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近づく夏?

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 画は 歌川 廣重 (安藤廣重)

 寛政9年(1797年)〜 安政5年(1858年)

 号は 一立齋(いちりゅうさい)             作


  「京都名所之内 四条川原夕涼」です。


☆曇り。

道新も「集団的自衛権」につき、大本営発表そのものw

壺三御用達のユダ米の犬コロ、連日の登場です。

岡崎久彦、五百旗頭真など、いいかげんにしろ、ですよ、

壺三は「田布施システム」のゾンビ、アナクロの極み。

時代は転換しつつあるのだ、総て金属疲労・劣化著しく、古いね、

◆http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-2902.html
カレイドスコープ(万華鏡) Wed.2014.06.25
◎ロシアの銀行も ガスプロムも ロシア人も 「ドルよ、さらば!」


より抜粋、

「ドル以外の通貨の使用を拡げていくことは、
ロシアの大銀行が今まさに処理を進めている重要な課題である」

「ロシアのガスプロムは、米ドルからユーロに切り替える。
その他のロシアの大企業も同様に、米ドル以外の他の通貨に切り替えつつある」

「ロシア人は一ヵ月で61%の資金をアメリカの銀行から引き上げた」

ロシアは、国策として完全にドルとの決別を決めた。


☆ロシア人は米国の銀行から急激に資金を引き上げている


 ▼http://www.testosteronepit.com/home/2014/6/5/
  giant-sucking-sound-russian-money-yanked-from-us-banks.html

  ・ ・・・このように、オバマがロシアに対して経済制裁を発動するまでもなく、
  ロシア人は、3月のうちに 米国の銀行から資金を引き上げ始めている。

  米国の銀行のロシア国民による保証金額は、216億ドルから84億ドルに突然落ち込んだ。
  彼らは、たった1ヵ月で61%の資金を米国の銀行の預金から引き上げたことになる。

  http://blog-imgs-68-origin.fc2.com/k/a/l/kaleido11/mag20140616-2.jpg

  彼らは、キプロスでこのような事態について学習したのだ。

  その教訓は、「没収される前に、 資金を引き上げろ」である。


☆ロシアのガスプロムは、米ドルからユーロに切り替える

米国債保有国ランキングを見てください。
http://www.treasury.gov/ticdata/Publish/mfh.txt

上から12番目にRussiaがあります。

ロシアは、凄い勢いで米国債を売っています。

アメリカの経済制裁は、ウクライナ問題の衝突だけではなく、
もっとずっと以前からロシアが米 国債を売ることによって、米国に脅威を与えていた
ことによるものであると推察されるのです。

ロシアは、さらに天然ガスや石油の国際取引において、米ドルを使用せず、
自国通貨と相手国の通貨で決済する二国間貿易の体制づくりを急いでいます。

これは、ロシアの大企業と大銀行が国策として進めているのです。

以下は、小説家であり弁護士であるマイケル・シャイダーの
「ロシアは実際にドルを回避しつつある」の記事です。

ロシア人は、実際にオイルダラーに対抗する動きを見せています。

彼らは真剣に「脱ドル戦略」に取り組んでいるのです。

世界最大の天然ガス生産事業者・ガスプロム(天然ガス埋蔵量世界一のロシアの国営企業)は、
天然ガス供給に対する報酬の受け取りを、今までの米ドルからユーロに切り替える
という協定に署名しました。署名したのは 、ロシアにとって大口の買い手側数社。

ガスプロムの株式の過半数はロシア政府が保有しているので、
この決定はロシア政府の承認なしには成し得なかったでしょう。

アメリカの主流ニュース・ネットワークは、このビッグニュースを取り上げていませんが、
これは驚くべき大きなニュースなのです。

ガスプロムは世界最大の企業のうちの一つで、ロシアのGDPの8%を占めています。
地球上の天然ガス埋蔵量の18%を保有し、同時に、巨大な石油生産者でもあります。

したがって、この動きは、非常に重要なのです。

オバマが、ウクライナ紛争の制裁措置として、
ロシアに無意味な経済制裁を加えると宣言したとき、彼は 、
ニュースが一巡した後は、世界中の人々は、このことを忘れてしまうだろうと考えていたようです。

しかし、ロシアの人々は、これを忘れないどころか、
アメリカの難癖を決して許すことはないでしょう。

この点で、ロシア人は、アメリカに完全に背を向けているのです。

これは、どんなメジャーなアメリカのニュースからも得ることができない情報です。

しかし、ガスプロムが現在やっていることは、実際に世界金融の景色を変えてしまう可能性があります。



☆「脱ドル」は、ロシアの大銀行が今まさに処理を進めている重要な課題


  アンドレイ・コースティン(ロシアの国立銀行VTBの最高経営責任者)は、
  ドル以外の通貨の使用を拡張することが、銀行の「主なタスク」のうちの一つであると語った。

  「中国との二国間貿易が広がるにつれて、中国元とルーブルとの相互使用を展開していくことは、
  アジェンダの最優先事項である。だから、われわれはそれに向けて、今作業を進めている」と、
  彼はプーチンに作業報告を行っている。

  「われわれは5月以来、この作業を進めている」とアンドレイ・コースティンは言う。

  「ロシアが、ドルへの依存率を減らそうとすることは間違っていない。実際に、
  そうした措置を講じることは合理的である」と、
  ヨーロッパの別の大銀行のロシアの会長は話している。

  彼は、「ロシアがリスクの高いドルとの接触を保っている限りは、
  金融危機の時に過酷な相場変動の危険 に晒されることになる」とつけ加えた。

  同時に、「ただし、日本との貿易決済をドルで行わなければならないという理由もない」と語った。


☆「一極集中世界」の覇権と、それを防ぐロシアの「多極化未来世界」

米国の経済体制が、脱ドル宣言をしたロシアや中国以外の世界の国々に
極端に依存しているということも事実です。

世界の他の国々では、二国間相互の貿易に米ドルを使っているので
米ドルの価値を人為的に高く維持し、 借り入れコストを人為的に低く抑えたままなのです。

ロシアが毀損された米ドルを放棄するととも、今後、他国もその前例に従い始めると、
財政的な雪崩現象が起こるかもしれません。

今まさに、その転換点に差しかかっているのです。

だからといって、変化はすぐには感じられないでしょう。

このことが、来週、あるいは来月に金融災害を引き起こすことになろうとは誰も予想もしないのです。

しかし、これとて、米国経済の中に醸成されている「大きな嵐」の一要素に過ぎないのです。

この数年、人々は偽りの経済の安定の中で暮らしています。

長期見通しは少しも良くなっていないのです。

実際、米国経済と、その財務基盤を破壊されており、
長期的な傾向は、さらに悪くなり続けることは確実です。

偽りの好況を楽しむのも悪くはないでしょうけれど、それは大して長くは続かないのです。


さて、ここまで読んできた方は、以前に、緻密で正確なアナリスト、
トニー・カータルッチの「分割されたウクライナは、東西の新構想の実験場」
というタイ トルの記事を紹介したことを覚えているでしょうか。
(メルマガ50号に詳述  本ブログ記事ではこちら)

彼は、ウクライナ問題は、単なる一地方の内紛ではなく、
西側(米・欧)の「一極集中世界(つまり世界 政府への動き)」の覇権と、
それを防ぐロシアの「多極化未来世界」との攻防であると分析しています。

これは、まったくそのとおりです。

しかし、一見したところ、ドルとルーブルの攻防戦に置き換えることができるように見えるのですが、
実は、その奥に隠されたアジェンダがあって、

結果として両陣営の今の動きは、ドル崩壊後に現れる世界通貨への道程にあるものであると言えるのです。

それは、ボストン大学経済学部教授のローレンス・コトリコフが
15人のノーベル経済学賞受賞者を含む 1000人以上の経済学者とともに、

「アメリカ政府は偽りの会計を出している。実は米国の借金は200 兆ドル(2京円)以上。

どうであれ、恐慌、ハイパーインフレは不可避。後は、死に方を選ぶだけだ」

と言っているように、ドルの息の根を止めるカタストロフィーによって
(世界通貨を導入したいグローバル・エリートたちにとっては、いわば「生みの苦しみ」)、

世界通貨の必要性を人々に受け入れさせるようにするプロセスの上にあるものと位置づけられるのです 。

最大の問題は、では、日本にはどんな災厄が訪れるのだろうか、ということです。

今の日本の政権が次々と予測不可能なふるまいをしている限り、それがなかなか見えてこないのです。



廣重、二枚目、



「名所江戸百景 駒形堂吾嬬橋」です。



当ブログ何度も既報ですが、「明治維新」の真実、

◆http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/kashimashikan/kashimashikan3.html
鹿島史観3
◎“日本史の タブーに 挑んだ 男 鹿島 ?−その業績と生涯 
 松重 楊江(まつしげ ようこう))”(2003年11月15日 初版第一刷発行))
_______________________________________

より抜粋、

第二章 明治維新で 北朝から南朝へ(p51〜)


▼徳川家茂、孝明天皇は、ともに毒殺か

鹿島昇は柳井(やない)市を訪れ、田布施町麻郷(おごう)に大室近祐(おおむろ ちかすけ)氏を訪問した。
鹿島は、『裏切られた三人の天皇――明治維新の謎』
『明治維新の生賛――誰が孝明天皇を殺したか』(松重 正、宮崎 鉄雄 との共著)で、

伊藤博文と岩倉具視(ともみ)が孝明天皇と幼い睦仁(むつひと)天皇を謀殺し、
長州藩に匿(かくま)われていた南朝の末裔を明治天皇にすり替えたと主張したが、
そのきっかけとなったのは、昭和六二年一〇月の山口県柳丼市訪問であった。

日本神道・歴史研究の権威である吾郷(あごう)清彦氏の紹介で、柳井市を訪れた鹿島?は、
熊毛郡田布施町麻郷字大室に住む大室近祐氏(口絵与真参照)を訪問した。
いまではすでに故人となった大室氏は、当時、地元では大室天皇と呼ばれていた。

大室天皇は、南朝の崩壊とともに吉野の地を追われ、
長州・麻郷に落ちのびた光良(みつなが)親王の子孫である。これはよく知られていることだが、
南朝・後醍醐天皇の皇統は、次のように大きく二つに分かれている(54ぺ-ジの家系図も参照)。

 正系・・・・後村上天皇――長慶天皇――後亀山天皇――良泰(ながやす)親王

 傍系……・・尊良(たかなが)親王(東山天皇)一-守良(もりなが)親王(興国天皇)一
     興良(おきなが)親王(小松天皇)――正良(まさよし)親王(松良天皇)

この傍系の正良(まさよし)天皇には、美良(よしなが)親王、光良(みつなが)親王
という二人の息丁がいて、光良(みつなが)親王は弟のほうであった。
兄の美良(よしなが)親王は、三浦佐久姫を妻として三浦藤太夫と名を変え、
現在の愛知県豊川市に移り住んだ。そして、これが三浦天皇家となる。

南朝正系の良泰(ながやす)親王のほうは、南朝の崩壊とともに関東に落ちのび、
江戸時代まで水戸藩の庇護を受けた。これが熊沢天皇家である。

つまり、南朝の皇統を継ぐべきものとしては、
大室天皇家、三浦天皇家、熊沢天皇家の三つがあるということである。

鹿島が訪ねたとき、大室近祐氏は、すでに八○歳を越えていたが、
「私は南朝の流れを引く大室天皇家の末蕎であり、明治天皇は祖父の兄・大室寅之祐です」と、
はっきりと語った。

鹿島は、この最初の訪問のときはさすがに半信半疑のようであったが、
一〇回におよぶ訪問を重ね、『皇道と麻郷」をはじめとする大量の文書を見せられることにより、

しだいにこの事実を確信するようになっていった。


▼山岡荘八は徳川家茂毒殺説を、ねずまさしも孝明天皇毒殺説を

第二次長州征伐直後の慶応二年(一ハ六六)七月二〇日、第一四代将軍・徳川家茂(いえおち)が
わずか二〇歳で急死し、その五ヶ月後の一二月二五日に、今度は孝明天皇が三六歳で急逝した。

この二つの死は、ともに不可解なものである。

徳川家茂については、山岡荘八は毒殺説をとっている
(「明治百年と日本人」『月刊ひろば』昭和四三年一一月号)。

孝明天皇についても、当時からその死については黒い噂が流れていて、
平凡社の『大百科事典』などにも、孝明天皇は
「疱瘡(ほうそう)を病み逝去。病状が回復しつつあったときの急死のため
毒殺の可能性が高い」(羽賀祥二・著)と書かれている。

孝明天皇・毒殺説の最もポピュラーな論文は、歴史家・ねずまさしの『孝明天皇は病死か毒殺か』
(『歴史学研究』一七三号所収)である。

さらに、当時の歴史状況を振り返ることにより、次のようなことがいえる。

孝明天皇は、徳川家茂を信任していて、思想的には、幕府の政策を是認し、
これを助ける佐幕派であり、公武合体を志向していた。

れに対し、薩長土肥(薩摩・長州・上佐・肥前)の志士たちは、
徳川幕府を倒す倒幕を目指し、外交政策は開国であった。

薩摩藩は薩英戦争によって、長州藩は四国連合艦隊による下関事件(後述)によって、
英・仏・蘭の軍事力のすごさをよく知っていて、戦っても勝ち目のないことはわかっていた。

それにもかかわらず、孝明天皇が「佐幕・公武合体・攘夷」を命じるのならば、
それは薩長土肥のみならず日本そのものを危うくするものであった。

この間の複雑な国内状況が、幕末政治史上最大の内政外交問題である「条約勅許問題」
(一八五七―六七年)を引き起こす。

一八五四年、幕府は日米和親条約締結に際して、アメリカ国書を朝廷に奏聞(そうもん)
(事情などを申し上げること)したが、調印については事後報告を行うにとどまった。

その後に、日米修好通商条約をも調印せざるをえなくなり、
このときは国内の反対派を押さえるために、幕吏を上洛(京都へ上ること)させて
勅許を得ようとしたのだが、朝廷はこれを拒否した。

そのため、外交責任者の老中・堀田正睦(まさよし)みずからが上洛し、
国際情勢の変化を説いたが、それでもなお朝廷は拒否の姿勢を貫いたので、
この条約調印をめぐって国内世論はまっぷたつに分かれ、大変な状況となった。

その状況をさらに危険なものにしたのが、大老・井伊直弼による勅許を得ないままの調印断行であった。

(中略)

▼睦仁親王と明治天皇は、似ていない

明治天皇のすり替えについては、一八○度の政策展開という「状況証拠」のほかに、
「物的証拠」にあたるものもある。

まずは、「あばた」である。

睦仁親王は、種痘を受けていて天然痘には罹っていなかったので、あばたはない。
ところが明治天皇(大室寅之祐)は二歳のときに天然痘に罹り、口の周りに「あばた」が残った。
立派な口髭は、そのあばたを隠すためのものであり、写真に撮られるのを嫌った。
「御真影」が肖像画であるのは、そのためである。

第二に、禁門の変のとき、二二歳であった睦仁親王は、砲声と女官たちの悲鳴を聞いて失神したとあり、
ひ弱な虚弱体質であった。明治天皇(大室寅之祐)は、二四貫(約九〇キロ)の巨漢で、
側近と相撲をとっては投げ飛ばしていた。

第三に、即位前の睦仁親王に乗馬の記録はない。馬に乗れなかったようである。
ところが明治天皇(大室寅之祐)は威風堂々、馬上から閲兵し、大号令をかけている。

第四に、睦仁親王は右利きだが、明治天皇(大室寅之祐)は左利きである。
当時、左利きは嫌がられていたため、天皇が左利きというのは、いかにもヘンである。
しかし、長州藩に匿われていた南朝の末商ならば、それはありうる。


▼孝明天皇は、岩倉具視が毒殺したのか?

八八卿列参事件により、岩倉具視は辞官落飾のやむなきに至る

岩倉具視は、一八二五年(文政八)に、権中納言・堀川康親(やうちか)の次男として生まれ、
岩倉具慶(ともやす)の養子となっている。

一八三八年に、従五位下で侍従として出仕し、一八六一年には正四位下となり、
右近衛権少将(うこのえごんしょう)を経て、左近衛権中将となる。

鹿島説では、岩倉具視は幼い日に孝明天皇を女形にして男色遊びをしていたということになっているが、
たしかに岩倉は関白・鷹司(たかつかさ)政通に認められて、孝明天皇の侍従となっているのだから、
これはありうることである。

さらに、鹿島説では、孝明天皇が男色遊びに飽きて女性を求めたため、その心変わりを憎んで、
岩倉具視も暗殺の謀議に加わったということだが、これもありうることである
(この点については、後に別の角度からも検証する)。

さて、一八五八年(安政五)、日米修好通商条約への調印をめぐって、国内がまっぷたつに割れたとき、
岩倉具視は同志の廷臣八八卿の参列に加わって勅許案改訂を建言し、
関白・九条尚忠の幕府委任案を一転させた。

この列参事件以降、岩倉具視は難局打開と攘夷の実行を公武合体策に求め、
万延元年(一.八六〇)には一時中座していた皇女・和宮の将軍・家茂への降嫁(こうか)を、
江戸下向にも同行して積極的に推し進め、朝廷の有力者としての地位を固めた。

それらのことにより、岩倉具視は、久我建通(たてみち)、千種有文(ちぐさ ありふみ)、
富小路敬直らとともに、〈四奸(かん)〉の一人として、尊王攘夷過激派に命を狙われ始めた。

そのため、朝廷としても家族ともども洛中から追放せざるをえなくなり、
岩倉具視はついに辞官落飾(官を辞し、貴人が髪をそりおとして出家すること)のやむなきに至った。
剃髪し出家した岩倉具視は、友山と称して、霊源寺、西芳寺、岩倉村と居所を転々として逃げ回ったが、
めまぐるしい情勢を意識してか、玉松操、大久保利通など多数の志士たちとの接触を欠かすことがなかった。


▼重要な貴人の暗殺は、東洋ではごく普通のことである

尊皇攘夷派が台頭し、岩倉具視の命が狙われ始めたのは、一八六二年(文久二)。
その四年後の一八六六年(慶応二)に孝明天皇が急死すると、

岩倉具視は明治天皇により勅勘(ちょっかん)
(天子のとがめ。勅命による勘当。宥免(ゆうめん)の勅許があるまで、
閉門・蟄居(ちっきょ)して謹慎するのが通例であった)が許され、

王政復古クーデターで参与となり、明治新政府において、副総裁、大納言、右大臣と、
たちどころに権力の中枢に位置するようになっていった。

孝明天皇が急死するまでは、髪をおろして家族ともども逃げ回っていたのが、
明治天皇に代わるやいなや、急激に異例の出世をしているのである。

そのため、当時から岩倉具視には、孝明天皇毒殺の疑いがかけられており、
いまでも歴史関係などの本に「孝明天皇には毒殺説があり、岩倉に嫌疑がかけられた」
と書かれていたりする。

孝明天皇の急死によって、岩倉具視の境遇が激変したのは事実である。

さらに岩倉具視は、明治新政府の中枢に納まるやいなや、明治六年の政変、士族反乱、
対朝鮮・台湾問題、〈漸次国家立憲ノ政体〉樹立の詔勅、
太政官・大書記官・井上毅を駆使しての明治憲法の基本構想づくり、明治一四年の政変と、
クーデターや政変には推進者ないしは協力者として、必ず顔を出すようになる。

彼が権謀術数の政治家であったことには異論の余地はなく、
孝明天皇を毒殺していたとしても、驚くにはあたらない。
「保守的な帝によって、おそらく戦争になるだろうということは予期されるはずであった。
重要な貴人の死を毒殺に帰するということは、東洋の国々ではごく普通のことである」とは、
英国公使パークスの通訳官であったアーネスト・サトウの言葉である(『日本における外交官」)。



廣重、三枚目、



「六十余州名所圖絵 對馬 海岸夕晴」です。



▼伊藤博文とは、何者だったのか

伊藤博文は、二二歳までは士分ではなく、数多くの違法事件に関与していた

伊藤博文は、一八四一年(天保一二)九月二日、周防(すおう)国
(今の山口県南部・東部)熊毛郡に生まれ、家が貧しかったために、
一二歳ごろすでに若党(わかとう)奉公
(武士の従者。戦闘に参加するが馬に乗る資格のない軽輩)に出ている。

一四歳になると、親子で足軽・伊藤直右衛門の養子となり、
その俊輔(博文)の人物を見込んだ藩士・来原良蔵(くりはら りょうぞう)
(桂小五郎の義弟。相模湾警護隊勤務)に鍛えられて一人前の下忍(忍者)となった。

そのため一六歳のときに松下村塾に入って吉田松陰の教えを受けると、
たまたま大室天皇家と俊輔の郷里が近かった縁で中忍(佐官級情報局員)松陰から
「玉(ぎょく)」大室寅之祐の傳役(もりやく)を命ぜられた。

そしてこれが彼のライフワークとなったのである。

一八五八年(安政五)に、俊輔は山縣(やまがた)小助(有朋)らと京に入っている。

この京入りは吉田松陰の策により、長州藩が行った諜報活動であった。

大老・井伊直弼が、徳川斉昭、慶篤(よしあつ)、松平慶永(よしなが)などを処分して、
オランダ、ロシア、イギリスと修好条約を結んだ直後に、朝廷と京の情勢を探ったわけである。

諜報活動にあたったのは、足軽と奴(やっこ)から選んだ六人(の忍者.テロリスト)であり、
その中に伊藤博文と山縣有朋が入っていたということである。
伊藤博文は、この京における諜報活動のあと、長崎で洋式銃陣法を伝習している。

一八五九年(安政六)になると、桂小五郎(木戸孝允)とともに江戸へ行き、
一〇月二七日に吉田松陰が刑死すると、その遺骸を同志とともに
江戸の小塚原回向院(こづかっぱらえこういん)に埋葬している。

一八六二年(文久二)七月、久坂玄瑞(くさかげんすい)らと諮って
長州藩重臣・長井雅楽(うた)の襲撃を計画するが失敗し、
一二月には高杉晋作らと英国公使館を焼き討ちし、
山尾庸三(ようぞう)とともに、国学者・塙(あなわ)次郎を斬殺している。

井上聞多(もんた)(井上馨)、野村弥吉、遠藤謹助、山尾庸三らと英国へ密留学をしたのは、
その翌年の一八六三年(文久三)であり、士分にとりたてられたのは、この年のことである。

英国密留学もそこそこに、翌年には帰国して、外国艦隊との講和に奔走し、
この年の年末には、長州の力士隊を率いて高杉晋作の挙兵に従っている。

以上が、一八六六年(慶応二)に孝明天皇が急死する以前の伊藤博文の行動である。

ざっと見て感じるのは、違法事件への関与の多さである。

伊藤が士分にとりたてられたのは、一八六三年だから、二二歳のときである。

つまり、二二歳までは士分ではなく、斬殺を含む違法事件に数多く関与していたということである。
そんななかで、いい意味で目立つのは、松下村塾に入って吉田松陰の教えを受けたことだが、
この松下村塾が、鹿島説ではたんなる私塾ではなく、大変な問題を含んでいたのである。

次に、鹿島説における「松下村塾とは何か」と「吉田松陰の三つの理念」を見てみよう。
そのうえで、伊藤博文は孝明天皇暗殺にどう関わったかに触れたい。


▼吉田松陰の松下村塾とは、どういうところであったか

松下村熟の塾長であった吉田松陰は、一八三〇年(天保元)に、長州藩士・杉百合之助の次男として
萩郊外の松本村に生まれている。幼いころに、山鹿(やまが)流兵学師範・吉田大助の養子となり、
叔父の玉木文之進らの教育を受け、一一歳で藩主に『武教全書』を講じて早熟の秀才であることを認められた。

一八五一年に江戸に出て、西洋兵学を学ぶ必要性を痛感し、兵学者の佐久間象山(しょうざん)に入門したが、
勉強は進まなかった。同年末、許可なく藩邸を辞し、翌年にかけて水戸から東北、北陸と遊歴したため、
士籍永奪の処分を受けたが、その代わりに一〇年間の諸国遊学の許可をもらった。

五三年のペリー来航に際しては、浦賀に出かけて黒船を目の当たりにし、
佐久間象山に勧められて海外の状況を実地に見極める決心を固め、
長崎でプチャーチン(ロシア提督)の軍艦に乗ろうとしたが果たせず、
翌五四年(安政一)に、下田に来航していたアメリカ艦に漕ぎ着けたが、密航を拒否されて、岸に送り返された。

松陰は、江戸の獄に入れられたのち、長州藩に引き渡され、在所に蟄居(ちっきょ)させる
との判決を受けたが、身柄を引き取った長州藩は、萩の野山獄(のやまごく)に投じた。
幕府に気をつかい、慎重にことを運んだのである。

在獄一年余で、生家の杉家に預けられることになるが、他人との接触は禁じられた。
そんななかで、近隣の子弟が来たりして、幽室が塾と化した。
松下村塾は、もともと長州藩士・玉木文之進が始めたものであり、
それを外叔の久保五郎左衛門が受け継いだのだが、この時期に、その門弟で
松陰のもとに来るものが増えたため、いつしか松陰が松下村塾の主宰者と見なされるようになった。

評判が高まるにつれて、萩の城下から通うものも現れた。

久坂玄瑞と高杉晋作がその代表で、松下村塾の双壁と目され、久坂は松陰の妹と結婚した。

松陰の講義は時勢を忌憚(きたん)なく論じるところに特徴があり、
彼の膝下(しっか)から益田親施(ちかのぶ)(右衛門介・須佐領主。俗論党により切腹)、
桂小五郎(木戸孝允)、吉田稔麿(としまろ)(池田屋にて討ち死に)、伊藤博文、山縣有朋、
前原一誠(いっせい)(萩の乱を起こし斬罪)などが出ている。

安政の大獄を強行した幕府は、松陰へも疑惑を持ち、江戸伝馬(でんま)町の獄に投じたのち、
一八五九年一〇月、死刑に処した。


▼鹿島が整理した吉田松陰の三つの理念

一、長州藩が匿ってきた大室天皇による南朝革命論

 鹿島説では、その吉田松陰の理念は、おおよそ次の三点であるとしている。
 まず第一に、南朝革命論である。
 吉田松陰も水戸学の藤田東湖(とうこ)も、尊皇攘夷を主張したが、この場合の尊皇とは、
 南朝正系論に立った尊皇攘夷である。南朝が正系であるにもかかわらず、
 孝明天皇のような北朝の天皇が天皇の座にあるのはおかしい。
 偽朝である京都北朝の天皇を廃して、正系たる南朝の天皇を再興しなければならない。
 …そのように主張し、尊皇すなわち南朝革命論を打ち立てたのである。

 ただし、同じ南朝革命論としての尊皇攘夷ではあるが、
 吉田松陰と藤田東湖では、その内容が異なる。
 吉田松陰が再興すべしとしている南朝は、長州が匿ってきた大室天皇家である。
 吉田松陰は、自身が「玉」(天皇)を握っていたからこそ、南朝革命論を打ち立てたのである。
 それに対して、藤田東湖が再興すべしとした南朝は、当然のことながら熊沢天皇家であった。
 熊沢天皇家は、歴代にわたって水戸藩が匿ってきた天皇家であり、
 藤田東湖および水戸藩は、みずからが握る「玉」を担いで南朝革命を成立させようとしたのである。

 攘夷についても、注意を要する点がある。
 鹿島によると、藤田東湖の主人であった徳川斉昭は、松平慶永にあてた手紙のなかで
 「攘夷なんかできっこない。自分は老齢だから、一生攘夷と言って死ぬが、
 貴殿はそこのところをよく考えてほしい」と述べている。

 藩主・徳川光圀(みつくに)の『大日本史』編纂に端を発した水戸学は、
 国学・史学・神道を基幹とした国家意識を特色とするが、
 それらが鮮明となり特色ある学風を形成したのは寛政(一七八九‐ 一八〇一)年間以降である。
 幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えたのも、この寛政以降の水戸学であり、
 この時点での攘夷は、多分に家康の鎖国政策を擁護するためのものであった。
 だから、たしかに徳川斉昭のように、それが不可能であることを知っていながら、
 立場上、攘夷を主張していた者がいたということは、大いにありうることである。
 そのことがわからずに、攘夷原理主義的に行動したのが蛤御門の変であり、
 水戸藩の攘夷原理主義集団・天狗党なのであった。

二、徹底した民族主義と侵略思想

 吉田松陰の三つの理念の第二は、民族主義である。
 鹿島?は、この松陰の民族主義を「徹底した民族主義と侵略思想である」としている。
 そして、次のような松陰の言葉を引いている。
 「富国強兵し、蝦夷(北海道)をたがやし満州を奪い、朝鮮に来り、
 南地(台湾)を併せ、然るのち米(アメリカ)を拉き(くだき)(両手で持って折り)
 欧(ヨーロッパ)を折らば事克たざるにはなからん」。

 これは明治以降、途中までは実現できたことである。
 明治新政府は富国強兵に励み、蝦夷地を耕し、満州国を建てて実質的には支配し、
 朝鮮と台湾を併合した。松陰は、その後アメリカを両手で持って折るべしとしたのだが、
 それはうまくいかなかった。満州を奪い、台湾と朝鮮とを併合したあと、日中戦争を行い、
 首都南京を攻略するも、蒋介石は首都を放り投げて逃げてしまい、
 戦争のゴールというものがなくなり、泥沼化してしまったからである。

 日本は、そのような状態で大東亜戦争に突き進むことにより、
 腹背に敵を受ける二正面作戦となってしまった。
 日中戦争を行わず、あるいは適当なところで和平に持ち込み、国力を蓄えた上で、
 米を拉いていたならば、アメリカ本土はともかく、
 太平洋がある程度のところまで日本の海になっていた可能性は、なくはない。
 そこまでいったならば、ヨーロッパともある程度の戦いはできただろうし、
 外交的に緊張関係を乗り切ったり、緩和したりすることも可能であったかもしれない。

 戦後のいまの常識に照らせば、侵略は悪いことであるが、松陰の生きた時代は、
 欧米列強が世界支配を完成せんとする帝国主義の時代であった。
 この時代の帝国主義者は、それぞれの国では、領土を拡大し国に富をもたらす英雄であった。
 松陰がもっと長生きをし、明治維新の成立を見、日清・日露戦争の勝利、
 満州国の建国、台湾と朝鮮の併合を見たならば、
 その後の国策や外交方針は大きく変わっていたにちがいない。

 日本は欧米列強の世界支配を、最後のところで食い止めたわけであり、
 それができたのは日本に欧米列強と戦い、アジアを侵略せんとする思想と力があったからである。
 鹿島説は、侵略はすべて悪としているが、一方でアジアの大国であるインドや中国までもが
 実質的に欧米の植民地にされてしまうなかで、幕末から明治・大正・昭和初期まで、
 日本が独立を保つことができたのは、松陰の「徹底した民族主義と侵略思想」が、
 明治の元勲のなかに生きていたからだという点は否めないとしている。

 日本は、大東亜戦争に敗れて七年近くもアメリカ軍を中心とする連合国軍に
 軍事占領されることになるが、このときには松陰の「徹底した民族主義と侵略思想」が
 心のなかに生きていた明治の元勲は、一人も生き残っていなかった。
 松陰の「徹底した民族主義と侵略思想」が日本のなかから潰(つい)え去ったとき、
 ことの善し悪しは別にして、日本の軍事力も潰え去っていたのである。

三、部落の解放(これを全アジアに広めようとしたのが大東亜共栄圏)

 吉田松陰の三つの理念の第三は、第二の民族主義と矛盾するようだが、「解放」という理念である。
 この点に関しては、「長州藩の奇兵隊は、部落解放の夢に燃える若者が中核をなしていた」
 という私(松重)の研究が基礎となっている。
 奇兵隊のなかでも、とくに注目すべきは力士隊である。
 伊藤博文は、実はこの力士隊の隊長だったのである。
 この時代の力士というのは弾体制(いわゆる同和)に従属していて、
 部落と密接に関係しているか、あるいは部落そのものであった。
 さらに、力士隊のあった第二奇兵隊の屯所(とんしょ)は、
 麻郷(おごう)近くの石城(いわき)山にあった。
 麻郷はいうまでもなく大室天皇家のあった場所であり、
 明治天皇となる大室寅之祐が明治維新の前年まで過ごした地である。

 つまり、麻郷を共通項として、力士隊と伊藤博文と大室寅之祐(明治天皇)は、つながるのである。
 そればかりではない。大室寅之祐(明治天皇)は、大の相撲好きだったが、
 それもそのはずで、力士隊長・伊藤博文や力士隊のメンバーらと、よく相撲をとっていたのである。

 『中山忠能日記』に「明治天皇は奇兵隊の天皇」と述べた箇所がある。
 これまで、それは「薩長連合によって生まれた天皇」というように解釈されることが多かった。
 明治天皇と奇兵隊に直接の関係があるなどとは、想像だにできなかったからである。
 しかし、明治天皇すなわち大室寅之祐は、奇兵隊と直接関わっていたわけであり、
 この記述は文字どおり「奇兵隊の天皇」という意味なのである。
 尊皇攘夷の真の意味は、南朝革命であることはすでに述べたが、吉田松陰にとっては、
 それはすなわち「奇兵隊の天皇」を再興することにほかならず、
 それは部落を解放することをも意味した。
 そして、明治維新によってこれらのことは実現されたのである。

 さらに、この「解放」を全アジアに広めようとしたのが大東亜共栄圏であり、
 その精神が八紘一宇なのである。八紘一宇は、次の三つを特徴とする。

 1、 日本は神国であり、皇祖・天照大神(ああてらすおおみかみ)の神勅を奉じ、
   「三種の神器」を受け継いできた万世一系の天皇が統治してきた
   (天皇の神性とその統治の正当性、永遠性の主張)

 2、 日本国民は古来より忠孝の美徳をもって天皇に仕え、国運の発展に努めてきた

 3、 こうした国柄の精華は、日本だけにとどめておくのではなく、
    全世界にあまねく及ぼされなければならない

 前段の二つは真っ赤な嘘である。しかしながら、
 結論の部分はアジアの「解放」、被抑圧民族の解放につながる思想である。


▼孝明天皇は、伊藤博文が刺殺したのか?

幕末に、暗殺の実行部隊に忍者が選ばれるのは自然なことであった

戦国時代は血統を重んじる源平武士団が敗北して、賎民が天下を奪った時代であった。
秀吉は「はちや」部族の出身であったが、長じて「軒猿(のきざる)」といわれる下忍
(下級忍者で、実戦部隊)となった。

秀吉は大返し(本能寺の変を知った秀吉が備中から姫路城まで大急ぎで戻った一件)によって
明智光秀を討ち、さらに引き上げると見せかけて、柴田勝家を奇襲攻撃して破って、
ついに天下をとるが、この二つの戦の兵法は、ともに忍者戦法であった。

はちや部族のルーツは、月山(がっさん)の山麓にすむ蜂屋(はちや)賀麻党
(兵役もつとめる芸人集団)であり、文明一八年(一四八六)、
尼丁経久(あまこつねふさ)が七〇名ほどの賀麻党の者を
万歳師(ばんざいし)(新年を言祝(ことほ)ぐ祝福芸人)として富田月山城に繰り込ませ、
裏口から放火して城主を討ち取ったという史実があるから、
はちやという人々が、賎民といっても万歳師でもあり忍者であったことがわかる。

毛利藩も乱破(らっぱ)の術(情報収集や破壊工作)を得意としたが、これも忍者戦法である。
当時の山陰山陽地方は、はちや系の忍者がいっぱいいたと見るほうが自然であり、
毛利元就の好敵手であった尼子(あまこ)藩もまた忍者の軍団を中核としていた。

このような忍者によって、長州藩では邪魔になった者はたとえ権力のトップにあっても、
毒殺できる技術が、江戸時代にはほぼ完成していた。

一八三六年(天保七)、斉煕(なりひろ)、斉元、斉広(なりこう)と、
三人の藩主が相継いで変死しているが、これらはおそらく毒殺であったろう。

こういう藩の藩主になったならば、実力者に対して、うっかり逆らえば、すぐさま毒殺されかねない。
だから、長州藩主は「そうせい候」(何を言っても「そうせい」と返事をするので、こう呼ばれた)
という態度をとるようになったのである。

こうした忍者の伝統は幕末まで連綿として続いていた。
薩長の密約によって、将軍家茂と孝明天皇を暗殺する際、
実行部隊として長州の忍者部隊が選ばれたのは、むしろ自然な流れというべきである。


▼伊藤の刀剣趣味と忍者刀(『明治維新の生賛』より抜粋)

伊藤俊輔は、明治の世に伊藤博文と名乗るようになって、趣味としての
書画骨董(しょがこっとう)などには深入りしなかったが、
刀剣類の鑑識眼は相当なものであったらしい。晩年には名刀も数十本所有し、
そのなかには国宝級のものもあって暇なときには夜半電灯に照らし、
刀剣のにゅう匂(こう)などを点検するのが道楽であったという。

梅子夫人は維新のころ、萩城下に同伴したとき、俊輔が夜間外出する際には
曲がり角などでいつ刺客に襲われるかもしれないと、用心のため
抜き身の刀を後手(うしろで)に持って同行したという。

そのため、夜中の室内で電灯の光に反射する抜き身の刀を見るたびにそのことを思い出して、
「嫌でたまらなかった」と娘の生子に語っている。

そのためかどうか、維新のころ愛用していたという「忍者刀」が俊輔夫妻の手許を離れ、
本家の林家の係累に預けられたまま伝承されているのをこのたび確認した。

平成九年(一九九七)九月二日、博文の遺品や直筆の手紙などを集めた「伊藤公資料館」が、
山口県熊毛郡大和町束荷(やまとちょうつかり)の伊藤公記念公園内にオープンした。

同町が公の生誕一五〇年記念事業の一つとして新築整備したものであるが、
あらかじめ公の遺族、親族のほか一般へも広く呼びかけて資料の収集に努めた。

林家の妻ヤスの孫娘・静子(祐美子)の夫・村上靖男君も、それを機会に
義父の遺品を調べることにして、蔵の中の遺物箱を開けてみると、その底に一本の刀があった。

この刀は未登録であったので、早速平生警察署を通じて県に連絡したところ、
文化庁の係官が来て鑑定してくれることになった。

平成七年(一九九五)二月、県庁の一室に持参して、まず刀の銘を見ようとして
柄(え)を抜いてみると、普通の刀の根元を切って短くつくり直しているために銘の部分が消えていた。

刀身の長さは普通の刀と脇差の中間ぐらいになっており、
室内や樹林の中などでも自由に使えるように工夫されていた。

そのとき、刀身をじっと見ていた文化庁所属の鑑定人が、
「この刀は人を斬った刀で、刀全体に脂がべっとりとついていますね」という。

脂には塩気があるから、人を斬ったあと拭わずに鞘に納めると中が汚れる。
そのまま一〇日も放っておくと刀に錆が出て、次の斬り合いのとき折れることもあるという。

だから、人を斬ったあとには必ず鹿のなめし革で刀を磨くようにして拭わねばならない。

鹿革は五回も使うと汚れてしまうので、
心得のある武士は常に三枚の鹿革を懐中にしていたといわれている。

俊輔もそのことは十分に知っていて、この刀も鹿革でよく拭ったのち鞘に収めていたようで、
鞘から出すときはすんなり抜けた。

しかし、長年の間にジワリと脂が浮き出して刀身全体がどす黒くなり、
所々に泡のような錆状のものが付着している。
この刀はそれほど多くの人の血を吸っているもので、やはり維新動乱の時代に幾度となく
使いこなされた「忍者刀」に違いない。
調べてみれば孝明天皇の血痕も出てくるかもしれないのである(口絵写真参照)。

昔から人を斬ったあとには、無性に女性を抱きたくなるものだというから、
博文が無類の女性好きになったのは暗殺専門の志士として
麻薬患者のような殺人常習者と化していたからであろう。

さて―――

一、この刀は明治のはじめ、林惣左衛門のところへやって来た俊輔が、
「すまんがこれを預かっておいてくれ」と言って渡したままになっていたもので、
爾来門外不出の家宝として、林惣左衛門→次郎(その次男)→ヤス(次郎の妻)
→芳雄(次郎とヤスの子・武田芳雄)→静子(芳雄の末娘・村上祐美子)と伝承され、
保管されてきたものであった。村上君は、
「人を斬った刀とわかれば気味が悪いし、展示するわけにもいかんから家に置いておこう」
といって箱に納め、資料館には提出していない。

二、町の調査報告によれば、「資料収集に努力したけれども、俊輔の一八歳から二四歳までの間の
手紙や書などは、今まで知られているわずかなもの以外は全然出てこなかった」という。

この二つの事実は何を物語るのであろうか。筆者(鹿島)もこの稿を書き進むうちに、
維新の志士(俊輔たち)の活躍が彼らの青春時代を賭けた決死のテロ活動であり、
そしてその活動が維新後に歴史から抹殺されたことをひしひしと感じるのである。

▼宮崎鉄雄氏による決定的な証言

こうして鹿島は、伊藤博文による孝明天皇刺殺の可能性を唱えたのだが、
それを裏付ける証言をする人物が鹿島の前に現れた。作曲家の宮崎鉄雄氏である。

宮崎鉄雄氏の父は、渡辺平左衡門章綱といって、幕末、
伯太(はかた)藩一万三〇〇〇石の小名として大阪城定番を勤めていた。

渡辺家は、もともと嵯峨天皇の末蕎であり、宮崎鉄雄氏はその渡辺平左衛門の子供として
一五歳まで育てられ、のち、宮崎家の養子に出されている。

宮崎氏によると、平左衛門は、徳川慶喜の命を受けて孝明天皇暗殺の犯人を調べていたが、
それが岩倉具視と伊藤博文であったことをつきとめた。

しかし、そのために伊藤博文から命を狙われる羽目になり、
実際、長州人の刺客に稲佐橋の付近で襲われて重傷を負った。

その平左衛門の遺言として、宮崎氏は鹿島に次のように語った。

「父が語ったところでは、伊藤博文が堀河邸の中二階の厠(かわや)に忍び込み、
手洗いに立った孝明天皇を床下から刀で刺したそうです。そして、
そのあと邸前の小川の水で血刀と血みどろの腕をていねいに洗って去ったということでした」。

さらに、宮崎氏の話では、伊藤博文が忍び込むに際しては、あらかじめ岩倉具視が
厠の番人を買収しておいたという。だとすれば、岩倉具視が伊藤博文を手引きしたことになる。

たしかに、暗殺がプロの伊藤博文といえども、
天皇の厠に忍び込むのは危険このうえなかっただろうから、だれかの手引きがあったにちがいない。
そうした手引きができるのは、孝明天皇に近い人物にちがいなく、
その意味で、岩倉具視が手引きしたという話は説得力がある。

宮崎鉄雄氏がこの話を鹿島にしたとき(一九九七年七月)、すでに宮崎氏は九七歳になっており、
それまでずっとこの証言を世に出すかどうか迷っていたそうだが、
鹿島?の著書を読んで公表する決心をしたとのことであった。
「日本の歴史家に鹿島氏のような勇気があれば、日本史がウソ八百で固められることもなかったろう」と、
宮崎氏はその著書の中で語っている。



原点が「嘘」ですから。

よろず、おかしくなってくるわけです。

そして、現在は「田布施システム」のゾンビ、アナクロのキ印が、

「不正選挙=禁じ手=騙しの極致」で権力を握っておる、先祖譲りの十八番でね。




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