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夏草やⅡ

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 画は 歌川 國貞 (三代豊國)

 天明6年(1786年) ~ 元治元年(1865年)

 号は、香蝶楼・一雄齋・五渡亭など                 作


  「増補筑紫のいえづと」より、

  「玉屋与次」 「女之助」 「与次女房おらち」です。


☆曇。

プルトニウム=地獄・冥府からの劫火、

◆http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/post-2964.html
マスコミに載らない海外記事 2015年8月 6日 (木)
◎悲しき原爆記念日


☆http://www.strategic-culture.org/news/2015/08/04/
 sad-nuclear-anniversary.html

Brian CLOUGHLEY  04.08.2015


1939年9月1日、第二次世界大戦開始の日、
アメリカ大統領フランクリン・D・ルーズベルトは

“フランス、ドイツ、イタリア、ポーランド政府 、および、イギリス国王閣下”
に書いた書簡で、“
戦時中、無防備の人口密集地の一般市民に対する情け容赦ない空爆が、
過去数年間、地球上の様々な場所で猛威を振るい、
何千人もの無防備な男性、女性や、子供達の手足を失わせたり、
死亡をもたらしたりして、あらゆる文明人男女を不快にさせ、
人類の良心に深い衝撃を与えた”と述べていた。


空爆による一般市民の大虐殺に、当然の様に彼は愕然とし、呼びかけた国々が、

“アメリカ軍は、同じ戦争法規が、全ての敵にも、きちょうめんに遵守される
だろうことを期待して、いかなる場合にも、いかなる状況でも、
民間人や無防備の都市の空爆を企てることは決してしない決意を確認する”

要請を受け入れることを望んだのだ。


日本の都市広島を、1945年8月6日に、そして三日後に、長崎を破壊し、
合計100,000人以上の“無防備の男性、女性や子供達”を死亡させ、
核科学者ロバート・オッペンハイマーに、
ヒンズーの宗教的、哲学的な文書バガバット・ギータの
“「今、われは死となり、世界の破壊者とはなれり。」を引用させた、
原子爆弾爆発の70周年を、今年迎える。

原子爆弾開発は、1939年に始まったが、
三年後のマンハッタン計画で本格的に動きだした。

ルーズベルト大統領が、民間人を含め、
2,403人を殺戮した日本のアメリカ真珠湾攻撃の丸二カ月前、
1941年10月9日に、計画を承認していたのは実に興味深い。

その後のアメリカによる宣戦布告は、
戦争に勝利するあらゆる手段に一心に取り組んで、
最終兵器を開発するという結果となった。

原子爆弾爆発の前ですら、第二次世界大戦に加わった主要な国々が、
壊滅的打撃を与えることを何とも思っていなかったのは明らかだった。

イギリスは、自分達の“狙いは、それゆえ二つ、つまり、
(i) 破壊と、(ii) 死の恐怖をもたらすこと”だと考え、その狙いの為、
ドイツの都市を情け容赦なく爆撃した。

ロンドンに対して、1940-41年に、空爆を開始し、30,000人を死亡させた、
昼夜をとわない60日間連続空爆をしたのはドイツだというのがその理由づけだった。

爆弾ピンポンという死のゲームで、戦争をする国々は、敵に大損害を与える、
より致命的な方法を追い求めていたのだから、
こうしたどの国々でも、自国政府の行為に同意しないような国民を見いだすのは
困難だっただろう。こうして、マンハッタン計画は巨大な弾みを得て、
専門能力と組織の効率の驚くべき発露で、
科学者達が原子爆弾を設計し、製造したのだ。

情報通の人々が、破局的企てとなりうると考えていた、原爆プロジェクトについて、
ルーズベルト大統領が、ハリー・トルーマン副大統領に全く何も話していなかった
のは驚くべきことだ。

最初の爆弾は、1945年7月16日に、ニュー・メキシコ州アラモゴルドで実験され、
原爆の開発に関わった科学者達の懸念を引き起こし、

そのうち70人が、原子爆弾の使用は、“想像を絶する規模の荒廃の時代”
前触れとなりうる可能性があり、これらの新たに解放された自然の力を、
破壊の目的で使用する前例を作る国は、想像を絶する規模の荒廃の時代”に
道を開いた責任を負わねばならない可能性があると指摘する書簡を、
ルーズベルト大統領に送った。

彼らの書簡は決して大統領に到達することが許されなかった。

大統領は書簡の存在を全く知らなかったが、いずれにせよ、原子爆弾は不可欠だ
とさえ確信しており、軍の核開発に対する姿勢に、深刻な疑念を抱いていた
オッペンハイマーに、
“敵が何を計画していようとも、アメリカ科学は挑戦する能力がある”と書いた。

1945年8月に爆弾投下命令を出した大統領は、ルーズベルトが亡くなった翌日の
1945年4月13日にプロジェクトの存在を知ったハリー・トルーマンだったが、

どのような結果になろうとも、爆弾は使用される予定だったのだ。

エリック・シュロッサーの啓発的著書『コマンド・アンド・コントロール』
に書かれている通り、

原子爆弾が使用される数カ月前、驚くほど激しい対日空爆が行われていた。

例えば、1945年3月9日夜、“アメリカ爆撃機は、ナパームとゼリー状ガソリンを含んだ
2,000トンの爆弾で、東京を攻撃した...

大火災から生じる旋風が、数時間のうちに、東京の四分の一を破壊した。

約100,000人の民間人を殺害した...

“トルーマンが、“地球上で、これまで見たこともない様な、
破滅の雨が空から降ることになる” と冷淡に日本に警告した以上、
もっとひどいことが起きるはずだった。

空爆を受けていない日本の大都市はそう多くなく、
最終的な犠牲者を選ぶのは容易ではなかった。

ヘンリー・スティムソン陸軍長官が、京都は日本の芸術と歴史にとって
極めて重要な主要な文化の中心だと指摘した為に、
京都は、原爆爆撃対象の4都市から外され 、代わりに長崎が選ばれた。

そのような決定によって、人間の運命は決定されるのだ。

何万とも知れぬ京都市民は救われたが、長崎の39,000人は、死ぬべく運命づけられた。

最初は広島で、8月6日に“大火災から生じた旋風が都市を飲み込み”、66,000人が死亡した。

標的リストの二番目は小倉だったが、恐ろしい運命のいたずらで、
都市は煙と、もやに覆われており、爆撃機は長崎に方向転換させられ、
おぞましくもファット・マンと名付けられた二発目の原爆が、8月9日に投下された。

対日本戦争はそれで終わったが、この二都市を破壊する間に、
8月8日、ドイツの都市ニュルンベルクで、来るべき国際軍事裁判による、
ドイツ人戦犯裁判用の指針を含む憲章が、
勝利した同盟国の署名によって承認されていたことは記憶されるべきだ。

二重基準の憂慮すべき例として、裁判官達は“以下の行為、あるいはそのいずれも、
国際軍事裁判の管轄権内の、そこに個人的責任がある犯罪である...

(b) 戦争犯罪: つまり、戦争法や、戦争の慣習法違反。その様な違反...
都市、町や、村の残酷な破壊を含むべきこと”と言われていたのだ。

“一般市民や無防備の都市の空爆を企てる”ことは不快感を催す、
というルーズベルト大統領の言葉を含んではいなかったが、
そのような攻撃は戦時国際法に反することが明らかにされていた。

ニュルンベルク憲章がドイツ人戦犯の有罪判決を導いたが、
トルーマンが“空からの破滅の雨”と呼んだ “死となり、世界の破壊者”が
日本に猛烈な勢いで降り注いだ、

まさにその時にニュルンベルク憲章が署名されたのは、おぞましい偶然の一致だ。

これはつまり、正義は戦勝国だけのものであることを示している。

実に悲しい記念日だ。


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プルトニウム爆弾の意義については、アーサー・ビナード氏の講演を拝聴して、
目からウロコ体験をしたことがある。

例えば、下記記事をどうぞ。

〈すべては長崎から始まった〉アーサー・ビナード講演会 2013/10/25
☆http://ntikurou.server-shared.com/mede70.htm

より抜粋、

マンハッタン計画の巨大な利権構造、世界のカラクリ。 
広島の原爆がタイプライターなら、長崎は最新のパソコン。
ポツダム宣言をよく見れば、戦争を長引かせて作った事がわかる。 
原爆投下によって日本とアメリカの終戦ではない。
当時ステンレスの技術もない日本は実験の餌食、
最初からソ連が仮想敵国。


原子力はプルトニウムを作り、原子力から出るカスじゃなくて、
プルトニウムが欲しいから作る。 人数的に見ても、1945年3月の
東京大空襲では10万人も死んでいる。 長崎・広島の原爆に騙されてはいけない。

アメリカ国民もパールハーバーで死んだ人たちも知らない。 
実はもう核開発はやっていた。 
第1次大戦のペテンでアメリカ国民の大多数は戦争反対だった。 
米国が攻撃を受けないといけなかった。 

ハワイにおびきよせられたのが日本。 
プルトニウムができるのに年数がかかった、核分裂の物理の話を見ればわかる。

戦争を早く終わらせるのが目的なら、広島ウラン235は濃縮すればすぐできる。 
ウラン弾2発で、ベルリンと東京で終わる。

プルトニウム弾ができるまで引き延ばしたのは物理の話、僕の思想じゃない。 
硫黄島や沖縄戦も時間稼ぎ。 戦争が続くのは商売としても悪くない。
 
核開発してる奴らは長崎が全てだった。 
曇ってたからじゃなくて、なぜ長崎なのか。 
日本の一番端で影響がなく海に囲まれ誰も行かない、
歴史を冷静に見ないと。 演出の通り終われば、米国民は騙せる。



國貞、二枚目、



「花菖いろは実記  はなあやめいろはじっき」より、
「古手屋八郎兵衛」 「丹波屋おつま」です。



仇敵=ユダ米、

◆http://richardkoshimizu.at.webry.info/201508/article_14.html
richardkoshimizu's blog  2015/08/06
◎米国が震災直後の経産大臣電話を盗聴か


民主党政権時、311直後に経済産業大臣の電話がNSAにより盗聴されていた?

311は、ユダヤ米国による「経済目的」のテロですので、

日本政府が東北大震災後、どんな経済政策を取るか、米国ユダ金は知りたかったでしょう。

経済産業大臣の電話盗聴などやって当たり前です。

311で日本人を2万人以上虐殺し、国土を破壊し、さらには盗聴までして

情報を盗むような犯罪国家が、日本の同盟国であるわけがない。

ただの敵国です。

敵国のいいなりの安倍政権もまた、日本の敵です。

おそらく、安倍晋三の電話も、今でも盗聴されていて、

安倍がユダ金の命令に反するような発言をすれば、ジョセフ・ナイが、

ムチとろうそくを持って、安倍邸に体罰を与えに行くのでしょう。w



*とくお  2015/8/5

米国が震災直後の経産大臣電話を盗聴か

☆http://economic.jp/?p=52034

民主政権下の経済産業大臣電話を米国が盗聴していた疑いがでてきた。

民主党の細野豪志政調会長は4日の記者会見で
「内部告発サイト・ウィキリークスが、米国家安全保障局(NSA)が
日本政府や日本企業を対象に盗聴を行っていたとする文書を公開したことに関し
確認した結果、出ている個別の電話の盗聴がほとんど民主党政権の時になされていた」
とした。

そのうえで「震災直後の経済産業大臣の電話も盗聴されているようだ」とした。

同盟関係を深めると言いながら、一方で、信頼関係をぶち壊す
信義にもとる行為をしていたことになる。

細野政調会長は「党として事実を確認していく必要がある」と厳しく語った。

この日の会見で細野政調会長は
「2011年3月14日に経済産業大臣の電話が盗聴されているようだ。
東日本大震災(3月11日)直後で、極めて厳しい状況の中で
日本政府が対応している時なので、これが事実なら、
同盟国として非常に問題がある」と指摘した。

あわせて細野政調会長は
「安倍政権が安保法制を米国で高らかにうたい上げ、ガイドラインの改定から
数カ月先には国会で成立させるというアメリカ追従の性格を明確にしている。

前回のガイドライン改定は1997年だったが、
それを受けての周辺事態法の整備は1999年で、2年近くたって法整備している。
これからみても対米追従姿勢は安倍政権の特徴だ」
と安倍政権の姿勢に警鐘をならした。

そのうえで「同盟国として盗聴というのは問題であり、
安倍政権としてしっかり米国政府に要求していくことを求める。
安倍政権の対応をしっかりみていきたい」
と米国に対し言うべきことを言えるのか、安倍政権の姿勢もみていくとした。

事実関係が明確にされなければ
米国に対する日本国民の信頼は大きく傷つくことになりそう。




國貞、三枚目、



「見立三十六句撰」 「与右衛門 女房かさね」です。



蓄財と保身がすべての「昭和天皇」、

◆http://toshiaki.exblog.jp/
古川利明の同時代ウォッチング
◎2015年 08月 01日


#で、「上」の方で触れた、戦後70年ネタで、蒋介石の中国国民党政府が、
早々と「裕仁免責」のケッテイをしておったっていう時事のスッパ抜きだが、
ワシが見た限り、どこのシンブンも記事を載せておらんのだよな。

首都圏だと、毎日、産経、東京、神奈川は、共同の国内電を使っておるハズだが、
時事とは契約しとらんってことなのかよ? 
コレだけの特ダネをネグるってのは、理解できん。

それで、記事では、その理由について、学者のコメントを引っ張り出してきて、
アレコレとこじつけてはおったんだが、もちろん、
「亜米利加の意向を忖度した」っていうのはあったにせよ、
「共産シュギの脅威に対抗する」ってのは、時期的には早いわな。

東京サイバンもおっ始まっておらんのに、
あまりにも蒋介石は物分かりが良過ぎるわな。

ココから先は、ワシの推測だが、「地獄の沙汰もカネ次第」との通り、
カネっていうより、具体的には「金塊」だが、
ヒロヒトは今後の命乞いの意味も含めて、まず、蒋介石にくれてやっておるんだと思う。
そうでないと、スジが通らんからな。

ちなみに、ニッポン軍の戦費ちょー達は、
1937年の日中戦争開始とともにこしらえた、
例の臨時軍事費トクベツ会計がメインなんだが、調べれば調べるほど、
コイツがまた「デタラメの極致」なんだな(笑)


#「上」の続きだが、その臨時軍事費トクベツ会計ってのは、ホンマ、デタラメだらけで、
どこから書いてエエのか途方に暮れるほどヒドイ代物なんだが、
資金前渡、つまり、掴みガネだが、そのオンパレードで、
予算シッコーにおいて歯止めってのが存在しとらんのだが、
よくよく調べてイクとだな、この臨時軍事費トクベツ会計ってのも、
所詮、「オモテ」なんだな。

戦争末期に、大ニッポン帝国が追い込まれて、1945年3月に「外資金庫」っていう、
ホンマ、ワケのわかんねえのをこしらえておってだな、
いちおう、表向きは特殊ホウジンってことなんだが、実態としては、
大蔵ショウの外資局ってところにジム局を置く「真のウラ戦争会計」だな。

ワシも、この戦後70年を調べておるんだが、ついに、いよいよ、
この「外資金庫」に辿り着いたあ!

ぬあんと説明したらエエんかいなあ。
中国大陸での戦争ってのは、もちろん、前線で兵士同士がドンパチ構えるってのもあるんだが、
より本質的には、「ニッポン円vs法幣元(=中国国民党発行の紙幣)」
っていう通貨戦争だったんだな。

現地に侵略したニッポン軍は、物資を調達するにもカネが要るんだが、
敵国の法幣は使えんから、実質的には軍票そのものなんだが、
それだとあからさまなんで、向こうの傀儡セー権にこしらえさせた中央銀行に、
「円もどき紙幣」を刷らせて、それを使わせておったんだ。

しかし、中国ではなかなか通用せんで、
インフレが年々ものスンゴイ勢いで進んでいったんだな。

ただ、現地の傀儡セー権に「円もどき紙幣」を刷らせたのは、じつは、

「内地のニッポン円」を守るっていう最大目的があってだな、
そもそも戦費が国庫にねえのに、戦争仕掛けて、
さらにはニッポン円を戦地に持ち出したところで、円に傷が付いて、
戦地の猛インフレが内地にも波及すると困るからな。

だから、その防波堤がこうした傀儡セー権の中央銀行に刷らせた「円もどき紙幣」
(華北は連銀券、華中・華南は儲備銀券)で、その始まりは、
日韓併合後にこしらえた、コイツも大蔵ショウ傀儡の「朝鮮銀行」が刷った「鮮銀券」で、
満州事変以降、中国大陸での戦争では、大活躍したってことだな。

俗にココは「事変銀行」と言われておって、
軍人の後に、朝鮮銀行の行員がワサワサと付いていって、
鮮銀券を現地にバラ撒いていったというワケだ。


#さらに続きだが、そのニッポンの支配先でバラ撒いた「円もどき紙幣」
(=鮮銀券、連銀券、儲備銀券etc)ってのは、
いちおう、ニッポン円とはリンクしておって、兌換もデキたんだが、
中国大陸でバラ撒いた連銀券と、特に儲備銀券に関しては、
インフレの進行で、公定レートが全く意味をなさなくなっておったんだ。

本来であれば、実態に合うたレートに設定せんとなんだが、戦争末期になると、
その猛インフレがものスンゴかったんで、んもう、お手上げの状態になったんで、
そのタイサクのためにこしらえたのが、例の「外資金庫」だったんだな。

で、この外資金庫も、別に店舗を構えておったワケではなく、
大蔵ショウの外資局の職員が帳簿を操作しておっただけのことで、
要は「デタラメ」なんだな。

例えば、軍ブが100萬円を支出する場合、うち、5萬円だけを臨時軍事費から出し、
残りの95萬円は外資金庫が出すというふうにして、
その外資金庫が出す比率をだんだんと高くしていったんだな。

外資金庫自体はカネはねえんだから、そのカネは横浜正金銀行や朝鮮銀行、
日銀から引っ張ってきて、そこで「預け合い」っていう、架空預金っていうか、ま、
実質的には傀儡銀行から強奪しておる円もどき紙幣を使って、
現地での支払いをするっていうふうにしたんだな。

それでスンゴイのは、最終的にこの外資金庫は、時期的には「8・15」の前後だろうなあ。
当時のカネで5000億円弱(正確には、4977億5342萬1000円)を
「金塊売却」によってゲットしており、
その後、国庫にはこの外資金庫から5228億346萬円が納入されておるってんだよな。

つまり、それまで散々蒙ってきた戦費の負債を、この外資金庫による金塊売却によって、
ほぼチャラにした格好なんだな。

だから、臨時軍事費トクベツ会計も、46年2月末をもって締められたんだが、
結果的には、歳入が歳出を約179億円上回る黒字決算で終わっておったんだよな。

普通では、ゼッタイにありえん展開なんだわな。

ちなみに、コレらは、大蔵省昭和財政史編集室編『昭和財政史・第4巻 臨時軍事費』
(東洋経済新報社)に全部出ておる。

同書によれば、先の大戦でかかった戦費(1937~45年)をトータルで7559億円
とはじき出しており、国家予算の90年分に相当するってんだが、
それを9年足らずで費消したってのもスンゴイんだが、
うち、臨時軍事費トクベツ会計による支出は、その間、
たったの計1553億円でしかないんだな。

だから、戦争末期にこしらえた、この「外資金庫」を使い倒したデタラメ経理が、
いかにスンゴかったかだわなあ。

それでハナシを戻すと、その外資金庫を使った金塊売却において、当然、
こんなもんは「ヒロヒト決裁」なんだから、おそらく、蒋介石にも渡しておると思う。

でなければ、あんな簡単に「無罪放免」を出すかってんだよな。

そうそう、特にニッポン軍は、ヒロヒトの弟の秩父宮をトップに繰り広げた
「ゴールデン・リリー(金の百合)作戦」ってことで、
あの南京大虐殺と並行して、南京だけで金塊約6000tを強奪しとるんで、ってことで、
それらをピャーッと吐き出したんだと思うで(笑)



「外資金庫」は初見ですなぁ、スクープですよ。

凄まじい話です。



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