隆盛を偲んで詠んだ歌だとされてんですよ。
飛鳥井雅道(あすかいまさみち)という歴史学者も、井沢説と同じなんですよ。
まあ一部は違いますけど。『日露戦争』というのがあるんですけど、
これは西南戦争の時に「やっとこの世の中で幸せが来ると思ったのに、
自分を助けてくれた西郷は死んでしまった。何と悲しいことだ」という歌なんですよ。
「四方の海みな同胞」というのは、「四方の海」は四つの海で四海、「同胞(はらから)」というのは
「同胞(どうほう)」なんですよ。「四海同胞(しかいどうほう)」ということなんで、
「四海同胞」とは僕たちは簡単に言いますけど、これはずい分前から「同胞(どうほう)」というのは結局、
部落民を指す言葉なんです。あんまり良い言葉じゃないんです。
天皇のような貴きお方が喋る、歌にするような文句じゃないんです。


足利尊氏が室町幕府を作りますが、その時に負けた楠とか新田の一族が「散所(さんしょ)」
「別所(べっしょ)」というんですが、閉じ込められるんですよ。一定の場所に。もう反乱を起さないように。で、
それで彼らは部落民になるわけですよ。楠一族とか新田一族は部落民になるわけです。
その時に四海同胞衆というのが、彼らの世界から生まれてくるわけですよ。
閉じ込められた人間が解放されたと言って、で、そこから坊主になって解放される道があると言って、
坊主が沢山生まれてきます。そういう意味なんです。だから明治天皇がこういう風に
「俺たちは部落民としてガマンしてきた。四海同胞市民として生まれてきたけど、
やっと迎えられたのに西郷は死んでしまった」という歌なんですよ。
それを「日露戦争の時に明治天皇が作った」という歌にして、それはそれでいい。
戦意高揚の歌だったんですよ。八紘一宇の代表的な歌として、ずーっと歌われてきた。で、
戦争前まではそれで筋が通ってきた。色んな人がこの歌を、
子どもたちの教科書に載っている歌でさえ(戦意高揚の歌として歌ってきた)。


戦争が終わって一部の軍人たちが「反戦の歌を詠んだ」となると(今度は)ずーっとそうなるわけです。
何と情けない話じゃないですか。今でも、そのさっき言いました秦とか、そういう連中はみな、
この歌を以って「昭和天皇は反戦の意を唱えたけれど、軍人たちは天皇の意に反して戦争をしたんだ、軍人たちがけしからん」
ということで、第二次世界大戦の総括をやっているわけですよ。で、その意に逆らう歴史家は未だにいません。
私は一人だけ逆らってますけど。どうかみなさんも真実を知って、
簡単に人の言うことを、権威者の言うことを信じないでください。これは大事なことなんですよ。

以上転載。  



國周、三枚目、



「十二ヶ月花合 十月 紅葉」 「郷衛門 市川左団次」です。



こんな話もある、

◆http://toshiaki.exblog.jp/
古川利明の同時代ウォッチング
◎2012年 09月 26日


#何や、ハシスト、フリーのブンヤの山岡俊介が開設しとる有料ブログの、
「9・26」の23:50upの記事に、まだ、大阪府チジになる前だろうなあ。
「ヤクザの共生者」と一緒に本を出しておって、そのツーショット写真もバッチシ載っておるやないか!
その「共生者」っていう物言いは、ワシもよう知らんかったんだが、
ヤクザに名義貸しをしたりして、要は、ニコイチ(「二人で一人」、とても仲が良い友達同士)になっておる、
名目上はカタギの人間ってことかよ。
そのハシストがツーショット写真で載っておる相手ってのは、
菱本家は最大主流ハバツである弘道会の、かなり上の方の共生者かあ。
東京でジム所を借りるときとか、名義貸しをしておったってのかよ。
でも、ヤクザっていうか、その周辺の人間も含めて、当時は、ハシストは弁護士が本業だったんだから、
そのスジでの「顧客」であっても、おかしくはねえんだよなあ。
だって、ヤクザの弁護を引き受けたらアカンってことは、ねえからなあ。
ただ、その対談本ってのが、どんな内容なのか、それは興味あるな。
その共生者とやらは、自分が弁護を引き受けた仕事カンケイとも違うのかよ? 
まさか、あの文春に書かれた以外にも、まだ、オンナのハナシがあって、
それでカネをせびられておるって、ねえだろうな?


#で、明治大学の生田キャンパス内(最寄りは、小田急線生田駅)に、
「平和教育登戸研究所資料館」ってのがあるんだが、コレが超オモロイ。
無料で一般公開されておる(詳しくは、大学のHPからアクセス!)

看板に「平和教育」と掲げておるんだが、ワシも現地に行って、初めて知ったんだが、
ココは戦前、陸グンのヒミツ研究キカンである、あの「登戸研究所」だったってんだな。
この「平和教育」の名を冠した資料館において、かつて、「そこ」で行われておったことを、
余すことなく紹介しておって、「あー、『真の平和教育』ってのは、こういうもんだな」と思ったで。
なぜなら、何よりまず、「事実を知ること」だからだ。
行くと、冊子が貰えたんだが、コイツが資料としてよくまとまっておる。
たまたま、ワシが行ったとき、団体の客がおって、ガイドさんが説明しておったんだが、
事前に頼めば、「1名様」からガイドが付くんだそうだ。
せっかくなんで、一緒になって聞いたんだが、展示室は、全部で5つあるんかいなあ。
それぞれにテーマがあって、その登戸研究所の歴史から始まって、
そのソシキ機構の様子、それから、各セクションで、どんな研究をヤッておったかを、
つぶさに紹介しておる。
「百聞は一見にしかず」っていうか、風船バクダンの10分の1の模型とか、
ニセ中国札のレプリカとか、イッパイ、展示してあって、
連中がヤラかしておった「ボー略コーサク」の一端が、よう見えてきて、オモロかったあ。
「軍事オタク」にとっては、いいヒマ潰しになる(笑)


#「上」の続きで、オモロかったのを、少し紹介すると、
「第2展示室」が「風船バクダンと第1科」となっておって、この陸グンの登戸研究所ってのは、
全部で「4科体制」だったんかいなあ。そのうちの「第1科」が、
「風船バクダン」の製作を命じられておって、実際に、完成させて、亜米利加大陸まで到達し、
本格的な攻撃では使われんかったものの、オレゴン州で、知らんで触った向こうの妊婦かいなあ。
その不発弾がバクハツして、死者が出ておったらしい。

風船バクダンといって、笑うことなかれ。見かけはチャッチイかもしれんが、金属を使わんから、
相手のレーダーには引っかからんし、搭載する"バクダン”について、既に、
ニッポン軍は、「牛疫ウイルス」っていう生物兵器を完成させておったってんだよな(**)

この牛疫ウイルスってのは、バクハツしたら、50m先の牛まで感染するってことで、
釜山で行った実験では、「投与した牛がすべて、10日以内に死んだ」ってんだよなあ。で、
気球は上空約1万mんところを、偏西風に乗せて飛ばすんで、そこはマイナス50℃になるんで、
粉末化させ、フリーズドライにしたものを既に作っておって、「風船バクダン」に付けて、
「あとは、亜米利加の牧畜地帯に向かって飛ばすだけ!」っていうところまで完成しておったんだそうだ。

でも、そのジュネーブ条約かあ。「先制攻撃による、化学&毒ガス兵器の使用」はNGだったんだが、
「報復使用はOK」なんだそうで、「もし、報復攻撃で、ニッポン本土にバラ撒かれたら、かなわん!」
ってことで、中止にしたんだそうだ。で、こうした風船バクダンを正確に飛ばすには、
「気象」について調べ上げんとなんで、それで、「偏西風の存在」なんかは、ココで解明したんだそうだ。


#さらに続きだが、ニッポンのボー略研究キカンってのは、優秀っていうんかいなあ。やっぱ、
「毒サツ」ってのはチョー重要で、この登戸研究所で完成させた「それ」ってのが、
「青酸ニトリル(アセトンシアンヒドリン)」なんだな。
コイツは青酸カリをベースに開発したんだが、コイツは液体で、揮発性が高いため、
冷却しておく必要があるんだが、無味、無臭、無色、水溶性で、暗サツ用に使いやすいよう、
「チョット、時間が経ってから、効く」ってのがミソなんだな。
投与して、すぐ、効くと、「あー、毒を盛られたんだな」ってバレてしもうからな。

で、この青酸ニトリルっていえば、あの「帝銀ジケン」だよなあ。
あの帝銀ジケンで使われた毒ってのは、発症からチシに至る様子が、まさに、
この青酸ニトリルとクリソツだったんだよな。ところが、実際には、平沢貞道が、
「青酸カリを飲ませた」ってことで、ピャーッとして生贄として、死刑ハンケツが確定しておったんだが、
既に、いろいろと指摘はされておるが、アソコで使われたのは、
登戸研究所でカイハツされた「青酸ニトリル」に間違いない。

だから、G2傘下のキャノンの連中が、たぶん、陸グンの中野学校の残党とか使うて、どうせ、
「ワシらもカネが欲しいんだから、いっちょ、それで軍資金をかっさらってこい!」の世界だよなあ。
ちなみに、この青酸ニトリルについては、アンプルに封入されて低温保存され、当時、
ニッポン軍の支配下だった中国の南京病院で人体ジッケンされたってんだから、
胡錦涛も、そんな尖閣がどうのこうので騒ぎ立てるんでのうて、「コイツ」でもっと
野田のクビをジャンジャンと締め上げんとだよなあ(笑)

ハナシを戻すと、この明大の平和教育登戸研究所資料館がオープンしたのは、おととしなんで、
まだ、最近のことなんだな。地元の川崎市で、
そうやって「戦争体験を語りつぐ」っていう市民運動の歴史があって、
それとリンクした高校生らによる「平和ゼミ」の活動で、「そこ」に務めておった人たちに、
粘り強く接触しているうちに、関係者が重い口を開いたんだそうだ。
その「青酸ニトリル」のハナシは、まさにそうで、
まだ目の曇っていない、高校生の熱意が、「それ」を引き出したともいえるのではないだろうか。
まだ、ココは、ほとんど知られておらんと思うんで、興味のある人は、ぜひ!



ご参照、

☆http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/35731128.html
Ddogのプログレッシブな日々
◎?『GHQ知られざる諜報戦 
   副題:新版ウィロビー回顧録 C.A.ウィロビー/著(山川出版)』を読む その1

(一部)

ウィロビー少将はゾルゲ事件を丹念に調査し日本と米国に張り巡らされたソ連の諜報組織の壊滅にも尽力した。
GHQ内にもぐりこんだニューディーラーを装ったソ連に同調する職員を多数炙りだし排除していった。

また、少将は正確無比な戦前のゾルゲのスパイ活動を知ると、
ゾルゲ事件ソルゲ一昧に対する調査に少将は多大な関心を持った。少将は直接、この事件を調べることにした。
カウンターインテリジェンスとしてG2の総合特殊作戦本部(JSOB)直属行動部隊「Z機関」
(通称キャノン機関)を開設し、その長として活情報将校ジャック・Y・キャノン中佐(当時は少佐)を充てた。

キャノン機関は中野学校OBとも接触があり、松本清張は「日本の黒い霧」で下山事件で犯人としているが、
共産主義者の巣窟国鉄を合理化しようとする下山総裁を反共の立場を取るキャノン機関が謀殺することはありえない。

ありえるとすればG2・キャノン機関と対立するGS側で
トルーマンとも気脈が通じたOSSから改変したばかりのCIAが
キャノン機関傘下の亜細亜産業に近づき引き起こしたように私は思える。



「闇は深い」のですよ。







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