画は 初代 歌川 豊國 (しょだい うたがわ とよくに)
明和6年〈1769年〉~ 文政8年〈1825年〉
江戸時代の浮世絵師、多くの門弟を育て、幕末に至る歌川派の興隆をもたらした。
号は一陽齋。 作
高安左衛門直時 「中村歌右衛門」(三代目)
小女郎狐 「中村大吉」(初代) です。
☆雪。
稀代の貧乏神=下痢壺、「平成」はずーっと不景気、
◆http://www.asyura2.com/18/senkyo239/msg/722.html
投稿者: 赤かぶ 日時: 2018 年 2 月 11 日 kNSCqYLU
◎個人消費はなぜ低迷?
賃上げ恫喝よりも 消費税減税が先(日刊ゲンダイ)
▼http://www.asyura.us/imgup/img10/7239.jpg
☆https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/223101
日刊ゲンダイ 2018年2月11日 文字起こし
1989(平成元)年4月の消費税導入から、
もうすぐ30年目に突入する。
間もなく平成は終わるが、庶民の苦しみをヨソに、
消費税の歴史は まだまだ続く。
消費税率の10%引き上げは来年10月の予定だ。
教育無償化など使途の方針を打ち出し、安倍首相は「人づくり革命」とか
ホザいているが、さらなる増税がどれほどの混乱をもたらすのか。
増税が当たり前のようなムードがはびこる中、庶民は改めて考えた方がいい。
4年前の消費税率8%引き上げ以降、景気の推移は極めて低調だ。
実質GDPの成長率が7四半期連続でプラスを記録。
メディアは「IT景気以来約17年ぶり」と強調するが、
そのプラス幅はスズメの涙ほどだ。
その結果、2012年末の第2次安倍政権の発足以降の
実質GDP成長率平均値はプラス1.5%にとどまる。
東日本大震災に福島原発事故と未曽有の危機に見舞われた
民主党政権時代の平均値プラス1.8%を下回っているのだ。
経済アナリストの菊池英博氏はこう指摘する。
「4年前に 消費税増税を国民に押しつけて以来、
家庭の消費支出はマイナス続き。 加えて異次元緩和の円安政策で
円を一時50%も切り下げたため、輸入物価指数は高止まり。
輸入食品や水道光熱費の高騰に庶民生活は苦しめられてきた。
私の試算によると、異次元緩和に踏み切った13年以降、
労働者の実質賃金は年平均15万円も減り続けています。
うち8万円が消費増税、残り7万円が円安による輸入物価高騰が要因です。
黒田日銀の物価上昇率2%目標が失敗しているから、
家計のダメージはこの程度で抑えられているのに、
安倍首相も黒田総裁も自分のメンツが大事。
今なお物価上昇目標に固執し、庶民に負担増を強いるとは、
まるで悪魔のようです」
これでは個人消費が一向に上向かず、景気低迷も当然なのに、
安倍は経済失政の責任を棚上げ。
“官製春闘”で財界に「3%の賃上げを実現しろ」と迫っているのだから、
あきれるほかない。
☆3%賃上げは 焼け石に水のパフオーマンス
日経新聞の調査によれば、上場企業の半数が賃上げに前向きだというが、
日本の上場企業の数は約4000社に過ぎない。
日本の全法人数約400万社の0.1%で、さらに、
その半数しか賃上げに応じなければ全体の0.05%にとどまる。
「賃上げ目標の3%にもカラクリがあり、実はこの数字には
勤続年数や職能による『定期昇給』分も含まれています。
純粋な給与の上乗せ分は0.7%から1%だけ。
GDPの個人消費を1%増やすには約2兆円分の消費支出の上乗せが
必要ですが、すべての上場企業の給与が1%増えても、
年間の増加総額は5000億円にも満たない。
まったくもって“焼け石に水”です。
しょせん、安倍首相の賃上げ要請は『サラリーマンのために頑張っている』
というイメージを人々に植え付けるための
『印象操作』の効果しかないのです」
(経済評論家・斎藤満氏)
安倍が財界に対峙して恫喝まがいに賃上げを迫るのは、
恐らく消費増税に向けた地ならし。「3%」という数字を持ち出したのも
税率引き上げ分を相殺する狙いだろう。
前出の斎藤満氏がこう続ける。
「個人消費が かくも増えないのは、将来の見通しが暗いからです。
消費税率の引き上げに限らず、所得税や住民税の控除縮小が相次ぎ、
年金保険料は段階的に引き上げられ、
旧子ども手当の減額や所得制限の導入も実施。
家計が実質的に使える手取りのお金は目減りするばかりです。
大和総研の試算だと、片働きの4人家族で年収500万円の世帯で
11年に434万円だった手取り所得が、
2020年には404万円と30万円減。
年収1000万円なら同期間に768万円から、
711万円と57万円も減ります。
本気で景気を上向かせるには、国民負担を軽減するしかありません」
安倍は岸田政調会長との国会論戦で、
「経済再生なくして財政健全化なし。
税収を上げることで財政健全化を進める」と豪語したのだから、
なおさらだ。
働く人々は無能政権のデタラメを放置せず
声高に負担軽減を訴えるべきだ。
■増税強行は日本に致命傷を与えるだけ
消費税が導入された1989年度と2016年度の税収は
ともに約55兆円で同額だ。
ただ、27年後の税収構成は 消費税が14兆円も増えた一方で、
法人税は9兆円も減り、所得税も4兆円減った。
安倍政権下で法人税率を引き下げ、
富裕層の金融資産所得の低い税率を放置してきた結果だ。
多くの国民が思い込まされている「社会保障拡充のための消費税増税」
なんて幻想で、法人税や富裕層の所得税軽減のために
庶民から満遍なく消費税を巻き上げているのが、実態なのだ。
「法人税をいくら引き下げても経済効果がないことは、
史上初めて400兆円を超えた大企業の内部留保が証明しています。
低所得者ほど『逆進性』に苦しめられる消費税は、
格差の固定化にもつながります。
景気回復には、来年の消費税増税を凍結し、いっそ税率を5%に戻すのが近道。
その分の税収減は法人税率を引き上げて補えばいい。
増税で落ち込んだ個人消費を取り戻すには、消費減税しかありません」
(菊池英博氏=前出)
実質賃金や個人消費が低迷する中での消費増税強行は、
日本経済に致命傷を与えるだけ。
行き詰まったアベノミクスの 自爆テロ に等しい暴挙である。
豊國、二枚目、
「尾上菊五郎」 「中村大吉」です。
戦争狂=下痢壺w 「朝鮮特需」など実際はなかった、
◆http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2018/02/11/8786331
velvetmorning blog 2018/02/11
◎関係無いのに 米韓合同演習の再開を求め 拒否された安倍首相 ―
朝鮮半島を仲良くさせたくない馬鹿がおりまして、
それは朝鮮戦争で財を成し、
自らの罪を反故にして CIAになった一族 もそうであります。
当ブログは、朝鮮戦争止めろ派です。
こんなニュースが入ってきました。
以下引用
☆https://jp.sputniknews.com/politics/201802104564579/
スプートニク日本 2018年02月10日
安倍首相、米韓演習早期再開を要求 文大統領は拒否
韓国の文在寅大統領は9日の日韓首脳会談で、
すぐに米韓軍事演習を再開するよう求めた 安倍首相の要請を退けた。
韓国大統領府が10日に発表した。
文氏は「安倍首相が、北朝鮮の非核化において進展があるまで
米韓演習を延期しないよう要請した と理解している。
しかしこれは私たちの主権に関係するもので、内政干渉に当たる。
首相が直接言及することは 不適当だ」と述べた。
聯合ニュースが報じた。
以上引用
金正恩が文在寅を平壌に招待したそうだ。
南北朝鮮は、五輪を利用して和平に動いているようです。
1988年のソウル五輪は、大韓航空機爆破事件
(大韓航空機ディエゴガルシア島米軍基地着陸作戦)なんていう
CIAとKCIAの仕込みもありましたから、真相を知ってる人達は、
注意深くなりますよね。
☆http://www.bbc.com/japanese/video-42958248
メインアクター金賢姫(韓国国家安全保障局の妻で2児の母)が、
「北には圧力しか通じない」とか、
BBCのインタビューで答えているそうです。
以下引用
ソウル五輪を妨害するため大韓航空機爆破事件を実行した
北朝鮮の元工作員、金賢姫(キムヒョンヒ)元死刑囚が、
平昌(ピョンチャン)五輪を前に英BBC放送のインタビューに応じ、
北朝鮮には「圧力しか通じない」と、
五輪を巡る北朝鮮の融和姿勢を批判した。
以上引用
どういう人達が、平和になると困るのかが、見えてくるここ2ヶ月です。
ちなみに大韓航空機爆破事件
(大韓航空機ディエゴガルシア島米軍基地着陸作戦)は、
軍事クーデターで政権握った米陸軍特殊部隊の全斗煥大統領
(=光州事件で市民大虐殺)直系の 盧泰愚が、
初めて行われる選挙で勝つためもあったのだそうだ。
マレーシア航空の事件でディエゴガルシア島着陸を知った人には、
すんなり理解出来るはずですよね。
その背景には、米軍基地から 麻薬とか死体とか犯人とか、
様々なものが運ばれてこないと困る人達が 存在しております ですな。
日本も韓国も、米軍基地から自由に出入り出来てしまう 植民地です。
↑
米軍が地上戦に引きこまれたら、泥沼化 必至。
韓国軍は地上戦には弱いw ユダ米もまた然りだ。
南鮮からどっと、反日避難民が日本へ雪崩込む、
悪夢(済州島からの避難民)の再来です。
大阪民国がまた出来てしまう。
豊國、三枚目、
「松本幸四郎」 「中山富三郎」です。
日本有史上、最低最悪の指導者=昭和天皇、
蓄財と保身の権化、イルミナティ・悪魔ですよ。
作戦許可の決裁はすべて自分でやっておるくせに、
何が「馬鹿馬鹿しい戦闘」だよ!
◆http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54188
現代ビジネス 2018.01.24
◎「命が削られる音がした …」 沖縄水上特攻・生還者たちの証言
時代遅れの巨大戦艦「大和」とともに
☆「何とか生きて帰ろう」と思ったが …
「燃料は半分。飛行機の護衛はない」
今から73年前の1945年4月、駆逐艦「雪風」の寺内正道艦長は、
西崎信夫さん(91)たち乗員にそう話した。 「特攻だ」と。
「母親から『是が非でも生きて帰ってきなさい。それでこそ立派な兵隊ですよ』
と言われていました。
だから、『何とか生きて帰ろう』と思っていました」
実際、西崎さんは1944年、かつて世界最強を謳われた、
連合艦隊の機動部隊が壊滅した マリアナ沖海戦、
その連合艦隊自体が事実上壊滅した フィリピン沖海戦、
さらには護衛していた巨大空母「信濃」が
米潜水艦に撃沈された海戦からも生きて帰った。
しかし「特攻」と聞いた時は「『いよいよこれはダメだ』と」。
第二次世界大戦末期、
劣勢の大日本帝国陸海軍が進めた特別攻撃隊=「特攻」について、
筆者は昨年3回、現代ビジネスに寄稿した。
いずれも戦闘機や爆撃機などが爆弾もろとも敵艦に突っ込む「航空特攻」
について取り上げたものだ。
しかし、特攻にはそれ以外にも
水上の軍艦による特攻(水上特攻)や
小型潜水艦などによる特攻(水中特攻)があった。
ドラマや小説、ノンフィクションでも繰り返し描かれてきた航空特攻ほどは
知られていないだろう。
だが、これらの特攻では航空特攻に匹敵するほど
多くの兵士たちが死んでいった。
「水上特攻」の代表は、
戦艦「大和」など10隻による沖縄水上特攻がそれである。
筆者はこれまで、「大和」を中心にこの特攻から生還した人たち30人近くに
取材をしてきた。
本稿では、この「特攻・大和艦隊」のことを振り返ってみたい。
☆「世界最強」のはずが…
1941(昭和16)年12月に始まった 米英などとの戦争で、
大日本帝国は当初、勝利を重ねた。
だが連合国軍が体制を整え 本格的な反攻を始めると、劣勢に転じた。
決定的だったのは1944年。
ことに7月、サイパンやグアムなどマリアナ諸島を米軍に占領されたことだ。
米軍がここを拠点に、大型爆撃機B29による 日本本土爆撃が可能になった。
そのことを、日本の為政者たちは知っていた。
だが、戦争をやめなかった。
そのため被害は拡大した。
戦争による日本人死者310万人のうち、
実に9割が1944年以降と推算されている
(『日本軍兵士――アジア・太平洋戦争の現実』吉田裕著・中公新書)。
同年10月には、フィリピン戦線で航空特攻が始まった。
「大和」など連合艦隊の主力が、フィリピン・レイテ島に上陸した米軍を
撃退すべく、航空機の援護がないままに出撃した乾坤一擲の戦いであった。
「大和」は開戦間もない1941年12月16日に竣工した。
全長263メートル、全幅38・9メートル。基準排水量6万5000トン。
「世界最大」の戦艦であった。
また戦艦の存在価値は主砲で決まる。
「大和」の主砲は四六センチ砲九門で、最大射程距離は四二キロ。
同時代の、他のどの国の戦艦より主砲が大きく、射程距離は長かった。
▼http://gendai.ismcdn.jp/mwimgs/3/6/640m/
img_3667f11e51a12add4fdee315311459882189698.jpg
「大和」は「アウト・レンジ」戦法、つまり敵艦の砲弾が届かないところから、
その巨砲で一方的に攻撃することができるはずだった。
「世界最強」と謳われた所以である。
これは、敵味方の戦艦が主砲を打ち合って雌雄を決する
(たとえば1905年、日露戦争の日本海海戦)という
戦術思想に基づくものである。
また、航空機は戦艦を沈められない、という前提もあった。
ところが航空機の発達により、海戦の主力は戦艦から航空機と
それを積む航空母艦(空母)を中心とした機動部隊 に移っていった。
「大和」は、誕生した時点で時代遅れの巨大兵器だった。
帝国海軍が期待したような、アウト・レンジで敵艦隊を撃滅する
ことはなかった。そもそも、「大和」にはそういう戦闘場面すらなかった。
「大和」が期待された戦果を挙げられなかったのは、
海軍が使い道を 対水上艦隊にこだわり続けた せいでもある。
たとえば早くから機動部隊の護衛として、
あるいは上陸した米軍を艦砲射撃で叩くことに使用されていれば、
それなりの戦果を挙げただろう。
☆水上部隊だけ何もしないわけには
ともあれ戦局の大きな節目となった1944年は、
帝国海軍にとっても最悪の年になった。
まず7月、前述のマリアナ諸島を守るべく出撃したマリアナ沖海戦で
米海軍に惨敗。 かつて世界最強だった機動部隊が壊滅した。
さらに10月には、前述のレイテ島を巡る海戦で
連合艦隊そのものが事実上壊滅した。
「大和」とともに「浮沈艦」と言われた姉妹艦の「武蔵」も撃沈された。
為政者たちが ずるずると勝ち目のない戦いを続けるうち、
敵は日本本土に近づいてきた。
そして1945年4月1日、米軍が沖縄に上陸した。
この米軍を撃退するために出撃したのが「大和」特攻艦隊である。
「大和」以下、軽巡洋艦「矢矧」、駆逐艦「磯風」「濱風」「朝霜」
「霞」「冬月」「涼月」「雪風」「初霜」からなる
「第二艦隊」の10隻であった。
航空機の援護 を持たない艦隊は、敵の機動部隊には勝てない。
勝てないどころか惨敗を喫する。
そのことは、ほんの半年前、フィリピン近海で学んでいたはずだ。
さらに沖縄近海を遊弋する米海軍の戦力は、
機動部隊以外でも「大和」艦隊を桁外れに上回っていた。
たった10隻でそこに殴り込んでも、勝算はほとんどない。
そもそも沖縄にたどり着くことすら極めて難しい。
無謀そのものの「作戦」だった。
このため海軍内部では反対論が強かった。
第二艦隊でも伊藤整一司令長官以下、なかなか賛成しなかった。
こうした、失敗の可能性が極めて高い特攻が発令されるには、
いくつかの背景がある。
まず、底が見えてきた燃料事情だ。
開戦直後に侵攻した、東南アジアの石油産出地域は占領を続けていた。
しかしそれを運ぶ補給路を連合国軍に押さえられているため、
運ぶことができない。
備蓄の燃料が少なくなる中、膨大な燃料を消費する巨艦は
「厄介もの」扱いされつつあった。
さらに連合艦隊参謀長だった草鹿龍之介の証言によれば
「一部の者は激化する敵空襲に曝して
何等なすところなく潰え去るその末期を憂慮し、
かつまた全軍特攻として敢闘している際、
水上部隊のみが拱手傍観はその意を得ぬ というような考えから、
これが早期使用に焦慮していた」(『聯合艦隊』)という雰囲気があった。
つまり、このままでは敵の空襲でなにもしないままやられてしまう。
あるいは航空特攻を初めとして「全軍特攻」を標榜する中、
水上部隊だけがなにもしないというわけにはいかない、といった危機感だ。
☆昭和天皇への「忖度」
さらに、昭和天皇の影響もあった。
2014年9月、宮内庁が公開した『昭和天皇実録』(『実録』)には
以下の記述がある(1945年3月26日の項)。
「御文庫において 軍令部総長及川古志郎に 謁を賜う。
なおこの日午前十一時二分、聯合艦隊司令長官は天一号作戦の発動を令する」
と記されている。
「天一号作戦」とは、沖縄方面での航空特攻を主体とするもの。
及川が作戦の詳細を説明したとみられる。
さらに4日後の30日、天皇は及川に会い
「天一号作戦に関する御言葉への 連合艦隊司令長官よりの奉答を受け」
(『実録』)た。
及川が答えを言うからには、昭和天皇から何か質問されたはずだ。
『実録』はその内容を記していない。
しかし、その会話をうかがうヒントがある。
宇垣纏(まとめ)海軍中将の日記『戦藻録』だ。
1945年4月7日、つまり「大和」が撃沈されたその日に以下の記述がある。
「抑々(そもそも)茲(ここ)に至れる主因は
軍令部総長奏上の際 航空部隊丈の総攻撃なるや の御下問に対し、
海軍の全兵力を使用致すと 奉答せるに在りと伝ふ」
宇垣によれば、沖縄の作戦に関し及川から説明を受けた天皇は
「航空部隊だけか」という趣旨の「御下問」をした。
「水上部隊はどうするのだ。『大和』は出撃しないのか」と
催促したわけではない。
しかし、及川は 大元帥=昭和天皇 の意志を忖度した。
それが第二艦隊の特攻につながったとみられる。
とはいえ、昭和天皇の言葉だけで特攻が決まったわけではない。
前述のように、もともと海軍の一部には、
「大和」を特攻させたい勢力があった。
昭和天皇の一言は、そうした勢力を後押ししたのだ。
しかし、第二艦隊は特攻に納得しなかった。
連合艦隊からは説得のため、草鹿龍之介参謀長(中将)を
山口県・徳山沖に停泊する「大和」に向かわせた。
納得しない伊藤らに対し、草鹿は言った。
「要するに、一億総特攻のさきがけ になってもらいたい」
一億=国民すべてが 本当に特攻したら、国家も民族も消滅する。
それでは戦争を続ける意味がない。
「一億総特攻」は比喩でしかない。
草鹿の言葉はおよそ論理的ではないが、論理を超えた説得力があったようだ。
「とにかく特攻してほしい」。
そういう連合艦隊の本音に対し、
伊藤は「そうか、それなら分かった」と応じた。
☆自分の命が削られていく音
1945年4月6日、午後3時45分。
豊田連合艦隊司令長官は第二艦隊に電文を発した。
「(前略)帝国部隊ハ陸軍ト協力 空海陸ノ全力ヲ挙ゲテ
沖縄島周辺ノ敵艦船ニ対スル攻撃ヲ 決行セントスル。
皇国ノ興廃ハ正ニ此ノ一挙ニアリ
茲ニ 殊ニ 海上特攻隊ヲ編成 壮烈無比ノ突入作戦ヲ命ジタル(後略)」
この「特攻」を「命令」していることを確認しておきたい。
というのは戦後、特攻を指揮した将官などが「特攻は兵士たちの意志だった」
といった旨の発言をし、今日に至るまでそう信じられているむきがあるからだ。
自らの意志で特攻に飛び立った兵士は、確かに多かった。
しかし、そうではない兵士もたくさんいた。
筆者はこれまで、実際に特攻で出撃した兵士30人に取材してきた。
この中に、特攻するかしないか 選択を任された者は1人もいなかった。
特攻「大和」艦隊の人々がそうであるように、
初めから特攻と決まった「作戦」に 送り出された者がいたのだ。
根拠もなく「意志だった」と言い張る将官は、
そうでないと自分の責任が追及されることを恐れてのことか、
そうでなければ自分に催眠術をかけて罪の意識から逃れようとしたのだろう。
艦隊による「特攻」を知った「雪風」の西崎さんは、
居住区で瞑想していた。
「父の形見の腕時計をしていたんです。ふだんは聞こえない、
『カチカチ』という音、秒針の音が聞こえました。
自分の命が削られていく気がしました」
1942年に海軍特別年少兵一期生として入団した西崎さんはこのとき19歳。
「酒も女も知らないで死ぬのか」と戦友に話すと
「俺は国のためではなく、家族のために戦う」と言った。
「おれも家族、それに友だちのために戦おう」と応じた。
同4月6日、前述の10隻からなる第二艦隊が沖縄を目指して
山口県・徳山沖を出撃した。
開戦前、米英とならぶ世界屈指の軍事力を誇った帝国海軍が、
最後に送り出した艦隊となった。
沖縄の陸軍は米軍に押されつつあったが、翌日反転攻勢に出る計画であり、
特攻「大和」艦隊はこれに呼応する狙いもあった。
連合艦隊の方針では、航空機による援護はしないことになっていた。
だが翌7日、かつて「大和」に乗っており、
この時は鹿児島県鹿屋を基地とする第五航空艦隊司令長官だった宇垣は、
自身の判断で特攻「大和」艦隊の直衛機を出した。 しかしわずか10機。
時間は午前6時から10時までだけだった。
そのわずかな護衛機がいなくなるのを見計らったように、
米軍機の空襲は正午ごろから始まった。
それ以降の凄惨な戦闘については、拙著『戦艦大和 生還者たちの証言から』
(岩波新書、2007年)を参照して頂きたい。
☆水上特攻の成果は…
「世界最強」と謳われた戦艦「大和」は
実質2時間程度の戦闘で撃沈された。
乗員3332人のうち、伊藤司令長官ら3056人が戦死した。
生還者は276人。 一割にも満たなかった。
軽巡洋艦「矢矧」と駆逐艦「磯風」、さらに「濱風」「朝霜」「霞」も沈んだ。
艦隊全体では4044人が死んだ(前掲『戦艦大和 生還者たちの証言から』)。
この水上特攻で米軍が直接的に被ったのは
戦闘機3、爆撃機4、雷撃機3の計10機の損失と戦死が12人。
これが「大和」以下六隻と、4044人の命と引き替えた、直接的な戦果である。
鉄板に卵を投げつけたような戦いだった。
沖縄を取り巻く米軍を蹴散らすどころか、敵艦の陰すらみることはなかった。
無残な失敗の責任は、もちろん4044人にはかけらもない。
この「作戦」を進めた海軍上層部にこそある。
そしてその責任を負うべき者たちは、決して第一線には行かなかった。
さらに陸軍が予定していた4月7日の反転攻勢は延期された
(12日に実施し失敗した)。
宇垣は、この戦いについて海軍上層部を激しく批判した。
「全軍の士気を高揚せんとして 反りて悲惨なる結果を招き
痛憤復讐の念を抱かしむる外 何等得る処無き
無謀の挙 と云はずして何ぞや」(前掲『戦藻録』)
士気を高めるためだったが、悲惨な結果となった。
「復讐してやる」という気持ちを抱かせただけで、
何も得るところがない無謀なことだった。そういう意味だ。
☆さらなる苦難
さて沈没する「大和」などから離れ助かった兵士たちには、
さらなる苦難があった。
「大和」大爆発の後、あたり一面は重油の海となった。
生き延びるためには、その海を漂いながら
駆逐艦に救助されなければならない。
疲れ切り、あるいは負傷した兵士たちには酷に過ぎた。
駆逐艦側も、敵の制空権内に長く留まるのは極めて危険だった。
西崎さんの乗った「雪風」は舷側からロープを下ろして
兵士たちを収容した。 人間一人をひっぱりあげるのは相当な苦労だ。
しかも、西崎さんは戦闘中、機銃弾が左足を貫通する傷を負っていた。
それでも「火事場の馬鹿力」を振り絞った。
助けられる方は「疲れているし、重油ですべるから
なかなか上がってこられない」。
1本のロープに2人がぶらさがった。とても引き上げられない。
「そういう時は、棒で一人の腕を叩きました」。
叩かれた兵士は海に落ちた。 その後どうなったのかは分からない。
「そういう業(ごう)があるんですよ……」。
西崎さんは70余年前のその光景を今も脳裏に刻んでいる。
特攻「大和」艦隊のように、船もろとも沈んだ遺体は
ほとんどの場合、回収されない。
第二次世界大戦では
およそ30万人もの日本人がこうした「海没遺骨」となった。
無謀な作戦を遂行した者たちが、陸地で寿命を全うし、
人によっては国会議員などになり 再び国策遂行に関わった
ことを考え合わせると、戦後日本のありようが立体的に見えてくるだろう。
さて昭和天皇は敗戦後、この「大和」特攻について語っている。
沖縄戦を振り返る中で、
「とつておきの大和をこの際出動させた、之(これ)も飛行機の連絡なしで
出したものだから失敗した」とし、
「作戦不一致、全く馬鹿馬鹿(ばかばか)しい戦闘であつた」と断じた
(『昭和天皇独白録』)。
筆者に特殊な能力があったら、
4000人以上の死者たちにこの評を知らせたいものだ。
栗原 俊雄
↑
田布施・大室天皇家は日本に災いをもたらす、
弑逆された孝明天皇の祟(たたり)ですよ、
正閏(せいじゅん)北朝(京都で祭祀を専らにする) 再興あるのみでは?
切れかかった共同幻想としての「万世一系」を救ったのが新井白石、
新井白石が幕府の中枢にいた時代、
宮家は 『有栖川』 『桂』 『伏見』 の三家しかなく、
跡継ぎがいなくなる怖れがあり、新たに『閑院宮』を作りました。
このように先手をうつと杞憂に終わるのが常なのですが、
後桃園天皇崩御の際、ほんとに跡継ぎがいなくなりました。
そこで、閑院宮に聖護院に預けた祐宮(さちのみや)がいたじゃないか、
ということで、出家予定の宮を連れてきて、即位させたのが
光格天皇です。
光格天皇、仁孝天皇、孝明天皇、と続くわけです。
京都に血縁の公家の子息が、何名かおるようですよ。
明和6年〈1769年〉~ 文政8年〈1825年〉
江戸時代の浮世絵師、多くの門弟を育て、幕末に至る歌川派の興隆をもたらした。
号は一陽齋。 作
高安左衛門直時 「中村歌右衛門」(三代目)
小女郎狐 「中村大吉」(初代) です。
☆雪。
稀代の貧乏神=下痢壺、「平成」はずーっと不景気、
◆http://www.asyura2.com/18/senkyo239/msg/722.html
投稿者: 赤かぶ 日時: 2018 年 2 月 11 日 kNSCqYLU
◎個人消費はなぜ低迷?
賃上げ恫喝よりも 消費税減税が先(日刊ゲンダイ)
▼http://www.asyura.us/imgup/img10/7239.jpg
☆https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/223101
日刊ゲンダイ 2018年2月11日 文字起こし
1989(平成元)年4月の消費税導入から、
もうすぐ30年目に突入する。
間もなく平成は終わるが、庶民の苦しみをヨソに、
消費税の歴史は まだまだ続く。
消費税率の10%引き上げは来年10月の予定だ。
教育無償化など使途の方針を打ち出し、安倍首相は「人づくり革命」とか
ホザいているが、さらなる増税がどれほどの混乱をもたらすのか。
増税が当たり前のようなムードがはびこる中、庶民は改めて考えた方がいい。
4年前の消費税率8%引き上げ以降、景気の推移は極めて低調だ。
実質GDPの成長率が7四半期連続でプラスを記録。
メディアは「IT景気以来約17年ぶり」と強調するが、
そのプラス幅はスズメの涙ほどだ。
その結果、2012年末の第2次安倍政権の発足以降の
実質GDP成長率平均値はプラス1.5%にとどまる。
東日本大震災に福島原発事故と未曽有の危機に見舞われた
民主党政権時代の平均値プラス1.8%を下回っているのだ。
経済アナリストの菊池英博氏はこう指摘する。
「4年前に 消費税増税を国民に押しつけて以来、
家庭の消費支出はマイナス続き。 加えて異次元緩和の円安政策で
円を一時50%も切り下げたため、輸入物価指数は高止まり。
輸入食品や水道光熱費の高騰に庶民生活は苦しめられてきた。
私の試算によると、異次元緩和に踏み切った13年以降、
労働者の実質賃金は年平均15万円も減り続けています。
うち8万円が消費増税、残り7万円が円安による輸入物価高騰が要因です。
黒田日銀の物価上昇率2%目標が失敗しているから、
家計のダメージはこの程度で抑えられているのに、
安倍首相も黒田総裁も自分のメンツが大事。
今なお物価上昇目標に固執し、庶民に負担増を強いるとは、
まるで悪魔のようです」
これでは個人消費が一向に上向かず、景気低迷も当然なのに、
安倍は経済失政の責任を棚上げ。
“官製春闘”で財界に「3%の賃上げを実現しろ」と迫っているのだから、
あきれるほかない。
☆3%賃上げは 焼け石に水のパフオーマンス
日経新聞の調査によれば、上場企業の半数が賃上げに前向きだというが、
日本の上場企業の数は約4000社に過ぎない。
日本の全法人数約400万社の0.1%で、さらに、
その半数しか賃上げに応じなければ全体の0.05%にとどまる。
「賃上げ目標の3%にもカラクリがあり、実はこの数字には
勤続年数や職能による『定期昇給』分も含まれています。
純粋な給与の上乗せ分は0.7%から1%だけ。
GDPの個人消費を1%増やすには約2兆円分の消費支出の上乗せが
必要ですが、すべての上場企業の給与が1%増えても、
年間の増加総額は5000億円にも満たない。
まったくもって“焼け石に水”です。
しょせん、安倍首相の賃上げ要請は『サラリーマンのために頑張っている』
というイメージを人々に植え付けるための
『印象操作』の効果しかないのです」
(経済評論家・斎藤満氏)
安倍が財界に対峙して恫喝まがいに賃上げを迫るのは、
恐らく消費増税に向けた地ならし。「3%」という数字を持ち出したのも
税率引き上げ分を相殺する狙いだろう。
前出の斎藤満氏がこう続ける。
「個人消費が かくも増えないのは、将来の見通しが暗いからです。
消費税率の引き上げに限らず、所得税や住民税の控除縮小が相次ぎ、
年金保険料は段階的に引き上げられ、
旧子ども手当の減額や所得制限の導入も実施。
家計が実質的に使える手取りのお金は目減りするばかりです。
大和総研の試算だと、片働きの4人家族で年収500万円の世帯で
11年に434万円だった手取り所得が、
2020年には404万円と30万円減。
年収1000万円なら同期間に768万円から、
711万円と57万円も減ります。
本気で景気を上向かせるには、国民負担を軽減するしかありません」
安倍は岸田政調会長との国会論戦で、
「経済再生なくして財政健全化なし。
税収を上げることで財政健全化を進める」と豪語したのだから、
なおさらだ。
働く人々は無能政権のデタラメを放置せず
声高に負担軽減を訴えるべきだ。
■増税強行は日本に致命傷を与えるだけ
消費税が導入された1989年度と2016年度の税収は
ともに約55兆円で同額だ。
ただ、27年後の税収構成は 消費税が14兆円も増えた一方で、
法人税は9兆円も減り、所得税も4兆円減った。
安倍政権下で法人税率を引き下げ、
富裕層の金融資産所得の低い税率を放置してきた結果だ。
多くの国民が思い込まされている「社会保障拡充のための消費税増税」
なんて幻想で、法人税や富裕層の所得税軽減のために
庶民から満遍なく消費税を巻き上げているのが、実態なのだ。
「法人税をいくら引き下げても経済効果がないことは、
史上初めて400兆円を超えた大企業の内部留保が証明しています。
低所得者ほど『逆進性』に苦しめられる消費税は、
格差の固定化にもつながります。
景気回復には、来年の消費税増税を凍結し、いっそ税率を5%に戻すのが近道。
その分の税収減は法人税率を引き上げて補えばいい。
増税で落ち込んだ個人消費を取り戻すには、消費減税しかありません」
(菊池英博氏=前出)
実質賃金や個人消費が低迷する中での消費増税強行は、
日本経済に致命傷を与えるだけ。
行き詰まったアベノミクスの 自爆テロ に等しい暴挙である。
豊國、二枚目、
「尾上菊五郎」 「中村大吉」です。
戦争狂=下痢壺w 「朝鮮特需」など実際はなかった、
◆http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2018/02/11/8786331
velvetmorning blog 2018/02/11
◎関係無いのに 米韓合同演習の再開を求め 拒否された安倍首相 ―
朝鮮半島を仲良くさせたくない馬鹿がおりまして、
それは朝鮮戦争で財を成し、
自らの罪を反故にして CIAになった一族 もそうであります。
当ブログは、朝鮮戦争止めろ派です。
こんなニュースが入ってきました。
以下引用
☆https://jp.sputniknews.com/politics/201802104564579/
スプートニク日本 2018年02月10日
安倍首相、米韓演習早期再開を要求 文大統領は拒否
韓国の文在寅大統領は9日の日韓首脳会談で、
すぐに米韓軍事演習を再開するよう求めた 安倍首相の要請を退けた。
韓国大統領府が10日に発表した。
文氏は「安倍首相が、北朝鮮の非核化において進展があるまで
米韓演習を延期しないよう要請した と理解している。
しかしこれは私たちの主権に関係するもので、内政干渉に当たる。
首相が直接言及することは 不適当だ」と述べた。
聯合ニュースが報じた。
以上引用
金正恩が文在寅を平壌に招待したそうだ。
南北朝鮮は、五輪を利用して和平に動いているようです。
1988年のソウル五輪は、大韓航空機爆破事件
(大韓航空機ディエゴガルシア島米軍基地着陸作戦)なんていう
CIAとKCIAの仕込みもありましたから、真相を知ってる人達は、
注意深くなりますよね。
☆http://www.bbc.com/japanese/video-42958248
メインアクター金賢姫(韓国国家安全保障局の妻で2児の母)が、
「北には圧力しか通じない」とか、
BBCのインタビューで答えているそうです。
以下引用
ソウル五輪を妨害するため大韓航空機爆破事件を実行した
北朝鮮の元工作員、金賢姫(キムヒョンヒ)元死刑囚が、
平昌(ピョンチャン)五輪を前に英BBC放送のインタビューに応じ、
北朝鮮には「圧力しか通じない」と、
五輪を巡る北朝鮮の融和姿勢を批判した。
以上引用
どういう人達が、平和になると困るのかが、見えてくるここ2ヶ月です。
ちなみに大韓航空機爆破事件
(大韓航空機ディエゴガルシア島米軍基地着陸作戦)は、
軍事クーデターで政権握った米陸軍特殊部隊の全斗煥大統領
(=光州事件で市民大虐殺)直系の 盧泰愚が、
初めて行われる選挙で勝つためもあったのだそうだ。
マレーシア航空の事件でディエゴガルシア島着陸を知った人には、
すんなり理解出来るはずですよね。
その背景には、米軍基地から 麻薬とか死体とか犯人とか、
様々なものが運ばれてこないと困る人達が 存在しております ですな。
日本も韓国も、米軍基地から自由に出入り出来てしまう 植民地です。
↑
米軍が地上戦に引きこまれたら、泥沼化 必至。
韓国軍は地上戦には弱いw ユダ米もまた然りだ。
南鮮からどっと、反日避難民が日本へ雪崩込む、
悪夢(済州島からの避難民)の再来です。
大阪民国がまた出来てしまう。
豊國、三枚目、
「松本幸四郎」 「中山富三郎」です。
日本有史上、最低最悪の指導者=昭和天皇、
蓄財と保身の権化、イルミナティ・悪魔ですよ。
作戦許可の決裁はすべて自分でやっておるくせに、
何が「馬鹿馬鹿しい戦闘」だよ!
◆http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54188
現代ビジネス 2018.01.24
◎「命が削られる音がした …」 沖縄水上特攻・生還者たちの証言
時代遅れの巨大戦艦「大和」とともに
☆「何とか生きて帰ろう」と思ったが …
「燃料は半分。飛行機の護衛はない」
今から73年前の1945年4月、駆逐艦「雪風」の寺内正道艦長は、
西崎信夫さん(91)たち乗員にそう話した。 「特攻だ」と。
「母親から『是が非でも生きて帰ってきなさい。それでこそ立派な兵隊ですよ』
と言われていました。
だから、『何とか生きて帰ろう』と思っていました」
実際、西崎さんは1944年、かつて世界最強を謳われた、
連合艦隊の機動部隊が壊滅した マリアナ沖海戦、
その連合艦隊自体が事実上壊滅した フィリピン沖海戦、
さらには護衛していた巨大空母「信濃」が
米潜水艦に撃沈された海戦からも生きて帰った。
しかし「特攻」と聞いた時は「『いよいよこれはダメだ』と」。
第二次世界大戦末期、
劣勢の大日本帝国陸海軍が進めた特別攻撃隊=「特攻」について、
筆者は昨年3回、現代ビジネスに寄稿した。
いずれも戦闘機や爆撃機などが爆弾もろとも敵艦に突っ込む「航空特攻」
について取り上げたものだ。
しかし、特攻にはそれ以外にも
水上の軍艦による特攻(水上特攻)や
小型潜水艦などによる特攻(水中特攻)があった。
ドラマや小説、ノンフィクションでも繰り返し描かれてきた航空特攻ほどは
知られていないだろう。
だが、これらの特攻では航空特攻に匹敵するほど
多くの兵士たちが死んでいった。
「水上特攻」の代表は、
戦艦「大和」など10隻による沖縄水上特攻がそれである。
筆者はこれまで、「大和」を中心にこの特攻から生還した人たち30人近くに
取材をしてきた。
本稿では、この「特攻・大和艦隊」のことを振り返ってみたい。
☆「世界最強」のはずが…
1941(昭和16)年12月に始まった 米英などとの戦争で、
大日本帝国は当初、勝利を重ねた。
だが連合国軍が体制を整え 本格的な反攻を始めると、劣勢に転じた。
決定的だったのは1944年。
ことに7月、サイパンやグアムなどマリアナ諸島を米軍に占領されたことだ。
米軍がここを拠点に、大型爆撃機B29による 日本本土爆撃が可能になった。
そのことを、日本の為政者たちは知っていた。
だが、戦争をやめなかった。
そのため被害は拡大した。
戦争による日本人死者310万人のうち、
実に9割が1944年以降と推算されている
(『日本軍兵士――アジア・太平洋戦争の現実』吉田裕著・中公新書)。
同年10月には、フィリピン戦線で航空特攻が始まった。
「大和」など連合艦隊の主力が、フィリピン・レイテ島に上陸した米軍を
撃退すべく、航空機の援護がないままに出撃した乾坤一擲の戦いであった。
「大和」は開戦間もない1941年12月16日に竣工した。
全長263メートル、全幅38・9メートル。基準排水量6万5000トン。
「世界最大」の戦艦であった。
また戦艦の存在価値は主砲で決まる。
「大和」の主砲は四六センチ砲九門で、最大射程距離は四二キロ。
同時代の、他のどの国の戦艦より主砲が大きく、射程距離は長かった。
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「大和」は「アウト・レンジ」戦法、つまり敵艦の砲弾が届かないところから、
その巨砲で一方的に攻撃することができるはずだった。
「世界最強」と謳われた所以である。
これは、敵味方の戦艦が主砲を打ち合って雌雄を決する
(たとえば1905年、日露戦争の日本海海戦)という
戦術思想に基づくものである。
また、航空機は戦艦を沈められない、という前提もあった。
ところが航空機の発達により、海戦の主力は戦艦から航空機と
それを積む航空母艦(空母)を中心とした機動部隊 に移っていった。
「大和」は、誕生した時点で時代遅れの巨大兵器だった。
帝国海軍が期待したような、アウト・レンジで敵艦隊を撃滅する
ことはなかった。そもそも、「大和」にはそういう戦闘場面すらなかった。
「大和」が期待された戦果を挙げられなかったのは、
海軍が使い道を 対水上艦隊にこだわり続けた せいでもある。
たとえば早くから機動部隊の護衛として、
あるいは上陸した米軍を艦砲射撃で叩くことに使用されていれば、
それなりの戦果を挙げただろう。
☆水上部隊だけ何もしないわけには
ともあれ戦局の大きな節目となった1944年は、
帝国海軍にとっても最悪の年になった。
まず7月、前述のマリアナ諸島を守るべく出撃したマリアナ沖海戦で
米海軍に惨敗。 かつて世界最強だった機動部隊が壊滅した。
さらに10月には、前述のレイテ島を巡る海戦で
連合艦隊そのものが事実上壊滅した。
「大和」とともに「浮沈艦」と言われた姉妹艦の「武蔵」も撃沈された。
為政者たちが ずるずると勝ち目のない戦いを続けるうち、
敵は日本本土に近づいてきた。
そして1945年4月1日、米軍が沖縄に上陸した。
この米軍を撃退するために出撃したのが「大和」特攻艦隊である。
「大和」以下、軽巡洋艦「矢矧」、駆逐艦「磯風」「濱風」「朝霜」
「霞」「冬月」「涼月」「雪風」「初霜」からなる
「第二艦隊」の10隻であった。
航空機の援護 を持たない艦隊は、敵の機動部隊には勝てない。
勝てないどころか惨敗を喫する。
そのことは、ほんの半年前、フィリピン近海で学んでいたはずだ。
さらに沖縄近海を遊弋する米海軍の戦力は、
機動部隊以外でも「大和」艦隊を桁外れに上回っていた。
たった10隻でそこに殴り込んでも、勝算はほとんどない。
そもそも沖縄にたどり着くことすら極めて難しい。
無謀そのものの「作戦」だった。
このため海軍内部では反対論が強かった。
第二艦隊でも伊藤整一司令長官以下、なかなか賛成しなかった。
こうした、失敗の可能性が極めて高い特攻が発令されるには、
いくつかの背景がある。
まず、底が見えてきた燃料事情だ。
開戦直後に侵攻した、東南アジアの石油産出地域は占領を続けていた。
しかしそれを運ぶ補給路を連合国軍に押さえられているため、
運ぶことができない。
備蓄の燃料が少なくなる中、膨大な燃料を消費する巨艦は
「厄介もの」扱いされつつあった。
さらに連合艦隊参謀長だった草鹿龍之介の証言によれば
「一部の者は激化する敵空襲に曝して
何等なすところなく潰え去るその末期を憂慮し、
かつまた全軍特攻として敢闘している際、
水上部隊のみが拱手傍観はその意を得ぬ というような考えから、
これが早期使用に焦慮していた」(『聯合艦隊』)という雰囲気があった。
つまり、このままでは敵の空襲でなにもしないままやられてしまう。
あるいは航空特攻を初めとして「全軍特攻」を標榜する中、
水上部隊だけがなにもしないというわけにはいかない、といった危機感だ。
☆昭和天皇への「忖度」
さらに、昭和天皇の影響もあった。
2014年9月、宮内庁が公開した『昭和天皇実録』(『実録』)には
以下の記述がある(1945年3月26日の項)。
「御文庫において 軍令部総長及川古志郎に 謁を賜う。
なおこの日午前十一時二分、聯合艦隊司令長官は天一号作戦の発動を令する」
と記されている。
「天一号作戦」とは、沖縄方面での航空特攻を主体とするもの。
及川が作戦の詳細を説明したとみられる。
さらに4日後の30日、天皇は及川に会い
「天一号作戦に関する御言葉への 連合艦隊司令長官よりの奉答を受け」
(『実録』)た。
及川が答えを言うからには、昭和天皇から何か質問されたはずだ。
『実録』はその内容を記していない。
しかし、その会話をうかがうヒントがある。
宇垣纏(まとめ)海軍中将の日記『戦藻録』だ。
1945年4月7日、つまり「大和」が撃沈されたその日に以下の記述がある。
「抑々(そもそも)茲(ここ)に至れる主因は
軍令部総長奏上の際 航空部隊丈の総攻撃なるや の御下問に対し、
海軍の全兵力を使用致すと 奉答せるに在りと伝ふ」
宇垣によれば、沖縄の作戦に関し及川から説明を受けた天皇は
「航空部隊だけか」という趣旨の「御下問」をした。
「水上部隊はどうするのだ。『大和』は出撃しないのか」と
催促したわけではない。
しかし、及川は 大元帥=昭和天皇 の意志を忖度した。
それが第二艦隊の特攻につながったとみられる。
とはいえ、昭和天皇の言葉だけで特攻が決まったわけではない。
前述のように、もともと海軍の一部には、
「大和」を特攻させたい勢力があった。
昭和天皇の一言は、そうした勢力を後押ししたのだ。
しかし、第二艦隊は特攻に納得しなかった。
連合艦隊からは説得のため、草鹿龍之介参謀長(中将)を
山口県・徳山沖に停泊する「大和」に向かわせた。
納得しない伊藤らに対し、草鹿は言った。
「要するに、一億総特攻のさきがけ になってもらいたい」
一億=国民すべてが 本当に特攻したら、国家も民族も消滅する。
それでは戦争を続ける意味がない。
「一億総特攻」は比喩でしかない。
草鹿の言葉はおよそ論理的ではないが、論理を超えた説得力があったようだ。
「とにかく特攻してほしい」。
そういう連合艦隊の本音に対し、
伊藤は「そうか、それなら分かった」と応じた。
☆自分の命が削られていく音
1945年4月6日、午後3時45分。
豊田連合艦隊司令長官は第二艦隊に電文を発した。
「(前略)帝国部隊ハ陸軍ト協力 空海陸ノ全力ヲ挙ゲテ
沖縄島周辺ノ敵艦船ニ対スル攻撃ヲ 決行セントスル。
皇国ノ興廃ハ正ニ此ノ一挙ニアリ
茲ニ 殊ニ 海上特攻隊ヲ編成 壮烈無比ノ突入作戦ヲ命ジタル(後略)」
この「特攻」を「命令」していることを確認しておきたい。
というのは戦後、特攻を指揮した将官などが「特攻は兵士たちの意志だった」
といった旨の発言をし、今日に至るまでそう信じられているむきがあるからだ。
自らの意志で特攻に飛び立った兵士は、確かに多かった。
しかし、そうではない兵士もたくさんいた。
筆者はこれまで、実際に特攻で出撃した兵士30人に取材してきた。
この中に、特攻するかしないか 選択を任された者は1人もいなかった。
特攻「大和」艦隊の人々がそうであるように、
初めから特攻と決まった「作戦」に 送り出された者がいたのだ。
根拠もなく「意志だった」と言い張る将官は、
そうでないと自分の責任が追及されることを恐れてのことか、
そうでなければ自分に催眠術をかけて罪の意識から逃れようとしたのだろう。
艦隊による「特攻」を知った「雪風」の西崎さんは、
居住区で瞑想していた。
「父の形見の腕時計をしていたんです。ふだんは聞こえない、
『カチカチ』という音、秒針の音が聞こえました。
自分の命が削られていく気がしました」
1942年に海軍特別年少兵一期生として入団した西崎さんはこのとき19歳。
「酒も女も知らないで死ぬのか」と戦友に話すと
「俺は国のためではなく、家族のために戦う」と言った。
「おれも家族、それに友だちのために戦おう」と応じた。
同4月6日、前述の10隻からなる第二艦隊が沖縄を目指して
山口県・徳山沖を出撃した。
開戦前、米英とならぶ世界屈指の軍事力を誇った帝国海軍が、
最後に送り出した艦隊となった。
沖縄の陸軍は米軍に押されつつあったが、翌日反転攻勢に出る計画であり、
特攻「大和」艦隊はこれに呼応する狙いもあった。
連合艦隊の方針では、航空機による援護はしないことになっていた。
だが翌7日、かつて「大和」に乗っており、
この時は鹿児島県鹿屋を基地とする第五航空艦隊司令長官だった宇垣は、
自身の判断で特攻「大和」艦隊の直衛機を出した。 しかしわずか10機。
時間は午前6時から10時までだけだった。
そのわずかな護衛機がいなくなるのを見計らったように、
米軍機の空襲は正午ごろから始まった。
それ以降の凄惨な戦闘については、拙著『戦艦大和 生還者たちの証言から』
(岩波新書、2007年)を参照して頂きたい。
☆水上特攻の成果は…
「世界最強」と謳われた戦艦「大和」は
実質2時間程度の戦闘で撃沈された。
乗員3332人のうち、伊藤司令長官ら3056人が戦死した。
生還者は276人。 一割にも満たなかった。
軽巡洋艦「矢矧」と駆逐艦「磯風」、さらに「濱風」「朝霜」「霞」も沈んだ。
艦隊全体では4044人が死んだ(前掲『戦艦大和 生還者たちの証言から』)。
この水上特攻で米軍が直接的に被ったのは
戦闘機3、爆撃機4、雷撃機3の計10機の損失と戦死が12人。
これが「大和」以下六隻と、4044人の命と引き替えた、直接的な戦果である。
鉄板に卵を投げつけたような戦いだった。
沖縄を取り巻く米軍を蹴散らすどころか、敵艦の陰すらみることはなかった。
無残な失敗の責任は、もちろん4044人にはかけらもない。
この「作戦」を進めた海軍上層部にこそある。
そしてその責任を負うべき者たちは、決して第一線には行かなかった。
さらに陸軍が予定していた4月7日の反転攻勢は延期された
(12日に実施し失敗した)。
宇垣は、この戦いについて海軍上層部を激しく批判した。
「全軍の士気を高揚せんとして 反りて悲惨なる結果を招き
痛憤復讐の念を抱かしむる外 何等得る処無き
無謀の挙 と云はずして何ぞや」(前掲『戦藻録』)
士気を高めるためだったが、悲惨な結果となった。
「復讐してやる」という気持ちを抱かせただけで、
何も得るところがない無謀なことだった。そういう意味だ。
☆さらなる苦難
さて沈没する「大和」などから離れ助かった兵士たちには、
さらなる苦難があった。
「大和」大爆発の後、あたり一面は重油の海となった。
生き延びるためには、その海を漂いながら
駆逐艦に救助されなければならない。
疲れ切り、あるいは負傷した兵士たちには酷に過ぎた。
駆逐艦側も、敵の制空権内に長く留まるのは極めて危険だった。
西崎さんの乗った「雪風」は舷側からロープを下ろして
兵士たちを収容した。 人間一人をひっぱりあげるのは相当な苦労だ。
しかも、西崎さんは戦闘中、機銃弾が左足を貫通する傷を負っていた。
それでも「火事場の馬鹿力」を振り絞った。
助けられる方は「疲れているし、重油ですべるから
なかなか上がってこられない」。
1本のロープに2人がぶらさがった。とても引き上げられない。
「そういう時は、棒で一人の腕を叩きました」。
叩かれた兵士は海に落ちた。 その後どうなったのかは分からない。
「そういう業(ごう)があるんですよ……」。
西崎さんは70余年前のその光景を今も脳裏に刻んでいる。
特攻「大和」艦隊のように、船もろとも沈んだ遺体は
ほとんどの場合、回収されない。
第二次世界大戦では
およそ30万人もの日本人がこうした「海没遺骨」となった。
無謀な作戦を遂行した者たちが、陸地で寿命を全うし、
人によっては国会議員などになり 再び国策遂行に関わった
ことを考え合わせると、戦後日本のありようが立体的に見えてくるだろう。
さて昭和天皇は敗戦後、この「大和」特攻について語っている。
沖縄戦を振り返る中で、
「とつておきの大和をこの際出動させた、之(これ)も飛行機の連絡なしで
出したものだから失敗した」とし、
「作戦不一致、全く馬鹿馬鹿(ばかばか)しい戦闘であつた」と断じた
(『昭和天皇独白録』)。
筆者に特殊な能力があったら、
4000人以上の死者たちにこの評を知らせたいものだ。
栗原 俊雄
↑
田布施・大室天皇家は日本に災いをもたらす、
弑逆された孝明天皇の祟(たたり)ですよ、
正閏(せいじゅん)北朝(京都で祭祀を専らにする) 再興あるのみでは?
切れかかった共同幻想としての「万世一系」を救ったのが新井白石、
新井白石が幕府の中枢にいた時代、
宮家は 『有栖川』 『桂』 『伏見』 の三家しかなく、
跡継ぎがいなくなる怖れがあり、新たに『閑院宮』を作りました。
このように先手をうつと杞憂に終わるのが常なのですが、
後桃園天皇崩御の際、ほんとに跡継ぎがいなくなりました。
そこで、閑院宮に聖護院に預けた祐宮(さちのみや)がいたじゃないか、
ということで、出家予定の宮を連れてきて、即位させたのが
光格天皇です。
光格天皇、仁孝天皇、孝明天皇、と続くわけです。
京都に血縁の公家の子息が、何名かおるようですよ。