画は 浅野 竹二 (あさの たけじ)
明治33年(1900年)~ 平成10年(1998年)
京都の 日本画家、 版画家。 作
「知恩院 雪」です。
☆曇、霜月もおはり。
まずは、ちっと長いのですが、含蓄がある、
「買弁=コンプラドール・Comprador」だらけの既得権層、
◆http://blog.tatsuru.com/
内田樹の研究室 2014.11.26
◎資本主義末期の国民国家のかたち
より抜粋、
それに意外なことに、この素人の直感が侮れない。
思い出しても愉快なことがあるんですけれども、
今からもう十年近く前でしょうか、私が『街場の中国論』という本を出した後に
公安調査庁の人が尋ねてまいりました。
「公安調査庁です」と言って名刺を出して、「あなたのファンなんです」と言うんです。
公安調査庁がファンのわけがない。(笑)
いろいろと話をしていたら、
「あなたの中国論なんですけれども、この中国の共産党内部の情報を
あなたはどうやって手に入れられたのか」と訊いてきた。
「毎日新聞からです」とお答えしたら、随分驚いていらした。
「だって、新聞で書いている情報だけだって、断片をつなぎ合わせていくと
大体何が起きているくらいは想像がつきますでしょ」と申し上げたら、
なかなか片づかない顔でお帰りになりました。
先般も、ちょっと自慢話になりますが、中国共産党に中央紀律委員会というものがありまして、
そこが党幹部に推薦図書を指示しました。
党幹部が読むべき本を五十六冊挙げて、これを読んでおくようにと、
夏休みの課題図書みたいに挙げたリストの中に私の『日本辺境論』も入っておりました。
日本人が書いたものは僕の本だけだったそうです。
中国人の友達から聞きました。
「内田さん、あなたの本、出てたよ。紀律委員長は習近平だから、習近平も認めた本だよ!」
と言われました。けっこう愉快な話だと思うんですけれど、
日本のメディアはあまり報道してくれなかったですね。
ことほどさように素人の直感は侮れないということで、
本日は資本主義末期の国民国家の行方について一席お話しさせて頂きます。
まず、今日のテーマですが、安倍政権、なぜこのような政権が存在していて、
誰が支持しているのか。戦後日本の民主主義社会からなぜこのような政体が生み出され、
それに対して政官財メディアがそれなりの支持を与えているのかという、
非常にわかりにくい現状を解読してみたいと思います。
特に海外から見た場合に非常にわかりにくいと思いますが、
日本の国家戦略が戦後一貫して
「対米従属を通じての対米自立」というものです。
これが戦後日本の基本的な国家戦略です。
でも、この「対米従属を通じての対米自立」ということは
日本人にはわかるけれど、他国からはその理路が見えにくい。
僕は、個人的に勝手にこれを「のれん分け戦略」と呼んでいます。
日本人の場合、のれん分けというのは、わりとわかりやすいキャリアパスです。
丁稚で奉公に上がって、手代になって、番頭になって、大番頭になって、ある日、
大旦那さんから呼ばれて、
「おまえも長いことよく忠義を尽くしてくれたね。これからは一本立ちしてよろしい。
うちののれんを分けてやるから、これからは自分の差配でやりなさい」と、
肩をぽんとたたかれて、独立を認められて、自分の店の主になる。
そういうようなキャリアパスというか、プロモーション・システムというのは
日本社会には伝統的に存在していました。
だから、日本人にとっては、「徹底的に忠義を尽くし、徹底的に従属することによって、
ある日、天賦のごとく自立の道が開ける」という構図には少しも違和感がないと思うんです。
戦後日本人が「対米従属を通じての対米自立」という国家戦略に
比較的簡単に飛びつけたのは、そして、そのことの「異常さ」に
いまだに気がつかないでいることの一つの理由はこの「のれん分け戦略」というものが
日本人の社会意識の中にかなり深く根を下ろしていたからではないかと思います。
一種の伝統文化です。
対米従属を通じての対米自立というのは、敗戦直後の占領期日本においては、
それなりに合理的な選択だったと思います。
というよりそれ以外に選択肢がなかった。
軍事的に決定的な敗北を喫して、GHQの指令に従うしかなかったわけですから。
その時期において、実際には面従腹背であったわけですけれども、
対米従属という戦略を選んだことは、客観的にも主観的も合理的な選択だったと思います。
それ以外の選択肢は事実上日本にはなかった。
人間は一度有効だった戦略に固着する傾向があります。
「待ちぼうけ」という童謡がありますね。
元ネタは韓非子の「守株待兎」という逸話です。
畑の隅の切り株にたまたま兎がぶつかって首の骨を折って死んだ。
兎を持ち帰った農夫はそれに味をしめ、次の日からは耕作を止めて
終日兎の来るのを待ち続けた。ついに兎は二度と切り株にぶつからず、
畑は荒れ果てて、農夫は国中の笑いものになった。
「小成は大成を妨げる」と言いますけれども、日本はこの農夫に似ている。
戦後の二つの成功体験によって、この成功体験、この戦略に居着いてしまった。
国力をじっくり蓄え、文化を豊かにし、国際社会における信認を高めて、
独立国、主権国家として国際社会に承認されるという迂遠な道を避け、
ただ対米従属していさえすればよいという「待兎」戦略に切り替えた。
それまでの戦後政治家たちは、かなり複雑なマヌーバーを駆使して
日米関係をコントロールしていたと思うんです。
政治家ばかりでなく、官僚も学者や知識人も、日米関係というのは非常に複雑なゲームだ
ということがわかっていた。それを巧みにコントロールして、できるだけ従属度を減らして、
できるだけ主権的にふるまうというパワーゲームのためにそれなりの知恵を絞っていた。
なにしろ、アメリカは日本にとって直近の戦争の敵国ですから、
さまざまな点で国益が対立している。
それを調整して、アメリカの国益増大を支援しつつ、日本の国益を増大させる
というトリッキーなゲームですから、かなりの知的緊張が要求された。
ところが、僕の印象では、八〇年代から後、
そういう緊張感が政治家たちに見えなくなくなってしまった。
日米両国が、それぞれの国益をかけて、非常に厳しい水面下のバトルを展開している
という感じがなくなってしまった。
ただ単純に対米従属してさえいればいいことがあるという思い込みに
日本のエスタブリッシュメント全体が領されるようになった。
対米従属をすると、「いいこと」があるという、シンプルな入力出力相関システム、
いわゆる「ペニー=ガム・メカニズム」のようなものとして
日米関係を構想する人たちがしだいに増えてきて、気がつけば多数派を形成するようになった。
日米関係が一種の「ブラックボックス」になってしまって、
「対米従属」という「ペニー銅貨」を放り込むと、
「なにかいいこと」という「ガム」が出てくるという単純なメカニズム幻想が定着してしまった。
そんなふうに日米関係が現実から遊離して、幻想の領域に浮き上がってしまったのが、
だいたい80年代なかばから後ではないかと思います。
どうしてこんなことになったのかというと、結局は「時間の問題」だったと思います。
「対米従属を通じての対米自立」という発想そのものの合理性は、
確かに論ずるまでもない。でも、時間がたってくると、
その装置を管理運営する人間が入れ替わる。
敗戦直後のとき、日本の外交戦略のフロントラインにいた人たちは、
日米の国益の間には齟齬がある。
両国の国益が一致するということは原理的にはありえない
ということを骨身にしみて知っていた。
当たり前です、殺し合いをしてきたばかりなんですから。
国益が相反するということがわかった上で、「面従腹背」のマヌーバーを展開していた。
表面的にはアメリカに追随するが、本心では早くアメリカを厄介払いしたいと思っていた。
でも、面従腹背のポーズもそれが二世代三世代にわたって続くうちに変質してしまう。
「面従」だけが残って、「腹背」が消えてしまう。
対米従属がそのまま日本の国益増大であると頭から信じ込む人たちが増えてきた。
増えてきたどころではなく、政界、財界、メディア、学会、どこでも、
対米従属・日米同盟機軸以外の選択肢を考えたことがある人がいなくなってしまった。
ふつうは「いまある仕組み以外の可能性」を、蓋然性がどれほど低くても、
一応は考えておく。
日本人だけが外交戦略において「日米同盟基軸」、
つまり対米従属以外のいかなる選択肢についてもその可能性や合理性について考えない。
これはあきらかに病的な症候です。
対米従属が国家戦略ではなく、ある種の病的固着となっていることがわかったのは、
鳩山さんの普天間基地移転についての発言をめぐる騒ぎのときです。
僕は、あのとき、報道を注視していて、ほんとうにびっくりした。
あのときが、日本の大きな転換点ではなかったか思います。
鳩山首相は、普天間基地をできたら国外、せめて県外に移転したいと言ったわけです。
国内における米軍基地の負担を軽減したい。できたら国外に移って欲しい、そう言った。
外国の軍隊が恒常的に国内に駐留しているというのは、どの主権国家にとっても
恥ずかしいことです。ふつうはそう感じます。
外国の基地が常時駐留するのは誰が見ても軍事的従属国のポジションだからです。
それぞれの国が自国の国益を追求していって、
他国の国益との間ですり合わせをしていって、落としどころを探していく。
これが本来の主権国家同士の外交交渉のはずですが、
日本だけはアメリカ相手にそういうゲームをしていない。
アジア諸国がアメリカと五分でシビアな折衝をしている中で、
日本だけがアメリカに何も要求しないで、ただ唯々諾々とその指示に従っている。
それどころか、近隣の国がアメリカ相手に堂々とパワーゲームを展開している
というニュース自体が、日本ではほとんど報道されない。
その鳩山さんの件ですけれども、鳩山さんは、
国内に米軍基地、外国軍の基地があるということは望ましいことではないと言ったわけです。
当たり前ですよね。主権国家としては、当然、そう発言すべきである。
沖縄の場合は、日本国土の0.6%の面積に、国内の七五%の米軍基地が集中している。
これは異常という他ない。この事態に対して、基地を縮小して欲しい、
できたら国外に撤去していただきたいということを要求するのは
主権国家としては当然のことなわけです。けれども、この発言に対しては
集中的なバッシングがありました。
特に外務省と防衛省は、首相の足を引っ張り、結果的に首相の退陣の流れをつくった。
なぜ、日本の首相が米軍基地の縮小や移転を求めたことが
日本の国益を損なうことになるのか、僕には理由がわかりませんでした。
この事件は「アメリカの国益を最大化することが、
すなわち日本の国益を最大化することなのである」という信憑を
日本の指導層が深く内面化してしまった、
彼らの知的頽廃の典型的な症状だったと思っております。
首相が日本の国益を代表して、素直に国土を回復したい、主権を回復したい
ということをアメリカに伝えたら、寄ってたかって日本人がそれを潰した
という事実そのものが 日本の罹患した病の徴候だったと僕は思います。
アプローチは拙劣だったかも知れないが、首相の主張は正しい
という擁護の論陣を張ったメディアは僕の知る限りありませんでした。
アメリカの信頼を裏切るような政治家に国政は託せない
というのがほとんどすべてのメディアの論調でした。
「ちょっと、それはおかしいんじゃないか」
と言う人がほとんどいなかったことを僕は「おかしい」と思いました。
主権国家が配慮するのは、まず国土の保全、国民の安寧、通貨の安定、
外交や国防についての最適政策の選択、そういったことだと思います。
主権の第一条件である「国土の回復」を要求した従属国の首相が、
国土を占領している宗主国によってではなくて、
占領されている側の自国の官僚や政治家やジャーナリストによって攻撃を受ける。
これは倒錯的という他ありません。
なぜこのような病的傾向が生じたのか。
それは「対米従属を通じての対米自立」という敗戦直後に採用された経験則を、
その有効性についてそのつど吟味することなく、
機械的に いまだに適用し続けているせいだと思います。
でも、考えてもみてください。1972年の沖縄返還から後は、もう42年経っている。
その間、アメリカから日本が奪還したものは何一つないわけです。
42年間、日本は対米従属を通じて何一つ主権を回復していないんです。
対米従属は日本にこの42年間、何一つ見るべき果実をもたらしていない
という現実を「対米従属論者」はどう評価しているのか。
このままさらにもう50年、100年この「守株待兎」戦略を継続すべきだ
という判断の根拠は何なのか。
これを続ければ、いつ沖縄の基地は撤去されるのか、横田基地は戻って来るのか。
それを何も問わないままに、
前例を踏襲するという前例主義によって対米従属が続いている。
かつてのプレイヤーは対米従属を通じて、
日本の国益を引き出そうとしていたわけですけれど、いまのプレイヤーたちは違う。
アメリカの国益と日本の国益という本来相反するはずのものを
「すり合わせる」ことではなく、アメリカの国益を増大させると
「わが身によいことが起こる」というふうに考える人たちが政策決定の要路に立っている。
現に、これまで対米従属路線を疑うことなくひた走ってきたせいで
「今日の地位」を得た人たちがそこにいるわけですから、
彼らがこれからも対米従属路線をひた走ることはとどめがたい。
彼らにおいては、いつのまに国益追求と自己利益の追求がオーバーラップしてしまっている。
何のための対米従属かというと、
とりあえず、そうすると「わが身にはよいことが起こる」のが確実だからです。
植民地において、植民地原住民であるにもかかわらず、宗主国民にすりよって、
その便宜をはかる代わりに、政治的経済的な見返りを要求するものは
清朝末期に「買弁」と呼ばれました。
今の日本の指導層は、宗主国への従属的ポーズを通じて、
自己利益を増大させようとしている点において、すでに「買弁的」である
と言わざるを得ないと僕は思っています。
浅野竹二、二枚目、
「猿澤池」です。
では、この後、日本は一体どうやって主権回復への道を歩んでいったらいいのか。
アメリカの国益と日本の国益というのは、利害が相反する点があり、一致する点がある。
そのすりあわせをするのが外交だった。
ところが、いつのまにか、あきらかに日本の国益を害することが確実な要求に対しても、
日本側が抵抗しなくなってきた。
そのふるまいは彼らが日本の国益を代表していると考えると理解できない。
日本を統治している人たちが、自国の国益の増大に関心がないように見えるわけですから。
例えば、特定秘密保護法です。
特定秘密保護法というものは、要するに民主国家である日本が、
国民に与えられている基本的な人権である言論の自由を制約しようとする法律です。
国民にとっては何の利もない。なぜ、
そのような反民主的な法律の制定を強行採決をしてまで急ぐのか。
理由は「このような法律がなければアメリカの軍機が漏れて、
日米の共同的な軍事作戦の支障になる」ということでした。
アメリカの国益を守るためにであれば、日本国民の言論の自由などは抑圧しても構わない、と。
安倍政権はそういう意思表示をしたわけです。
そして、アメリカの軍機を守るために日本国民の基本的人権を制約しましたと
アメリカに申し出たわけです。日本の国民全体の利益を損なうことを通じて、
アメリカの軍機を守りたい、と。
言われたアメリカからしてみたら、「ああ、そうですか。そりゃ、どうも」
という以外に言葉がないでしょう。たしかにそうおっしゃって頂けるのは
まことにありがたいことではあるえれど、一体何で日本政府がそんなことを言ってくるのか、
実はよくわからない。
なぜ日本は国民の基本的人権の制約というような「犠牲」をアメリカのために捧げるのか。
現に国家権力の中枢から国家機密が漏洩しているということは、
日本ではもう既に日常的に行われていると僕は思っています。
どこに流れているか。もちろんアメリカに流れている。
政治家でも官僚でもジャーナリストでも、知る限りの機密を
アメリカとの間に取り結んだそれぞれの「パイプ」に流し込んでいる。
それがアメリカの国益を増大させるタイプの情報であれば、
その見返りは彼らに個人的な報奨としてリターンされてくる。
結果的に政府部内や業界内における彼らの地位は上昇する。
そして、彼らがアメリカに流す機密はますます質の高いものになる。
そういう「ウィン・ウィン」の仕組みがもう出来上がっている、僕はそう確信しています。
特定秘密保護法は、「機密漏洩防止」ではなく、
彼らの「機密漏洩」システムをより堅牢なものとするための法律です。
アメリカの国益増大のために制定された法律なんですから、
その法律がアメリカの国益増大のための機密漏洩を処罰できるはずがない。
これから先、日本政府の中枢からどのようなかたちで国家機密がアメリカに漏洩しようとも、
いったん「特定秘密」に指定された情報については、
それが何であるか、誰がそれをどう取り扱ったか、すべてが隠蔽されてしまう。
どれほど秘密が漏洩しても、もう誰にもわからない。
集団的自衛権もそうです。
集団的自衛権というのは、何度も言っていますけれども、
平たく言えば「他人の喧嘩を買う権利」のことです。
少なくともこれまでの発動例を見る限りは、ハンガリー動乱、チェコスロバキア動乱、
ベトナム戦争、アフガニスタン侵攻など、ソ連とアメリカという二大超大国が、
自分の「シマ内」にある傀儡政権が反対勢力によって倒されそうになったときに、
「てこ入れ」するために自軍を投入するときの法的根拠として使った事例しかない。
何で日本が集団的自衛権なんか行使したがるのかが、ですから僕にはさっぱりわからない。
いったいどこに日本の「衛星国」や「従属国」があるのか。
海外のどこかに日本の傀儡政権があるというのであれば、話はわかる。
その親日政権が民主化運動で倒れかけている。しようがないから、
ちょっと軍隊を出して反対勢力を武力で弾圧して、
政権のてこ入れをしてこようというのであれば、ひどい話ではあるけれども、
話の筋目は通っている。でも、日本にはそんな「シマうち」の国なんかありません。
結局、集団的自衛権の行使というのは、現実的には
アメリカが自分の「シマうち」を締めるときにその海外派兵に日本もくっついていって、
アメリカの下請で軍事行動をとるというかたちしかありえない。
アメリカの場合、自国の若者が中東や西アジアやアフリカで死ぬ
ということにもう耐えられなくなっている。意味がわからないから。
でも、海外の紛争には介入しなければならない。しかたがないから、
何とかして「死者の外部化」をはかっている。
無人飛行機を飛ばしたり、ミサイルを飛ばしたりしているというのは、
基本的には生身の人間の血を流したくないということです。
攻撃はしたいけれども、血は流したくない。
だから、民間の警備会社への戦闘のアウトソーシングをしています。
これはまさに「死者の外部化」に他なりません。
たしかに、これによって戦死者は軽減した。でも、その代わり莫大な財政上の負荷が生じた。
警備会社、要するに傭兵会社ですけれど、めちゃくちゃな値段を要求してきますから。
アメリカは、その経済的な負担に耐えることができなくなってきている。
そこに日本が集団的自衛権の行使容認を閣議決定しましたと言ったら、
アメリカ側からしてみると大歓迎なわけです。
これまで民間の警備会社にアウトソーシングして、莫大な料金を請求されている仕事を、
これから自衛隊が無料でやってくれるわけですから。
願ってもない話なわけですよね。「やあ、ありがとう」と言う以外に言葉がない。
今、日本で政策決定している人たちというのは、国益の増大のためにやっているのではなくて、
ドメスチックなヒエラルキーの中で出世と自己利益の拡大のためにそうしているように見えます。
つまり、「国民資源をアメリカに売って、その一部を自己利益に付け替えている」
というふうに見立てるのが適切ではないかと思います、と。
国民資源というのは、日本がこれから百年、二百年続くためのストックのことです。
それは手を着けてはいけないものです。
民主制という仕組みもそうだし、国土もそうだし、国民の健康もそうだし、伝統文化もそうです。
でも、今の日本政府はストックとして保持すべき国民資源を次々と商品化して市場に流している。
それを世界中のグローバル企業が食いたい放題に食い荒らすことができるような仕組みを
作ろうとしている。そんなことをすれば、日本全体としての国民資源は損なわれ、
長期の国益は逓減してゆくわけですけれども、政官財はそれを主導している。
彼らのそういう気違いじみた行動を動機づけているものは何かと言ったら、
それが国益の増大に結びつく回路が存在しない以上、私利私欲の追求でしかないわけです。
対米従属すればするほど、社会的格付けが上がり、出世し、議席を得、
大学のポストにありつき、政府委員に選ばれ、メディアへの露出が増え、個人資産が増える、
そういう仕組みがこの42年間の間に日本にはできてしまった。
この「ポスト72年体制」に居着いた人々が現代日本では指導層を形成しており、
政策を起案し、ビジネスモデルを創り出し、メディアの論調を決定している。
ふつう「こういうこと」は主権国家では起こりません。
これは典型的な「買弁」的な行動様式だからです。植民地でしか起こらない。
買弁というのは、自分の国なんかどうだって構わない、自分さえよければそれでいい
という考え方をする人たちのことです。
日本で「グローバル人材」と呼ばれているのは、そういう人たちのことです。
日本的文脈では「グローバル」という言葉をすべて「買弁」という言葉に置き換えても意味が通る
ような気がします。文科省の「グローバル人材育成」戦略などは
「買弁人材育成」と書き換えた方がよほどすっきりします。
では一体これから我々はどうやって主権国家として、
主権国家への道を歩んだらいいかということを述べたいと思います。
国というものを、皆さんはたぶん水平的に表象していると思います。
ビジネスマンはそうです。
今期の収益とか、株価ということばかり考えている人は、それと同じように国のことも考える。
ですから、世界を水平的に、二次元的に「地図」として表象して、
その中での自分たちの取り分はどれぐらいか、パイのどれぐらいを取っているか。
そういうような形で国威や国力を格付けしてようとしている。
けれども、本来の国というのは空間的に表象するものではない、僕はそう思っています。
地図の上の半島の広さとか、勢力圏というものを二次元的に表象して、
これが国力であると考えるのは、間違っていると思う。
国というのはそういうものではなくて、実際には垂直方向、
時間の中でも生きているものです。
我々がこの国を共有している、日本なら日本という国の構成メンバーというのは、
同時代に生きている人間だけではない。そこには死者も含まれているし、
これから生まれてくる子供たちも含まれている。
その人たちと、一つの多細胞性物のような共生体を私たちは形づくっている。
そこに、国というもののほんとうの強みがあると思います。
鶴見俊輔さんは、開戦直前にハーバード大学を卒業するわけですけれども、
そのときにアメリカに残るか、交換船で日本に帰るかという選択のときに、
日本に帰るという選択をします。自分は随分長くアメリカにいて、
英語で物を考えるようになってしまったし、日本語もおぼつかなくなっている。
そもそも日本の政治家がどの程度の人物かよくわかっているし、
多分、日本はこれから戦争をやったら負けるだろう。
そこまでわかっていたけれども、日本に帰る、そう決意する。
そのときの理由として鶴見さんが書いているのは、
負けるときには自分の「くに」にいたい、ということでした。
「くに」とともに生き死にしたいというのは、これは、やはりすごく重たいことだと思うんです。
この感覚というのは、なかなか政治学の用語ではうまく語り切ることができないんですけれども、
簡単に想像の共同体だ、共同幻想だとか言い切られてしまっては困る。
というのは、実際に、我々日本人は、現在列島に居住する一億三千万人だけでなく、
死者たちも、これから生まれてくる子供たちも、同じ日本人のフルメンバーであるからです。
ですから、過去の死者たちに対しては、彼らが犯した負債に関しては、
我々は受け継がなければいけない。そして、できたら完済して、できなければ、できるだけ軽減して、
次世代に送り出さなければいけない。その仕事が僕らに課されているだろうと思っています。
今の日本ではグローバリズムとナショナリズムが混交しています。
グローバリストはしばしば同時に暴力的な排外主義者でもある。
僕はそれは別に不思議だとは思わない。
それは彼らがまさに世界を二次元的に捉えていることの結果だと思うんです。
グローバルな陣地取りゲームで、自分たちの「取り分」「シェア」を増やそうとしている。
その点ではグローバル資本主義者と排外的ナショナリストはまったく同型的な思考をしている。
そして、排外主義ナショナリストというのは、伝統文化に関して全く関心を示しません。
死者に対して関心がないからです。
彼らにとって死者というのは、自説の傍証として便利なときに呼び出して、
使役させるだけの存在です。都合のいいときだけ都合のよい文脈で使って、
用事がなければ忘れてしまう。
自分に役立つ死者は重用するけれど、自説を覆す死者や、自説に適合しない死者たちは
「存在しないこと」にして平気です。
それはかれらが「くに」を考えているときに、
そこには死者もこれから生まれてくる人たちも含まれていないからです。
でも、僕たちが最終的に「くに」を立て直す、ほんとうに「立て直す」ところまで
追い詰められていると思うんですけれども、
立て直すときに僕らが求める資源というのは、結局、二つしかないわけです。
一つは山河です。国破れて山河あり。
政体が滅びても、経済システムが瓦解しても、山河は残ります。
そこに足場を求めるしかない。
もう一つは死者です。死者たちから遺贈されたものです。
それを僕たちの代で断絶させてはならない。未来の世代に伝えなければならないという責務の感覚です。
山河というのは言語であり、宗教であり、生活習慣であり、食文化であり、儀礼祭祀であり、
あるいは山紫水明の景観です。
我々自身を養って、我々自身を生み、今も支えているような、
人工的なものと自然資源が絡み合ってつくられた、一つの非常に複雑な培養器のようなもの、
僕はそれを山河と呼びたいと思っています。
山河とは何かということを、これから先、僕はきちんと言葉にしていきたいと思っています。
もう一つは死者たちです。
死者たちも、未来の世代も、今はまだ存在しない者も、我々のこの国の正規のフルメンバーであって、
彼らの権利、彼らの義務に対しても配慮しなければいけない。
これは長く稽古してよくわかったことなんですけれども、
実際には、我々は今、存在するもの、そこに具体的に物としてあるものを積み上げていって、
一つの組織や集団をつくっているのではなくて、
むしろ「そこにないもの」を手がかりにして、
組織や身体、共同体というものを整えている。これは、僕は実感としてわかるんです。
今、日本人に求められているものというのは、
日本人がその心身を整えるときのよりどころとなるような「存在しないもの」だと思います。
存在しないのだけれど、ありありと思い浮かべることができるもの、
それを手にしたと感じたときに、強い力が発動するもの、
自分の体が全部整っていて、いるべきときに、いるべきところにいるという実感を与えてくれるもの。
太刀というのは手を延長した刃物ではなくて、それを握ることによって体が整って、
これを「依代」として巨大な自然の力が体に流れ込んでくる、そういう一つの装置なわけです。
それは、手の内にあってもいいし、なくてもいい。
むしろ、ないほうがいいのかも知れない。
今、日本が主権国家として再生するために、僕らに必要なものもそれに近いような気がします。
存在しないもの、存在しないにもかかわらず、日本という国を整えて、
それをいるべきときに、いるべきところに立たせ、なすべきことを教えてくれるようなもの。
そのような指南力のある「存在しないもの」を手がかりにして国を作って行く。
これからどうやって日本という国を立て直していくのか考えるときには、
つねに死者たちと、未だ生まれてこざる者たちと、生きている自分たちが
一つの同胞として結ばれている、そういう考え方をするしかないのかなと思っております。
これから日本は一体どうなっていくのか。
実は、僕はあまり悲観していないんです。
ここまでひどい政権だと、いくら何でも長くは保たないと思うんです。
特に、隣国や国際社会の諸国から、もうちょっと合理的な思考をする政治家に統治してもらいたい
という強い要請があると思うんです。そうでないと外交がゲームにならないから。
現在の日本の安倍政権というのは、アメリカとも、中国とも、韓国とも、北朝鮮とも、ロシアとも、
近隣の国、どこともが外交交渉ができない状態ですね。
ほとんど「来なくていい」と言われているわけです。
安倍さんが隣国のどことも実質的な首脳会談ができないのは、彼の国家戦略に対して、
ほかの国々に異論がある、受け入れらないということではないと思います。
日本の国家戦略がわからないからですよね。それでは、交渉しようがない。
安倍さんの外交はどう見ても国民の総意を代表しているものとは思われない。
日本国民が「代表してもらっていない」と思っているというのではなく、
諸国の首脳が「この人の言葉は国の約束として重んじることができるのか」
どうか疑問に思っているからです。
ですから、これから先、安倍政権である限り、対米、対中、対韓、対ロシアの
どの外交関係もはかばかしい進展はないと思います。
どの国も「次の首相」としてもう少しもののわかった人間が出てくることを待っていて、
それまでは未来を縛るような約束は交わさないつもりでいると思います。
安倍政権に関しては、僕はそれほど長くは保たないと思います。
既に自民党の中でも、次を狙っている人たちが動き出している。
ただ、先ほど話したように、
対米従属を通じて自己利益を増すという「買弁マインド」を持った人たちが、
現在の日本のエスタブリッシュメントを構築しているという仕組み自体には変化がない以上、
安倍さんが退場しても、次に出てくる政治家もやはり別種の「買弁政治家」である
ことに変わりはない。看板は変わっても、本質は変わらないと思います。
民話に出てくる「サトリ」ではないですけれど、
他人におのれ思考の内的構造を言い当てられると、人間はフリーズしてしまって、
やろうと思っていたことができなくなってしまう。
人の暴走を止めようと思ったら、その人が次にやりそうなことをずばずば言い当てて、
そのときにどういう大義名分を立てるか、どういう言い訳をするか、
全部先回りして言い当ててしまえばいい。
それをされると、言われた方はすごく嫌な気分になると思うんです。
言い当てられたら不愉快だから、それは止めて、じゃあ違うことをやろう
ということになったりもする。
そういうかたちであれば、口説の徒でも政治過程に関与することができる。
僕はそういうふうに考えています。
真に政治的なものは実は知性の働きだと思っているからです。
今、何が起きているのか、今、現実に日本で国政の舵をとっている人たちが
何を考えているのか、どういう欲望を持っているのか、
どういう無意識的な衝動に駆動されているのか、
それを白日のもとにさらしていくという作業が、
実際にはデモをしたり署名を集めたりするよりも、
時によっては何百倍何千倍も効果的な政治的な力になるだろうと僕は信じております。
これからもこういう厭みな話をあちこちで語り続ける所存でございます。
浅野竹二、三枚目、
「冨士 小泉にて」です。
筋金入りの亜矢ちゃんファンですなw
◆http://koisuru21.blog.fc2.com/blog-category-7.html
恋する経済 島津亜矢
◎2014.11.29 Sat 島津亜矢が出演しない紅白歌合戦
より抜粋、
そんなことを思い返えすと、
島津亜矢の音楽活動が紅白などの既存の音楽番組とはかけはなれている
ことを痛感してしまうのです。たとえば今年の出演者の中で演歌の女性歌手は7人で、
このひとたちを押しのけて島津亜矢が出場するのはかなりむずかしいと思います。
演歌の世界では未だに紅白の影響が大きく、そのためこれらの歌い手さんたちの事務所は
必死でこの枠からこぼれ落ちないために一年を費やしているのではないかとさえ思います。
昨年を最後に出場辞退した北島三郎の枠が結局守れなかったように
おそらく番組としてはこの演歌枠をさらに減らしたいと考えているようです。
伝え聞くところによると番組の意向に沿って小林幸子の代わりに水森かおりが
「ご当地ソング」の歌とはまったく関係がない大掛かりな衣装で登場するなどして、
少ない演歌枠を守っている姿を観ていると切なくて情けなくて、彼女が気の毒でなりませんし、
紅白の傲慢さに憤りを感じてしまうのです。
島津亜矢のファンであるわたしは、そんなことをしてまで
ある意味音楽レベルの乏しいこの番組に彼女が出る必要はまったくないと思っています。
さらにはAKBグループを番組のコンパニオンのように酷使し、
これまた歌の内容とはまったく関係なく五木ひろしや細川たかしの
バックコーラスまでさせるのも、対等なコラボレーションならいざ知らず、
明らかに彼女たちに対する「セクシャル・ハラスメント」としか思えません。
嵐やSMAPなどジャニーズ事務所のアイドルタレントを重用することもふくめて、
紅白は結局のところ今の音楽産業を牛耳っているひとたちの意向に沿うことでしか
生き延びることができないことを証明していて、
紅白自身の意志などはとうになくなっているのだと思います。
少し前に歌い、ファンの間で話題になった軍歌「戦友」を最近まだ歌っているそうで、
今度の大阪のコンサートで聴くことになると思いますが、
今の時代にいわゆる「右翼」でない限り軍歌を歌うなど、
ましてや振袖姿で歌うなどはありえないことでしょう。
さまざまな批判を覚悟でこの歌を歌うことは、
歌も政治も経済も、たったひとりの人間ともうひとりの人間との絆から生まれることを
戦後生まれのわたしに教えてくれるとともに、
積極的平和を誹謗し、集団的自衛権をあっさりと国民に押し通してしまう
今の国家の危うさに対する異議申し立てのようにも思います。
時代の「大きな物語」を歌う島津亜矢が、近年ますます視聴率と権威主義が蔓延し、
怠惰で音楽的な冒険に乏しいポピュリズムにまい進する紅白歌合戦のコンセプトとは
ほとんど合致しないと思わざるを得ません。
しかしながら、だからこそ全国各地で彼女の歌を待つひとびとは、
彼女の生の歌声を聴きたくて会場に押し寄せるのだと思うのです。
一般的な資本主義経済の物とお金を交換する市場ではなく、
わたしが「助け合いの経済」や「顔の見える経済」、「恋する経済」と名付けている
「もうひとつの市場」を島津亜矢と観客が共につくり出す時、
その市場とは全国各地のコンサート会場であり、
そこでは歌がひとからひとへとつながっていくことで、
ひとりの想いとひとりの心が交換されるのではなく足し算されるのでした。
ふりかえると音楽は時としてたったひとりの涙によって生まれ、
たったひとりの心に届けられることを島津亜矢の歌は教えてくれていて、
それはもしかすると紅白歌合戦に出場することでは得られない、
歌手冥利につきる宝物なのではないかとわたしは思います。
☆http://www.youtube.com/watch?v=VawVGj-_5DU&feature=youtu.be
島津亜矢 命かれても
☆http://www.youtube.com/watch?v=-Z2go0nZ4A0&feature=youtu.be
島津亜矢 人生劇場
BSの昼の再放送で、知らない歌手が歌っておった、懐かしい、
明るい いい歌だと思う。
☆http://www.dailymotion.com/video/xs46y
2_%E8%97%A4%E5%9C%AD%E5%AD%90-%E3%81%AF%E3%81%97%E3%81%94%E9%85%92_music
藤圭子 - はしご酒
明治33年(1900年)~ 平成10年(1998年)
京都の 日本画家、 版画家。 作
「知恩院 雪」です。
☆曇、霜月もおはり。
まずは、ちっと長いのですが、含蓄がある、
「買弁=コンプラドール・Comprador」だらけの既得権層、
◆http://blog.tatsuru.com/
内田樹の研究室 2014.11.26
◎資本主義末期の国民国家のかたち
より抜粋、
それに意外なことに、この素人の直感が侮れない。
思い出しても愉快なことがあるんですけれども、
今からもう十年近く前でしょうか、私が『街場の中国論』という本を出した後に
公安調査庁の人が尋ねてまいりました。
「公安調査庁です」と言って名刺を出して、「あなたのファンなんです」と言うんです。
公安調査庁がファンのわけがない。(笑)
いろいろと話をしていたら、
「あなたの中国論なんですけれども、この中国の共産党内部の情報を
あなたはどうやって手に入れられたのか」と訊いてきた。
「毎日新聞からです」とお答えしたら、随分驚いていらした。
「だって、新聞で書いている情報だけだって、断片をつなぎ合わせていくと
大体何が起きているくらいは想像がつきますでしょ」と申し上げたら、
なかなか片づかない顔でお帰りになりました。
先般も、ちょっと自慢話になりますが、中国共産党に中央紀律委員会というものがありまして、
そこが党幹部に推薦図書を指示しました。
党幹部が読むべき本を五十六冊挙げて、これを読んでおくようにと、
夏休みの課題図書みたいに挙げたリストの中に私の『日本辺境論』も入っておりました。
日本人が書いたものは僕の本だけだったそうです。
中国人の友達から聞きました。
「内田さん、あなたの本、出てたよ。紀律委員長は習近平だから、習近平も認めた本だよ!」
と言われました。けっこう愉快な話だと思うんですけれど、
日本のメディアはあまり報道してくれなかったですね。
ことほどさように素人の直感は侮れないということで、
本日は資本主義末期の国民国家の行方について一席お話しさせて頂きます。
まず、今日のテーマですが、安倍政権、なぜこのような政権が存在していて、
誰が支持しているのか。戦後日本の民主主義社会からなぜこのような政体が生み出され、
それに対して政官財メディアがそれなりの支持を与えているのかという、
非常にわかりにくい現状を解読してみたいと思います。
特に海外から見た場合に非常にわかりにくいと思いますが、
日本の国家戦略が戦後一貫して
「対米従属を通じての対米自立」というものです。
これが戦後日本の基本的な国家戦略です。
でも、この「対米従属を通じての対米自立」ということは
日本人にはわかるけれど、他国からはその理路が見えにくい。
僕は、個人的に勝手にこれを「のれん分け戦略」と呼んでいます。
日本人の場合、のれん分けというのは、わりとわかりやすいキャリアパスです。
丁稚で奉公に上がって、手代になって、番頭になって、大番頭になって、ある日、
大旦那さんから呼ばれて、
「おまえも長いことよく忠義を尽くしてくれたね。これからは一本立ちしてよろしい。
うちののれんを分けてやるから、これからは自分の差配でやりなさい」と、
肩をぽんとたたかれて、独立を認められて、自分の店の主になる。
そういうようなキャリアパスというか、プロモーション・システムというのは
日本社会には伝統的に存在していました。
だから、日本人にとっては、「徹底的に忠義を尽くし、徹底的に従属することによって、
ある日、天賦のごとく自立の道が開ける」という構図には少しも違和感がないと思うんです。
戦後日本人が「対米従属を通じての対米自立」という国家戦略に
比較的簡単に飛びつけたのは、そして、そのことの「異常さ」に
いまだに気がつかないでいることの一つの理由はこの「のれん分け戦略」というものが
日本人の社会意識の中にかなり深く根を下ろしていたからではないかと思います。
一種の伝統文化です。
対米従属を通じての対米自立というのは、敗戦直後の占領期日本においては、
それなりに合理的な選択だったと思います。
というよりそれ以外に選択肢がなかった。
軍事的に決定的な敗北を喫して、GHQの指令に従うしかなかったわけですから。
その時期において、実際には面従腹背であったわけですけれども、
対米従属という戦略を選んだことは、客観的にも主観的も合理的な選択だったと思います。
それ以外の選択肢は事実上日本にはなかった。
人間は一度有効だった戦略に固着する傾向があります。
「待ちぼうけ」という童謡がありますね。
元ネタは韓非子の「守株待兎」という逸話です。
畑の隅の切り株にたまたま兎がぶつかって首の骨を折って死んだ。
兎を持ち帰った農夫はそれに味をしめ、次の日からは耕作を止めて
終日兎の来るのを待ち続けた。ついに兎は二度と切り株にぶつからず、
畑は荒れ果てて、農夫は国中の笑いものになった。
「小成は大成を妨げる」と言いますけれども、日本はこの農夫に似ている。
戦後の二つの成功体験によって、この成功体験、この戦略に居着いてしまった。
国力をじっくり蓄え、文化を豊かにし、国際社会における信認を高めて、
独立国、主権国家として国際社会に承認されるという迂遠な道を避け、
ただ対米従属していさえすればよいという「待兎」戦略に切り替えた。
それまでの戦後政治家たちは、かなり複雑なマヌーバーを駆使して
日米関係をコントロールしていたと思うんです。
政治家ばかりでなく、官僚も学者や知識人も、日米関係というのは非常に複雑なゲームだ
ということがわかっていた。それを巧みにコントロールして、できるだけ従属度を減らして、
できるだけ主権的にふるまうというパワーゲームのためにそれなりの知恵を絞っていた。
なにしろ、アメリカは日本にとって直近の戦争の敵国ですから、
さまざまな点で国益が対立している。
それを調整して、アメリカの国益増大を支援しつつ、日本の国益を増大させる
というトリッキーなゲームですから、かなりの知的緊張が要求された。
ところが、僕の印象では、八〇年代から後、
そういう緊張感が政治家たちに見えなくなくなってしまった。
日米両国が、それぞれの国益をかけて、非常に厳しい水面下のバトルを展開している
という感じがなくなってしまった。
ただ単純に対米従属してさえいればいいことがあるという思い込みに
日本のエスタブリッシュメント全体が領されるようになった。
対米従属をすると、「いいこと」があるという、シンプルな入力出力相関システム、
いわゆる「ペニー=ガム・メカニズム」のようなものとして
日米関係を構想する人たちがしだいに増えてきて、気がつけば多数派を形成するようになった。
日米関係が一種の「ブラックボックス」になってしまって、
「対米従属」という「ペニー銅貨」を放り込むと、
「なにかいいこと」という「ガム」が出てくるという単純なメカニズム幻想が定着してしまった。
そんなふうに日米関係が現実から遊離して、幻想の領域に浮き上がってしまったのが、
だいたい80年代なかばから後ではないかと思います。
どうしてこんなことになったのかというと、結局は「時間の問題」だったと思います。
「対米従属を通じての対米自立」という発想そのものの合理性は、
確かに論ずるまでもない。でも、時間がたってくると、
その装置を管理運営する人間が入れ替わる。
敗戦直後のとき、日本の外交戦略のフロントラインにいた人たちは、
日米の国益の間には齟齬がある。
両国の国益が一致するということは原理的にはありえない
ということを骨身にしみて知っていた。
当たり前です、殺し合いをしてきたばかりなんですから。
国益が相反するということがわかった上で、「面従腹背」のマヌーバーを展開していた。
表面的にはアメリカに追随するが、本心では早くアメリカを厄介払いしたいと思っていた。
でも、面従腹背のポーズもそれが二世代三世代にわたって続くうちに変質してしまう。
「面従」だけが残って、「腹背」が消えてしまう。
対米従属がそのまま日本の国益増大であると頭から信じ込む人たちが増えてきた。
増えてきたどころではなく、政界、財界、メディア、学会、どこでも、
対米従属・日米同盟機軸以外の選択肢を考えたことがある人がいなくなってしまった。
ふつうは「いまある仕組み以外の可能性」を、蓋然性がどれほど低くても、
一応は考えておく。
日本人だけが外交戦略において「日米同盟基軸」、
つまり対米従属以外のいかなる選択肢についてもその可能性や合理性について考えない。
これはあきらかに病的な症候です。
対米従属が国家戦略ではなく、ある種の病的固着となっていることがわかったのは、
鳩山さんの普天間基地移転についての発言をめぐる騒ぎのときです。
僕は、あのとき、報道を注視していて、ほんとうにびっくりした。
あのときが、日本の大きな転換点ではなかったか思います。
鳩山首相は、普天間基地をできたら国外、せめて県外に移転したいと言ったわけです。
国内における米軍基地の負担を軽減したい。できたら国外に移って欲しい、そう言った。
外国の軍隊が恒常的に国内に駐留しているというのは、どの主権国家にとっても
恥ずかしいことです。ふつうはそう感じます。
外国の基地が常時駐留するのは誰が見ても軍事的従属国のポジションだからです。
それぞれの国が自国の国益を追求していって、
他国の国益との間ですり合わせをしていって、落としどころを探していく。
これが本来の主権国家同士の外交交渉のはずですが、
日本だけはアメリカ相手にそういうゲームをしていない。
アジア諸国がアメリカと五分でシビアな折衝をしている中で、
日本だけがアメリカに何も要求しないで、ただ唯々諾々とその指示に従っている。
それどころか、近隣の国がアメリカ相手に堂々とパワーゲームを展開している
というニュース自体が、日本ではほとんど報道されない。
その鳩山さんの件ですけれども、鳩山さんは、
国内に米軍基地、外国軍の基地があるということは望ましいことではないと言ったわけです。
当たり前ですよね。主権国家としては、当然、そう発言すべきである。
沖縄の場合は、日本国土の0.6%の面積に、国内の七五%の米軍基地が集中している。
これは異常という他ない。この事態に対して、基地を縮小して欲しい、
できたら国外に撤去していただきたいということを要求するのは
主権国家としては当然のことなわけです。けれども、この発言に対しては
集中的なバッシングがありました。
特に外務省と防衛省は、首相の足を引っ張り、結果的に首相の退陣の流れをつくった。
なぜ、日本の首相が米軍基地の縮小や移転を求めたことが
日本の国益を損なうことになるのか、僕には理由がわかりませんでした。
この事件は「アメリカの国益を最大化することが、
すなわち日本の国益を最大化することなのである」という信憑を
日本の指導層が深く内面化してしまった、
彼らの知的頽廃の典型的な症状だったと思っております。
首相が日本の国益を代表して、素直に国土を回復したい、主権を回復したい
ということをアメリカに伝えたら、寄ってたかって日本人がそれを潰した
という事実そのものが 日本の罹患した病の徴候だったと僕は思います。
アプローチは拙劣だったかも知れないが、首相の主張は正しい
という擁護の論陣を張ったメディアは僕の知る限りありませんでした。
アメリカの信頼を裏切るような政治家に国政は託せない
というのがほとんどすべてのメディアの論調でした。
「ちょっと、それはおかしいんじゃないか」
と言う人がほとんどいなかったことを僕は「おかしい」と思いました。
主権国家が配慮するのは、まず国土の保全、国民の安寧、通貨の安定、
外交や国防についての最適政策の選択、そういったことだと思います。
主権の第一条件である「国土の回復」を要求した従属国の首相が、
国土を占領している宗主国によってではなくて、
占領されている側の自国の官僚や政治家やジャーナリストによって攻撃を受ける。
これは倒錯的という他ありません。
なぜこのような病的傾向が生じたのか。
それは「対米従属を通じての対米自立」という敗戦直後に採用された経験則を、
その有効性についてそのつど吟味することなく、
機械的に いまだに適用し続けているせいだと思います。
でも、考えてもみてください。1972年の沖縄返還から後は、もう42年経っている。
その間、アメリカから日本が奪還したものは何一つないわけです。
42年間、日本は対米従属を通じて何一つ主権を回復していないんです。
対米従属は日本にこの42年間、何一つ見るべき果実をもたらしていない
という現実を「対米従属論者」はどう評価しているのか。
このままさらにもう50年、100年この「守株待兎」戦略を継続すべきだ
という判断の根拠は何なのか。
これを続ければ、いつ沖縄の基地は撤去されるのか、横田基地は戻って来るのか。
それを何も問わないままに、
前例を踏襲するという前例主義によって対米従属が続いている。
かつてのプレイヤーは対米従属を通じて、
日本の国益を引き出そうとしていたわけですけれど、いまのプレイヤーたちは違う。
アメリカの国益と日本の国益という本来相反するはずのものを
「すり合わせる」ことではなく、アメリカの国益を増大させると
「わが身によいことが起こる」というふうに考える人たちが政策決定の要路に立っている。
現に、これまで対米従属路線を疑うことなくひた走ってきたせいで
「今日の地位」を得た人たちがそこにいるわけですから、
彼らがこれからも対米従属路線をひた走ることはとどめがたい。
彼らにおいては、いつのまに国益追求と自己利益の追求がオーバーラップしてしまっている。
何のための対米従属かというと、
とりあえず、そうすると「わが身にはよいことが起こる」のが確実だからです。
植民地において、植民地原住民であるにもかかわらず、宗主国民にすりよって、
その便宜をはかる代わりに、政治的経済的な見返りを要求するものは
清朝末期に「買弁」と呼ばれました。
今の日本の指導層は、宗主国への従属的ポーズを通じて、
自己利益を増大させようとしている点において、すでに「買弁的」である
と言わざるを得ないと僕は思っています。
浅野竹二、二枚目、
「猿澤池」です。
では、この後、日本は一体どうやって主権回復への道を歩んでいったらいいのか。
アメリカの国益と日本の国益というのは、利害が相反する点があり、一致する点がある。
そのすりあわせをするのが外交だった。
ところが、いつのまにか、あきらかに日本の国益を害することが確実な要求に対しても、
日本側が抵抗しなくなってきた。
そのふるまいは彼らが日本の国益を代表していると考えると理解できない。
日本を統治している人たちが、自国の国益の増大に関心がないように見えるわけですから。
例えば、特定秘密保護法です。
特定秘密保護法というものは、要するに民主国家である日本が、
国民に与えられている基本的な人権である言論の自由を制約しようとする法律です。
国民にとっては何の利もない。なぜ、
そのような反民主的な法律の制定を強行採決をしてまで急ぐのか。
理由は「このような法律がなければアメリカの軍機が漏れて、
日米の共同的な軍事作戦の支障になる」ということでした。
アメリカの国益を守るためにであれば、日本国民の言論の自由などは抑圧しても構わない、と。
安倍政権はそういう意思表示をしたわけです。
そして、アメリカの軍機を守るために日本国民の基本的人権を制約しましたと
アメリカに申し出たわけです。日本の国民全体の利益を損なうことを通じて、
アメリカの軍機を守りたい、と。
言われたアメリカからしてみたら、「ああ、そうですか。そりゃ、どうも」
という以外に言葉がないでしょう。たしかにそうおっしゃって頂けるのは
まことにありがたいことではあるえれど、一体何で日本政府がそんなことを言ってくるのか、
実はよくわからない。
なぜ日本は国民の基本的人権の制約というような「犠牲」をアメリカのために捧げるのか。
現に国家権力の中枢から国家機密が漏洩しているということは、
日本ではもう既に日常的に行われていると僕は思っています。
どこに流れているか。もちろんアメリカに流れている。
政治家でも官僚でもジャーナリストでも、知る限りの機密を
アメリカとの間に取り結んだそれぞれの「パイプ」に流し込んでいる。
それがアメリカの国益を増大させるタイプの情報であれば、
その見返りは彼らに個人的な報奨としてリターンされてくる。
結果的に政府部内や業界内における彼らの地位は上昇する。
そして、彼らがアメリカに流す機密はますます質の高いものになる。
そういう「ウィン・ウィン」の仕組みがもう出来上がっている、僕はそう確信しています。
特定秘密保護法は、「機密漏洩防止」ではなく、
彼らの「機密漏洩」システムをより堅牢なものとするための法律です。
アメリカの国益増大のために制定された法律なんですから、
その法律がアメリカの国益増大のための機密漏洩を処罰できるはずがない。
これから先、日本政府の中枢からどのようなかたちで国家機密がアメリカに漏洩しようとも、
いったん「特定秘密」に指定された情報については、
それが何であるか、誰がそれをどう取り扱ったか、すべてが隠蔽されてしまう。
どれほど秘密が漏洩しても、もう誰にもわからない。
集団的自衛権もそうです。
集団的自衛権というのは、何度も言っていますけれども、
平たく言えば「他人の喧嘩を買う権利」のことです。
少なくともこれまでの発動例を見る限りは、ハンガリー動乱、チェコスロバキア動乱、
ベトナム戦争、アフガニスタン侵攻など、ソ連とアメリカという二大超大国が、
自分の「シマ内」にある傀儡政権が反対勢力によって倒されそうになったときに、
「てこ入れ」するために自軍を投入するときの法的根拠として使った事例しかない。
何で日本が集団的自衛権なんか行使したがるのかが、ですから僕にはさっぱりわからない。
いったいどこに日本の「衛星国」や「従属国」があるのか。
海外のどこかに日本の傀儡政権があるというのであれば、話はわかる。
その親日政権が民主化運動で倒れかけている。しようがないから、
ちょっと軍隊を出して反対勢力を武力で弾圧して、
政権のてこ入れをしてこようというのであれば、ひどい話ではあるけれども、
話の筋目は通っている。でも、日本にはそんな「シマうち」の国なんかありません。
結局、集団的自衛権の行使というのは、現実的には
アメリカが自分の「シマうち」を締めるときにその海外派兵に日本もくっついていって、
アメリカの下請で軍事行動をとるというかたちしかありえない。
アメリカの場合、自国の若者が中東や西アジアやアフリカで死ぬ
ということにもう耐えられなくなっている。意味がわからないから。
でも、海外の紛争には介入しなければならない。しかたがないから、
何とかして「死者の外部化」をはかっている。
無人飛行機を飛ばしたり、ミサイルを飛ばしたりしているというのは、
基本的には生身の人間の血を流したくないということです。
攻撃はしたいけれども、血は流したくない。
だから、民間の警備会社への戦闘のアウトソーシングをしています。
これはまさに「死者の外部化」に他なりません。
たしかに、これによって戦死者は軽減した。でも、その代わり莫大な財政上の負荷が生じた。
警備会社、要するに傭兵会社ですけれど、めちゃくちゃな値段を要求してきますから。
アメリカは、その経済的な負担に耐えることができなくなってきている。
そこに日本が集団的自衛権の行使容認を閣議決定しましたと言ったら、
アメリカ側からしてみると大歓迎なわけです。
これまで民間の警備会社にアウトソーシングして、莫大な料金を請求されている仕事を、
これから自衛隊が無料でやってくれるわけですから。
願ってもない話なわけですよね。「やあ、ありがとう」と言う以外に言葉がない。
今、日本で政策決定している人たちというのは、国益の増大のためにやっているのではなくて、
ドメスチックなヒエラルキーの中で出世と自己利益の拡大のためにそうしているように見えます。
つまり、「国民資源をアメリカに売って、その一部を自己利益に付け替えている」
というふうに見立てるのが適切ではないかと思います、と。
国民資源というのは、日本がこれから百年、二百年続くためのストックのことです。
それは手を着けてはいけないものです。
民主制という仕組みもそうだし、国土もそうだし、国民の健康もそうだし、伝統文化もそうです。
でも、今の日本政府はストックとして保持すべき国民資源を次々と商品化して市場に流している。
それを世界中のグローバル企業が食いたい放題に食い荒らすことができるような仕組みを
作ろうとしている。そんなことをすれば、日本全体としての国民資源は損なわれ、
長期の国益は逓減してゆくわけですけれども、政官財はそれを主導している。
彼らのそういう気違いじみた行動を動機づけているものは何かと言ったら、
それが国益の増大に結びつく回路が存在しない以上、私利私欲の追求でしかないわけです。
対米従属すればするほど、社会的格付けが上がり、出世し、議席を得、
大学のポストにありつき、政府委員に選ばれ、メディアへの露出が増え、個人資産が増える、
そういう仕組みがこの42年間の間に日本にはできてしまった。
この「ポスト72年体制」に居着いた人々が現代日本では指導層を形成しており、
政策を起案し、ビジネスモデルを創り出し、メディアの論調を決定している。
ふつう「こういうこと」は主権国家では起こりません。
これは典型的な「買弁」的な行動様式だからです。植民地でしか起こらない。
買弁というのは、自分の国なんかどうだって構わない、自分さえよければそれでいい
という考え方をする人たちのことです。
日本で「グローバル人材」と呼ばれているのは、そういう人たちのことです。
日本的文脈では「グローバル」という言葉をすべて「買弁」という言葉に置き換えても意味が通る
ような気がします。文科省の「グローバル人材育成」戦略などは
「買弁人材育成」と書き換えた方がよほどすっきりします。
では一体これから我々はどうやって主権国家として、
主権国家への道を歩んだらいいかということを述べたいと思います。
国というものを、皆さんはたぶん水平的に表象していると思います。
ビジネスマンはそうです。
今期の収益とか、株価ということばかり考えている人は、それと同じように国のことも考える。
ですから、世界を水平的に、二次元的に「地図」として表象して、
その中での自分たちの取り分はどれぐらいか、パイのどれぐらいを取っているか。
そういうような形で国威や国力を格付けしてようとしている。
けれども、本来の国というのは空間的に表象するものではない、僕はそう思っています。
地図の上の半島の広さとか、勢力圏というものを二次元的に表象して、
これが国力であると考えるのは、間違っていると思う。
国というのはそういうものではなくて、実際には垂直方向、
時間の中でも生きているものです。
我々がこの国を共有している、日本なら日本という国の構成メンバーというのは、
同時代に生きている人間だけではない。そこには死者も含まれているし、
これから生まれてくる子供たちも含まれている。
その人たちと、一つの多細胞性物のような共生体を私たちは形づくっている。
そこに、国というもののほんとうの強みがあると思います。
鶴見俊輔さんは、開戦直前にハーバード大学を卒業するわけですけれども、
そのときにアメリカに残るか、交換船で日本に帰るかという選択のときに、
日本に帰るという選択をします。自分は随分長くアメリカにいて、
英語で物を考えるようになってしまったし、日本語もおぼつかなくなっている。
そもそも日本の政治家がどの程度の人物かよくわかっているし、
多分、日本はこれから戦争をやったら負けるだろう。
そこまでわかっていたけれども、日本に帰る、そう決意する。
そのときの理由として鶴見さんが書いているのは、
負けるときには自分の「くに」にいたい、ということでした。
「くに」とともに生き死にしたいというのは、これは、やはりすごく重たいことだと思うんです。
この感覚というのは、なかなか政治学の用語ではうまく語り切ることができないんですけれども、
簡単に想像の共同体だ、共同幻想だとか言い切られてしまっては困る。
というのは、実際に、我々日本人は、現在列島に居住する一億三千万人だけでなく、
死者たちも、これから生まれてくる子供たちも、同じ日本人のフルメンバーであるからです。
ですから、過去の死者たちに対しては、彼らが犯した負債に関しては、
我々は受け継がなければいけない。そして、できたら完済して、できなければ、できるだけ軽減して、
次世代に送り出さなければいけない。その仕事が僕らに課されているだろうと思っています。
今の日本ではグローバリズムとナショナリズムが混交しています。
グローバリストはしばしば同時に暴力的な排外主義者でもある。
僕はそれは別に不思議だとは思わない。
それは彼らがまさに世界を二次元的に捉えていることの結果だと思うんです。
グローバルな陣地取りゲームで、自分たちの「取り分」「シェア」を増やそうとしている。
その点ではグローバル資本主義者と排外的ナショナリストはまったく同型的な思考をしている。
そして、排外主義ナショナリストというのは、伝統文化に関して全く関心を示しません。
死者に対して関心がないからです。
彼らにとって死者というのは、自説の傍証として便利なときに呼び出して、
使役させるだけの存在です。都合のいいときだけ都合のよい文脈で使って、
用事がなければ忘れてしまう。
自分に役立つ死者は重用するけれど、自説を覆す死者や、自説に適合しない死者たちは
「存在しないこと」にして平気です。
それはかれらが「くに」を考えているときに、
そこには死者もこれから生まれてくる人たちも含まれていないからです。
でも、僕たちが最終的に「くに」を立て直す、ほんとうに「立て直す」ところまで
追い詰められていると思うんですけれども、
立て直すときに僕らが求める資源というのは、結局、二つしかないわけです。
一つは山河です。国破れて山河あり。
政体が滅びても、経済システムが瓦解しても、山河は残ります。
そこに足場を求めるしかない。
もう一つは死者です。死者たちから遺贈されたものです。
それを僕たちの代で断絶させてはならない。未来の世代に伝えなければならないという責務の感覚です。
山河というのは言語であり、宗教であり、生活習慣であり、食文化であり、儀礼祭祀であり、
あるいは山紫水明の景観です。
我々自身を養って、我々自身を生み、今も支えているような、
人工的なものと自然資源が絡み合ってつくられた、一つの非常に複雑な培養器のようなもの、
僕はそれを山河と呼びたいと思っています。
山河とは何かということを、これから先、僕はきちんと言葉にしていきたいと思っています。
もう一つは死者たちです。
死者たちも、未来の世代も、今はまだ存在しない者も、我々のこの国の正規のフルメンバーであって、
彼らの権利、彼らの義務に対しても配慮しなければいけない。
これは長く稽古してよくわかったことなんですけれども、
実際には、我々は今、存在するもの、そこに具体的に物としてあるものを積み上げていって、
一つの組織や集団をつくっているのではなくて、
むしろ「そこにないもの」を手がかりにして、
組織や身体、共同体というものを整えている。これは、僕は実感としてわかるんです。
今、日本人に求められているものというのは、
日本人がその心身を整えるときのよりどころとなるような「存在しないもの」だと思います。
存在しないのだけれど、ありありと思い浮かべることができるもの、
それを手にしたと感じたときに、強い力が発動するもの、
自分の体が全部整っていて、いるべきときに、いるべきところにいるという実感を与えてくれるもの。
太刀というのは手を延長した刃物ではなくて、それを握ることによって体が整って、
これを「依代」として巨大な自然の力が体に流れ込んでくる、そういう一つの装置なわけです。
それは、手の内にあってもいいし、なくてもいい。
むしろ、ないほうがいいのかも知れない。
今、日本が主権国家として再生するために、僕らに必要なものもそれに近いような気がします。
存在しないもの、存在しないにもかかわらず、日本という国を整えて、
それをいるべきときに、いるべきところに立たせ、なすべきことを教えてくれるようなもの。
そのような指南力のある「存在しないもの」を手がかりにして国を作って行く。
これからどうやって日本という国を立て直していくのか考えるときには、
つねに死者たちと、未だ生まれてこざる者たちと、生きている自分たちが
一つの同胞として結ばれている、そういう考え方をするしかないのかなと思っております。
これから日本は一体どうなっていくのか。
実は、僕はあまり悲観していないんです。
ここまでひどい政権だと、いくら何でも長くは保たないと思うんです。
特に、隣国や国際社会の諸国から、もうちょっと合理的な思考をする政治家に統治してもらいたい
という強い要請があると思うんです。そうでないと外交がゲームにならないから。
現在の日本の安倍政権というのは、アメリカとも、中国とも、韓国とも、北朝鮮とも、ロシアとも、
近隣の国、どこともが外交交渉ができない状態ですね。
ほとんど「来なくていい」と言われているわけです。
安倍さんが隣国のどことも実質的な首脳会談ができないのは、彼の国家戦略に対して、
ほかの国々に異論がある、受け入れらないということではないと思います。
日本の国家戦略がわからないからですよね。それでは、交渉しようがない。
安倍さんの外交はどう見ても国民の総意を代表しているものとは思われない。
日本国民が「代表してもらっていない」と思っているというのではなく、
諸国の首脳が「この人の言葉は国の約束として重んじることができるのか」
どうか疑問に思っているからです。
ですから、これから先、安倍政権である限り、対米、対中、対韓、対ロシアの
どの外交関係もはかばかしい進展はないと思います。
どの国も「次の首相」としてもう少しもののわかった人間が出てくることを待っていて、
それまでは未来を縛るような約束は交わさないつもりでいると思います。
安倍政権に関しては、僕はそれほど長くは保たないと思います。
既に自民党の中でも、次を狙っている人たちが動き出している。
ただ、先ほど話したように、
対米従属を通じて自己利益を増すという「買弁マインド」を持った人たちが、
現在の日本のエスタブリッシュメントを構築しているという仕組み自体には変化がない以上、
安倍さんが退場しても、次に出てくる政治家もやはり別種の「買弁政治家」である
ことに変わりはない。看板は変わっても、本質は変わらないと思います。
民話に出てくる「サトリ」ではないですけれど、
他人におのれ思考の内的構造を言い当てられると、人間はフリーズしてしまって、
やろうと思っていたことができなくなってしまう。
人の暴走を止めようと思ったら、その人が次にやりそうなことをずばずば言い当てて、
そのときにどういう大義名分を立てるか、どういう言い訳をするか、
全部先回りして言い当ててしまえばいい。
それをされると、言われた方はすごく嫌な気分になると思うんです。
言い当てられたら不愉快だから、それは止めて、じゃあ違うことをやろう
ということになったりもする。
そういうかたちであれば、口説の徒でも政治過程に関与することができる。
僕はそういうふうに考えています。
真に政治的なものは実は知性の働きだと思っているからです。
今、何が起きているのか、今、現実に日本で国政の舵をとっている人たちが
何を考えているのか、どういう欲望を持っているのか、
どういう無意識的な衝動に駆動されているのか、
それを白日のもとにさらしていくという作業が、
実際にはデモをしたり署名を集めたりするよりも、
時によっては何百倍何千倍も効果的な政治的な力になるだろうと僕は信じております。
これからもこういう厭みな話をあちこちで語り続ける所存でございます。
浅野竹二、三枚目、
「冨士 小泉にて」です。
筋金入りの亜矢ちゃんファンですなw
◆http://koisuru21.blog.fc2.com/blog-category-7.html
恋する経済 島津亜矢
◎2014.11.29 Sat 島津亜矢が出演しない紅白歌合戦
より抜粋、
そんなことを思い返えすと、
島津亜矢の音楽活動が紅白などの既存の音楽番組とはかけはなれている
ことを痛感してしまうのです。たとえば今年の出演者の中で演歌の女性歌手は7人で、
このひとたちを押しのけて島津亜矢が出場するのはかなりむずかしいと思います。
演歌の世界では未だに紅白の影響が大きく、そのためこれらの歌い手さんたちの事務所は
必死でこの枠からこぼれ落ちないために一年を費やしているのではないかとさえ思います。
昨年を最後に出場辞退した北島三郎の枠が結局守れなかったように
おそらく番組としてはこの演歌枠をさらに減らしたいと考えているようです。
伝え聞くところによると番組の意向に沿って小林幸子の代わりに水森かおりが
「ご当地ソング」の歌とはまったく関係がない大掛かりな衣装で登場するなどして、
少ない演歌枠を守っている姿を観ていると切なくて情けなくて、彼女が気の毒でなりませんし、
紅白の傲慢さに憤りを感じてしまうのです。
島津亜矢のファンであるわたしは、そんなことをしてまで
ある意味音楽レベルの乏しいこの番組に彼女が出る必要はまったくないと思っています。
さらにはAKBグループを番組のコンパニオンのように酷使し、
これまた歌の内容とはまったく関係なく五木ひろしや細川たかしの
バックコーラスまでさせるのも、対等なコラボレーションならいざ知らず、
明らかに彼女たちに対する「セクシャル・ハラスメント」としか思えません。
嵐やSMAPなどジャニーズ事務所のアイドルタレントを重用することもふくめて、
紅白は結局のところ今の音楽産業を牛耳っているひとたちの意向に沿うことでしか
生き延びることができないことを証明していて、
紅白自身の意志などはとうになくなっているのだと思います。
少し前に歌い、ファンの間で話題になった軍歌「戦友」を最近まだ歌っているそうで、
今度の大阪のコンサートで聴くことになると思いますが、
今の時代にいわゆる「右翼」でない限り軍歌を歌うなど、
ましてや振袖姿で歌うなどはありえないことでしょう。
さまざまな批判を覚悟でこの歌を歌うことは、
歌も政治も経済も、たったひとりの人間ともうひとりの人間との絆から生まれることを
戦後生まれのわたしに教えてくれるとともに、
積極的平和を誹謗し、集団的自衛権をあっさりと国民に押し通してしまう
今の国家の危うさに対する異議申し立てのようにも思います。
時代の「大きな物語」を歌う島津亜矢が、近年ますます視聴率と権威主義が蔓延し、
怠惰で音楽的な冒険に乏しいポピュリズムにまい進する紅白歌合戦のコンセプトとは
ほとんど合致しないと思わざるを得ません。
しかしながら、だからこそ全国各地で彼女の歌を待つひとびとは、
彼女の生の歌声を聴きたくて会場に押し寄せるのだと思うのです。
一般的な資本主義経済の物とお金を交換する市場ではなく、
わたしが「助け合いの経済」や「顔の見える経済」、「恋する経済」と名付けている
「もうひとつの市場」を島津亜矢と観客が共につくり出す時、
その市場とは全国各地のコンサート会場であり、
そこでは歌がひとからひとへとつながっていくことで、
ひとりの想いとひとりの心が交換されるのではなく足し算されるのでした。
ふりかえると音楽は時としてたったひとりの涙によって生まれ、
たったひとりの心に届けられることを島津亜矢の歌は教えてくれていて、
それはもしかすると紅白歌合戦に出場することでは得られない、
歌手冥利につきる宝物なのではないかとわたしは思います。
☆http://www.youtube.com/watch?v=VawVGj-_5DU&feature=youtu.be
島津亜矢 命かれても
☆http://www.youtube.com/watch?v=-Z2go0nZ4A0&feature=youtu.be
島津亜矢 人生劇場
BSの昼の再放送で、知らない歌手が歌っておった、懐かしい、
明るい いい歌だと思う。
☆http://www.dailymotion.com/video/xs46y
2_%E8%97%A4%E5%9C%AD%E5%AD%90-%E3%81%AF%E3%81%97%E3%81%94%E9%85%92_music
藤圭子 - はしご酒