画は Robert T. McCall
1919〜2010(aged 90)
Born Columbus, Ohio.
American painter, illustrator.
particularly known for his works of space art. 作
「Tora! Tora! Tora!」です。
☆曇り、気温上昇中!
今日は、68回目の「戦没者慰霊の日」です。
320万余とされる戦没者の皆々様の御霊に 合掌
手前は「無責任記念日」と呼びたい。
「昭和天皇」の開戦の詔勅(御名御璽)で始まり、終戦の詔勅(御名御璽)で敗戦。
まんまと嵌められ有史以来初めての大敗戦で、夥しい戦没者を出した。
すべての作戦の起案、承認者である大元帥陛下が全く責任を取らない。
部下に責任をすべておっかぶせ、戦後は平和指向の植物学者を偽装する役者ぶりw
あろうことか陰に陽に戦後政治に容喙し、現憲法、完全無視だ。
公家には切腹はないだろうから、腹切れとはいはぬが、
常考、退位して隠岐の島か、奄美大島や伊豆七島あたりで蟄居謹慎だろうが。
ここから戦後政治が腐ってくるわけですよ、根本はここです。
まずは、
◆http://okwave.jp/qa/q2046450.html
質問No.2046450
▼なぜハワイを占領しなかったのか(真珠湾攻撃)
真珠湾攻撃で大成功をおさめた日本。その勢いでハワイを占領してしまえば、
その後の戦いはかなり有利に進められたのではないかと思うのですが、
何故それをしなかったのでしょうか。
単純に戦力不足で不可能だったということでしょうか。
ハワイを占領することさえ出来ないのであれば、
太平洋戦争を勝ち抜くことなど不可能だということになると思います。
☆回答No.22
まともに当たっても勝ち目のない戦いなのになぜ真珠湾を攻撃し、
フィリピンを占領したか?
1年半ぐらいの間、アメリカが蒋介石率いる国民党軍を支援している「援蒋ルート」を絶ち、
国民党との戦いに決着をつけたかった。
国民党という基盤を失えば、アメリカ側との交渉で有利な立場を日本が作ることができ、
後は「反共」という共通の目的をもった同盟国として石油資源の供給などを受けることができる。
だから、ハワイは占領せず叩くだけで、フィリピンは直接の供給基地だから占領した。
しかし、占領地を広げたことに酔ってしまい、「援蒋ルート」も叩かず、
国民党との戦闘に力をいれず、アメリカとの交渉もせず、
相手の分析を怠り、そのことについて誰も思考することをやめてしまった。
本来ならば順番として「援蒋ルート」を完全に絶ち国民党軍との戦闘に力を割き、
はやく中国との戦闘を日本勝利に導くか、
アメリカとすばやい交渉で日本の占領地などの拡大を認めさせるかをするべきなのです。
しかし、天皇を中心とする御前会議など司令部が全くそれを怠って、
アメリカ軍の強力な反撃が、1年もたたずに行われて、
後は「大本営発表」の出鱈目な情報や作戦により多くの人命が失われ、
原爆投下、ソ連参戦、敗戦へ続くのです。
☆回答No.11
ハワイ占領とは、「真珠湾軍港やホノルルが所在するオアフ島の占領」という意味でしょうか。
それをやるには、開戦時の日本海軍の総力をハワイに持って行ってもまだ足りないくらいでしょう。
オアフ島には、強力な要塞があって戦艦を撃沈できる砲台があり、
多数の守備兵力がありますから、正面から攻めて占領するのは極めて困難です。
ハワイを占領するとすれば、下記のような方法が考えられます。
* 史実の珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦に完勝。
これらの作戦に参加した米国正規空母を全て撃沈。サラトガは潜水艦で撃沈。
アメリカの空母はゼロとなり、
日本艦隊はアメリカ空母の奇襲を警戒せずに陸上攻撃に専念できます。
* アメリカ空母がゼロとなった以上、アメリカ太平洋艦隊の水上艦兵力もゼロ。
* 日本側の損害はゼロ。
ハワイ海域に、飛行機を目一杯積んだ正規空母8隻(開戦時の6隻+飛鷹型)を持って行ける。
* 珊瑚海海戦の勝利後、アメリカ・イギリスとオーストラリアの連絡を完全に遮断。
できれば、オーストラリアは既に降伏・日本軍が進駐。
* インド洋方面のイギリス艦隊を撃滅。
* 連合国潜水艦の活動は低調で、日本<−>ハワイ近海の補給線は問題なし。
* B17クラスの4発戦略爆撃機を開発。
この状態なら、日本を攻められる国はアメリカ以外ありませんので、
ハワイ方面に日本海軍全力を長期間投入できます。
作戦の手順としては、
* ミッドウェー海戦後、ミッドウェー島は占領済み。補給基地となります。
* まず、ハワイ諸島所在の米国陸上航空戦力を撃滅。
空母8隻の艦載機でできるかどうかが問題ですが。
この段階で、米国本土から援軍が来れば、日本海海戦の再現のようなことになるでしょう。
* オアフ島には、強力な要塞陣地と陸軍部隊があり、容易には占領は不可能。
兵糧攻めとする。
* ハワイ諸島の制空権を完全に奪った段階で、ハワイ諸島の適当な島を占領する。
制空権があれば、それほど困難ではないはずです。
ここに飛行場を建設し、戦略爆撃機を進出させ、かつ海軍の基地とします。
* 戦略爆撃機で毎日オアフ島を空襲し、米軍の戦力と士気を削ぐ。
キスカ島・オアフ島の日本軍の立場とします。
オアフ島には多数の民間人がいますので、そちらへの被害も甚大です。
* オアフ島を完全に封鎖し、補給を絶つ。
潜水艦を使わなくても、水上艦艇と飛行機で十分です。
日本海軍の主力がハワイ海域に張り付き、米海軍の反攻を警戒することになります。
* 1ヶ月もすれば、オアフ島の米軍部隊は降伏せざるを得ないでしょう。
毎日激しい空襲に見舞われ、飢餓に迫られればそれ以外に方法はありません。
オアフ島を海上封鎖しようとすれば、潜水艦では難しいと思われます。
ハワイ諸島の中の一島を奪い、オアフ島周辺の制空権を完全確保して、
水上艦で完全封鎖するくらいでないと実効性がないでしょう。
そして、こんな作戦が可能になるまでにアメリカの海軍兵力が落ちれば、
アメリカの方から講和を提案してくると思われます。
↑
負けるように闘っとるわけです、負けるように、負けるように。
海軍幹部は「昭和天皇の意向を忖度する」こと甚だしく、
わざと負けておるとしか思えない。 終始異常ですから。
Robert T. McCall、二枚目、
「Tora! Tora! Tora! 目前?」です。
山本五十六は生きていた、戦後見たものがおる、
◆http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/library509.html
◎大東亜戦争の真相
赤堀篤良・著 東京図書出版会 2004年刊
なぜ真珠湾を攻撃したか
大東亜戦争のうち、
太平洋戦略あるいは対米戦略の最大の誤りが真珠湾攻撃ではなかったろうか。
日本が開戦に踏み切った最大の理由は石油にあったという。
当時、日本国内の年間石油消費量400万キロリットルに比し、
スマトラのパレンバンにあった精油所だけで年470万キロリットルを産出していたという。
実際に南方各地から内地への原油輸送量は1942(昭和17)年に167万キロリットル、
翌昭和18年には230万キロリットルを記録した。
もっとも、昭和19年からはそれまで不具合の多かった米軍の魚雷がようやく改良された
こともあって日本の船舶喪失は急増し、石油は勿論すべての輸送は落ち込んだ。
なぜ米国に対する攻撃はフィリピンの基地攻撃だけに留め、
一方では東南アジアを攻略し、石油を始めとする資源確保を主眼としなかったのだろうか。
仏印(ベトナム)、蘭印(インドネシア)の両国宗主国である仏・蘭はすでにドイツに降伏し、
日独伊三国同盟のもと、日本にとって最も作戦し易い状況にあったというのに……。
なぜ、わざわざ真珠湾を攻撃してアメリカを奮起させなければならなかったのだろうか。
軍部の意見も圧倒的多数(……というより、山本五十六を除く全員)はこうした考えであったという。
第一、1936(昭和11に改訂された国防方針でも、対米戦争ある時は以下のように定められていた。
米国を敵とする場合の作戦は次の要領に従う。
東洋に在る敵を撃滅しその活動の根拠を覆し、且つ本国方面から来攻する
敵艦隊の主力を撃滅するをもって初期の目的とする。
これがため海軍は作戦初頭にすみやかに東洋にある敵艦隊を撃滅し
東洋方面を制圧し、陸軍と協同してルソン島及び付近要地並びにグァム島を攻略し、
敵艦隊主力東洋海面に来航するに及び、機を見てこれを撃滅す。
敵艦隊を撃滅した以後の陸海軍の作戦は臨機これを策定す。
開戦直前の11月15目、大本営政府連絡会議では戦争終末促進を腹案として決定している。
その中でも「適時米海軍主力を誘致し之を撃滅するに勉む」とか
「対米通商破壊戦を徹底す」といった文言が見られる。
1940(昭和15)年11月の大統領選挙で、ルーズべルトは選挙に3度目の勝利を得るために
米国は戦争に参加しないと公約せざるを得なかった。
国民の9割が戦争に反対であったのがその理由である。米国の事実上の植民地にすぎない
フィリピンを攻略するのと、米国の領土であり太平洋最大の海空軍基地である真珠湾を
攻撃するのでは米国民の反応は全く異なったであろう。
欧州戦線に対しては米国は武器供与、輸送船団護衛などで援助していたが、
自国の駆逐艦2隻、輸送船2隻をドイツのUボートに撃沈されても、
なおかつ参戦に踏み切ることはできなかった。
こうした事情を分かっていながら、日本は真珠湾を攻撃して眠れる獅子を叩き起こしてしまった。
実のところは、山本五十六が零戦を始めとする航空機の性能がかなりのレベルに達していたため、
力試しに戦争(あるいは戦闘)をしてみたかっただけではないのか。
彼はあたかも対米戦争に反対であるかのような言動を取っていた。
それならば、どうして最後の段階で「対米戦争に勝ち目はない」と言わず、
「1、2年は十分暴れて見せます」などと言ったのだろうか。
勿論、米国に勝てるとは言っていないし、日本を守れるとも言っていない。
暴れて見せるとだけ言ったのだから、ウソは言わなかったつもりだろう。
彼の言動はよほど注意して観察する必要があったように思う。
ハッタリや芝居が多かったように思う。
戦争を避けるつもりなら、どうして1941年5月2日に戦艦長門上に士官を招集して
戦争に向けた特訓をし、早い時期から真珠湾攻撃の訓練までしていたのか。
例の南部仏印武力進駐に先立つこと3ヵ月近い。
この時期は公私の日米関係修復が活発に行われ、
4月16日に日米了解案(いかさまと言われる)が提示され、5月12日に
松岡外相の意向を汲んだ修正案が野村大使からハル長官に手渡され、
6月21日に米国が対案を以って回答した……という頃である。
天皇、近衛首相、軍部首脳が揃って真剣に対米戦回避に努力していた。
その後、9月6日の御前会議で天皇が「よもの海みな同胞と思う世になど波風の立ちさわぐらん」
と朗読し、東條は帰庁して「聖慮は平和にあるぞ」と言い、
武藤軍務局長は「戦争などとんでもない」と部下に伝えたというのは有名な話である。
この9月頃には軍令部総長であった永野修身は外交交渉継続に真正面から反対し、
即開戦を叫び始めていた。また、対米戦争に自信の持てなかった天皇を
次第に戦争に向けて洗脳していった一人が聯合艦隊参謀長・宇垣纏ではなかったか。
永野修身、宇垣纏、米内光政、山本五十六、どうも胡散臭い面々である。
とも角、山本五十六こそが「聯合艦隊司令長官を辞める」と脅して強引に、
まことに強引に真珠湾、更にはミッドウェイ作戦までやり通した。
正に国を相手のポーカーに勝ち、国を滅ぼしたと言えよう。
山本が海軍大学校の教官をしていた時、質問に答えた学生が
「戦争でもっとも大切なのはスパイや暗号解読などにより敵の動静を知ること」と述べたところ、
山本は「相手の手の内を見ながらポーカーをやるようなことを考えるな」と言ったそうで、
山本の本質を暴露したエピソードと思う。
彼が亡国の徒と呼ばれず、未だに一部の人々に軍神と評されているのはまことに不思議である。
映画まで作ってこの男の“功績”を称える日本人とは一体何なのか。
真珠湾攻撃に批判的な文、例えば
「もし山本が常識人の分別にしたがって真珠湾攻撃を強行することなく、
陸海軍が定石どおりフィリピン、マレーに進攻するのみであれば、
日米戦争はよほど異なった様相を呈したであろう。
もとよりアメリカが供手傍観したとは考えられないが、
自国を遠く離れた植民地の攻防となると死活の問題ではなく
孤立主義と欧州優先策がのさばり、本格的反攻を展開するまでには時日を要したと思われる。
早晩、南方資源を支配する日本を駆逐すべく 陸海空三軍を動員して奪取にとりかかったであろうし、
かねて想定したマーシャル諸島水域で日米海軍の大きな海戦が繰り返し起こったであろうと思われる」
と書いている同じ人物が、
「山本は精魂をつくし、勇敢に、ひたむきに戦い続けた」と山本を賞賛している。理解できない。
ガダルカナルで日本軍が悲惨な戦いを続けている時、山本はラバウルに進出する前で、
トラック基地に停泊した戦艦大和に居住して軍楽隊付きの昼食を楽しみ、
士官を相手のブリッジなどにも余念がなかったというのに。
今の時代に至っても、真珠湾攻撃だけを取り出して言えば勝利だったというような意見がある。
どうしても身内贔屓(ひいき)が消えないということか。
いや、陸軍軍人だった方が海軍の作戦を徹頭徹尾誹謗しているのに
真珠湾攻撃は成功と見なしている。成功しても失敗しても戦争目的に反し、
勝てば勝つほど結果は悪いという作戦だったのだから、評価すること自体がおかしい。
最初から取り得のないどころか墓穴を掘ること間違いなしの作戦だったと思う根拠を挙げよう。
最も成功する場合、全空母と戦艦を沈め、燃料タンクと工廠を破壊し、
飛行場の全航空機を壊滅させることが期待できる。
この場合、米国の歴史に比類なき壮大なる破壊と殺戮を目前にした数十万の米国人は
怒り心頭に発し、全国民が一致団結し、欧州戦線をさて置いて太平洋戦争に臨むことになる。
失われた艦艇、航空機他は大西洋から回航すれば日ならずして充当できる。
パナマ運河を破壊しない限り、米国即時の反攻を遅らせるだけで、
一旦反攻が始まれば米軍の全戦力が鉄鎚の如く日本軍に降りかかることになる。
また湾内での攻撃であるから、せっかく破壊し沈座させた艦艇の相当数は
後日修理して戦線に復帰できる。
真珠湾の艦艇と設備を一時全壊させることと引き換えに、その後半年くらいの遅れがあるとはいえ、
米軍の全力投球による反攻を受けることは決して戦略上の勝利とは言えないだろう。
最も失敗する場合、聯合艦隊の進攻を察知され、米軍ハワイ基地航空機の攻撃を受け、
聯合艦隊は全滅する。この場合、米軍による東南アジア方面への攻撃は
日本軍による各他の占領が完了する前に開始できる。この可能性は大いにあった。
実際の機動部隊集結でも、1941(昭和16)年11月17日には山本五十六が乗った
聯合艦隊旗艦「長門」が九州・佐伯湾に入港した。山本五十六一流の演技であろう。
空母他の艦艇はすでに集結を終わっていたから、
これだけの大移動を米側のスパイが察知しないのは期待すべくもなかった。
危険極まりない行動で米側が見逃したのが不思議なくらいである。
戦中といえども米国はスパイ活動により日本の戦闘機の生産量などを数えていたのであるから、
かかる大規模な移動を見逃すはずがないのだが。
実際の攻撃では戦艦を転覆ないし沈め、空母は逃し、陸上基地の航空機は殆どを破壊した。
燃料タンクと工廠は残った。
冷静に見れば、これは「破壊された艦艇を手付かずの工廠で早く直し、
燃料を補給して反撃に出なさい」というメッセージと取れるくらいだ。
現に沈座した戦艦のカリフォルニア
(1942年3月に浮揚後、1944年5月に新鋭艦として同年12月現役復帰)、
テネシー(1942年3月現役復帰)、メリーランド(2週間で修理後、1942年2月現役復帰)、
ペンシルヴァニア(1942年8月現役復帰)の6隻の内4隻は早速修理され、
戦線に復帰して日本の戦艦より活躍している。
結局、戦艦アリゾナ、オクラホマ、標的艦ユタ以外は全艦戦線に復帰しているのである。
日本側で真珠湾攻撃についてその華々しい戦果を書きたてた本は多いが、
こうした事後の真相には触れたがらないようである。
空母がいなくて逃したなどといっているが、もし敵空母がハワイ近海にいれば
日本側は敵艦載機に相当叩かれたであろうし、真珠湾内にいたとして首尾よく沈めたとしても
2カ月くらいで戦線に復帰し、
翌年5月・6月の珊瑚海海戦とミッドウェイ海戦には間に合ったであろう。
後に真珠湾の工廠は珊瑚海海戦で大破した空母ヨークタウンを応急修理し、
資材と工員を乗せたままミッドウェイ海戦に向かう洋上で修理を継続する離れ業を演じた。
敵ながら天晴れというところか。日本はこうした面でも負けていた。
それはともかくとして真珠湾の被害くらいでは依然として日本を強敵と見なさなかった米国は
対日戦争を欧州戦よりずっと小さな比重で進めることとなった。
それでも日本海軍は開戦半年以降、大勢として負け続けたのである …… 物量に優りながら。
ここで明らかなように、実際の真珠湾攻撃では相手の戦艦などを2、3ヵ月行動不能にしただけである。
その代償として、全アメリカ人を立ち上がらせてしまった。
例えて言えば、わざわざ遠方へ出向いて行って熊蜂の巣をつつき、戦闘蜂を数匹殺すようなものである。
作戦そのものが間違っている。蜂を数匹殺したから作戦そのものは成功だったなどと言えようか。
しかも、その蜂の殆どは後に蘇生して反撃に加わっている。
山本五十六の真珠湾攻撃はこれほどソロバンに合わない作戦であったが、
現在に至るまで筆者が非難する程には非難されていない。
山本五十六が軍令部を振り回し、もともと戦略を持たない海軍を
とんでもない方向に持って行ってしまったと言われる方でも、真珠湾攻撃は成功と位置付けている。
どうしてだろうか。
中国を敵に廻してしまい、対米戦も決定してしまった後、
真珠湾を攻撃しないことだけが唯一開戦後の和平工作の可能性を残し得た。
ハードな意味だけではない、真珠湾攻撃で頭に来た米国は
もともと気に喰わなかった日系人を収容所に放り込んでしまった。
これもあって開戦後の米国内情報はさっぱり取れず、
かの有名な日本側の過大戦果をもとにその後の作戦を立てたのだから、
撃沈敵空母数が建造空母数を遙かに上回るようなことにもなってしまった。
真珠湾攻撃の罪は計り知れなく重い。
↑
昭和天皇が「真珠湾攻撃」を指示したわけです。
で、山本が「1、2年は十分暴れて見せます」となる。
やったことは「必敗の信念」=小室直樹。
☆http://www.asyura2.com/10/warb7/msg/128.html
◎わざと負けた日本!?
ご参照あれ!
「Tora! Tora! Tora!」映画ポスター、
合成しました。
戦前回帰の企てが露骨になりつつありますねぇ、
◆http://www.asyura2.com/13/senkyo152/msg/218.html
投稿者: けたぐれ后王 日時: 2013 年 8 月 07 日 UvPT7J.Q47XFw
◎売国奴昭和天皇ヒロヒトの犯罪全書
より抜粋、
時間に制約があるから以下が全部ではない。
よってヒロヒトの犯罪全書は未完である。
歴史は退歩して、天皇の元首化も想定内である。
東京で大阪で、教師の愚劣な労働組合は沈黙し
君が代と日の丸の強制は日常である。
戦前は学校でヒロヒトの写真が焼けたら自殺した校長もちらほらいたが、
その愚劣な戦前に気分ではもう少しで到達だ。
この掲示板にもアホネット右翼が跋扈している。
私たちは愚者になれ果てないために何かをしよう!
☆http://blog.goo.ne.jp/nishipc5523/e/e4d455cd3723bb0c45f65445da9698cf
【時事(爺)放論】岳道茶房 2010年08月15日
◎歴史は沖縄から変わる 終戦の日に考える
鳩山由紀夫前首相を退陣させた普天間基地問題は、
沖縄の戦後がなお終わっていないことを告げる事件でした。
歴史は沖縄から変えねばなりません。
「米国に依存しつづける安全保障、これから五十年、百年続けていいとは思わない」。
前首相の辞任演説。
同感なのですが、いったいこの米国依存の体質はどこからきたのでしょうか。
その疑問に答えてくれたのが岩波現代文庫の「昭和天皇・マッカーサー会見」に収められた
豊下楢彦関西学院大学法学部教授の論考で、意外なことに「昭和天皇」というのが回答でした。
■昭和天皇の至上課題
昭和天皇研究は平成になって飛躍的に発展したとされます。
「昭和天皇独白録」や元宮内庁長官の「富田メモ」など重要資料の発見が相次いだからです。
膨大な未解明資料を解読した豊下教授の研究は
従来の昭和天皇像、戦後史観を根底から覆します。
敗戦で昭和天皇が直面したのは言うまでもなく戦犯としての訴追と
憲法改正による天皇制消滅の危機でした。
マッカーサー元帥の協力で極東軍事裁判を切り抜け、新憲法で象徴となった天皇が
直面した次なる危機が共産主義の脅威。
昭和天皇にとり日本を守ることと天皇制を守ることは同義でした。
非武装が日本の最大の安全保障とする理想主義のマッカーサーに対して
昭和天皇はリアリストでした。憲法九条や機能不全の国際連合では日本を守れず、
米軍依拠の天皇制防衛の結論に至ったといいます。
かくして、「米軍駐留の安全保障体制の構築」が昭和天皇の至上課題となり、
象徴天皇になって以降も、なりふり構わぬ「天皇外交」が展開された
というのが豊下説の核心部です。
例えば一九四七年九月、宮内省御用掛寺崎英成を通じてマッカーサーの政治顧問
シーボルトに伝えられた有名な天皇の沖縄メッセージは
「米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む」
「米国による沖縄占領は共産主義の影響を懸念する日本国民の賛同も得られる」などの内容。
沖縄の戦後の運命が決定付けられてしまったかもしれません。
■安保下の新たな国体
五一年締結の安保条約については、吉田茂首相が米国務省顧問のダレスの再軍備要求を断固拒否、
軽武装・経済第一の戦後路線を敷いたというのが通説ですが、
ダレスの要求は米軍の基地自由使用権だった。その要請は天皇によって満たされたといいます。
豊下教授は、もう一つの戦後史・安保体制という新たな「国体」を描き出しますが、
独立国をめざす気概が存在した当時の外務省、
もし天皇外交がなければ日本外交は選択肢の幅を広げ、より柔軟なダイナミズムを
発揮し得たと想像します。
安保の呪縛(じゅばく)は戦後の日本外交から矜持(きょうじ)も気概も奪いました。
沖縄返還は七二年五月でした。ここでも基地負担軽減の県民の悲願は達成されませんでした。
佐藤栄作首相の密約を交わしてまでもの核抜き・本土並みの返還要求でしたが、米側はしたたか。
核をカードに 狙いは基地の自由使用。
懸念された通り基地の固定化になってしまいました。誠実、誠意が手玉に取られた格好でした。
佐藤首相の密使として奔走した国際政治学者若泉敬氏は
「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」の著書を残して九六年七月、自殺しています。
「鋭利な刃で五体を剔(えぐ)られるよう」な自責と結果責任からとされます。
無念は引き継がれなければなりません。
挫折したとはいえ鳩山前首相の普天間基地問題への取り組みと挑戦は
未来につながったかもしれません。
火が付いた沖縄県民の「県外・国外移設」の要求が消えるとは思えません。
冷戦構造が残る東アジアで沖縄の戦略的価値が高いとはいえ、
海兵隊の移転が抑止力や日米安保崩壊に至るとも思えないからです。
この点について本土の理解も深まっています。
ベルリンの壁崩壊と時を同じくした平成も二十二年。
世界は多極化し、対決から共生の時代へ大きく流れを変えようとしています。
ゆっくりでも歴史の進歩を信じたいものです。
■沖縄のこころ世界に
沖縄南部の激戦地、糸満市の摩文仁の丘の平和祈念公園内に九五年に建立された
慰霊碑「平和の礎(いしじ)」には二十余万人の犠牲者の名前が刻まれます。
沖縄県内と県外、日本人ばかりでなく米国、英国、台湾、韓国、北朝鮮の人々の名も。
敵も味方もなく等しく犠牲者だという共生の思想。
紺碧(こんぺき)に盛り上がる太平洋、沖縄の「平和のこころ」は世界に伝わっていくでしょう。
深い哀(かな)しみを知る者たちこそ、深い共感を広げられるでしょうから。
2010年8月15日 中日新聞 社説
▼天皇こそが正真正銘の売国奴ですよ。
☆http://www.asyura2.com/07/senkyo38/msg/517.html
投稿者 ワヤクチャ 日時 2007 年 7 月 15 日 YdRawkln5F9XQ
コメント
*07. 2013年8月07日 0J4wTtThac
天皇陵の発掘調査をなぜ認めない。
例えば、継体天皇陵とされる大阪府茨木市の太田茶臼山古墳を発掘してみたらどうだ。
天皇の歴史のいいかげんさがすぐ分かるぜ。
所詮虚構の歴史だろう。
ま、仮に先祖がどんな権力者であろうと、その子孫が
1000年以上経ったいまでも偉いわけないだろう。奴隷根性もいいかげんに終わりにしろ。
*11. 2013年8月07日 1 PIViDBANBI
ヒロヒトは,天皇制をまもるために
日本をアメリカと戦争させ,敗戦させる道を選んだ。
皇居に,大本営をしき自らが陣頭しきをとって
戦争を拡大し日本を敗戦に追い込んだ。
戦争をビジネスと捉え,莫大な資産を作っていた。
アメにとっても好都合な輩だったため命を安堵された。
戦後は,責任をのがれるため平和主義者を偽装していた。
*16. 2013年8月07日 dm5BeP9mqE
しかし敗戦天皇である昭和天皇関連の記念日があって
第一次大戦勝利天皇である大正天皇関連の祝日とかないのは狂ってるな。
ここだけを見ても、自民党や政府で安倍をあやつっている天皇崇拝者が
国家のことを考えているわけでなく戦前郷愁者にすぎないことがわかる。
だから自民党の憲法草案も戦前(というか戦争中)郷愁だけのひどいことになっているし。
17. 2013年8月08日 wtWY95h5Cw
大室のはなしは有名だが、大正天皇が子種がなくて、
ヒロヒトの出自がはっきりしない。
田布施あたりからつれてこられたのでは… といわれている。
↑
本日は、深く思ひをいたす日、であると思います。
1919〜2010(aged 90)
Born Columbus, Ohio.
American painter, illustrator.
particularly known for his works of space art. 作
「Tora! Tora! Tora!」です。
☆曇り、気温上昇中!
今日は、68回目の「戦没者慰霊の日」です。
320万余とされる戦没者の皆々様の御霊に 合掌
手前は「無責任記念日」と呼びたい。
「昭和天皇」の開戦の詔勅(御名御璽)で始まり、終戦の詔勅(御名御璽)で敗戦。
まんまと嵌められ有史以来初めての大敗戦で、夥しい戦没者を出した。
すべての作戦の起案、承認者である大元帥陛下が全く責任を取らない。
部下に責任をすべておっかぶせ、戦後は平和指向の植物学者を偽装する役者ぶりw
あろうことか陰に陽に戦後政治に容喙し、現憲法、完全無視だ。
公家には切腹はないだろうから、腹切れとはいはぬが、
常考、退位して隠岐の島か、奄美大島や伊豆七島あたりで蟄居謹慎だろうが。
ここから戦後政治が腐ってくるわけですよ、根本はここです。
まずは、
◆http://okwave.jp/qa/q2046450.html
質問No.2046450
▼なぜハワイを占領しなかったのか(真珠湾攻撃)
真珠湾攻撃で大成功をおさめた日本。その勢いでハワイを占領してしまえば、
その後の戦いはかなり有利に進められたのではないかと思うのですが、
何故それをしなかったのでしょうか。
単純に戦力不足で不可能だったということでしょうか。
ハワイを占領することさえ出来ないのであれば、
太平洋戦争を勝ち抜くことなど不可能だということになると思います。
☆回答No.22
まともに当たっても勝ち目のない戦いなのになぜ真珠湾を攻撃し、
フィリピンを占領したか?
1年半ぐらいの間、アメリカが蒋介石率いる国民党軍を支援している「援蒋ルート」を絶ち、
国民党との戦いに決着をつけたかった。
国民党という基盤を失えば、アメリカ側との交渉で有利な立場を日本が作ることができ、
後は「反共」という共通の目的をもった同盟国として石油資源の供給などを受けることができる。
だから、ハワイは占領せず叩くだけで、フィリピンは直接の供給基地だから占領した。
しかし、占領地を広げたことに酔ってしまい、「援蒋ルート」も叩かず、
国民党との戦闘に力をいれず、アメリカとの交渉もせず、
相手の分析を怠り、そのことについて誰も思考することをやめてしまった。
本来ならば順番として「援蒋ルート」を完全に絶ち国民党軍との戦闘に力を割き、
はやく中国との戦闘を日本勝利に導くか、
アメリカとすばやい交渉で日本の占領地などの拡大を認めさせるかをするべきなのです。
しかし、天皇を中心とする御前会議など司令部が全くそれを怠って、
アメリカ軍の強力な反撃が、1年もたたずに行われて、
後は「大本営発表」の出鱈目な情報や作戦により多くの人命が失われ、
原爆投下、ソ連参戦、敗戦へ続くのです。
☆回答No.11
ハワイ占領とは、「真珠湾軍港やホノルルが所在するオアフ島の占領」という意味でしょうか。
それをやるには、開戦時の日本海軍の総力をハワイに持って行ってもまだ足りないくらいでしょう。
オアフ島には、強力な要塞があって戦艦を撃沈できる砲台があり、
多数の守備兵力がありますから、正面から攻めて占領するのは極めて困難です。
ハワイを占領するとすれば、下記のような方法が考えられます。
* 史実の珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦に完勝。
これらの作戦に参加した米国正規空母を全て撃沈。サラトガは潜水艦で撃沈。
アメリカの空母はゼロとなり、
日本艦隊はアメリカ空母の奇襲を警戒せずに陸上攻撃に専念できます。
* アメリカ空母がゼロとなった以上、アメリカ太平洋艦隊の水上艦兵力もゼロ。
* 日本側の損害はゼロ。
ハワイ海域に、飛行機を目一杯積んだ正規空母8隻(開戦時の6隻+飛鷹型)を持って行ける。
* 珊瑚海海戦の勝利後、アメリカ・イギリスとオーストラリアの連絡を完全に遮断。
できれば、オーストラリアは既に降伏・日本軍が進駐。
* インド洋方面のイギリス艦隊を撃滅。
* 連合国潜水艦の活動は低調で、日本<−>ハワイ近海の補給線は問題なし。
* B17クラスの4発戦略爆撃機を開発。
この状態なら、日本を攻められる国はアメリカ以外ありませんので、
ハワイ方面に日本海軍全力を長期間投入できます。
作戦の手順としては、
* ミッドウェー海戦後、ミッドウェー島は占領済み。補給基地となります。
* まず、ハワイ諸島所在の米国陸上航空戦力を撃滅。
空母8隻の艦載機でできるかどうかが問題ですが。
この段階で、米国本土から援軍が来れば、日本海海戦の再現のようなことになるでしょう。
* オアフ島には、強力な要塞陣地と陸軍部隊があり、容易には占領は不可能。
兵糧攻めとする。
* ハワイ諸島の制空権を完全に奪った段階で、ハワイ諸島の適当な島を占領する。
制空権があれば、それほど困難ではないはずです。
ここに飛行場を建設し、戦略爆撃機を進出させ、かつ海軍の基地とします。
* 戦略爆撃機で毎日オアフ島を空襲し、米軍の戦力と士気を削ぐ。
キスカ島・オアフ島の日本軍の立場とします。
オアフ島には多数の民間人がいますので、そちらへの被害も甚大です。
* オアフ島を完全に封鎖し、補給を絶つ。
潜水艦を使わなくても、水上艦艇と飛行機で十分です。
日本海軍の主力がハワイ海域に張り付き、米海軍の反攻を警戒することになります。
* 1ヶ月もすれば、オアフ島の米軍部隊は降伏せざるを得ないでしょう。
毎日激しい空襲に見舞われ、飢餓に迫られればそれ以外に方法はありません。
オアフ島を海上封鎖しようとすれば、潜水艦では難しいと思われます。
ハワイ諸島の中の一島を奪い、オアフ島周辺の制空権を完全確保して、
水上艦で完全封鎖するくらいでないと実効性がないでしょう。
そして、こんな作戦が可能になるまでにアメリカの海軍兵力が落ちれば、
アメリカの方から講和を提案してくると思われます。
↑
負けるように闘っとるわけです、負けるように、負けるように。
海軍幹部は「昭和天皇の意向を忖度する」こと甚だしく、
わざと負けておるとしか思えない。 終始異常ですから。
Robert T. McCall、二枚目、
「Tora! Tora! Tora! 目前?」です。
山本五十六は生きていた、戦後見たものがおる、
◆http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/library509.html
◎大東亜戦争の真相
赤堀篤良・著 東京図書出版会 2004年刊
なぜ真珠湾を攻撃したか
大東亜戦争のうち、
太平洋戦略あるいは対米戦略の最大の誤りが真珠湾攻撃ではなかったろうか。
日本が開戦に踏み切った最大の理由は石油にあったという。
当時、日本国内の年間石油消費量400万キロリットルに比し、
スマトラのパレンバンにあった精油所だけで年470万キロリットルを産出していたという。
実際に南方各地から内地への原油輸送量は1942(昭和17)年に167万キロリットル、
翌昭和18年には230万キロリットルを記録した。
もっとも、昭和19年からはそれまで不具合の多かった米軍の魚雷がようやく改良された
こともあって日本の船舶喪失は急増し、石油は勿論すべての輸送は落ち込んだ。
なぜ米国に対する攻撃はフィリピンの基地攻撃だけに留め、
一方では東南アジアを攻略し、石油を始めとする資源確保を主眼としなかったのだろうか。
仏印(ベトナム)、蘭印(インドネシア)の両国宗主国である仏・蘭はすでにドイツに降伏し、
日独伊三国同盟のもと、日本にとって最も作戦し易い状況にあったというのに……。
なぜ、わざわざ真珠湾を攻撃してアメリカを奮起させなければならなかったのだろうか。
軍部の意見も圧倒的多数(……というより、山本五十六を除く全員)はこうした考えであったという。
第一、1936(昭和11に改訂された国防方針でも、対米戦争ある時は以下のように定められていた。
米国を敵とする場合の作戦は次の要領に従う。
東洋に在る敵を撃滅しその活動の根拠を覆し、且つ本国方面から来攻する
敵艦隊の主力を撃滅するをもって初期の目的とする。
これがため海軍は作戦初頭にすみやかに東洋にある敵艦隊を撃滅し
東洋方面を制圧し、陸軍と協同してルソン島及び付近要地並びにグァム島を攻略し、
敵艦隊主力東洋海面に来航するに及び、機を見てこれを撃滅す。
敵艦隊を撃滅した以後の陸海軍の作戦は臨機これを策定す。
開戦直前の11月15目、大本営政府連絡会議では戦争終末促進を腹案として決定している。
その中でも「適時米海軍主力を誘致し之を撃滅するに勉む」とか
「対米通商破壊戦を徹底す」といった文言が見られる。
1940(昭和15)年11月の大統領選挙で、ルーズべルトは選挙に3度目の勝利を得るために
米国は戦争に参加しないと公約せざるを得なかった。
国民の9割が戦争に反対であったのがその理由である。米国の事実上の植民地にすぎない
フィリピンを攻略するのと、米国の領土であり太平洋最大の海空軍基地である真珠湾を
攻撃するのでは米国民の反応は全く異なったであろう。
欧州戦線に対しては米国は武器供与、輸送船団護衛などで援助していたが、
自国の駆逐艦2隻、輸送船2隻をドイツのUボートに撃沈されても、
なおかつ参戦に踏み切ることはできなかった。
こうした事情を分かっていながら、日本は真珠湾を攻撃して眠れる獅子を叩き起こしてしまった。
実のところは、山本五十六が零戦を始めとする航空機の性能がかなりのレベルに達していたため、
力試しに戦争(あるいは戦闘)をしてみたかっただけではないのか。
彼はあたかも対米戦争に反対であるかのような言動を取っていた。
それならば、どうして最後の段階で「対米戦争に勝ち目はない」と言わず、
「1、2年は十分暴れて見せます」などと言ったのだろうか。
勿論、米国に勝てるとは言っていないし、日本を守れるとも言っていない。
暴れて見せるとだけ言ったのだから、ウソは言わなかったつもりだろう。
彼の言動はよほど注意して観察する必要があったように思う。
ハッタリや芝居が多かったように思う。
戦争を避けるつもりなら、どうして1941年5月2日に戦艦長門上に士官を招集して
戦争に向けた特訓をし、早い時期から真珠湾攻撃の訓練までしていたのか。
例の南部仏印武力進駐に先立つこと3ヵ月近い。
この時期は公私の日米関係修復が活発に行われ、
4月16日に日米了解案(いかさまと言われる)が提示され、5月12日に
松岡外相の意向を汲んだ修正案が野村大使からハル長官に手渡され、
6月21日に米国が対案を以って回答した……という頃である。
天皇、近衛首相、軍部首脳が揃って真剣に対米戦回避に努力していた。
その後、9月6日の御前会議で天皇が「よもの海みな同胞と思う世になど波風の立ちさわぐらん」
と朗読し、東條は帰庁して「聖慮は平和にあるぞ」と言い、
武藤軍務局長は「戦争などとんでもない」と部下に伝えたというのは有名な話である。
この9月頃には軍令部総長であった永野修身は外交交渉継続に真正面から反対し、
即開戦を叫び始めていた。また、対米戦争に自信の持てなかった天皇を
次第に戦争に向けて洗脳していった一人が聯合艦隊参謀長・宇垣纏ではなかったか。
永野修身、宇垣纏、米内光政、山本五十六、どうも胡散臭い面々である。
とも角、山本五十六こそが「聯合艦隊司令長官を辞める」と脅して強引に、
まことに強引に真珠湾、更にはミッドウェイ作戦までやり通した。
正に国を相手のポーカーに勝ち、国を滅ぼしたと言えよう。
山本が海軍大学校の教官をしていた時、質問に答えた学生が
「戦争でもっとも大切なのはスパイや暗号解読などにより敵の動静を知ること」と述べたところ、
山本は「相手の手の内を見ながらポーカーをやるようなことを考えるな」と言ったそうで、
山本の本質を暴露したエピソードと思う。
彼が亡国の徒と呼ばれず、未だに一部の人々に軍神と評されているのはまことに不思議である。
映画まで作ってこの男の“功績”を称える日本人とは一体何なのか。
真珠湾攻撃に批判的な文、例えば
「もし山本が常識人の分別にしたがって真珠湾攻撃を強行することなく、
陸海軍が定石どおりフィリピン、マレーに進攻するのみであれば、
日米戦争はよほど異なった様相を呈したであろう。
もとよりアメリカが供手傍観したとは考えられないが、
自国を遠く離れた植民地の攻防となると死活の問題ではなく
孤立主義と欧州優先策がのさばり、本格的反攻を展開するまでには時日を要したと思われる。
早晩、南方資源を支配する日本を駆逐すべく 陸海空三軍を動員して奪取にとりかかったであろうし、
かねて想定したマーシャル諸島水域で日米海軍の大きな海戦が繰り返し起こったであろうと思われる」
と書いている同じ人物が、
「山本は精魂をつくし、勇敢に、ひたむきに戦い続けた」と山本を賞賛している。理解できない。
ガダルカナルで日本軍が悲惨な戦いを続けている時、山本はラバウルに進出する前で、
トラック基地に停泊した戦艦大和に居住して軍楽隊付きの昼食を楽しみ、
士官を相手のブリッジなどにも余念がなかったというのに。
今の時代に至っても、真珠湾攻撃だけを取り出して言えば勝利だったというような意見がある。
どうしても身内贔屓(ひいき)が消えないということか。
いや、陸軍軍人だった方が海軍の作戦を徹頭徹尾誹謗しているのに
真珠湾攻撃は成功と見なしている。成功しても失敗しても戦争目的に反し、
勝てば勝つほど結果は悪いという作戦だったのだから、評価すること自体がおかしい。
最初から取り得のないどころか墓穴を掘ること間違いなしの作戦だったと思う根拠を挙げよう。
最も成功する場合、全空母と戦艦を沈め、燃料タンクと工廠を破壊し、
飛行場の全航空機を壊滅させることが期待できる。
この場合、米国の歴史に比類なき壮大なる破壊と殺戮を目前にした数十万の米国人は
怒り心頭に発し、全国民が一致団結し、欧州戦線をさて置いて太平洋戦争に臨むことになる。
失われた艦艇、航空機他は大西洋から回航すれば日ならずして充当できる。
パナマ運河を破壊しない限り、米国即時の反攻を遅らせるだけで、
一旦反攻が始まれば米軍の全戦力が鉄鎚の如く日本軍に降りかかることになる。
また湾内での攻撃であるから、せっかく破壊し沈座させた艦艇の相当数は
後日修理して戦線に復帰できる。
真珠湾の艦艇と設備を一時全壊させることと引き換えに、その後半年くらいの遅れがあるとはいえ、
米軍の全力投球による反攻を受けることは決して戦略上の勝利とは言えないだろう。
最も失敗する場合、聯合艦隊の進攻を察知され、米軍ハワイ基地航空機の攻撃を受け、
聯合艦隊は全滅する。この場合、米軍による東南アジア方面への攻撃は
日本軍による各他の占領が完了する前に開始できる。この可能性は大いにあった。
実際の機動部隊集結でも、1941(昭和16)年11月17日には山本五十六が乗った
聯合艦隊旗艦「長門」が九州・佐伯湾に入港した。山本五十六一流の演技であろう。
空母他の艦艇はすでに集結を終わっていたから、
これだけの大移動を米側のスパイが察知しないのは期待すべくもなかった。
危険極まりない行動で米側が見逃したのが不思議なくらいである。
戦中といえども米国はスパイ活動により日本の戦闘機の生産量などを数えていたのであるから、
かかる大規模な移動を見逃すはずがないのだが。
実際の攻撃では戦艦を転覆ないし沈め、空母は逃し、陸上基地の航空機は殆どを破壊した。
燃料タンクと工廠は残った。
冷静に見れば、これは「破壊された艦艇を手付かずの工廠で早く直し、
燃料を補給して反撃に出なさい」というメッセージと取れるくらいだ。
現に沈座した戦艦のカリフォルニア
(1942年3月に浮揚後、1944年5月に新鋭艦として同年12月現役復帰)、
テネシー(1942年3月現役復帰)、メリーランド(2週間で修理後、1942年2月現役復帰)、
ペンシルヴァニア(1942年8月現役復帰)の6隻の内4隻は早速修理され、
戦線に復帰して日本の戦艦より活躍している。
結局、戦艦アリゾナ、オクラホマ、標的艦ユタ以外は全艦戦線に復帰しているのである。
日本側で真珠湾攻撃についてその華々しい戦果を書きたてた本は多いが、
こうした事後の真相には触れたがらないようである。
空母がいなくて逃したなどといっているが、もし敵空母がハワイ近海にいれば
日本側は敵艦載機に相当叩かれたであろうし、真珠湾内にいたとして首尾よく沈めたとしても
2カ月くらいで戦線に復帰し、
翌年5月・6月の珊瑚海海戦とミッドウェイ海戦には間に合ったであろう。
後に真珠湾の工廠は珊瑚海海戦で大破した空母ヨークタウンを応急修理し、
資材と工員を乗せたままミッドウェイ海戦に向かう洋上で修理を継続する離れ業を演じた。
敵ながら天晴れというところか。日本はこうした面でも負けていた。
それはともかくとして真珠湾の被害くらいでは依然として日本を強敵と見なさなかった米国は
対日戦争を欧州戦よりずっと小さな比重で進めることとなった。
それでも日本海軍は開戦半年以降、大勢として負け続けたのである …… 物量に優りながら。
ここで明らかなように、実際の真珠湾攻撃では相手の戦艦などを2、3ヵ月行動不能にしただけである。
その代償として、全アメリカ人を立ち上がらせてしまった。
例えて言えば、わざわざ遠方へ出向いて行って熊蜂の巣をつつき、戦闘蜂を数匹殺すようなものである。
作戦そのものが間違っている。蜂を数匹殺したから作戦そのものは成功だったなどと言えようか。
しかも、その蜂の殆どは後に蘇生して反撃に加わっている。
山本五十六の真珠湾攻撃はこれほどソロバンに合わない作戦であったが、
現在に至るまで筆者が非難する程には非難されていない。
山本五十六が軍令部を振り回し、もともと戦略を持たない海軍を
とんでもない方向に持って行ってしまったと言われる方でも、真珠湾攻撃は成功と位置付けている。
どうしてだろうか。
中国を敵に廻してしまい、対米戦も決定してしまった後、
真珠湾を攻撃しないことだけが唯一開戦後の和平工作の可能性を残し得た。
ハードな意味だけではない、真珠湾攻撃で頭に来た米国は
もともと気に喰わなかった日系人を収容所に放り込んでしまった。
これもあって開戦後の米国内情報はさっぱり取れず、
かの有名な日本側の過大戦果をもとにその後の作戦を立てたのだから、
撃沈敵空母数が建造空母数を遙かに上回るようなことにもなってしまった。
真珠湾攻撃の罪は計り知れなく重い。
↑
昭和天皇が「真珠湾攻撃」を指示したわけです。
で、山本が「1、2年は十分暴れて見せます」となる。
やったことは「必敗の信念」=小室直樹。
☆http://www.asyura2.com/10/warb7/msg/128.html
◎わざと負けた日本!?
ご参照あれ!
「Tora! Tora! Tora!」映画ポスター、
合成しました。
戦前回帰の企てが露骨になりつつありますねぇ、
◆http://www.asyura2.com/13/senkyo152/msg/218.html
投稿者: けたぐれ后王 日時: 2013 年 8 月 07 日 UvPT7J.Q47XFw
◎売国奴昭和天皇ヒロヒトの犯罪全書
より抜粋、
時間に制約があるから以下が全部ではない。
よってヒロヒトの犯罪全書は未完である。
歴史は退歩して、天皇の元首化も想定内である。
東京で大阪で、教師の愚劣な労働組合は沈黙し
君が代と日の丸の強制は日常である。
戦前は学校でヒロヒトの写真が焼けたら自殺した校長もちらほらいたが、
その愚劣な戦前に気分ではもう少しで到達だ。
この掲示板にもアホネット右翼が跋扈している。
私たちは愚者になれ果てないために何かをしよう!
☆http://blog.goo.ne.jp/nishipc5523/e/e4d455cd3723bb0c45f65445da9698cf
【時事(爺)放論】岳道茶房 2010年08月15日
◎歴史は沖縄から変わる 終戦の日に考える
鳩山由紀夫前首相を退陣させた普天間基地問題は、
沖縄の戦後がなお終わっていないことを告げる事件でした。
歴史は沖縄から変えねばなりません。
「米国に依存しつづける安全保障、これから五十年、百年続けていいとは思わない」。
前首相の辞任演説。
同感なのですが、いったいこの米国依存の体質はどこからきたのでしょうか。
その疑問に答えてくれたのが岩波現代文庫の「昭和天皇・マッカーサー会見」に収められた
豊下楢彦関西学院大学法学部教授の論考で、意外なことに「昭和天皇」というのが回答でした。
■昭和天皇の至上課題
昭和天皇研究は平成になって飛躍的に発展したとされます。
「昭和天皇独白録」や元宮内庁長官の「富田メモ」など重要資料の発見が相次いだからです。
膨大な未解明資料を解読した豊下教授の研究は
従来の昭和天皇像、戦後史観を根底から覆します。
敗戦で昭和天皇が直面したのは言うまでもなく戦犯としての訴追と
憲法改正による天皇制消滅の危機でした。
マッカーサー元帥の協力で極東軍事裁判を切り抜け、新憲法で象徴となった天皇が
直面した次なる危機が共産主義の脅威。
昭和天皇にとり日本を守ることと天皇制を守ることは同義でした。
非武装が日本の最大の安全保障とする理想主義のマッカーサーに対して
昭和天皇はリアリストでした。憲法九条や機能不全の国際連合では日本を守れず、
米軍依拠の天皇制防衛の結論に至ったといいます。
かくして、「米軍駐留の安全保障体制の構築」が昭和天皇の至上課題となり、
象徴天皇になって以降も、なりふり構わぬ「天皇外交」が展開された
というのが豊下説の核心部です。
例えば一九四七年九月、宮内省御用掛寺崎英成を通じてマッカーサーの政治顧問
シーボルトに伝えられた有名な天皇の沖縄メッセージは
「米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む」
「米国による沖縄占領は共産主義の影響を懸念する日本国民の賛同も得られる」などの内容。
沖縄の戦後の運命が決定付けられてしまったかもしれません。
■安保下の新たな国体
五一年締結の安保条約については、吉田茂首相が米国務省顧問のダレスの再軍備要求を断固拒否、
軽武装・経済第一の戦後路線を敷いたというのが通説ですが、
ダレスの要求は米軍の基地自由使用権だった。その要請は天皇によって満たされたといいます。
豊下教授は、もう一つの戦後史・安保体制という新たな「国体」を描き出しますが、
独立国をめざす気概が存在した当時の外務省、
もし天皇外交がなければ日本外交は選択肢の幅を広げ、より柔軟なダイナミズムを
発揮し得たと想像します。
安保の呪縛(じゅばく)は戦後の日本外交から矜持(きょうじ)も気概も奪いました。
沖縄返還は七二年五月でした。ここでも基地負担軽減の県民の悲願は達成されませんでした。
佐藤栄作首相の密約を交わしてまでもの核抜き・本土並みの返還要求でしたが、米側はしたたか。
核をカードに 狙いは基地の自由使用。
懸念された通り基地の固定化になってしまいました。誠実、誠意が手玉に取られた格好でした。
佐藤首相の密使として奔走した国際政治学者若泉敬氏は
「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」の著書を残して九六年七月、自殺しています。
「鋭利な刃で五体を剔(えぐ)られるよう」な自責と結果責任からとされます。
無念は引き継がれなければなりません。
挫折したとはいえ鳩山前首相の普天間基地問題への取り組みと挑戦は
未来につながったかもしれません。
火が付いた沖縄県民の「県外・国外移設」の要求が消えるとは思えません。
冷戦構造が残る東アジアで沖縄の戦略的価値が高いとはいえ、
海兵隊の移転が抑止力や日米安保崩壊に至るとも思えないからです。
この点について本土の理解も深まっています。
ベルリンの壁崩壊と時を同じくした平成も二十二年。
世界は多極化し、対決から共生の時代へ大きく流れを変えようとしています。
ゆっくりでも歴史の進歩を信じたいものです。
■沖縄のこころ世界に
沖縄南部の激戦地、糸満市の摩文仁の丘の平和祈念公園内に九五年に建立された
慰霊碑「平和の礎(いしじ)」には二十余万人の犠牲者の名前が刻まれます。
沖縄県内と県外、日本人ばかりでなく米国、英国、台湾、韓国、北朝鮮の人々の名も。
敵も味方もなく等しく犠牲者だという共生の思想。
紺碧(こんぺき)に盛り上がる太平洋、沖縄の「平和のこころ」は世界に伝わっていくでしょう。
深い哀(かな)しみを知る者たちこそ、深い共感を広げられるでしょうから。
2010年8月15日 中日新聞 社説
▼天皇こそが正真正銘の売国奴ですよ。
☆http://www.asyura2.com/07/senkyo38/msg/517.html
投稿者 ワヤクチャ 日時 2007 年 7 月 15 日 YdRawkln5F9XQ
コメント
*07. 2013年8月07日 0J4wTtThac
天皇陵の発掘調査をなぜ認めない。
例えば、継体天皇陵とされる大阪府茨木市の太田茶臼山古墳を発掘してみたらどうだ。
天皇の歴史のいいかげんさがすぐ分かるぜ。
所詮虚構の歴史だろう。
ま、仮に先祖がどんな権力者であろうと、その子孫が
1000年以上経ったいまでも偉いわけないだろう。奴隷根性もいいかげんに終わりにしろ。
*11. 2013年8月07日 1 PIViDBANBI
ヒロヒトは,天皇制をまもるために
日本をアメリカと戦争させ,敗戦させる道を選んだ。
皇居に,大本営をしき自らが陣頭しきをとって
戦争を拡大し日本を敗戦に追い込んだ。
戦争をビジネスと捉え,莫大な資産を作っていた。
アメにとっても好都合な輩だったため命を安堵された。
戦後は,責任をのがれるため平和主義者を偽装していた。
*16. 2013年8月07日 dm5BeP9mqE
しかし敗戦天皇である昭和天皇関連の記念日があって
第一次大戦勝利天皇である大正天皇関連の祝日とかないのは狂ってるな。
ここだけを見ても、自民党や政府で安倍をあやつっている天皇崇拝者が
国家のことを考えているわけでなく戦前郷愁者にすぎないことがわかる。
だから自民党の憲法草案も戦前(というか戦争中)郷愁だけのひどいことになっているし。
17. 2013年8月08日 wtWY95h5Cw
大室のはなしは有名だが、大正天皇が子種がなくて、
ヒロヒトの出自がはっきりしない。
田布施あたりからつれてこられたのでは… といわれている。
↑
本日は、深く思ひをいたす日、であると思います。