画は 歌川 國貞 (三代豊國)
天明6年(1786年)〜元治元年(1865年)
号は、香蝶楼・一雄斎・五渡亭など 作
「曲輪来伊達大寄 くるわくるわ だてのおおよせ」より、
「累死霊 尾上梅幸」 「塩沢丹三郎 市村羽左衛門」
「八重がきおひめ 岩井紫若」です。
☆晴れ、気温上昇中。
さて、旧盆の帰省ラッシュが昨日から始まったようですねぇ。
当ブログも今週は暇になるのでしょう。
エベンキ屑チョン、やってくれたようでw
__________________________________________
☆http://www.sponichi.co.jp/olympic/news/2012/08/11/kiji/K20120811003887140.html
◎IOC 男子サッカー韓国選手の竹島メッセージで調査へ
国際オリンピック委員会(IOC)のマーク・アダムス広報部長は11日、
英国のカーディフで10日に行われたロンドン五輪サッカー男子の3位決定戦、日本―韓国の試合後に、
韓国選手が竹島(韓国名・独島)領有を主張するメッセージを掲げたとして、調査する方針を示した。
韓国メディアの電子版などに韓国の朴鍾佑選手が「独島はわれわれの領土」
と韓国語で書かれたメッセージを持つ写真が掲載され、インターネット上などで問題視されていた。
アダムス広報部長は「現段階で言えるのは、五輪と政治を混同しないという原則だけ。
政治的な立場を示すのは、五輪の場ではない」と述べ、詳細を把握したいとの考えを示した。
IOCは五輪憲章で、五輪施設や会場などでの政治的な宣伝活動を禁じている。
違反があった場合は、当該選手の失格や資格認定証の取り消しの処分を定めている。
3位決定戦は韓国が2―0で勝ち、銅メダルを獲得した。(共同)
__________________________________________
朴某はメダル剥奪、競技からの永久追放が至当であるし、漫然と放置しておったチーム自体、失格ですよ。
厳格な処分をすべし、さもなくば政治的プロパガンダ、自由自在ということになる。
オリンピック=平和の祭典、という意義を失う。 JOC、厳重抗議すべし!
女子バレー28年ぶりのメダル獲得、かってはお家芸だった、東洋の魔女といわれました。
実力差ありだったが、韓国選手、口紅塗って気持ち悪いねぇ、ユニホームもダサイわなぁw
ボクシング・ミドル級(75キロ以下)村田諒太(26=東洋大職)金メダル!
早起きして見てましたが、だいぶパンチもらったが勝っていました、お見事。
國貞、二枚目、
「当盛見立三十六花撰 つぼすみれ」 「児雷也」です。
植草さん一押し、二本、
◆http://www.hokkaido-np.co.jp/news/editorial/395450.html
北海道新聞(8月11日)
◎消費増税法が成立 国民欺く理念なき改革
政治主導で行政の無駄を削る。
そう訴えた民主党に託した有権者の期待は「官僚主導の増税」という正反対の形で返ってきた。
2015年10月までに消費税率を10%に引き上げる法案が、
きのうの参院本会議で民主、自民、公明などの賛成で可決、成立した。
最終盤で自民党が内閣不信任決議案に同調する動きを見せ3党合意は揺らいだが、
野田佳彦首相の「近いうちに衆院を解散する」という口約束一つで収まった。
増税を政争の具とする茶番劇にあきれる。
与野党が入れ替わったこの3年間、政党と政治家の地金を嫌というほど見せつけられた。
民主党は選挙時の約束を破り、自民党は与党をけん制する野党の役割を忘れ党利党略で増税に協力した。
社会保障改革を棚上げしたままの増税先行に多くの国民が納得していない。
信を問わずに与野党が談合した責任は重い。
衆院選は「近いうちに」ある。 増税の是非は、有権者一人一人の判断に委ねられる。
☆消え去った政治主導
政府は関連法を含め「社会保障と税の一体改革」と呼んでいる。
だが、民主党内の議論に始まり政府による法案化、そして3党合意を経て「一体改革」は次々と崩れた。
政府や財務省の本音が、社会保障改革ではなく、年々厳しくなる歳入の手当てにあったからだ。
消費税率を上げたいが、国民の理解を得づらい。
そこで財政を圧迫する社会保障を財源と共に見直すという「一体改革」を唱えた。
しかし、止まらない少子高齢化に対応する社会保障の将来像を示すことはなく、
年金改革も高齢者医療のあり方の見直しも棚上げされた。
増税する5%分のうち、子ども・子育て新システムなど新制度に充てるのは1%分にすぎない。
4%分は従来政策の赤字を埋める増税だ。
民主党は、無駄削減で年間16兆円の財源を生み出すとしていた公約を早々と投げ捨て、
財務省が描いた名ばかりの一体改革の図式に乗った。
政治主導の姿はどこにもない。
3党合意では、増税で生じる財政の余裕を公共事業に振り向けることまで盛り込まれた。
民主党は「コンクリートから人へ」をうたっていたが、自民党の要求をすんなり受け入れた。
変節にあきれるほかない。
社会保障改革は国民会議で1年間かけて考え直すことにし、さらに先送りした。
3党が一致しているのは増税だけで、社会保障の理念は全く異なるのだから当然の成り行きだ。
国民を欺く「一体改革」だと言わざるを得ない。
☆経済悪化させる恐れ
消費税率引き上げそのものの問題点も少なくない。
国と地方合わせ1千兆円の借金を抱える財政再建は喫緊の課題だ。
だが消費税率を10%に引き上げても、
20年度までに基礎的財政収支を黒字化するという政府目標の達成はめどが立たないのが実情だ。
長引くデフレ、東日本大震災の影響、歴史的な円高傾向、くすぶる欧州債務危機がのしかかり、
経済情勢は不透明さを増している。
そんな四重苦の下での増税は景気をさらに落ち込ませる懸念が強い。
今回は所得税などの減税を伴わない純粋な増税で、国民に大きな負担となる。
中小企業も増税分の価格転嫁が難しく事態は深刻だ。
とりわけ零細企業が多い北海道経済へのダメージは大きい。
個人消費や観光関連に緩やかながら回復傾向が見え始めた中、
政府がどれだけ地域の実情に目配りしているか不信感は拭えない。
消費が低迷して税収が伸びず、財政を立て直すどころか悪化させる可能性もある。
消費税率を3%から5%に上げた1997度以降、
所得税などを合わせた一般会計税収が同年度の53兆9千億円を上回ったことはない。
☆逆進性緩和は不透明
成立した消費増税法には経済好転が確認できなければ増税を見送る「景気条項」が盛り込まれたが、
あくまで努力目標との位置付けだ。増税に踏み切るかどうか、政府には慎重な判断が求められる。
サラリーマンの平均給与は97年の約467万円から2010年は412万円に目減りしている。
この間、非正規労働者も急増した。
低所得者ほど負担が重い消費税を引き上げられる環境とはとても言えない。
そうした逆進性を緩和する手だても明確に示されていない。
国会審議でこれらの疑問点を指摘されても、野田首相は「どの党が政権を担っても一体改革は必要だ」
と財政悪化を強調するばかりで、議論は深まらなかった。
国民の期待をないがしろにした民主党と、これに相乗りした自民、公明両党の責任は重大だ。
各党は次の衆院選で増税についての立場を明確に説明し、しっかりした社会保障政策を示す必要がある。
その場しのぎの公約はもういらない。
◆http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2012081102000123.html
東京新聞 2012年8月11日
◎消費税増税法が成立 「代議」機能せぬ危機
消費税増税のための「一体」改革法が成立した。
民主党マニフェストを逸脱し、半数を超える国民が依然、反対だ。
代議制は果たして機能したのか。
「民主党政権は、マニフェスト違反の消費税率引き上げを行う権限を主権者からは与えられていないんです。
議会制民主主義の歴史への冒涜(ぼうとく)であり、国権の最高機関の成り立ちを否定するものです」
今年一月、野田佳彦首相の施政方針演説に対する各党代表質問で、こう指摘した議員がいた。
自民党総裁、谷垣禎一氏である。
☆マニフェスト違反
政権選択選挙とされる衆院選で多数の議席を得た政権与党が内閣を組織し、
選挙公約に基づいて法律をつくり、政策を実行する。
それは谷垣氏が指摘するまでもなく、議会制民主主義(代議制)の「大義」であり、
衆院議員が国民の代表として議論する「代議士」と呼ばれる所以(ゆえん)だ。
もちろん、激しく変化する現代社会では、政治的、経済的、社会的な情勢変化に応じ、
柔軟に政策変更をすることは必要である。
東京電力福島第一原子力発電所の事故後に、それまでの原発推進路線から脱原発路線に転換するのは当然であり、
代議制の大義を損なうものではない。
しかし、消費税増税はどうだろう。
民主党は二〇〇九年衆院選マニフェストに消費税増税ではなく行政の無駄削減による財源捻出を盛り込み、
当時の鳩山由紀夫代表ら各候補が「消費税は増税しない」と公約して政権に就いた。
野田氏は選挙戦で「書いてあることは命懸けで実行する。書いていないことはやらない。それがマニフェストのルール」
とまで言い切っていたではないか。
それが一転、消費税増税に政治生命を懸ける姿勢に変節した。
これを、民主党の「マニフェスト違反」と呼ばずして何と呼ぼう。
☆政治を国民の手に
本格的な少子高齢化を迎え、社会保障を持続可能な制度に抜本改革する必要はある。
国の借金が一千兆円に上る財政事情への危機感は国民も共有しているだろう。
いずれ増税が避けられないとの覚悟も多くの国民にあるに違いない。
とはいえ、誰がどうやって税金を負担するのかというルールづくりは、
議会制度の成り立ちをひもとくまでもなく、民主主義の存立にかかわる重大な問題だ。
公約違反の一方的な課税は国民の納税者意識を蝕(むしば)みかねない。
国民は選択していない消費税増税を、民主党政権が政府や国会の無駄を削ることなく、
社会保障改革の全体像を示すことなく強行したことに怒りを感じているのだ。
当初は公約違反を批判しながら公共事業費増額との引き換えなのか、
消費税増税に加担した自民、公明両党も同じ穴の狢(むじな)である。
自分たちの思いが政府や国会に届いていない、代議制が機能していない危うさを感じているからこそ、
消費税増税に国民の多くが反対し、
脱原発、原発再稼働反対を訴える人たちが週末ごとに国会周辺を埋めているのだろう。
政府も国会も、マニフェスト違反の消費税増税や首相の再稼働容認を機に
代議制が危機的状況に陥りつつあると気付くべきである。
この状況を、国民が政治の「劣化」と切り捨てるのは簡単だが、それだけで政治は変わらない。
街角で声を上げることは重要でも、その声が為政者や議員に届かなければ政治を動かせない。
代議制を鍛え直し、政治を国民の手に取り戻すには、選挙で意思を示し、議員や政権を厳選するしかない。
消費税は一四年四月に8%、一五年十月には10%に引き上げられる。
それ以前、現衆院議員の任期満了の一三年八月までに必ず衆院選は行われる。
消費税増税の是非を国民が選択する最後の機会だ。
消費税増税に納得できれば、賛成の政党、候補を、 できなければ反対の政党、候補を選べばいい。
もちろん、選択すべき政策は消費税だけではない。
政府や行政の無駄にどこまで切り込むのか、どんな社会をつくるのか、
社会保障制度改革の具体的な設計図や、安全保障・外交政策も判断基準だ。
マニフェストに嘘(うそ)はないか、官僚の言いなりになりそうか否か、政党や候補の力量も見極めたい。
投票先を決めるのは有権者だが判断材料を提供するのはわれわれ新聞の仕事だと肝に銘じたい。
☆速やかに解散せよ
首相は衆院解散の時期を「近いうち」と述べたが、消費税増税の是非を国民に問うためには
速やかに解散する必要がある。
そのためにも、違憲状態にありながら各党間の意見の違いから進んでいない
衆院「一票の格差」の早期是正に、首相は指導力を発揮すべきだ。
民主党に有利な時期を探ろうと是正を怠り、解散を先送りすることがあってはならない。
國貞、三枚目、
「夜商内六夏撰」 植木屋です。
至言ですな、ちっと長いが、
◆http://blog.tatsuru.com/
内田樹の研究室 2012.08.11
◎市場からの撤収
消費増税法案が成立した。
日経は一昨日の一面で、これで日本の信認が守られ、
政治家たちが「消費増税の先送りという最悪の事態を避ける理性だけは残っていた」
ことに満腔の安堵を示している。
税金を上げないと「日本の財政再建への疑惑」が国債格付けを下げ、金利が上昇し、
国債が投げ売りされ、国家財政が破綻するからである(らしい)。
この辺の「風が吹けば桶屋が儲かる」的なドミノ倒し的破綻シナリオが
どれほどの信憑性があるのか、私にはよくわからない。
国債を格付けやら金利の乱高下を材料にして国債を売り買いする機関投資家というのは、
平たく言えば「ばくち打ち」の皆さんである。
世界の人々が自尊心をもって文化的で愉快な生活を営めるかどうか
ということは彼らの投資行動とはかかわりがない。
手前の懐が温かくなるなら、どれほどの人が寒い思いをしようと路傍で飢えようと、
「それは自己責任でしょ」と言い放つ方々が金融市場というものを支配している。
消費増税ができなければ、日本国債を暴落させて、それで大いにお金もうけをしようと
虎視眈々としている方々の思惑を配慮しないと、国家財政が立ちゆかないような金融システムの中に
すでにわれわれは組み込まれているのである、
それが冷厳なリアリティなのだからそれに順応するほかないというのが
当世の「リアリスト」たちの言い分のようである。
なるほど。
おっしゃる通りなのかも知れない。
私たち生活者にはそういうややこしいマネーゲームのことはわからない。
わかるのは消費税がいずれ10%に上がるということだけである。
貧しい人ほど税負担が重くなるいわゆる「逆進性」についての制度的な手当ては具体的にならない。
その一方で、生き延びるためには「選択と集中」が不可避であると主張する経営者の方々は、
こんな高コストでは国際競争に勝てないということで、
法人税の引き下げ、人件費の引き下げ、電気料金を含む製造コストの引き下げを繰り返し要求している。
「それが達成されなければ、日本を出て行く他ない。生産拠点が海外に移転すれば、
雇用は失われ、地域経済は壊滅し、国庫の歳入は激減するが、それはすべて『あんたたち』のせいだよ」
と経営者たちは毎日のようにメディアを通じて宣告している。
そして、メディアはだいたいどこもこの言い分に理ありとしている。
自社の経営がうまくゆかない要因をもっぱら外部の無理解と非協力に求める経営者が
わが国ではいつのまにかデフォルトになったようである。
そのデフォルトに基づいて、グローバル企業が国内にとどまってくださるように、
法人税を下げ、賃金を下げ、公害規制を緩和し、原発を稼働させ、インフラを整備すべし
というのが当今の「リアリスト」たちの言い分である。
そうしないと、「たいへんなことになる」らしい。
だが、「消費税を上げる」と「賃金を下げる」という二つのことを同時的に行うと何が起こるか。
想像することは難しくないと思うのだが、税金を上げて、賃金を下げることで何が起こるかについて、
私が徴した限り、人々はあまり想像力を駆使している様子がない。
「ベーシックインカム」とか「軽減税率」とかいうことをぼそぼそ言っているだけである。
メディアや財界のかたがたがそれについて想像力の行使を惜しむようなので、
私が彼らがに代わって想像してみる。
消費税が上がって、賃金が下がると何が起きるか。
もちろん国民の消費行動はクールダウンする。内需が縮小する。
国内市場相手の「小商い」はばたばたと潰れてゆく。「貧困ビジネス」とグローバル企業だけが生き残る。
「それでいいじゃないか」とたぶん政官財メディアのみなさんは思っておられるようである。
「選択と集中だよ。国際競争力のないやつらはマーケットから退場する、それがフェアネスだ」
と豪語するであろう。
だが、私の想像はもう少し先の出来事に及んでいる。
「国際競争力のないやつら」が「マーケットから退場」したあと、「どこ」に行くのか、
ということをあまり彼らは考えていない。
マーケットから退場した人々は「いくら安い賃金でもいいから使って下さい」と懇願する
「安価な労働力」を形成すると考えているのであろう。
だから、弱者の退場は人件費コストのカットに直結すると考えている。
でも、私はそれだけではすまされないと思う。
マーケットから退場させられるより先に、自主的にマーケットから撤収する人々が出てくる。
「国民たちの市場からの撤収」が起きるのではないかと私は予測している。
「もうマーケットはいいよ」というのが現に国民のおおかたの実感である。
額に汗して労働してわずかな貨幣を稼ぎ、その貨幣で税金の乗った高額の商品を買わされる
という市場中心の生き方そのものの被収奪感にもう「うんざり」し始めている。
これは健全なリアクションだ。
というのは、「労働を貨幣に替える。その貨幣で商品を買う」という行為だけに
経済活動が限定されているというのは、人類史的にはかなり最近の出来事だからである。
人類はその草創期からずっと経済活動を行ってきた。
経済活動とは要するに「財貨やサービスや情報をぐるぐる回す」ということである。
これを達成するためには、さまざまな人間的資源の開発が求められる。
取引ということが果たされるためにはまず度量衡が統一されなければならない。
共通の言語が要る。
パートナーを共軛する法律も要る。
信用とか為替とかいう概念も発明しなければいけない。
もちろん交通手段・通信手段の開発整備も必須である。
モノをぐるぐる回すゲームをするためには、「いろいろなもの」を作り出さないといけない。
モノそのものよりも、この「ゲームを円滑に進行するために必要なもの」に
人類学的な価値があることにわれわれの先祖は気づいた。
マリノフスキーやモースが報告している「クラ交易」の事例が教えるように、
交易において循環する「もの」には一次的な価値はない。
「もの」を適切かつ円滑に交易させることのできる人間的能力に価値がある。
それは将棋の駒にはほとんど使用価値も交換価値もないが、
将棋の駒を適切に操作することのできる人間的資質には汎用性があるというのと同じである。
貨幣や商品は本質的には「将棋の駒」である。
重要なのは「将棋を指す人間の中で活発に活動している人間的資質」の方である。
現に私たちがありがたがっている貨幣そのものにはいかなる使用価値もない。
洟もかめないし、メモも書けないし、暖房にもならない。
でも、貨幣を用いて商品をぐるぐる回すために人間にはさまざまな能力を開発せねばならず、
その能力には高い汎用性がある。
だが、今このポストグローバル資本主義社会においては、
「経済活動が人間的能力の開発を要求しない」という事態が出来した。
これは経済史的に前代未聞のことである。
「円高」とか「国債格付け」とかいうことは、
すでに実際の国富の多寡や生産物の質や市場の需要と無関係に語られている。
こういうファクターを決定しているのは「現実」ではなく「思惑」である。
「未来予測」であり、同一の未来予測を共有するプレイヤーの頭数である。
「貨幣で貨幣を買うゲーム」は「ゲームの次の展開」だけが重要であり、
「次はこういう展開になる」という「まだ起きていないことについての予測」が反転して
「これから起きること」を決定する。
不思議なゲームである。
ここで流れる時間は、人間的時間の流れとはもう違うものである。
ある意味で時間は止っているのである。
だから、この「貨幣で貨幣を買うゲーム」のプレイヤーには
どのような人間的資質も、市民的成熟も求められない。
そこで必要なのは適切な「数式」と高速度の「計算」だけである。
だから、金融工学についての十分な知識をもっていれば
「子ども」でも株や債券の売り買いについての適切なアルゴリズムを駆使して巨富を築くことができる。
現に、そうなっている。
今では人間に代わってコンピュータが一秒間に数千回というようなスピードで取引をしているのである。
グローバル経済はもう人間主体のものでもないし、人間的成熟を促すためのものでもない。
私たちはそのことにようやく気づき始めた。
「こんなのは経済活動ではない」ということに気づき始めた。
「こんなこと」はもう止めて、「本来の経済活動」に戻りたい。そう思い始めている。
私にはその徴候がはっきりと感じられる。
そのような人たちは今静かに「市場からの撤収」を開始している。
さまざまな財貨やサービスをすべて商品としてモジュール化し、
それを労働で得た貨幣で購入するという
ゲームの非合理性と「費用対効果の悪さ」にうんざりしてきたのである。
目の前に生きた労働主体が存在するなら、彼の労働をわざわざ商品化して、それを市場で買うことはない。
「ねえ、これやってくれる。僕が君の代わりにこれやるから」で話が済むなら、
その方がはるかに合理的である。
経済学的にはこれは「欲望の二重の一致」といって「ありえないこと」とされている。
だからこそ貨幣が生まれたとのだ、と説明される。
だが、ある程度のサイズの「顔の見える共同体」に帰属していると、
実際にはかなりの頻度で「欲望の二重の一致」が生じることがある。
これはやればわかる。
というか、欲望というのは自存するものではなく、
「それを満たすものが目の前に出現したとき」に発動するものなのである
(という洞察を語ったのは『羊たちの沈黙』におけるハンニバル・レクター博士である。
私は博士の人間観の深さにはつねに敬意を払うことにしている)。
だから、共同体に「いろいろな財貨やサービスや情報や技能」をたっぷり持っていて、
「誰か『これ』要らないかなあ」と思っている人が出入りしていると、
「あ、オレが欲しかったのは、『これ』なんだ」というかたちで欲望が発動すると
「欲望の二重の一致」はたちまち成就してしまう。
私の主宰する凱風館という武道の道場には約200人の人々が出入りしているが、
専門領域や特技を異にするこれだけの数の人がいると、
多様な相互扶助的なサービスのやりとりを貨幣を介在させずに行うことが可能になる。
今凱風館で行き交っている情報や知識や技術や品物の「やりとり」は、
それらひとつひとつがモジュールとして切り出されて、パッケージされて、
商品として市場で売り買いされた場合には、
かなりの額の貨幣を積み上げても手に入れることがむずかしい質のものである。
だが、凱風館では貨幣は用いられない。
ここでは、情報や技術や品物が必要なひとはその旨を告知しておけば、
そのうち誰かがそれを贈与してくれるからである。
この贈与に対する反対給付は「いつか」「どこかで」「誰かに」パスすることで相殺される。
いま贈与してくれた人も、かつて、どこかで誰かに「贈与されたもの」をここで
次の受け取り手に「パス」することによって反対給付を果たしているのである。
貨幣が介在しないことで、ここでは貨幣で買えるものも、貨幣では買えないものも、ともに行き交っている。
これはもうある種の「物々交換」と言ってもよいだろう。
そして、すでに日本の各地では、さまざまなサイズ、さまざまなタイプのネットワークを通じて、
このような「直接交換」が始まっている。
貨幣を媒介させるのは、「その方が話が速い」からであった。だが、
今は貨幣を媒介させた方が「話が遅い」という事態が出来している。
自分の創出した労働価値を貨幣に変えて、それで他の労働者の労働価値から形成された商品を買う
というプロセスでは、労働価値が賃金に変換される過程で収奪があり、
商品を売り買いする過程で中間マージンが抜かれ、商品価格にも資本家の収益分や税金分が乗せられている。
それなら、はじめから労働者同士で「はい、これ」「あ、ありがとう」で済ませた方がずっと話が速いし、
無駄がない。
例えば日本人の主食である米については、すでにその相当部分は市場を経由することなく、
生産者から知り合いの消費者に「直接」手渡されている。この趨勢はもう止らないだろうと私は思っている。
こういう活動は「表の経済」には指標として出てこない。
すでに始まりつつある「国民の市場からの静かな撤収」についての経済の「専門家」たちの見解を
メディアは報じないが、たぶんそれは彼らがそれについてまだ何も気づいていないからであろう。
一番敏感なのは就職を控えた若者たちである。
感度のよい若者たちはすでに自分たちを「エンプロイヤビリティ」の高い労働力として、
つまり「規格化されているので、いくらでも替えの効く」労働者として労働市場に投じるほど、
雇用条件が劣化するということに気づき始めた。
それなら、はじめから労働市場に身を投じることなく、「知り合い」のおじさんやおばさんに
「どこかありませんか」と訊ねて、「じゃあ、うちにおいでよ」と言ってくれる口があれば、
そこで働き始めるというかたちにした方がよほど無駄がない。
あまりに雇用条件を引き下げすぎたせいで、就活が過剰にストレスフルなものになり、
就活を通じて人間的成長どころか心身に病を得る者が増えたせいで、
労働市場から若者たちが撤収するという動きはすでに始まっている。
「市場からの撤収」は就活に限らず、あらゆるセクターでこれから加速してゆくだろう。
これからさき、ポスト・グローバリズムの社会では、
「貨幣を集めて、商品を買う」という単一のしかたでしか経済活動ができない人々と、
「贈与と反対給付のネットワークの中で生きてゆく」という経済活動の「本道」を歩む人々に
ゆっくりと二極化が進むものと私は見通している。
むろん、貨幣はこのネットワークが円滑に形成され、ひろがってゆくためにはきわめて効果的なアイテムであり、
「本道」の人々も要るだけの貨幣をやりとりする。
だが、貨幣はもう経済活動の目標ではなく、ネットワークに奉仕する道具にすぎない。
それが人間的成熟に資する限り貨幣は有用であり、人間的成熟を阻害するなら有害無用のものである。
このことは久しく「人類の常識」であったのだが、いつのまにかこの常識を語る人が少数派に転落したので、
あらためてここに記すのである。
↑
「国民経済」への回帰、ということですよ。
脱グローバリズム、ローカリズムの復権と言ってもよい、
手前の持論である「ゆるやかな鎖国への回帰」ですよ。
天明6年(1786年)〜元治元年(1865年)
号は、香蝶楼・一雄斎・五渡亭など 作
「曲輪来伊達大寄 くるわくるわ だてのおおよせ」より、
「累死霊 尾上梅幸」 「塩沢丹三郎 市村羽左衛門」
「八重がきおひめ 岩井紫若」です。
☆晴れ、気温上昇中。
さて、旧盆の帰省ラッシュが昨日から始まったようですねぇ。
当ブログも今週は暇になるのでしょう。
エベンキ屑チョン、やってくれたようでw
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☆http://www.sponichi.co.jp/olympic/news/2012/08/11/kiji/K20120811003887140.html
◎IOC 男子サッカー韓国選手の竹島メッセージで調査へ
国際オリンピック委員会(IOC)のマーク・アダムス広報部長は11日、
英国のカーディフで10日に行われたロンドン五輪サッカー男子の3位決定戦、日本―韓国の試合後に、
韓国選手が竹島(韓国名・独島)領有を主張するメッセージを掲げたとして、調査する方針を示した。
韓国メディアの電子版などに韓国の朴鍾佑選手が「独島はわれわれの領土」
と韓国語で書かれたメッセージを持つ写真が掲載され、インターネット上などで問題視されていた。
アダムス広報部長は「現段階で言えるのは、五輪と政治を混同しないという原則だけ。
政治的な立場を示すのは、五輪の場ではない」と述べ、詳細を把握したいとの考えを示した。
IOCは五輪憲章で、五輪施設や会場などでの政治的な宣伝活動を禁じている。
違反があった場合は、当該選手の失格や資格認定証の取り消しの処分を定めている。
3位決定戦は韓国が2―0で勝ち、銅メダルを獲得した。(共同)
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朴某はメダル剥奪、競技からの永久追放が至当であるし、漫然と放置しておったチーム自体、失格ですよ。
厳格な処分をすべし、さもなくば政治的プロパガンダ、自由自在ということになる。
オリンピック=平和の祭典、という意義を失う。 JOC、厳重抗議すべし!
女子バレー28年ぶりのメダル獲得、かってはお家芸だった、東洋の魔女といわれました。
実力差ありだったが、韓国選手、口紅塗って気持ち悪いねぇ、ユニホームもダサイわなぁw
ボクシング・ミドル級(75キロ以下)村田諒太(26=東洋大職)金メダル!
早起きして見てましたが、だいぶパンチもらったが勝っていました、お見事。
國貞、二枚目、
「当盛見立三十六花撰 つぼすみれ」 「児雷也」です。
植草さん一押し、二本、
◆http://www.hokkaido-np.co.jp/news/editorial/395450.html
北海道新聞(8月11日)
◎消費増税法が成立 国民欺く理念なき改革
政治主導で行政の無駄を削る。
そう訴えた民主党に託した有権者の期待は「官僚主導の増税」という正反対の形で返ってきた。
2015年10月までに消費税率を10%に引き上げる法案が、
きのうの参院本会議で民主、自民、公明などの賛成で可決、成立した。
最終盤で自民党が内閣不信任決議案に同調する動きを見せ3党合意は揺らいだが、
野田佳彦首相の「近いうちに衆院を解散する」という口約束一つで収まった。
増税を政争の具とする茶番劇にあきれる。
与野党が入れ替わったこの3年間、政党と政治家の地金を嫌というほど見せつけられた。
民主党は選挙時の約束を破り、自民党は与党をけん制する野党の役割を忘れ党利党略で増税に協力した。
社会保障改革を棚上げしたままの増税先行に多くの国民が納得していない。
信を問わずに与野党が談合した責任は重い。
衆院選は「近いうちに」ある。 増税の是非は、有権者一人一人の判断に委ねられる。
☆消え去った政治主導
政府は関連法を含め「社会保障と税の一体改革」と呼んでいる。
だが、民主党内の議論に始まり政府による法案化、そして3党合意を経て「一体改革」は次々と崩れた。
政府や財務省の本音が、社会保障改革ではなく、年々厳しくなる歳入の手当てにあったからだ。
消費税率を上げたいが、国民の理解を得づらい。
そこで財政を圧迫する社会保障を財源と共に見直すという「一体改革」を唱えた。
しかし、止まらない少子高齢化に対応する社会保障の将来像を示すことはなく、
年金改革も高齢者医療のあり方の見直しも棚上げされた。
増税する5%分のうち、子ども・子育て新システムなど新制度に充てるのは1%分にすぎない。
4%分は従来政策の赤字を埋める増税だ。
民主党は、無駄削減で年間16兆円の財源を生み出すとしていた公約を早々と投げ捨て、
財務省が描いた名ばかりの一体改革の図式に乗った。
政治主導の姿はどこにもない。
3党合意では、増税で生じる財政の余裕を公共事業に振り向けることまで盛り込まれた。
民主党は「コンクリートから人へ」をうたっていたが、自民党の要求をすんなり受け入れた。
変節にあきれるほかない。
社会保障改革は国民会議で1年間かけて考え直すことにし、さらに先送りした。
3党が一致しているのは増税だけで、社会保障の理念は全く異なるのだから当然の成り行きだ。
国民を欺く「一体改革」だと言わざるを得ない。
☆経済悪化させる恐れ
消費税率引き上げそのものの問題点も少なくない。
国と地方合わせ1千兆円の借金を抱える財政再建は喫緊の課題だ。
だが消費税率を10%に引き上げても、
20年度までに基礎的財政収支を黒字化するという政府目標の達成はめどが立たないのが実情だ。
長引くデフレ、東日本大震災の影響、歴史的な円高傾向、くすぶる欧州債務危機がのしかかり、
経済情勢は不透明さを増している。
そんな四重苦の下での増税は景気をさらに落ち込ませる懸念が強い。
今回は所得税などの減税を伴わない純粋な増税で、国民に大きな負担となる。
中小企業も増税分の価格転嫁が難しく事態は深刻だ。
とりわけ零細企業が多い北海道経済へのダメージは大きい。
個人消費や観光関連に緩やかながら回復傾向が見え始めた中、
政府がどれだけ地域の実情に目配りしているか不信感は拭えない。
消費が低迷して税収が伸びず、財政を立て直すどころか悪化させる可能性もある。
消費税率を3%から5%に上げた1997度以降、
所得税などを合わせた一般会計税収が同年度の53兆9千億円を上回ったことはない。
☆逆進性緩和は不透明
成立した消費増税法には経済好転が確認できなければ増税を見送る「景気条項」が盛り込まれたが、
あくまで努力目標との位置付けだ。増税に踏み切るかどうか、政府には慎重な判断が求められる。
サラリーマンの平均給与は97年の約467万円から2010年は412万円に目減りしている。
この間、非正規労働者も急増した。
低所得者ほど負担が重い消費税を引き上げられる環境とはとても言えない。
そうした逆進性を緩和する手だても明確に示されていない。
国会審議でこれらの疑問点を指摘されても、野田首相は「どの党が政権を担っても一体改革は必要だ」
と財政悪化を強調するばかりで、議論は深まらなかった。
国民の期待をないがしろにした民主党と、これに相乗りした自民、公明両党の責任は重大だ。
各党は次の衆院選で増税についての立場を明確に説明し、しっかりした社会保障政策を示す必要がある。
その場しのぎの公約はもういらない。
◆http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2012081102000123.html
東京新聞 2012年8月11日
◎消費税増税法が成立 「代議」機能せぬ危機
消費税増税のための「一体」改革法が成立した。
民主党マニフェストを逸脱し、半数を超える国民が依然、反対だ。
代議制は果たして機能したのか。
「民主党政権は、マニフェスト違反の消費税率引き上げを行う権限を主権者からは与えられていないんです。
議会制民主主義の歴史への冒涜(ぼうとく)であり、国権の最高機関の成り立ちを否定するものです」
今年一月、野田佳彦首相の施政方針演説に対する各党代表質問で、こう指摘した議員がいた。
自民党総裁、谷垣禎一氏である。
☆マニフェスト違反
政権選択選挙とされる衆院選で多数の議席を得た政権与党が内閣を組織し、
選挙公約に基づいて法律をつくり、政策を実行する。
それは谷垣氏が指摘するまでもなく、議会制民主主義(代議制)の「大義」であり、
衆院議員が国民の代表として議論する「代議士」と呼ばれる所以(ゆえん)だ。
もちろん、激しく変化する現代社会では、政治的、経済的、社会的な情勢変化に応じ、
柔軟に政策変更をすることは必要である。
東京電力福島第一原子力発電所の事故後に、それまでの原発推進路線から脱原発路線に転換するのは当然であり、
代議制の大義を損なうものではない。
しかし、消費税増税はどうだろう。
民主党は二〇〇九年衆院選マニフェストに消費税増税ではなく行政の無駄削減による財源捻出を盛り込み、
当時の鳩山由紀夫代表ら各候補が「消費税は増税しない」と公約して政権に就いた。
野田氏は選挙戦で「書いてあることは命懸けで実行する。書いていないことはやらない。それがマニフェストのルール」
とまで言い切っていたではないか。
それが一転、消費税増税に政治生命を懸ける姿勢に変節した。
これを、民主党の「マニフェスト違反」と呼ばずして何と呼ぼう。
☆政治を国民の手に
本格的な少子高齢化を迎え、社会保障を持続可能な制度に抜本改革する必要はある。
国の借金が一千兆円に上る財政事情への危機感は国民も共有しているだろう。
いずれ増税が避けられないとの覚悟も多くの国民にあるに違いない。
とはいえ、誰がどうやって税金を負担するのかというルールづくりは、
議会制度の成り立ちをひもとくまでもなく、民主主義の存立にかかわる重大な問題だ。
公約違反の一方的な課税は国民の納税者意識を蝕(むしば)みかねない。
国民は選択していない消費税増税を、民主党政権が政府や国会の無駄を削ることなく、
社会保障改革の全体像を示すことなく強行したことに怒りを感じているのだ。
当初は公約違反を批判しながら公共事業費増額との引き換えなのか、
消費税増税に加担した自民、公明両党も同じ穴の狢(むじな)である。
自分たちの思いが政府や国会に届いていない、代議制が機能していない危うさを感じているからこそ、
消費税増税に国民の多くが反対し、
脱原発、原発再稼働反対を訴える人たちが週末ごとに国会周辺を埋めているのだろう。
政府も国会も、マニフェスト違反の消費税増税や首相の再稼働容認を機に
代議制が危機的状況に陥りつつあると気付くべきである。
この状況を、国民が政治の「劣化」と切り捨てるのは簡単だが、それだけで政治は変わらない。
街角で声を上げることは重要でも、その声が為政者や議員に届かなければ政治を動かせない。
代議制を鍛え直し、政治を国民の手に取り戻すには、選挙で意思を示し、議員や政権を厳選するしかない。
消費税は一四年四月に8%、一五年十月には10%に引き上げられる。
それ以前、現衆院議員の任期満了の一三年八月までに必ず衆院選は行われる。
消費税増税の是非を国民が選択する最後の機会だ。
消費税増税に納得できれば、賛成の政党、候補を、 できなければ反対の政党、候補を選べばいい。
もちろん、選択すべき政策は消費税だけではない。
政府や行政の無駄にどこまで切り込むのか、どんな社会をつくるのか、
社会保障制度改革の具体的な設計図や、安全保障・外交政策も判断基準だ。
マニフェストに嘘(うそ)はないか、官僚の言いなりになりそうか否か、政党や候補の力量も見極めたい。
投票先を決めるのは有権者だが判断材料を提供するのはわれわれ新聞の仕事だと肝に銘じたい。
☆速やかに解散せよ
首相は衆院解散の時期を「近いうち」と述べたが、消費税増税の是非を国民に問うためには
速やかに解散する必要がある。
そのためにも、違憲状態にありながら各党間の意見の違いから進んでいない
衆院「一票の格差」の早期是正に、首相は指導力を発揮すべきだ。
民主党に有利な時期を探ろうと是正を怠り、解散を先送りすることがあってはならない。
國貞、三枚目、
「夜商内六夏撰」 植木屋です。
至言ですな、ちっと長いが、
◆http://blog.tatsuru.com/
内田樹の研究室 2012.08.11
◎市場からの撤収
消費増税法案が成立した。
日経は一昨日の一面で、これで日本の信認が守られ、
政治家たちが「消費増税の先送りという最悪の事態を避ける理性だけは残っていた」
ことに満腔の安堵を示している。
税金を上げないと「日本の財政再建への疑惑」が国債格付けを下げ、金利が上昇し、
国債が投げ売りされ、国家財政が破綻するからである(らしい)。
この辺の「風が吹けば桶屋が儲かる」的なドミノ倒し的破綻シナリオが
どれほどの信憑性があるのか、私にはよくわからない。
国債を格付けやら金利の乱高下を材料にして国債を売り買いする機関投資家というのは、
平たく言えば「ばくち打ち」の皆さんである。
世界の人々が自尊心をもって文化的で愉快な生活を営めるかどうか
ということは彼らの投資行動とはかかわりがない。
手前の懐が温かくなるなら、どれほどの人が寒い思いをしようと路傍で飢えようと、
「それは自己責任でしょ」と言い放つ方々が金融市場というものを支配している。
消費増税ができなければ、日本国債を暴落させて、それで大いにお金もうけをしようと
虎視眈々としている方々の思惑を配慮しないと、国家財政が立ちゆかないような金融システムの中に
すでにわれわれは組み込まれているのである、
それが冷厳なリアリティなのだからそれに順応するほかないというのが
当世の「リアリスト」たちの言い分のようである。
なるほど。
おっしゃる通りなのかも知れない。
私たち生活者にはそういうややこしいマネーゲームのことはわからない。
わかるのは消費税がいずれ10%に上がるということだけである。
貧しい人ほど税負担が重くなるいわゆる「逆進性」についての制度的な手当ては具体的にならない。
その一方で、生き延びるためには「選択と集中」が不可避であると主張する経営者の方々は、
こんな高コストでは国際競争に勝てないということで、
法人税の引き下げ、人件費の引き下げ、電気料金を含む製造コストの引き下げを繰り返し要求している。
「それが達成されなければ、日本を出て行く他ない。生産拠点が海外に移転すれば、
雇用は失われ、地域経済は壊滅し、国庫の歳入は激減するが、それはすべて『あんたたち』のせいだよ」
と経営者たちは毎日のようにメディアを通じて宣告している。
そして、メディアはだいたいどこもこの言い分に理ありとしている。
自社の経営がうまくゆかない要因をもっぱら外部の無理解と非協力に求める経営者が
わが国ではいつのまにかデフォルトになったようである。
そのデフォルトに基づいて、グローバル企業が国内にとどまってくださるように、
法人税を下げ、賃金を下げ、公害規制を緩和し、原発を稼働させ、インフラを整備すべし
というのが当今の「リアリスト」たちの言い分である。
そうしないと、「たいへんなことになる」らしい。
だが、「消費税を上げる」と「賃金を下げる」という二つのことを同時的に行うと何が起こるか。
想像することは難しくないと思うのだが、税金を上げて、賃金を下げることで何が起こるかについて、
私が徴した限り、人々はあまり想像力を駆使している様子がない。
「ベーシックインカム」とか「軽減税率」とかいうことをぼそぼそ言っているだけである。
メディアや財界のかたがたがそれについて想像力の行使を惜しむようなので、
私が彼らがに代わって想像してみる。
消費税が上がって、賃金が下がると何が起きるか。
もちろん国民の消費行動はクールダウンする。内需が縮小する。
国内市場相手の「小商い」はばたばたと潰れてゆく。「貧困ビジネス」とグローバル企業だけが生き残る。
「それでいいじゃないか」とたぶん政官財メディアのみなさんは思っておられるようである。
「選択と集中だよ。国際競争力のないやつらはマーケットから退場する、それがフェアネスだ」
と豪語するであろう。
だが、私の想像はもう少し先の出来事に及んでいる。
「国際競争力のないやつら」が「マーケットから退場」したあと、「どこ」に行くのか、
ということをあまり彼らは考えていない。
マーケットから退場した人々は「いくら安い賃金でもいいから使って下さい」と懇願する
「安価な労働力」を形成すると考えているのであろう。
だから、弱者の退場は人件費コストのカットに直結すると考えている。
でも、私はそれだけではすまされないと思う。
マーケットから退場させられるより先に、自主的にマーケットから撤収する人々が出てくる。
「国民たちの市場からの撤収」が起きるのではないかと私は予測している。
「もうマーケットはいいよ」というのが現に国民のおおかたの実感である。
額に汗して労働してわずかな貨幣を稼ぎ、その貨幣で税金の乗った高額の商品を買わされる
という市場中心の生き方そのものの被収奪感にもう「うんざり」し始めている。
これは健全なリアクションだ。
というのは、「労働を貨幣に替える。その貨幣で商品を買う」という行為だけに
経済活動が限定されているというのは、人類史的にはかなり最近の出来事だからである。
人類はその草創期からずっと経済活動を行ってきた。
経済活動とは要するに「財貨やサービスや情報をぐるぐる回す」ということである。
これを達成するためには、さまざまな人間的資源の開発が求められる。
取引ということが果たされるためにはまず度量衡が統一されなければならない。
共通の言語が要る。
パートナーを共軛する法律も要る。
信用とか為替とかいう概念も発明しなければいけない。
もちろん交通手段・通信手段の開発整備も必須である。
モノをぐるぐる回すゲームをするためには、「いろいろなもの」を作り出さないといけない。
モノそのものよりも、この「ゲームを円滑に進行するために必要なもの」に
人類学的な価値があることにわれわれの先祖は気づいた。
マリノフスキーやモースが報告している「クラ交易」の事例が教えるように、
交易において循環する「もの」には一次的な価値はない。
「もの」を適切かつ円滑に交易させることのできる人間的能力に価値がある。
それは将棋の駒にはほとんど使用価値も交換価値もないが、
将棋の駒を適切に操作することのできる人間的資質には汎用性があるというのと同じである。
貨幣や商品は本質的には「将棋の駒」である。
重要なのは「将棋を指す人間の中で活発に活動している人間的資質」の方である。
現に私たちがありがたがっている貨幣そのものにはいかなる使用価値もない。
洟もかめないし、メモも書けないし、暖房にもならない。
でも、貨幣を用いて商品をぐるぐる回すために人間にはさまざまな能力を開発せねばならず、
その能力には高い汎用性がある。
だが、今このポストグローバル資本主義社会においては、
「経済活動が人間的能力の開発を要求しない」という事態が出来した。
これは経済史的に前代未聞のことである。
「円高」とか「国債格付け」とかいうことは、
すでに実際の国富の多寡や生産物の質や市場の需要と無関係に語られている。
こういうファクターを決定しているのは「現実」ではなく「思惑」である。
「未来予測」であり、同一の未来予測を共有するプレイヤーの頭数である。
「貨幣で貨幣を買うゲーム」は「ゲームの次の展開」だけが重要であり、
「次はこういう展開になる」という「まだ起きていないことについての予測」が反転して
「これから起きること」を決定する。
不思議なゲームである。
ここで流れる時間は、人間的時間の流れとはもう違うものである。
ある意味で時間は止っているのである。
だから、この「貨幣で貨幣を買うゲーム」のプレイヤーには
どのような人間的資質も、市民的成熟も求められない。
そこで必要なのは適切な「数式」と高速度の「計算」だけである。
だから、金融工学についての十分な知識をもっていれば
「子ども」でも株や債券の売り買いについての適切なアルゴリズムを駆使して巨富を築くことができる。
現に、そうなっている。
今では人間に代わってコンピュータが一秒間に数千回というようなスピードで取引をしているのである。
グローバル経済はもう人間主体のものでもないし、人間的成熟を促すためのものでもない。
私たちはそのことにようやく気づき始めた。
「こんなのは経済活動ではない」ということに気づき始めた。
「こんなこと」はもう止めて、「本来の経済活動」に戻りたい。そう思い始めている。
私にはその徴候がはっきりと感じられる。
そのような人たちは今静かに「市場からの撤収」を開始している。
さまざまな財貨やサービスをすべて商品としてモジュール化し、
それを労働で得た貨幣で購入するという
ゲームの非合理性と「費用対効果の悪さ」にうんざりしてきたのである。
目の前に生きた労働主体が存在するなら、彼の労働をわざわざ商品化して、それを市場で買うことはない。
「ねえ、これやってくれる。僕が君の代わりにこれやるから」で話が済むなら、
その方がはるかに合理的である。
経済学的にはこれは「欲望の二重の一致」といって「ありえないこと」とされている。
だからこそ貨幣が生まれたとのだ、と説明される。
だが、ある程度のサイズの「顔の見える共同体」に帰属していると、
実際にはかなりの頻度で「欲望の二重の一致」が生じることがある。
これはやればわかる。
というか、欲望というのは自存するものではなく、
「それを満たすものが目の前に出現したとき」に発動するものなのである
(という洞察を語ったのは『羊たちの沈黙』におけるハンニバル・レクター博士である。
私は博士の人間観の深さにはつねに敬意を払うことにしている)。
だから、共同体に「いろいろな財貨やサービスや情報や技能」をたっぷり持っていて、
「誰か『これ』要らないかなあ」と思っている人が出入りしていると、
「あ、オレが欲しかったのは、『これ』なんだ」というかたちで欲望が発動すると
「欲望の二重の一致」はたちまち成就してしまう。
私の主宰する凱風館という武道の道場には約200人の人々が出入りしているが、
専門領域や特技を異にするこれだけの数の人がいると、
多様な相互扶助的なサービスのやりとりを貨幣を介在させずに行うことが可能になる。
今凱風館で行き交っている情報や知識や技術や品物の「やりとり」は、
それらひとつひとつがモジュールとして切り出されて、パッケージされて、
商品として市場で売り買いされた場合には、
かなりの額の貨幣を積み上げても手に入れることがむずかしい質のものである。
だが、凱風館では貨幣は用いられない。
ここでは、情報や技術や品物が必要なひとはその旨を告知しておけば、
そのうち誰かがそれを贈与してくれるからである。
この贈与に対する反対給付は「いつか」「どこかで」「誰かに」パスすることで相殺される。
いま贈与してくれた人も、かつて、どこかで誰かに「贈与されたもの」をここで
次の受け取り手に「パス」することによって反対給付を果たしているのである。
貨幣が介在しないことで、ここでは貨幣で買えるものも、貨幣では買えないものも、ともに行き交っている。
これはもうある種の「物々交換」と言ってもよいだろう。
そして、すでに日本の各地では、さまざまなサイズ、さまざまなタイプのネットワークを通じて、
このような「直接交換」が始まっている。
貨幣を媒介させるのは、「その方が話が速い」からであった。だが、
今は貨幣を媒介させた方が「話が遅い」という事態が出来している。
自分の創出した労働価値を貨幣に変えて、それで他の労働者の労働価値から形成された商品を買う
というプロセスでは、労働価値が賃金に変換される過程で収奪があり、
商品を売り買いする過程で中間マージンが抜かれ、商品価格にも資本家の収益分や税金分が乗せられている。
それなら、はじめから労働者同士で「はい、これ」「あ、ありがとう」で済ませた方がずっと話が速いし、
無駄がない。
例えば日本人の主食である米については、すでにその相当部分は市場を経由することなく、
生産者から知り合いの消費者に「直接」手渡されている。この趨勢はもう止らないだろうと私は思っている。
こういう活動は「表の経済」には指標として出てこない。
すでに始まりつつある「国民の市場からの静かな撤収」についての経済の「専門家」たちの見解を
メディアは報じないが、たぶんそれは彼らがそれについてまだ何も気づいていないからであろう。
一番敏感なのは就職を控えた若者たちである。
感度のよい若者たちはすでに自分たちを「エンプロイヤビリティ」の高い労働力として、
つまり「規格化されているので、いくらでも替えの効く」労働者として労働市場に投じるほど、
雇用条件が劣化するということに気づき始めた。
それなら、はじめから労働市場に身を投じることなく、「知り合い」のおじさんやおばさんに
「どこかありませんか」と訊ねて、「じゃあ、うちにおいでよ」と言ってくれる口があれば、
そこで働き始めるというかたちにした方がよほど無駄がない。
あまりに雇用条件を引き下げすぎたせいで、就活が過剰にストレスフルなものになり、
就活を通じて人間的成長どころか心身に病を得る者が増えたせいで、
労働市場から若者たちが撤収するという動きはすでに始まっている。
「市場からの撤収」は就活に限らず、あらゆるセクターでこれから加速してゆくだろう。
これからさき、ポスト・グローバリズムの社会では、
「貨幣を集めて、商品を買う」という単一のしかたでしか経済活動ができない人々と、
「贈与と反対給付のネットワークの中で生きてゆく」という経済活動の「本道」を歩む人々に
ゆっくりと二極化が進むものと私は見通している。
むろん、貨幣はこのネットワークが円滑に形成され、ひろがってゆくためにはきわめて効果的なアイテムであり、
「本道」の人々も要るだけの貨幣をやりとりする。
だが、貨幣はもう経済活動の目標ではなく、ネットワークに奉仕する道具にすぎない。
それが人間的成熟に資する限り貨幣は有用であり、人間的成熟を阻害するなら有害無用のものである。
このことは久しく「人類の常識」であったのだが、いつのまにかこの常識を語る人が少数派に転落したので、
あらためてここに記すのである。
↑
「国民経済」への回帰、ということですよ。
脱グローバリズム、ローカリズムの復権と言ってもよい、
手前の持論である「ゆるやかな鎖国への回帰」ですよ。