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皐月の空?

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 画は橋本(揚洲)周延 ようしゅうちかのぶ

 天保9年〜大正元年(1838〜1912)   作


  「江戸砂子年中行事 端午之図」 「端午の節句」です。


☆曇り。

今夜から、記念すべき日々となるのだが、

◆http://twitter.com/#!/kikko_no_blog
#きっこ ‏ @kikko_no_blog

今夜、北電の泊原発3号機が停止すれば国内すべての原発が停止します。
国内すべての原発が停止するのは1970年以来42年ぶりです。
あたしは1972年生まれなので、生まれてから今日まで常に原発が動いている中で生きてきました。
40歳の誕生日を迎える前に「原発ゼロ」を体験できて幸せです。


#きっこ ‏ @kikko_no_blog

今TOKYO FMのニュースで
「政府は稼働している原発がゼロにならないように泊原発が定期点検に入る今月5日までに
大飯原発の再稼動を進めてきましたが間に合いませんでした」って報じた。
すでに「電力不足のための再稼動」じゃなくて「原発ゼロを阻止するための再稼動」
ってのが共通認識なのね。


#きっこ ‏ @kikko_no_blog

つーか、カルロス・ゴーンって日産の社長なのに日本じゃポルシェに乗ってるじゃん(笑)


#きっこ ‏ @kikko_no_blog

日産のカルロス・ゴーン社長「原発を再稼働させなければ経済は立ちゆかなくなる。
その点を日本政府はよく考えるべきだ」→
☆http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120504-00000003-maiall-bus_all
毎日新聞 5月4日(金)
<原発ゼロ>いら立ち募らす経済界 「1年たっても政府は無策」


#きっこ ‏ @kikko_no_blog

政府や電力会社から直接お金をもらってる御用ジャーナリストや御用コメンテーターじゃなくても、
テレビに出ることでギャラをもらって生活してるジャーナリストやコメンテーターは
絶対に東電批判や原発批判をしないどころか、瀬戸内寂聴さんにまでイチャモンをつける人間のクズばかり。


#きっこ ‏ @kikko_no_blog

瀬戸内寂聴さんの発言の全文を聞けば「戦争中のほうがマシでしたよ」
という表現が何を言わんとしてるのか一目瞭然なのに、この部分だけを切り取り、
あたかも現在の日本と戦時中とを単純比較しての発言であるかのように捏造して批判してるクズども、
もはやリテラシーの「リ」の字もない大バカ。
_______________________________________________

☆http://matome.naver.jp/odai/2133594120975409301
寂聴さんの言葉

90年生きてきて今ほど悪い日本はありません。このままの日本を若者に渡せない。


90のばあさんがここに座ったら、マスコミに取り上げられ、
それを見た若者が張り切って行動してくれると思って。


広島や長崎で原爆の被害を受けた日本が唯々諾々と原発を使っているのは恥ずかしい。
原発はなくさないといけない


誰かに任せてなんで(原発が)無くなるんですか。自分たちで戦って無くさなきゃいけないんです。
人任せにしてどうして無くなりますか。自分が動かないとダメですよ。


(原発の再稼働について)何を考えているのかと思った。
これまでにないくらい日本の状態は悪くなっている。


これまで生きてきて、福島の原発事故のような恐ろしいことは戦争以外に一度もなかった。
政府は再稼働をどうして焦るのか。


原発事故は人災であり、同じことを繰り返しては子どもや若い人たちがかわいそうだ。


(大手メディアに向けて)
あなた達記者も、命をかけて報じなさい。

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周延、二枚目、



「時代かゞみ」 「元禄之頃」 「端午」です。



◆http://taninoyuri.exblog.jp/17918886/
谷間の百合  2012-05-05
◎不思議な世界。

わたしは不思議の世界にいるような気がしてなりません。
原発事故は終息していなくて、いまも放射能が漏れ続けているそうです。
常時、3千人の作業員が健康や家族を犠牲にして働いているおかげで
辛うじて安全が保たれているというのに、マスコミは何も伝えません。
だから、だれもかれらのことを気にしません。
被曝している人のことや自分が被曝しているかもしれないことなど気にしません。
ただ、肉親や故郷を失った原発に近い福島の人たちや津波の被災者だけが苦しんでいるだけです。
ゴールデンウィークの最中にあって、
人びとは楽しみを求めて海外や国内のあちこちを移動しています。
わたしはどこにも行きませんが、呑気に過ごしていることに変わりありません。
不思議な気がします。

野田総理の顔を見ると誰だって危機感の持ちようがありません。
関西の計画停電は避けられないと言った枝野さんの顔は
ますます脂がのって艶々しています。不思議な信じられない顔です。
なぜ、かれらが思考停止状態で、当事者意識がないかと言えば、
「こころ」がないからということに尽きます。人間のこころがないのです。

野田総理が訪米すると知って、手ぶらで行くわけはないし
何をお土産にするのだろうと気になっていました。テレビのニュースが、
総理は「日米同盟は新たな高みに達した」と言ったということを伝えたので、
社交辞令の類かと思っていたら、
なんと、「反戦の家づくり」様が
「アメリカで『改憲』を宣言した野田佳彦」と書いておられたのでびっくりしました。
更に「要するに、憲法九条の破棄を宣言したということだ。」
と心臓に負担のかかるようなことが書かれていました。

石原都知事の訪米も向こうから呼びつけられて行ったのかもしれません。
尖閣問題と総理の発言は明らかに連動しています。

自主憲法には賛同しますが、その時期はゼッタイに今であってはなりません。
今言われている改憲は、九条の破棄だけを目的にしているからです。

小沢一郎様
どうか、早く、わたしたちを不思議の世界から現実の正常な世界に連れ戻してください。
そうでないと日本人は何も知らないまま、感じないまま息絶えていきます。



あまり小沢一郎に期待するのも如何なものかと思う。

最悪状態からの脱出をやってもらい、あとは若い人間にバトンを渡して欲しい。

戦後政治の泥沼を泳いできた男です、表もあれば裏もある。

平成の巴御前w 森ゆうこ、に総理になってもらいたいねぇ、やると思う。

しかし、昨日のPDF、ざっとですが読んだけど、石川知裕はアカンねw

検事にペラペラ喋り過ぎだし、自己保身が強すぎる、政治家には向いとらんね。



周延、三枚目、



「雪月花  山城  金閣寺  ゆき姫」です。


面白いねぇ、

◆http://blog.tatsuru.com/
内田樹 2012.05.02
◎忠臣蔵のドラマツルギー

より抜粋、

日本では、毎年暮れになると、どこかのTV局で『忠臣蔵』の映画かドラマが放映される。
『忠臣蔵』に題材にした新作映画も飽くことなく製作され続けている。
外国人の眼からは、定期的に『忠臣蔵』を見るという行為は、
日本人が国民的なアイデンティティーを確認するための一種の儀礼に類したもののように見えることだろう。

私たちは『忠臣蔵』についての国民的規模での偏愛を抱いている。
いったい、この物語のどこにそれほど日本人を惹きつける要素があるのか。

それを検出するのは、手続き的にはそれほどむずかしいことではない。というのは、
『忠臣蔵』の物語には同時代の『東海道四谷怪談』をはじめとして、無数のヴァリエーションが存在するからである。
もし、無数のヴァリエーションを通じて、「決して変わらない要素」があるとすれば、
それこそが『忠臣蔵』の物語的エッセンス、必須の説話的原型だということになる。

ベジャールのバレー『ザ・カブキ』の基礎となっている『仮名手本忠臣蔵』もまた
そのような無数のヴァリエーションの一つである。そこには多くの「歌舞伎的な創意」が凝らされており、
それがこの物語を魅力的なものにしているのは事実であるが、例えば、
「高師直の顔世御前への片思い」や「お軽、勘平の悲劇」や「力弥と小浪の悲恋」といった
『仮名手本忠臣蔵』の中での「愛をめぐる挿話」は、どれも歌舞伎のオリジナルな工夫であって、
他のヴァリエーションには採用されていない。
だから、この舞台を見て、『忠臣蔵』とは「成就しない愛」の物語であり、
それが国民的な人気の理由なのだというふうに解釈する人は短慮のそしりを免れないであろう。

すべての『忠臣蔵』ヴァリエーションが一つの例外もなく共通して採択している物語要素があれば、
私たちはそれをこそ忠臣蔵的な物語の本質と名指すべきであろう。
さて、驚くべきことだが、そのような物語要素は実は一つしかないのである。

数知れない『忠臣蔵』ヴァリエーションの中には「松の廊下」の場面をカットしているものがあり、
「赤穂城明け渡し」をカットしているものがあり、極端な場合には「討ち入り」の場面をカットしているものさえある。
だが、絶対にカットされない場面がある。
それは「大石内蔵助/大星由良之助の京都の茶屋での遊興の場面」である。

そこから私たちはこのエピソードこそ、それ抜きでは『忠臣蔵』という物語が成立しなくなる
ぎりぎりただ一つの物語要素だと推論できるのである。
『忠臣蔵』では、浪士たちの人物造形にはある程度の自由度が許されている。例えば、
堀部安兵衛は浪士たちの中ではもっともカラフルな履歴を誇る武士だが、ヴァリエーションごとに造形が違う。
ある物語では彼は思慮深く、温厚な人物として描かれ、別の物語では、
好戦的で、軽率な青年として描かれる。どう描こうと、物語の骨組みに影響はないから、
そのような自由裁量が許されるのである(そもそも『仮名手本忠臣蔵』に安兵衛は登場さえしない)。
他の登場人物についても同様である。
浅野内匠頭も、幼児的ではた迷惑な人物として描かれる場合があり、筋目の通った爽やかな武士として描かれる場合もある。
どちらであっても、物語の骨組みは揺るがない。

だが、大石の場合はそれが許されない。
あらゆる『忠臣蔵』ヴァリエーションを通じて、大石内蔵助を演じる役者には絶対に譲れない役作り条件が課されている。
それは「何を考えているのか、わからない男」であることである。

『忠臣蔵』というのは「不安」のドラマなのである。
大石という、仇討ちプロジェクトの総指揮者であり、資源と情報を独占して、
浪士たちの生殺与奪の権利をにぎっている人物が何を考えているのか、わからない。

ほんとうに討ち入りはあるのかと疑う同志たちの猜疑心。
討ち入りがいつ来るか怯える吉良方の人々の怯え。
公的な裁定への暴力的な異議申し立てがなされることに対する統治者の側の不安。
血なまぐさいスペクタクルを期待している大衆の苛立ち。
主君の仇を討つというヒロイックな企てを浪士たちが利己的な理由で放棄した場合、
「武士道倫理の卓越性」という武士による統治の根本原理が崩れることへの武士階級全体の困惑・・・
無数の不安が「大石が何を考えているのかわからない」というただ一つの事実の上に累積してゆく。

大石が自分の命を賭して主君の仇を討てば、「武士道倫理」へのクレジットが加算される。
彼が現世の快楽と保身を優先させるのであれば
「人間なんて、しょせん色と欲で動かされる利己的な生き物にすぎない」というシニックな人間観へのクレジットが加算される。

果たして、大石はパセティックな倫理に賭け金を置くのか、シニックなエゴイズムに賭け金を置くのか、
人々は息をつめてみつめている。そして、最後に、大石の決断によって、
この過度に引き延ばされた非決定状態は劇的な仕方で解決される。
『忠臣蔵』のカタルシスはそのように構造化されている。

「全権を握っている人間が何を考えているのかわからない」とき
日本人は終わりのない不安のうちにさまざまな解釈を試みる。そのときに、
日本人の知性的・身体的なセンサーの感度は最大化し、想像力はその限界まで突き進む。
中心が虚であるときにパフォーマンスが最大化するように日本人の集団が力動的に構成されている。
たぶんそういうことなのだ。
だから、それが天皇制の政治力学と構造的に同一であることに私はもう驚かない。




「昭和天皇」は虚どころか、実も実、作戦指揮を率先してやっておったわけだから。

のちに御文庫と命名される皇居の大本営防空壕で。

ハズレw




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