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空は秋?

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 画は 歌川 広景 (うたがわ ひろかげ)

 生没年未詳

 【画系】初代廣重門人、【作画期】安政〜慶応
 歌川を称す、「江戸名所道戯尽」あり。         作


  「江戸名所道戯盡」 「三」 「浅草反甫の奇怪」です。


☆快晴、気温上昇中。

今日は白露、二十四節気 : 処暑→白露→秋分 二十四節気の一つ。

旧暦八月(葉月)の節気。 大気が冷えて来て、露が出来始める頃。

だそうですが、その気配まるでなし。

まずは、

◆http://blog.goo.ne.jp/tarutaru22/e/5f475c617f42064e0c4eb2ec6ba6fb30
暗黒夜考〜崩壊しつつある日本を考える〜 2012年09月06日
◎あと数年で6割の原発の使用済核燃料プールが満杯に
 〜「トイレ無きマンション」の悪夢から目を覚ますべし〜


今回取り上げるテーマは、昨日に引き続き東京新聞記事による
「使用済み核燃料プールの空き容量が残り僅か」という、
原発の抱える”深刻かつ根本的な問題”についてである。

以前のエントリーにてコメントしてきたとおり、
高速増殖炉『もんじゅ』も『六ケ所村』の使用済み核燃料再処理工場も、
これまで長年に亘って巨費を投じながらも、未だに「試験段階」であり、
相次ぐトラブルで中断を繰り返している”無用の長物”である。

即ち、国策としての原子力発電とセットで推進されている「核燃料サイクル」の実現など
”夢のまた夢”と断じてよい話である。

今回の東京新聞記事によれば、日本全国の原発54基のうち、実にその60%にあたる
33基の使用済み核燃料プールが満杯になり、数年後には行き場を失うというのであるから、
未だに「原発推進」を平然と唱える政府・官僚・電力会社やこれに与する
”御用学者” ”御用評論家”らが如何に浅はかであり、無責任であるかがわかるであろう。

これは何も今回の東京新聞記事で初めて明らかになった話でも何でもなく、
フクシマ原発事故以前より一部で「トイレの無いマンション」と揶揄されてきた話である。

”原発利権ムラ”の連中は、これまでこの「不都合な真実」に目を瞑って原発を稼動させ続け、
フクシマにおける甚大な原発事故を引き起こした今尚、この「不都合な真実」に触れることなく、
「原発を止めれば電気代が高くなる」 「日本の工場が海外に逃げてしまう」といった
デタラメな”脅し文句”を繰り返しているのである。

ハッキリ言って、この連中どもは”犯罪者同然”と断じてよいであろう。


ここで以下の2つ目の記事にある産経新聞記事を目を向けると、日本の現状には一切触れず、
お隣の韓国において2024年までに中間貯蔵施設が容量オーバーになると報じているが、
これを読んで感じるのは、今回の東京新聞とは対照的に、
韓国における「核燃料プール満杯報道」をおこなう産経新聞は一体どこの国の新聞なんだろうか?
ということである。

「自民党〜統一教会」に繋がるその系譜より、
「ああ、母国たる朝鮮半島の新聞か」と言ってしまえば元も子もないが、それはさておき、
産経は曲がりなりにも日本の主要五紙の1つと言われているものだけに聞き捨てならない話である。

東京新聞の記事を読むと、対比的に主要五紙(読売・朝日・毎日・産経・日経))のデタラメぶり
が見えてくるのであるから世も末であると言ってよいであろう。


本題に戻るが、エネルギー政策の観点以前に、全ての原発を止めても余りある
火力発電等のバックアップが確保されていることは、ここ最近何度も述べてきたとおりであるが、
それでも尚「当面は原発に頼らざるを得ない」というご意見の方に聞きたい。

「このまま原発を継続運転して、もはや保管場所も捨て場所もない
使用済み核燃料をこれ以上増やしてどうするつもりなのか?」と。

更には、「原発が、”原発ジプシー”と呼ばれる社会的弱者の生命・健康被害という、
”残酷”な犠牲なくして維持できない事実をわかって原発推進を口にしているのか?」と。

フクシマ原発事故が起きるまでは、正直、小生も原発のことなど何にも知らないも同然であった。

そして、何気(なにげ)に原発にて発電される電気を消費してきたことは紛れもない事実である。


しかし、フクシマ原発事故による甚大な被害を目の当たりにして、原発というものが如何に
”利権”に塗れた産物であるかをハッキリと認識すると共に、様々な情報・事実を調べるうちに、
本当は原発などなくとも日本の電力需給上、何の問題もないことに気づいた次第である。

今、原発維持を声高に叫んでいる勢力は、”原発利権”の甘い汁の味が忘れられない「原発中毒患者」か、
原発保有による”擬似的””潜在的”な「核の抑止力」に魅入られた連中である。

大手マスゴミが連日垂れ流し続ける”偽情報の洪水”に惑わされることなく、
連中の”真の思惑”を見抜くことが何よりも肝要であろう。


_______________________________________________

☆http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012090490070327.html
東京新聞 2012年9月4日
◎核燃料プール 数年で満杯 6割が運転不可に

全国の原発五十基のうち約六割の三十三基が、数年間稼働させれば使用済み核燃料プールが満杯になり、
動かせなくなることが、各電力会社への取材で分かった。新たに中間貯蔵施設を造るには十年はかかり、
使用済み核燃料を再処理しても、核のごみは減らず、
再生される混合酸化物燃料(MOX燃料)は使う計画がない。原発の抱える深刻な問題がはっきりした。

本紙は、原発を保有する九つの電力会社と日本原子力発電(原電)に、
各原発のプールの空き容量のほか、一年(通常、原発の定期検査の間隔は十三カ月)ごとの
核燃料交換の実績値を取材。そのデータから、各プールがあと何年で満杯になるかを計算した。

これまでプールの空き容量は三割強あり、当面は何とかなるとされてきたが、
個別に見ると状況はもっと厳しかった。

東京電力の福島第一5、6号機(福島県)や柏崎刈羽6、7号機(新潟県)は既にほぼ満杯。
同社と原電は共同出資して青森県むつ市に中間貯蔵施設を建設中だが、まだ完成していない。
仮に完成しても、六年ほどでいっぱいになる。

中部電力浜岡3、4号機(静岡県)、関西電力美浜1、2号機、大飯1、2号機、
高浜1、2号機(いずれも福井県)などは一〜三年分の空き容量しかない。
新しい号機のプールは比較的余裕があるものの、ほかの号機の使用済み核燃料を受け入れると
五年前後で満杯になってしまう状況だった。

東電と原電以外は、再処理工場(青森県六ケ所村)の貯蔵プールを活用したいところだが、
既に97%以上が埋まっている。中間貯蔵施設を新設することも考えられるが、
むつ市の事例も計画からほぼ完成まで十二年を要しており、とても各原発の厳しい状況には間に合わない。

十二年分以上の残り容量があるのは、北海道電力泊3号機(北海道)、四国電力伊方3号機(愛媛県)、
九州電力川内1号機(鹿児島県)の三基だけだった。


<使用済み核燃料> 
原発は定期検査ごとに原子炉内の核燃料をすべて取り出し、
4分の1から3分の1程度を交換し、
再び炉に戻される。交換作業が問題なく進むよう、
使用済み核燃料プールには1炉心分強の空きスペースが必要とされる。
使用済み核燃料といっても長期間、放射線と熱を発し続けるため、
貯蔵プールでの継続的な冷却が欠かせない。

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以前にも書いておりますが、「核の抑止力」は幻想ですよ。

そもそも、使えない、のだから。

地上戦で使用したら、北半球全滅、人類が住めなくなるそうです。

いかにキ印共産支那が威嚇の手段にするにしても、使えばいづれ、支那大陸も汚染確実。

一番危険なのがレイシスト「米帝」、 広島、長崎、3.11、と使用を躊躇しない893国家です。



広景、二枚目、



「江戸名所道戯盡」 「五十 終」 「浅草歳の市」です。



◆http://blog.goo.ne.jp/ikariyax/e/383f1ce8e49e188ad551c5e2b6217624
いかりや爆氏の毒独日記 2012-09-06
◎カジノ考・・・ラスベガスの凋落

より抜粋、

明け烏:

カジノ考(1)

話では聞いていたがラスベガスというのは、まさしく砂漠の中の孤島であって、客を惹きつけ逃さぬように、
男の大好きな「酒」「博打」「女」がすべてそろっている。
さすがにマフィアの切れ者であったバグジー・シーゲルが考えただけのことはある。
料理は私にはあまり美味く感じられなかったが、とにかく豪華なディナーが無料のような値段で食べられ、
またシナトラ・ファミリーのメンバーが公演をうつためショーの充実は世界一であろう。

その後、私が行かなくなってからも数々のテーマパークが出来て脚光を浴びるわ、
世界のトップボクサーを集めて素晴らしい試合を組むわとあの手この手で客集めに抜かりがなかったそうである。

カジノ考(2)

当然、ラスベガスの盛況によって全米中から働き口を求めてネバダ州に集まってきて
リーマンショックまではネバダ州は人口は増え、沸き返るような景気であった(らしい)。
アメリカでの産業空洞化は日本以上であるから就業できるといえば
カジノやテーマパークのサービス業しかないから、さもありなん。

ところがリーマンショックから始まった不景気によって
さすがのラスベガスもあれこれサービスを工夫しても客が集まらなくなり、解雇された従業員は
ネバダ州を離れざるを得なくなったため土地や住宅の値段も暴落しているという話である。
どんなサービスや特典を与えようとも不況の前には太刀打ちできないという当たり前の話であるが、
人間は困れば困るほど大局が見えなくなって細部の工夫にふける傾向があるようだ。

ここで話を大阪にふる。
大阪のドブ川(例えば猫間川)のほとりに特区をつくりチマチマしたカジノを建てたところで
客が世界から押し寄せると皆さんは本気で想像できるであろうか?
どうせ小役人の出したアイデアによるせせこましいシステムになるのは眼に見えているのだ。
またショーには誰を呼ぶのか? ドサ廻りの演歌歌手でも呼ぶつもりなのか?
「女」の手配はどうするのか?
勝った客は特区を出て、その辺りのキャバクラやソープランドへでも行けというのか?

カジノ考(3)

大体、人を楽しませることの極を究めたラスベガスに客が集まらなくなってきているご時世に
大阪の片田舎に小さな博打場を作って人を集めようという発想が貧困であるし
大いなるアイデアの枯渇である。こんなことを公約にしている政党が出てきそうなことを
我々は悲しむべきときなのだ。 仮に無理やり、やったところで三年とはもつまい。

さらに言いたいことを言わせてもらえば
「祭りごと、ないしはイベントによって人が集まって景気がよくなる」
という発想自体に間違いがあるのではないだろうか。

四捨五入していうのならば本邦において「イベント」が景気を引っ張った(ように見えた)のは
「大阪万博」だけであったと思う。
私は「大阪万博」と日本の高度経済成長の爛熟期が重なったがゆえにああいう奇跡が起こったと考えるが、
日本人の頭の中に「イベント」をやれば景気が回復するといった誤った概念を植えつけたように思われる。

これが誤った概念であったのは、「大阪万博」以来の数々の第三セクター事業、
長野五輪、沖縄博、港Y150,村おこし町おこしの祭礼などがことごとく失敗に終わっている
ことで容易に察せられることだろう。

今こそ発想を転換すべきであるにも拘らず「大阪万博」の成功体験に凝り固まった
骨董品的ブレーンの言うがままに「特区でカジノ」などと叫ぶ
どこかの首長の政党に票を入れて躍進させると地獄の二丁目をみることになると危惧する。  


いかりやの感想:

ラスベガスと言えば、昔メキシコ・マサトランへ出張のときに出会った
ハーレーダビットソンを乗り回していた男を思いだした。
ラスベガスの凋落で彼の仕事はうまく行っていないかも・・・
「ハーレーダビッドソンに乗る男」 http://blog.goo.ne.jp/ikariyax/d/20091016

庶民の収入を激減させてしまった後では、どんなに人を楽しませるイベントであっても、成功しない。
政治家や経済学者エコノミストたちが、どんなに立派な経済対策を喧伝しようとも
サプライサイドの経済対策ではすべて空振りに終るだろう。
アメリカに金を貢ぐことを止めて、若者たちと庶民に金を配ることである。

収入が激減しているのに、消費税増税をするとはバカとしか言いようがない。
それに同調した自民と公明までが、そしてマスゴミ、無論財務省など、
どうしてこんなにバカが揃いも揃ったのだろうか。

庶民は金がないのに、イベントが盛り上がるわけがない。



広景、三枚目、



「江戸名所道戯盡」 「廿六」 「五百羅漢さゝゐ堂の景」です。



◆http://toshiaki.exblog.jp/
古川利明の同時代ウォッチング
◎2012年 09月 03日


#で、今朝(=9・6)と昨夕の各紙に出ておった、
市ヶ谷の新型ヘリ「UH-X」のカイハツを巡って、
不正があったとして、東京チケン特捜ブが、請負先の川崎重工etcに対して、
ガサ入れに入っておったっていうハナシなあ。

ハナシを整理するとだな、たぶん、きちんとした公式発表はねえんだろうなあ。
まず、ガサ入れにあたっての「戒名」だが、毎日と日経は「刑法の談合罪」、
ヨミと産経は「官製談合防止ホウ」と、ビミョーに違うんだな。
結論から先に言うと、スジとしては、後者の官製談合防止ホウの方だと思う。

03年1 月施行の官製談合防止ホウってのは、
刑法の談合罪(前は第96条の3だったが、今は第96条の6)の特別バージョンで、
官発注の公共事業における談合でも、ヤクニンが
「あからさまな談合の指示や、受注業者の指名、予定価格の漏洩etc」に関与しておるアンケン、
つまり、「官主導の談合」に適用するもので、
最高刑が「懲役5年」と、刑法の談合罪(同3年)より2年も重いんだな。

もちろん、通常の刑法の談合罪も適用デキんこともねんだが、
こっちは、むしろ、「業者主導による談合」だろうなあ。
その際、ヤクショ側からの最低入札価格のリークは必要なんだが、それさえわかれば、あとは、
ギョーカイのドンが仕切るわけで、一昔前だったら、大林組の平島栄とか、
そういう実力者が幅を利かせておったもんなんだがな。使い勝手としては、
今度のような「ヤクショ主導の談合アンケン」に関しては、官製談合防止ホウの方がエエんだろうなあ。


#「上」の続きだが、ぬあんて言ったらエエんかいなあ。たぶん、今朝(=9・6)の東京シンブンの記事は、
無署名だが、ココまで書けるのは、半田滋のオッサンしかおらんと思うんだが、
そもそも、ぼーエイ産業ってのは、チョー特殊で、納品先が市ヶ谷しかねえことと、
そうやって、カイハツ&生産に当たれる業者が、ごくごく限られておるんだよな。
おそらく、ヘリに関しては、川崎重工と富士重工の2社ぐらいのもんぢゃねえんかよ。
ぼーエイ産業は、そうした「棲み分け」がハッキリしておって、
受注の大枠も、各社、「天下りの受け入れ人数」ってことで、「システム」で、
そもそも最初から、ガチガチに決まっておるからなあ。
ちなみに、この天下りの扱いは、チョー官カンボーの「ヒショ課」だ。

で、今回は、その「ギホン(=技術研究ホンブ)」が舞台になっておるんだが、そうやって、
兵器メーカーとギホンってのは、研究段階から、超ズブズブで、「ニコイチ」でヤッてきておるんだからさ。
今さら、「テメエ、それは官製談合だろ!」と言われても、だって、連中にしてみりゃ、
真っ昼間から、公園や海岸で、服脱いで、公然とスッ裸になって、抱き合っておるようなもんだから、
「今ごろ、そんなこと言われても困ります」だよなあ。

で、今度の新型ヘリのUH-Xってのも、既に川崎重工がカイハツし、実用化しておった「OH-1」の技術を使うて、
その「後継機」っていう位置づけなんだろ。ただ、OH-1は、その購入価格が「1機24億円」と、
世界一のチョー異常な高価格になってしもうたんで、
当初の見込み数の半分以下の「32機」で打ち切ったってんだよな。
だから、市ヶ谷にしてみても、そうやって、ズブズブの仲でヤッてきて、
当初の納入予定数を下回ったことについて、川崎重工に対して、「負い目」があったってんだな。
川崎重工にしてみれば、カイハツ段階から、カネも人も出して、手間隙をかけておるんだから、
「ぬあんとか、してよ!」っていう思いは、当然あるだろう。


#さらに続きだが、ワシは、別に川崎重工の肩を持つワケではないんだが、今回のアンケン、
「官製談合だ!」と言われれば、「その通りです」としか言いようがねえんだが、
もっと、大局的な観点から見た場合、今度のUH-Xの原型となっておるヘリの「OH-1」なあ。
確かに、開発費も食って、購入単価も異常に高いんだが、
「性能&使い勝手」は、実際にはどうだったのか。「そこ」の検証は、あっていいと思う。

っていうのは、こうしたぼーエイ備品の購入ってのは、「国産vs輸入」の図式があって、
大本において、「国産維持による、ニッポンの技術力up」っていう側面は大事だからな。
輸入にすりゃ、安上がりになるのは、わかりきってるんだからなあ。

だから、今回のOH-1、ほいで、UH-Xのカイハツが、ただ単に、
「メーカーが、市ヶ谷からカネを毟り取るために、ダラダラとヤッておるもの」なのか。それとも、
今後、「民間転用」というところも見据えて、「いいものを作り出そうという、志」
といったものが、あるのか。そのへんは、きっちり見極めるべきだという気がする。
陸自のヘリってのは、今度の「3・11」のように、災害救助用にも出動するからな。

しかし、ただ、官民癒着で、ダラダラとヤッておるっていうだけで、
あの「空飛ぶ棺桶」こと、オスプレイみてえな代物だったとしたら、
そのギホンに在籍しておったっていう、ギワクの陸自の佐官級カンブかよ。
関与がどうなっておるのか、現段階では不明だが、しかし、カンケイシャの身柄を取るべきだろう。


#まだ続くが、確かに、今度のケース、「官民癒着で、ケシカラン!」といってしまえば、それまでなんだが、
そんなこと言ったら、3ダイヤ重工が入って、亜米利加サマから押し付けられておる、「F35」だよなあ。
それに比べたら、こんなもん、屁みてえなハナシだと思う。
ましてや、今回、そのFX(=次期戦闘機)に決まった(っていうか、「亜米利加サマに決めさせられた」)、
F35については、「ライセンス生産」ですら、ねえんだよな。
要するに、3ダイヤ側は「国産による自主カイハツ路線は、もう、諦めました!」って、
白旗を上げたってことだからな。

腐れケンサツだって、コレまで山田洋行とか、周辺のどうでもエエ雑魚ばっか、狙い撃ちして、
ホンマ、一連のギワクの本丸である、3ダイヤ重工だわなあ。
タッコーかよ、イッパイ、ヤメ検連中も抱え込んでおるから、MDにしても、 F35にしても、
あんなガラクタのカイハツ生産を、亜米利加サマから、それこそ、
「官民一体の癒着!」で受注をゲットしておっても、誰も叩かんから、
ったく、のうのうとしておられるよなあ。



◆http://blog.tatsuru.com/2012/09/02_1232.php
内田樹の研究室 2012年09月02日
◎アメリカ抜きの日本外交はありうるか?

沖縄タイムズから「日本外交は対米従属から抜け出せるか?」というお題を頂いた。
許された字数が1200字なので、とても書ききれない。
問いに対する答えはもちろん「No」である。
そもそも日本外交が「対米従属である」と思っており、
それを「何とかしなければいけない」と思っている人は日本の外交政策の決定過程には存在しない。
存在しないのだから、「アメリカ抜きの日本外交」が構想されるはずがないし、実施されるはずもない。
構造的に「そのことについて考える」ことが禁じられているのである。
一国の外交戦略について、これほどの抑圧がかかっているのは歴史的に見ても例外的な事例であろう。

独仏は普仏戦争から70年間に3回戦争をして、延べ数百万人の同胞を犠牲にした。
独仏国境に「満目これ荒涼惨として生物を見ない」惨状を見た両国民が
「もう戦争をしない」ために手作りした同盟関係がEUである。
誰に強制されたわけでもない。
両国民がその主体的意思に基づいて「もう戦争をしないために手作りした」関係である。
ということは、絶えず「次の戦争」を回避するための手立てを尽くしているということである。
それが日米関係との決定的な違いである。

日米同盟は「もう戦争をしない」ために日米両国が手作りしたものではない。
アメリカが日本に「もうアメリカを相手に戦争をさせない」ために与えたものである。
それ以外の選択肢が許されなかったために、日本は戦後一貫して日米同盟基軸の外交を展開している。
だが、これは日本国民の主体的決意によるものではない。

現在67歳以下のすべての日本国民は、自分たちが安全保障についても、国防構想についても、
「アメリカの許諾抜きで」政策を起案できるという可能性は「ない」
ということが常識とされる環境に、生まれてからずっと暮している。
属領に生まれた属領の子たちである。
それが「自然」だと思っている。
それ以外の「国のかたち」がありうるということを想像したことがない。
というか想像することを制度的に禁じられている。

日米同盟基軸という外交戦略が選択肢として適切であるかどうかという「合理性」問題と、
それ以外の外交的選択肢を構想するために知性を行使する自由があるかどうかという「権利」問題は、
別の次元に属している。
日米同盟基軸という外交戦略は、日本の国益を勘案した場合、きわめて合理性の高い選択肢である。
けれども、「それがきわめて合理性の高い選択肢である」ということと、
それ以外の選択肢を吟味することが制度的に「禁じられている」ということは論理的には繋がらない。

私が会った限りの政治家や外交専門家で、
「アメリカ抜きの安全保障」についてなぜ想像力の行使を惜しむのかという問いに対して、
「合理性」次元以外での反論を立てた人はいない。
ひとりもいなかった。
権利についての問題を私が問うているのに対して、全員が「合理性」レベルで回答して、
そもそも私のような問題の立て方が「ありえない」と斬って捨てた。

繰り返し言うが、私は日米同盟基軸が「きわめて合理性の高い外交的選択肢」であることを認めている。
けれども、二国間関係は定常的なものではありえない。
歴史的状況は変化する。

80年代までは「東西冷戦構造」の枠内で日米同盟の合理性は基礎づけられていた。
90年代は「経済のグローバル化・ボーダーレス化」の枠内で基礎づけられていた。
00年代は「対テロリズム」の枠内で基礎づけられていた。
10年代は「中国の拡張主義抑制論」の枠内で、日米同盟関係の合理性は基礎づけられている。

さいわい(と言ってよいだろう)、この60年間はどのようにスキームが変化しても、
そのつど日米同盟関係は「合理的なもののように見えた」。
けれども、それはスコラ派があらゆる自然現象を「神の摂理」で説明できたことに似ている。

私はこんな想像をする。
もし、1945年の戦況が今と違っていて、ソ連が日本を占領していて、
その強い影響下に戦後日本の統治システムが構築されていたら、日本はどうなっていただろう。
おそらく戦後ずっと、日本の政治家も官僚も学者たちも、もちろんメディアも
「日ソ同盟基軸」が唯一の合理的な安全保障体制であり、国防構想であると言い立てていただろう。
そういうものである。

「支配者」が要求する生き方を「合理的である」と思い込める人間は、
「支配者」が代っても全く同じリアクションをする。
そういう人間だけが「出世」できる。
そういうものである。

それはかつての中国の官僚群が、新しい征服者が到来する度に、王城の門の前に一列に並んで、
「ようこそおいでくださいました。私どもにどうぞご命令を」と一礼したのと同じことである。
同じことはどこでも起きる。
1939年にフランス第三共和政が瓦解したあと、その官僚群はそのまま「居抜き」で
ヴィシー政権の官僚群を形成した。
1944年にヴィシー政権が瓦解したあと、その官僚群はそのまま第四共和政の中枢に移行した。
そういうものである。

私はそれが「悪い」と言っているわけではない。
そういうものだ、と言っているだけである。
だから、「そういうものだ」ということを「勘定に入れて」
治国平天下のことは論じなければならないと申し上げているのである。

今の日本の政治家や官僚や学者やメディアのうちで、
「1945年段階で、日米同盟関係以外の外交的立場(ソ連の属領)に日本は位置づけられる可能性があった」
というSF的想像に知的資源を投じる人はほとんどいない。
「ほとんど」というのは遠慮しすぎかもしれない。
ゼロである。
だが、「そのような可能性もあった」ということを想像し、
その場合に日本はどうなったかについて想像することができる人間にしか、
「アメリカ抜き」の日本外交は構想できない。

歴史は事後的に回想すると、「それ以外にありえない一本道」をたどっているように見える。
けれども、未来に向かうときには「どれが正しいかわからない」複数の選択肢の前に立ち尽くしている。

そのときに適切な選択ができるためには、
「なぜ、『あること』が起きて、それとは違うことが起きなかったのか?」
「『起きてもよかったのに、起きなかったこと』と『実際に起きたこと』の間にはどのような違いがあったのか?」
というかたちで不断に想像力と知性のトレーニングをしておく必要がある。

いつか日米同盟基軸が「あまり適切な選択肢でない」時点に私たちは遭遇する。
それは避けがたい。
その日が決して来ないことを切望する人たちの気持ちは理解できる。
だが、高い確率で、「起きない方がいいこと」は起きる。
「起きない方がいい」と必死に願うということ自体、「起きる可能性の切迫」を無意識が感知しているからである。
そのときには、生き延びるために「それとは違う選択」をしなければならない。

いつその日が来るのか。
どういう条件が整えば、そう判断できるのか。
そのときに私たちが取り得るオルタナティブにはどのようなものがありうるのか。
それが必要になった時点で「ただちに実現可能な代替選択肢」であるためには
今からどのような「備え」をしておく必要があるのか。
そのことを今から考えなければいけない。

だが、「アメリカ抜きの日本外交」について知的資源を投じる用意のある人間は、
現代日本にはほとんど存在しない。
そんなところに資源を投じても、誰も評価しないし、誰からも感謝されないし、
収入もポストも知的威信ももたらされないからである。
そんな無駄なことは誰もしない。

私が「アメリカ抜きの日本外交」がありえないと答えた理由は以上である。
それは「日本には外交がない」ということとほとんど同義であるが、
そのような国がこの先激動する歴史的状況を生き抜けるのかどうか私にはわからない。

日本の長期低落傾向を「元気がないからだ」というような締まりのない言葉でまとめて、
「東京オリンピックを誘致すれば元気になる」とか「道州制にすれば元気になる」というような
「一攫千金」話している限り、国運の回復機会は決して到来しないだろうということしか私にはわからない。



はや、その時期が来ておるわけだ。

まずは、個々の国民が悪しき長年の洗脳から覚醒すること。

そして、速やかに「政権交代のやり直し」を、 それからですなぁ。



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