画は 拙作にて
「能 老松」です。
水彩 32cm x 40cm 紙
老松(おいまつ)
梅の枝には鶯が囀り、松は緑を増す、長閑な新春のある日。
都人の前に現れたのは、道真公ご自愛の梅・松の精であった。
梅は若い美しさをたたえ、松は長寿をことほぐ。
江戸時代、正月の江戸城での「謡い初め」では、
〈高砂〉〈東北〉とともに本曲が必ず演奏されていました。
季節も初春、モチーフも梅や松といっためでたい木であり、
現在わが国の国歌ともなっている「君が代は千代に八千代に…」の歌が
終曲部に引かれているなど、お正月にふさわしい、祝言の曲といえましょう。
【分類】初番目物 (脇能)
【作者】世阿弥
【場所】筑紫 安楽寺(現・太宰府天満宮)
【季節】新春
【主人公】前シテ:老人、後シテ:老松の神
【あらすじ】
都の西の方に住む梅津の某は、北野天満宮の夢のお告げを蒙り、
筑紫国(福岡県)の安楽寺へ参詣することにします。
はるばると旅をして、菅原道真の菩提寺である安楽寺へ着くと、
老人と若い男がやって来て、梅と桜のことを述べ、花盛りの梅に垣を作ります。
梅津の某は、彼等に言葉をかけ、有名な飛梅はどれかと問うと、
神木であるから紅梅殿と崇めなさいとたしなめられ、
同じく神木である老松についても教えられます。
さらに梅津の某の頼みで、社殿の周辺の景色を述べ、
松や梅が天神の末社として栄えていることを示し、中国では、
梅は文学を好むので「好文木」といわれ、
松は秦の始皇帝の雨やどりを助けたので「大夫」の位を授けられた故事
などを教えたあと、神隠れします。
<中入>
おどろいた梅津の某は、供の者に土地の人を呼びにやらせ、
その人から詳しく道真の事蹟や
道真を慕って飛んできた梅、後を追ってきた松の話を聞きます。
里人の勧めで梅津の某の一行は、松陰で旅寝をして神のお告げを待ちます。
すると、老松の神霊が、紅梅殿に呼びかけながら登場し、
のどかな春を祝って舞をまい、君の長寿を祝い、御代の永遠をことほぎます。
仕舞〔キリ〕
さす枝の。さす枝の。梢は若木の花の袖。これは老木の神松の。これは老木の神松の。
千代に八千代に。さざれ石の。巌となりて。苔のむすまで。苔のむすまで、
松竹。鶴鶴の。齢をさずくるこの君の。ゆくすえ守れと我が神託の。
告を知らする、松風も梅も。 久しき春こそ、めでたけれ。
☆雪、真冬日。 冷え込みこの冬一番とか。
昭和天皇の大罪、
棄兵・棄民、自己保身と蓄財への執心、戦後政治への容喙、
◆http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/sinjuwankaratunagarubaikokunokeihu.html
長周新聞 2016年12月28日付
真珠湾から繋がる売国の系譜
なぜ320万人犠牲になったか
米国に屈服し「国体護持」
安倍首相が、日米戦争の発端となった75年前の真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊し、
「和解に踏み出す」といってハワイを訪れている。
アメリカは、「真珠湾への卑劣な騙し討ちを忘れるな」(ルーズベルト)と
太平洋戦争に乗り出し、沖縄侵攻から都市空襲、
さらには広島・長崎への原爆投下にいたる、
なんの罪もない老幼男女の虐殺を正当化する常とう手段として、
「リメンバー・パールハーバー」を持ち出してきた。
それが、アメリカの単独占領から今日に至る
日本社会の屈辱的な対米隷属、そのもとでの新たな戦争への道に連なっている。
真珠湾攻撃はどのようにひき起こされたのか。
日米戦争はどのような戦争で、なんのためにやられたのか。
この機にふり返ってみる意義は大きい。
☆国民の反乱恐れた為政者ども
1941(昭和16)年12月8日朝(日本時間)、
日本海軍の連合艦隊機動部隊が真珠湾に停泊していた
米海軍太平洋艦隊と航空基地に対して、
爆撃機や戦闘機、潜航艇などによる「奇襲攻撃」をおこなった。
アメリカ側はこの攻撃を事前に察知していたが、無防備のまま開けて通した。
そのため、戦艦アリゾナなど5隻が沈没、3隻が損傷を受けたのをはじめ、
多数の艦艇や飛行機とともに、2200人をこす軍関係者が犠牲を強いられた。
真珠湾を母港とするアメリカの空母2隻は、湾外に出ていたため無傷であり、
その後の海戦や、沖縄戦、日本本土襲撃で大きな役割を果たした。
ルーズベルト大統領が、日本への宣戦布告を議会に求めたのはその翌日であった。
全米に向けた演説では、
「日本は和平の継続を望むという姿勢を見せて、わが国を欺いた」というもので、
日本からこれ以上の和平交渉ができないとの公式回答があったのは、
真珠湾を攻撃した一時間後であり、
「わが国に対しておこなわれた攻撃の卑怯な性格をけっして忘れることはない」
と強調するものであった。
アメリカ政府は以後、マスメディアを動員して
「有色人種による卑劣な攻撃」を許すなと戦争熱を煽り、
日本人は人間ではなく「イエローモンキー」であり、
攻撃の対象を非戦斗の国民全体に向けて、虫けらのように焼き殺していった。
一方、日本の天皇を頂点とする支配層は、
真珠湾攻撃の大戦果を宣伝し「鬼畜米英」を煽ったが、
実際にはアメリカに勝てるとは少しも思わず、日本の若者の命を
みすみすアメリカに差し出した。
そして、アメリカに制海権や制空権を完全に奪われたもとでも、
「1億玉砕」を叫んで沖縄戦や空襲などアメリカの皆殺し作戦にさらしていった。
そして、広島・長崎への原爆投下によるアメリカの単独占領によって、
天皇を利用したアメリカの戦後支配を許すことになった。
☆先に攻撃させ国民煽動 スチムソンの文書
戦後、真珠湾攻撃の真相は長期にわたって覆い隠されてきた。
しかし、今日までアメリカの政府高官の証言も含めて暴露されてきた
多くの事実は、真珠湾攻撃がアメリカが日本に先に攻撃させるシナリオ
にそってひき起こされたものであり、
中国における戦争の敗北の窮地に立っていた天皇制軍国主義が、
みずからの支配的地位を守るためにアメリカに身を委ねる契機となった事件
であったことが明白となっている。
当時、駐日大使だったジョセフ・グルーは真珠湾攻撃の11カ月前、
1941年1月の段階で「日本軍がハワイ真珠湾に大規模な攻撃を計画している」
「航空機の編隊で、米艦隊に奇襲攻撃をしかける」という情報を国務省に送っていた。
米海軍情報部が日米開戦までに、日本側の暗号電報を傍受、解読していた
ことはよく知られている。
アメリカはそのため1941年11月下旬、千島・択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾に、
ハワイ攻撃にそなえる日本艦隊が集結した時点から、
その動向を的確に把握していた。
また、アメリカ政府はハワイの日本領事館に海軍から送られた工作員がいる
ことも知っており、その電報のやりとりから
日本側の攻撃目標が真珠湾であることもつかんでいた。
さらに、オーストラリア政府が、日本の機動部隊がハワイに向かっている
との情報を伝えていた。
こうしたなか、ルーズベルトは11月25日の戦時内閣で
「早ければ12月1日ごろに日本が攻撃してくるかもしれない」との見通しを語り、
「どのようにして、わが国にさほど甚大な被害を招くことなく、
日本に最初に発砲させるよういかにして導くか」について議論していた。
米陸軍長官・スチムソンは後に原爆投下計画の中心を担ったことで知られる。
「真珠湾攻撃」の10日前には、ルーズベルトの指示に従って
陸軍高級副官に当てた電報で
「日本との外交交渉が中断することは明らかであって、
日本の作戦行動が避けることができないのであれば、
アメリカは最初に明白な行動をとるべきではない」と指示していた
ことも暴露されている。
スチムソンは日記でも、「日本に最初の一発を発射させることにはリスクがあるが、
アメリカ国民から全面的支援を得るには、日本にそれをやらせ、
誰が見ても侵略者が誰なのか、少しも疑問を抱かないよう、
はっきりさせることが望ましい」と書いていた。
ルーズベルトら米政府中枢は真珠湾攻撃の14時間前には、
日本の攻撃があることをはっきりとつかんでいた。
しかし、そのような重大な事実に対して鉗口令を敷き、
攻撃を受けるハワイの米太平洋艦隊に知らせなかったのは、
日本に先に攻撃させるためであった。
しかも、攻撃を受けた責任を、キンメル提督ら艦隊司令官に押しつけた。
のちに、司令官らが前日の宴会で泥酔したり、ゴルフに興じていた
という理由が事実でなかったことが暴露された。
このことは日本政府が、アメリカへの開戦通告が遅れたことを
駐米大使館員の責任にして、前日の宴会での泥酔や
電文受けとり体制をとっていなかった怠慢にあったとこじつけてきたことと
通じあうものである。
最近、九州大学記録資料館の三輪宗弘教授が、
本国からの通告の訂正電報を駐米大使館員が態勢をとって待っていたのに、
外務省が攻撃後に届くよう遅らせて発信していた記録を、
米国公文書館で発見したことも話題を呼んでいる。
再掲ですが、拙作二枚目、
「能 箙(えびら)」です。 水彩 32cm x 40cm 紙
☆経済封鎖し戦争へ誘導 米国の周到な計画
当時、ウォール街と軍需企業をはじめアメリカの財界は、
ニューディール政策の失敗から戦争を求めていた。
しかし、国民の反戦世論は圧倒的に強かった。
したがってルーズベルトは「お父さん、お母さん、あなたたちの息子たちを
ヨーロッパ戦線に送ることは決してない。
わが国が攻撃されないかぎり外国と戦闘することはない」と公約していた。
アメリカ政府中枢がはりめぐらせていた謀略は、ドイツ潜水艦に
アメリカの艦船を攻撃させて犠牲者を出すことと、
ハワイに艦艇を停泊させ日本海軍に攻撃させることであった。
日本については日本を政治的経済的に極限まで追いつめ、
やむを得ぬ形で戦争に誘い込むことであった。
それは、「裏口からヨーロッパに参戦する」というアメリカの目的の一環でもあった。
実際にドイツとの関係では、1941年9月から10月にかけて
米軍艦が大西洋でドイツの潜水艦と衝突したとき、
ルーズベルトは「アメリカが攻撃された」といったが、
実際に挑発の発砲を加えたのはアメリカの軍艦の方だった。
また、イギリスへの武器貸与ではその護衛もしており、
実質的に戦争に加担していた。
日米開戦1年前に当時の米海軍情報部極東課長・マッカラム少佐が起草した
対日戦略文書は、アメリカから宣戦布告するのではなく
「日本に明白な戦争行為に訴えさせることができる手段」として、
対日経済制裁を強め、日米交渉が決裂し、
日本が戦争に出ざるをえない状況をつくるための具体項目を提起していた。
アメリカは、マッカラムの文書をもとに日米通商航海条約を破棄し、
在米日本資産の凍結から航空用ガソリン、くず鉄の対日輸出禁止などの
経済制裁を加え、全面禁輸、さらには近衛文麿からの太平洋協議提案を拒否し、
「最後通牒」となったハル・ノートの手交まで、
そのシナリオ通りにことを進め、
日本の真珠湾攻撃を引き寄せ太平洋戦争へと乗り出していった。
この作戦は、アメリカがすでに日露戦争後から周到に練っていた「オレンジ計画」
といわれる日本侵攻作戦を継承するものであった。
アメリカは早くも日本との協調を唱えていた日露戦争の直後から
中国市場の争奪をめぐって、いずれ日本との戦争は避けられないと見て、
米海軍によって日本との戦争を想定した作戦を練りあげていた。
それは、「日本が先制攻撃で攻勢に出て、消耗戦を経てアメリカが反攻に移り、
海上封鎖されて日本は経済破綻して敗北する」という構想を基本とするものであった。
そのもとで、1909年から大規模な海軍基地建設を進めたハワイを起点に、
いったん日本軍が侵略するであろうミクロネシアの島嶼(しょ)を、
艦隊戦力をもって飛び石伝いに占領しながら反攻していき、
グアムとフィリピンを奪回するという作戦もシミュレーションしていた。
マッカラムの文書は、日本軍の不利な点として
「アジア大陸での消耗戦に150万人が投入されている」
「中国の主力軍隊が今なお日本と戦い続けている」と
中国の抗日戦争によって敗北状態にあることをあげていた。
その一方で、「(アメリカの)海軍及び海軍航空隊は現在、
この地域で長距離侵攻作戦を実施する能力がある」など、
アメリカが「きわめて有利な立場」にあると見ていた。
アメリカのこうした情勢評価は、スチムソンが40年6月までに
『ニューヨークタイムズ』に送った手紙のなかで、
「日本は中国戦線で泥沼に入りはじめた」と記し、
そのために日本政府が「中国側に有利」な和平提案をおこなっていることを
公式に認めていたことにも示されていた。
11月26日付の米政府の対日覚書(ハル・ノート)は、
日本との協議の機会を閉ざす意図をもって高圧的な態度で日本に突きつけた「最後通牒」
であった。
その最大要件は、満州を含む中国全土から「すべての陸海軍、兵力と警察」を引き揚げる
ことであった。
アメリカは、日本の支配層がこれを受け入れることはできず、交渉を断念し、
アメリカとの戦争に突入することを確実視していた。
☆日本は中国で敗北必至 革命恐れた為政者
当時、中国本土に投入された日本の陸軍兵力は138万人で、
陸軍動員総兵力の65%に達していた。
中国侵略を拡大していた日本の軍隊は、抗日勢力が強大化するなかで
主要都市とそれを結ぶ鉄道、つまり点と線を維持するのに精一杯で、
もはや侵攻作戦を続ける余力をなくすまでになっていた。
41年の末時点で、戦死者はすでに18万5000人を数えていた。
日本軍国主義の中国戦線における敗北は決定的となっていた。
国内での過酷な抑圧と搾取によってみんなを貧乏に追いこみ、
恐慌から中国侵略戦争と国民を動員してきた天皇制軍国主義にとって、
ここで中国の権益を放棄し撤退することは絶対にできない相談であった。
それはなによりも「国体」(天皇を頂点にした支配体制)を揺るがしかねなかった。
為政者たちは中国で苦難を強いられている夫や兄弟を心配する家族に対して、
「勝った」「勝った」の大本営発表とともに、
「兵隊さんの苦労に報いる」ために痛みを分かちあうことを強要してきた。
また農村の疲弊を打開するために、「王道楽土」の満州への開拓団の投入を
国策として遂行してきた。
そこに、中国から軍隊を全面撤退させて中国革命を促進し、
大量の不満兵士を復員させ、開拓団を引き揚げさせれば、
なによりも国内の治安を悪化させ、
革命を引きよせることになることは容易に想定できた。
すでに、1940(昭和15)年7月、枢密院議長の近衛文麿が組閣し、
仏印(インドシナ)、蘭印(インドネシア)への武力進出「南進政策」をうち出し、
9月には日独伊三国軍事同盟を締結していた。
そして、アメリカの蒋介石への戦略物資の支援ルートを断つ方向へと進んだ。
その行きつく先はアメリカとの戦争であることは明白であった。
このことは、天皇をはじめとする支配中枢が
アメリカとの戦争に窮余の一策を求めるものであった。
昭和天皇はこの時点で「アメリカに対しても打つ手がないというならば、致し方あるまい。
……自分はこの時局がまことに心配であるが、
万一日本が敗戦国となったときに、一体どうだろうか。
この如き場合が到来した時は、総理も自分と労苦を共にしてくれるだろうか」
(『木戸幸一日記』)と、
すでにアメリカとの戦争での敗戦を想定していた。
日本の戦争指導者で当時、アメリカと戦争して勝てると思うものは、
だれ一人としていなかった。
真珠湾攻撃を指揮した山本五十六・連合艦隊司令長官は、
アメリカとの戦争を持ちかけられて、
「それはぜひやれといわれれば、初め半年か1年ぐらいは暴れてみせる。
しかしながら2年3年となればまったく確信はできぬ。
三国条約ができてしまったのは致し方ないが、こうなった上は、
日米戦争を回避するよう極力ご努力願いたい」と答える状況であった。
また、「アメリカと戦争するのは、ほとんど全世界と戦うことだ。
ソ連などあてにならぬ。自分は最善を尽くして長門の艦上で討ち死にするが、
その間に東京は3度丸焼けにされる。
近衛なんか気の毒だが、国民から八つ裂きにされるようなことになりはせぬか」
と吐露していた。
海軍の永野修身軍令部総長は、天皇から対米戦争で
「日本海海戦の如き大勝は困難なるべし」と問われたのにたいして、
「日本海海戦の如き大勝は勿論、勝ち得るや否やも覚束なし」と答える状況で、
敗戦は必至と見なしていた。
このように天皇制軍国主義が初めから負けるとわかりきっているアメリカとの戦争
に突入したのは、アメリカとの戦争を回避し
中国からの撤退にともなう国内の反乱よりも、
アメリカに日本民族の利益を売り渡して敗北する形を望んだことから来るものであった。
そのことは、近衛文麿が日米開戦時の企画院総裁・鈴木貞一の
「開戦は国内政治である」という言葉を引いて「なかなか含蓄あり」
といっていたことにも示されている。
その後の事態の進展は、昭和天皇が近衛文麿、吉田茂らの宮中グループを抱えて、
日本の単独占領支配を狙うアメリカに敗北することを待ち望み、
最終的に320万人もの国民を殺りくするにまかせ、
塗炭の苦しみを強い続けたことを教えている。
☆相通じて皆殺しを実行 民族的利益売り渡す
アメリカは、日本の奇襲を待って日本との戦争に乗り出した直後には、
戦時情報局のライシャワー(戦後の駐日大使)が、
「天皇を利用した間接支配」を提言したことを受けて、
「天皇を象徴(シンボル)として利用」することを対日占領政策として公式に定めた。
そして空襲においては、皇居の攻撃を禁止することを厳命した。
元駐日大使・グルーらが吉田茂、近衛文麿ら日本の「和平派」とされる人脈への工作や、
ザカリアス大佐のサンフランシスコからの短波放送を通じてその方向を貫いた。
また原爆投下や空襲では年寄り、女、子どもを無慈悲に焼き殺す一方で、
三菱や軍事、金融関連など
アメリカの戦後支配や財界の利権がからむ施設を露骨に保護していった。
こうしたことは、戦前からアメリカ支配層と天皇や皇室、財閥との間に
密接な人脈が築かれていたことによって可能であった。
対日戦略文書を起草したマッカラムは、
キリスト教宣教師の両親のあいだに長崎で生まれ、
少年時代を日本の諸都市で過ごした「日本通」とされ、
昭和天皇が皇太子のときに「駐日アメリカ大使館」でダンスを教えたことで知られる。
グルーは天皇や秩父宮、ザカリアスは高松宮と昵懇の関係にあった。
昭和天皇は戦後、原爆投下について聞かれたとき、
「広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ない」と公言した。
そこには、側近の木戸幸一が「陛下や私があの原子爆弾によって得た感じは、
待ちに待った終戦断行の好機をここに与えられたというのであった」
と語ったような原爆投下への本能的な感謝の気持ちが充満している。
海軍大臣であった米内光政も広島・長崎に原爆が投下されてすぐの8月12日、
「原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。
国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。
私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし
原子爆弾やソ連参戦でもない。
一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。
従って今日その国内情勢を表面に出さなくて収拾が出来る
と云うのは寧ろ幸いである」と言明していた。
日米戦争の最後の9カ月の間に 89万7000人、
すなわち78人に1人に当たる日本国民が殺された。
そのほとんどが非戦斗の市民であった。
ちなみに、アメリカ人は3万2000人が死んだ。
これは戦後対日占領支配をたくらむアメリカと、
天皇を中心とした日本の支配層が主従の関係にありながら、
日本国民が社会の主人公として新生日本を建設することを阻むために、
へとへとに疲れさせるという点で互いに結託していたことを教えている。
真珠湾攻撃と日米開戦は、そのような米日支配層の親分子分の関係を確立し、
戦後の対米従属支配につなげていく起点でもあった。
その内実は、安倍晋三が自慢する「日米同盟」にしっかりと受けつがれている。
再掲ですが、拙作三枚目、
「能 高砂」です。 水彩 32cm x 40cm 紙
無様な下痢壺、プーチンの失望と見切り、
◆http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50617
現代ビジネス 2016/12/30
◎日本の為政者に「独立国」としての誇りはあるのか?
プーチンが突きつけた問い 白井 聡
☆権力者のホンネ
2016年も終わろうとしているが、年末に起きたいくつかの出来事は、
いよいよ筆者が「永続敗戦レジーム」と名づけたものの
最終的な崩壊過程を告げているかのように見える。
「永続敗戦レジーム」とは、筆者が
著書『永続敗戦論――戦後日本の核心』において詳述した
戦後日本の親米保守派による支配体制を指す。
この体制は、第二次世界大戦における敗戦の意味を
出来る限り曖昧にすること(「敗戦」の「終戦」への呼び換えに象徴される)によって、
戦前戦中からの支配体制との連続性をできる限り維持しようとした。
無論その過程には、東西対立における米国陣営への日本の引き込み
という米国の強い意思が介在しており、旧支配層は、
アジア地域における米国の最重要のパートナーとなることによって、
戦後も支配的立場にとどまることに成功した。
言い換えれば、アメリカの属国になることを受け入れることによって、
日本国内での支配権を維持したのである。
この体制は、米国の庇護の下での復興、経済発展という点では
多大の成功を収め、戦後日本は「平和と繁栄」の時代として記憶される
ことになったが、東西冷戦構造の終焉とともに、その土台は失われた。
米国が日本を「庇護」する動機はなくなり、グローバル化の掛け声の下で、
むしろ「収奪」の側面が強くなる。
関係当事者たちが「世界史上稀に見る長期的で深い友好関係」と
自画自賛する日米関係の実態は次のようなものだ。
つまり、権力者たちが対米従属以外の方針をあらかじめ排除する
ことによって権益やポストを保持しているのだ。
この構造を劇的に表面化させたのは、沖縄・普天間基地移設問題をめぐって
発生した民主党鳩山政権の退陣劇であった。
この過程では、「米国との約束」を金科玉条、「錦の御旗」として奉じる
政治家や官僚が、米国の意思を過剰に忖度することによって、
沖縄県人の思いに正面から向き合おうとした鳩山氏を
「日米関係を危機に陥れる」と糾弾し、引きずり降ろしたのである。
☆惨めで哀れな民主主義
永続敗戦レジームのもう一つの致命的欠陥にも言及しておく必要がある。
それは、戦後民主主義の底の浅さを形づくっているということだ。
A級戦犯の一人に指名された岸信介の首相就任に代表されるように、
レジームの支配的中核部に「民主主義的精神を十分に持たない」と
戦後直後には指弾された勢力がとどまったという事情は、
社会の民主化に自ずと限界を設けることに帰結したが、
この現実を劇的に露呈させたのが3.11の福島第一原発事故にほかならなかった。
こと「原子力の推進」という国策をめぐっては、
国家とその追随者(代表的には大資本)によるあらゆる専横がまかり通ってきた
ことに、あらためて注目が集まったのである。
かくして、「失われた20年」によって経済的繁栄のメッキを剥落させた日本は、
不徹底な自由民主主義と
不健全な対外従属によって蝕まれた惨めな正体をさらけ出した。
この状態を指して、筆者は「永続敗戦」と名づけたのである。
それは、あの敗戦の事実を正面から受け止めないがために
敗戦状態が終了せずにダラダラと永続していることを指している。
そして、いわゆる政権交代の実質的な無意味性を証明した
民主党野田政権の後を襲って成立した第二次安倍政権は、
かかる状態に対する一種の開き直りを基盤としている。
ゆえにその方針は、「戦後レジームからの脱却」の掛け声とは正反対に、
その実態において、「永続敗戦レジームとしての戦後レジームの死守」
であると規定するほかない。
しばしば指摘されている安倍政権の政治手法の強引さは、
すでに基盤を失ったレジームをさらになお継続させようとする無理から生じている。
☆なに一つ日本のためになってない
以上のような視角から安倍政権を観察してきた筆者にとって、
露プーチン大統領の訪日は、きわめて興味深いイベントであった。
第二次安倍政権の主要政策は、その必然性を『永続敗戦論』一冊で
すべて説明可能である
(その具体的展開は2015年刊行の『「戦後」の墓碑銘』を参照のこと)。
しかし、北方領土問題の解決に道筋をつけて日露平和条約締結へと踏み出す
のだとすれば、それは『永続敗戦論』の図式によって説明できない事象が
同政権下で初めて発生することを意味するのだ。
また、そのような方向性が打ち出されることを筆者は期待してもいた。
筆者は安倍政権に対して原則的批判者としての立場をとってきたが、
それはもちろん「批判のための批判」をしたいがためではない。
『永続敗戦論』では、北方領土問題の解決のためには、
「四島一括返還」などという要求は引っ込めざるを得ない、
つまりは妥協するほかないことの歴史的背景を説明した。
だが、対外問題、特に領土問題のような
ナショナリズム感情を昂進させやすい問題において、妥協の決断を担えるのは、
リベラルな政権ではなく、保守政権であることは、歴史がしばしば証明している
(仏ド・ゴール政権におけるアルジェリア問題、米ニクソン政権におけるベトナム戦争など)。
ゆえに、筆者は安倍政権に対して、一日も早い退陣を願いながらも、
それが存在している以上、一つでも
肯定的な財産を残してほしいと期待してきたのである。
しかし、このような期待が、永続敗戦レジームを死守せんとする政権によっては
そもそも実現されるはずがなかったことを、今回あらためて思い知らされた。
その上、訪日直前および訪日時のプーチン大統領の領土問題についての発言の
踏み込み具合には、驚かされた。
だが、以下に見るように、少し考えてみれば、
それらの発言は道理に適っているのである。
☆プーチンは何を言ったのか
経過を振り返ってみよう。
12月のプーチン訪日が決まった当初(9月頃)、日本の報道機関(特にNHK)は、
「今度こそ本当に大きな動きがありそうだ」という雰囲気を漂わせた。
また、ロシア政府とつながりを持つと思われるニュース・ウェブサイト
「スプートニク日本」も同様の趣旨のコラムを掲載していた。
包括的経済協力のプランをテコとして、領土問題の原則的解決=平和条約締結へと
両国政府が本気で歩み始めていると推測させる報道が相次いだのである。
しかしその後、交渉成果の見通しについての観測は揺れ動き、
11月の米大統領選あたりからは、悲観的な論調がはっきりと支配的になった。
訪日直前期に至っては、むしろ「何か一つでも出て来くるのか」が
議論の焦点となった感すらあった。
そのなかで、ダメを押すがごとく出現したのは、
「朝日新聞」12月14日付の次の報道である。
11月に訪露した、安倍首相の側近中の側近である谷内正太郎国家安全保障局長は、
パトルシェフ安全保障会議書記が、
日ソ共同宣言を履行して2島を引き渡したならば「島に米軍基地は置かれるのか」
と問い掛けたのに対し、
「可能性はある」と答えたという。
時期と内容に照らせば、ロシア側の熱意が急速に冷めていった最大の要因は、
谷内氏のモスクワでの発言に違いないとの観測は成り立ちうるであろう。
常識的に見て、
自国に武器を向けてもらうために領土を譲渡する国などあるわけがない。
とはいえ、日米安保条約は地域的例外を認めていない以上、
歯舞・色丹が日本領となった時点で、
そこに米軍基地が置かれる可能性は論理的に発生する。
おそらくは、パトルシェフ氏の問い掛けは、文字通りの問いであるよりもむしろ、
日本の独立国としての意思の有無を問うものであった。
なぜなら、日米が対露戦力の増強を本気で図りたいのならば、
北海道に米軍基地を新設することも可能であり、
これを阻止する絶対的な手段をロシアは持たないからである。
してみれば、ロシア側が知りたかったのは、
安倍政権が真剣に交渉する相手に値するか否かということであり、
彼らは「値しない」という結論を得たに違いない。
このことは、プーチン大統領の訪日直前の「読売新聞」と日本テレビによる
インタビューでの発言が裏書きしている。
プーチン氏の次のような言葉は、国家元首の発言として相当に踏み込んだもの
であることには、注目されねばならない。
「日本が(米国との)同盟で負う義務の枠内で、露日の合意がどれぐらい実現できるのか
見極めなければならない。日本はどの程度、独自に物事を決められるのか。
我々は何を期待できるのか。最終的にどのような結果にたどり着けるのか」
「日本には同盟関係上の何らかの義務がある。
我々はそのことを尊重するのはやぶさかではないが、
我々は日本がどのくらい自由で、日本がどこまで踏み出す用意があるのか
理解しなければならない。
日本がどこまで踏み出すかを明らかにすることが必要だ。
これは二義的な問題ではない。平和条約署名という最終合意のために、
何を両国間の基礎とするかによって、結果は違ってくる。
これが、現在の露日関係と露中関係の違いだ」
あからさまに言えば、これは「一体あなた方に独自の意思というものはあるのか?
現に独立国でなく独立国たろうという意思すらも持たない国とは、
真面目な交渉はできない」というメッセージであり、
さらには「中国は独立国だが、日本はそうではない」とも示唆しているわけである。
訪日時の共同記者会見では、プーチン氏はさらに踏み込んで
1956年の日ソ共同宣言の直後に起きた「ダレスの恫喝」に言及した。
これは、日本が(四島ではなく)二島返還でケリをつけて
日ソ平和条約締結へと進むのならば、沖縄の返還はしない、
という圧力を当時の米国務長官ジョン・フォスター・ダレスからかけられた事件だ。
この事件は、戦後日本の外交が主体性を持ち得ず、
舵取りの最終審級を米国に握られてきたこと
(より正確に言えば、米国の意思を過剰忖度することによって
自ら主体性を放棄してきたこと)の象徴である。
無論、日本政府は、この事件の存在を公式に認めていない。
してみれば、このプーチン氏のメッセージを
ここでもよりあからさまに翻訳するならば、それは次のようになるだろう。
「あなた方日本政府のエリートたちが領土問題に関して
日本国民に隠している重大な事柄について、我が方は百も承知である。
約60年前にあなた方が米国から受けた屈辱のなかに、
さらになおあなた方は進んでとどまるつもりなのか?
そのような誇りなき人々と交渉する意味はない」
☆これではただの「ガキの使い」
果たして、日本のなかの一体誰が、プーチン氏のこれらの発言を
非礼で不条理なものとして非難できるだろうか。
『永続敗戦論』では、「ダレスの恫喝」が発生した経緯、
東西対立の構造と当時の日米の国力格差から
この恫喝に日本側が屈するほかなかった事情、
そして国際関係も国力格差も大幅に変容したにもかかわらず、
現在もなお、日本政府の北方領土問題への対応が
これによって呪縛されている様を詳述した。
これらの歴史を踏まえると、プーチン氏の至極当然の苛立ちが見えてくる。
安倍首相はプーチン大統領との親密な関係を繰り返しアピールし、
ウクライナやシリアの情勢をめぐって米露関係が緊迫するなかで、
あえてロシアとの接近を図った。
ロシア側からすれば、こうした動きは、語の真正な意味で日本が
「戦後レジームからの脱却」(すなわち、対米従属の相対化)を模索している
サインに見えたかもしれない。
それだけに、先に見た谷内氏の発言以降、失望の色を隠せなかったのである。
しかし、ロシア側が見落としていたのは、
永続敗戦レジームのエッセンスのごとき安倍政権が、
文字通りの「戦後レジームからの脱却」などそもそもできるはずがなかった、
ということではないか。
プーチン当局としては、一旦は本気になったがゆえに、徒労感は強いであろう。
しかし彼らは、3000億円の投資を呼び込むことで、
授業料はきっちり回収したのである。
翻って日本側はどうか。
米国自らが「世界の警察官役を降りる」と宣言した世界において、
「ワシントンに聞かないとお返事できかねます」としか言えない「ガキの使い」では、
もはや世界の誰も
まともに取り合ってくれないという事実を学んだ(はずである)。
その授業料は3000億円だった。
日露間で何かがともかく前進しているという体裁を取り繕うために、
それは持ち出されなければならなかった。
その原資は血税であるが、いまだ永続敗戦レジームを支持し続けている無知未熟な者は、
「独立国ごっこ」に興じ続ける限り、
高い授業料を破産するまで払い続けなければなるまい。
▼http://gendai.ismcdn.jp/mwimgs/0/e/250/
img_0e0d7b25c1114b90057c453629d8931e22355.jpg
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下痢壺は伊藤俊輔(博文)を気取っておるのでは?
成り済まし明治帝・大室寅之祐は奇兵隊の分隊の一つ、「力士隊」隊士。
隊長は下忍といはれる伊藤俊輔。 桂小五郎は上忍らしい。
当時の力士は非人身分です。 田布施は鮮人部落。
下痢壺が今上の意向など聞く耳持たぬのは
伊藤俊輔(博文)を気取っておるからでしょう、オレが上だとね。
「能 老松」です。
水彩 32cm x 40cm 紙
老松(おいまつ)
梅の枝には鶯が囀り、松は緑を増す、長閑な新春のある日。
都人の前に現れたのは、道真公ご自愛の梅・松の精であった。
梅は若い美しさをたたえ、松は長寿をことほぐ。
江戸時代、正月の江戸城での「謡い初め」では、
〈高砂〉〈東北〉とともに本曲が必ず演奏されていました。
季節も初春、モチーフも梅や松といっためでたい木であり、
現在わが国の国歌ともなっている「君が代は千代に八千代に…」の歌が
終曲部に引かれているなど、お正月にふさわしい、祝言の曲といえましょう。
【分類】初番目物 (脇能)
【作者】世阿弥
【場所】筑紫 安楽寺(現・太宰府天満宮)
【季節】新春
【主人公】前シテ:老人、後シテ:老松の神
【あらすじ】
都の西の方に住む梅津の某は、北野天満宮の夢のお告げを蒙り、
筑紫国(福岡県)の安楽寺へ参詣することにします。
はるばると旅をして、菅原道真の菩提寺である安楽寺へ着くと、
老人と若い男がやって来て、梅と桜のことを述べ、花盛りの梅に垣を作ります。
梅津の某は、彼等に言葉をかけ、有名な飛梅はどれかと問うと、
神木であるから紅梅殿と崇めなさいとたしなめられ、
同じく神木である老松についても教えられます。
さらに梅津の某の頼みで、社殿の周辺の景色を述べ、
松や梅が天神の末社として栄えていることを示し、中国では、
梅は文学を好むので「好文木」といわれ、
松は秦の始皇帝の雨やどりを助けたので「大夫」の位を授けられた故事
などを教えたあと、神隠れします。
<中入>
おどろいた梅津の某は、供の者に土地の人を呼びにやらせ、
その人から詳しく道真の事蹟や
道真を慕って飛んできた梅、後を追ってきた松の話を聞きます。
里人の勧めで梅津の某の一行は、松陰で旅寝をして神のお告げを待ちます。
すると、老松の神霊が、紅梅殿に呼びかけながら登場し、
のどかな春を祝って舞をまい、君の長寿を祝い、御代の永遠をことほぎます。
仕舞〔キリ〕
さす枝の。さす枝の。梢は若木の花の袖。これは老木の神松の。これは老木の神松の。
千代に八千代に。さざれ石の。巌となりて。苔のむすまで。苔のむすまで、
松竹。鶴鶴の。齢をさずくるこの君の。ゆくすえ守れと我が神託の。
告を知らする、松風も梅も。 久しき春こそ、めでたけれ。
☆雪、真冬日。 冷え込みこの冬一番とか。
昭和天皇の大罪、
棄兵・棄民、自己保身と蓄財への執心、戦後政治への容喙、
◆http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/sinjuwankaratunagarubaikokunokeihu.html
長周新聞 2016年12月28日付
真珠湾から繋がる売国の系譜
なぜ320万人犠牲になったか
米国に屈服し「国体護持」
安倍首相が、日米戦争の発端となった75年前の真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊し、
「和解に踏み出す」といってハワイを訪れている。
アメリカは、「真珠湾への卑劣な騙し討ちを忘れるな」(ルーズベルト)と
太平洋戦争に乗り出し、沖縄侵攻から都市空襲、
さらには広島・長崎への原爆投下にいたる、
なんの罪もない老幼男女の虐殺を正当化する常とう手段として、
「リメンバー・パールハーバー」を持ち出してきた。
それが、アメリカの単独占領から今日に至る
日本社会の屈辱的な対米隷属、そのもとでの新たな戦争への道に連なっている。
真珠湾攻撃はどのようにひき起こされたのか。
日米戦争はどのような戦争で、なんのためにやられたのか。
この機にふり返ってみる意義は大きい。
☆国民の反乱恐れた為政者ども
1941(昭和16)年12月8日朝(日本時間)、
日本海軍の連合艦隊機動部隊が真珠湾に停泊していた
米海軍太平洋艦隊と航空基地に対して、
爆撃機や戦闘機、潜航艇などによる「奇襲攻撃」をおこなった。
アメリカ側はこの攻撃を事前に察知していたが、無防備のまま開けて通した。
そのため、戦艦アリゾナなど5隻が沈没、3隻が損傷を受けたのをはじめ、
多数の艦艇や飛行機とともに、2200人をこす軍関係者が犠牲を強いられた。
真珠湾を母港とするアメリカの空母2隻は、湾外に出ていたため無傷であり、
その後の海戦や、沖縄戦、日本本土襲撃で大きな役割を果たした。
ルーズベルト大統領が、日本への宣戦布告を議会に求めたのはその翌日であった。
全米に向けた演説では、
「日本は和平の継続を望むという姿勢を見せて、わが国を欺いた」というもので、
日本からこれ以上の和平交渉ができないとの公式回答があったのは、
真珠湾を攻撃した一時間後であり、
「わが国に対しておこなわれた攻撃の卑怯な性格をけっして忘れることはない」
と強調するものであった。
アメリカ政府は以後、マスメディアを動員して
「有色人種による卑劣な攻撃」を許すなと戦争熱を煽り、
日本人は人間ではなく「イエローモンキー」であり、
攻撃の対象を非戦斗の国民全体に向けて、虫けらのように焼き殺していった。
一方、日本の天皇を頂点とする支配層は、
真珠湾攻撃の大戦果を宣伝し「鬼畜米英」を煽ったが、
実際にはアメリカに勝てるとは少しも思わず、日本の若者の命を
みすみすアメリカに差し出した。
そして、アメリカに制海権や制空権を完全に奪われたもとでも、
「1億玉砕」を叫んで沖縄戦や空襲などアメリカの皆殺し作戦にさらしていった。
そして、広島・長崎への原爆投下によるアメリカの単独占領によって、
天皇を利用したアメリカの戦後支配を許すことになった。
☆先に攻撃させ国民煽動 スチムソンの文書
戦後、真珠湾攻撃の真相は長期にわたって覆い隠されてきた。
しかし、今日までアメリカの政府高官の証言も含めて暴露されてきた
多くの事実は、真珠湾攻撃がアメリカが日本に先に攻撃させるシナリオ
にそってひき起こされたものであり、
中国における戦争の敗北の窮地に立っていた天皇制軍国主義が、
みずからの支配的地位を守るためにアメリカに身を委ねる契機となった事件
であったことが明白となっている。
当時、駐日大使だったジョセフ・グルーは真珠湾攻撃の11カ月前、
1941年1月の段階で「日本軍がハワイ真珠湾に大規模な攻撃を計画している」
「航空機の編隊で、米艦隊に奇襲攻撃をしかける」という情報を国務省に送っていた。
米海軍情報部が日米開戦までに、日本側の暗号電報を傍受、解読していた
ことはよく知られている。
アメリカはそのため1941年11月下旬、千島・択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾に、
ハワイ攻撃にそなえる日本艦隊が集結した時点から、
その動向を的確に把握していた。
また、アメリカ政府はハワイの日本領事館に海軍から送られた工作員がいる
ことも知っており、その電報のやりとりから
日本側の攻撃目標が真珠湾であることもつかんでいた。
さらに、オーストラリア政府が、日本の機動部隊がハワイに向かっている
との情報を伝えていた。
こうしたなか、ルーズベルトは11月25日の戦時内閣で
「早ければ12月1日ごろに日本が攻撃してくるかもしれない」との見通しを語り、
「どのようにして、わが国にさほど甚大な被害を招くことなく、
日本に最初に発砲させるよういかにして導くか」について議論していた。
米陸軍長官・スチムソンは後に原爆投下計画の中心を担ったことで知られる。
「真珠湾攻撃」の10日前には、ルーズベルトの指示に従って
陸軍高級副官に当てた電報で
「日本との外交交渉が中断することは明らかであって、
日本の作戦行動が避けることができないのであれば、
アメリカは最初に明白な行動をとるべきではない」と指示していた
ことも暴露されている。
スチムソンは日記でも、「日本に最初の一発を発射させることにはリスクがあるが、
アメリカ国民から全面的支援を得るには、日本にそれをやらせ、
誰が見ても侵略者が誰なのか、少しも疑問を抱かないよう、
はっきりさせることが望ましい」と書いていた。
ルーズベルトら米政府中枢は真珠湾攻撃の14時間前には、
日本の攻撃があることをはっきりとつかんでいた。
しかし、そのような重大な事実に対して鉗口令を敷き、
攻撃を受けるハワイの米太平洋艦隊に知らせなかったのは、
日本に先に攻撃させるためであった。
しかも、攻撃を受けた責任を、キンメル提督ら艦隊司令官に押しつけた。
のちに、司令官らが前日の宴会で泥酔したり、ゴルフに興じていた
という理由が事実でなかったことが暴露された。
このことは日本政府が、アメリカへの開戦通告が遅れたことを
駐米大使館員の責任にして、前日の宴会での泥酔や
電文受けとり体制をとっていなかった怠慢にあったとこじつけてきたことと
通じあうものである。
最近、九州大学記録資料館の三輪宗弘教授が、
本国からの通告の訂正電報を駐米大使館員が態勢をとって待っていたのに、
外務省が攻撃後に届くよう遅らせて発信していた記録を、
米国公文書館で発見したことも話題を呼んでいる。
再掲ですが、拙作二枚目、
「能 箙(えびら)」です。 水彩 32cm x 40cm 紙
☆経済封鎖し戦争へ誘導 米国の周到な計画
当時、ウォール街と軍需企業をはじめアメリカの財界は、
ニューディール政策の失敗から戦争を求めていた。
しかし、国民の反戦世論は圧倒的に強かった。
したがってルーズベルトは「お父さん、お母さん、あなたたちの息子たちを
ヨーロッパ戦線に送ることは決してない。
わが国が攻撃されないかぎり外国と戦闘することはない」と公約していた。
アメリカ政府中枢がはりめぐらせていた謀略は、ドイツ潜水艦に
アメリカの艦船を攻撃させて犠牲者を出すことと、
ハワイに艦艇を停泊させ日本海軍に攻撃させることであった。
日本については日本を政治的経済的に極限まで追いつめ、
やむを得ぬ形で戦争に誘い込むことであった。
それは、「裏口からヨーロッパに参戦する」というアメリカの目的の一環でもあった。
実際にドイツとの関係では、1941年9月から10月にかけて
米軍艦が大西洋でドイツの潜水艦と衝突したとき、
ルーズベルトは「アメリカが攻撃された」といったが、
実際に挑発の発砲を加えたのはアメリカの軍艦の方だった。
また、イギリスへの武器貸与ではその護衛もしており、
実質的に戦争に加担していた。
日米開戦1年前に当時の米海軍情報部極東課長・マッカラム少佐が起草した
対日戦略文書は、アメリカから宣戦布告するのではなく
「日本に明白な戦争行為に訴えさせることができる手段」として、
対日経済制裁を強め、日米交渉が決裂し、
日本が戦争に出ざるをえない状況をつくるための具体項目を提起していた。
アメリカは、マッカラムの文書をもとに日米通商航海条約を破棄し、
在米日本資産の凍結から航空用ガソリン、くず鉄の対日輸出禁止などの
経済制裁を加え、全面禁輸、さらには近衛文麿からの太平洋協議提案を拒否し、
「最後通牒」となったハル・ノートの手交まで、
そのシナリオ通りにことを進め、
日本の真珠湾攻撃を引き寄せ太平洋戦争へと乗り出していった。
この作戦は、アメリカがすでに日露戦争後から周到に練っていた「オレンジ計画」
といわれる日本侵攻作戦を継承するものであった。
アメリカは早くも日本との協調を唱えていた日露戦争の直後から
中国市場の争奪をめぐって、いずれ日本との戦争は避けられないと見て、
米海軍によって日本との戦争を想定した作戦を練りあげていた。
それは、「日本が先制攻撃で攻勢に出て、消耗戦を経てアメリカが反攻に移り、
海上封鎖されて日本は経済破綻して敗北する」という構想を基本とするものであった。
そのもとで、1909年から大規模な海軍基地建設を進めたハワイを起点に、
いったん日本軍が侵略するであろうミクロネシアの島嶼(しょ)を、
艦隊戦力をもって飛び石伝いに占領しながら反攻していき、
グアムとフィリピンを奪回するという作戦もシミュレーションしていた。
マッカラムの文書は、日本軍の不利な点として
「アジア大陸での消耗戦に150万人が投入されている」
「中国の主力軍隊が今なお日本と戦い続けている」と
中国の抗日戦争によって敗北状態にあることをあげていた。
その一方で、「(アメリカの)海軍及び海軍航空隊は現在、
この地域で長距離侵攻作戦を実施する能力がある」など、
アメリカが「きわめて有利な立場」にあると見ていた。
アメリカのこうした情勢評価は、スチムソンが40年6月までに
『ニューヨークタイムズ』に送った手紙のなかで、
「日本は中国戦線で泥沼に入りはじめた」と記し、
そのために日本政府が「中国側に有利」な和平提案をおこなっていることを
公式に認めていたことにも示されていた。
11月26日付の米政府の対日覚書(ハル・ノート)は、
日本との協議の機会を閉ざす意図をもって高圧的な態度で日本に突きつけた「最後通牒」
であった。
その最大要件は、満州を含む中国全土から「すべての陸海軍、兵力と警察」を引き揚げる
ことであった。
アメリカは、日本の支配層がこれを受け入れることはできず、交渉を断念し、
アメリカとの戦争に突入することを確実視していた。
☆日本は中国で敗北必至 革命恐れた為政者
当時、中国本土に投入された日本の陸軍兵力は138万人で、
陸軍動員総兵力の65%に達していた。
中国侵略を拡大していた日本の軍隊は、抗日勢力が強大化するなかで
主要都市とそれを結ぶ鉄道、つまり点と線を維持するのに精一杯で、
もはや侵攻作戦を続ける余力をなくすまでになっていた。
41年の末時点で、戦死者はすでに18万5000人を数えていた。
日本軍国主義の中国戦線における敗北は決定的となっていた。
国内での過酷な抑圧と搾取によってみんなを貧乏に追いこみ、
恐慌から中国侵略戦争と国民を動員してきた天皇制軍国主義にとって、
ここで中国の権益を放棄し撤退することは絶対にできない相談であった。
それはなによりも「国体」(天皇を頂点にした支配体制)を揺るがしかねなかった。
為政者たちは中国で苦難を強いられている夫や兄弟を心配する家族に対して、
「勝った」「勝った」の大本営発表とともに、
「兵隊さんの苦労に報いる」ために痛みを分かちあうことを強要してきた。
また農村の疲弊を打開するために、「王道楽土」の満州への開拓団の投入を
国策として遂行してきた。
そこに、中国から軍隊を全面撤退させて中国革命を促進し、
大量の不満兵士を復員させ、開拓団を引き揚げさせれば、
なによりも国内の治安を悪化させ、
革命を引きよせることになることは容易に想定できた。
すでに、1940(昭和15)年7月、枢密院議長の近衛文麿が組閣し、
仏印(インドシナ)、蘭印(インドネシア)への武力進出「南進政策」をうち出し、
9月には日独伊三国軍事同盟を締結していた。
そして、アメリカの蒋介石への戦略物資の支援ルートを断つ方向へと進んだ。
その行きつく先はアメリカとの戦争であることは明白であった。
このことは、天皇をはじめとする支配中枢が
アメリカとの戦争に窮余の一策を求めるものであった。
昭和天皇はこの時点で「アメリカに対しても打つ手がないというならば、致し方あるまい。
……自分はこの時局がまことに心配であるが、
万一日本が敗戦国となったときに、一体どうだろうか。
この如き場合が到来した時は、総理も自分と労苦を共にしてくれるだろうか」
(『木戸幸一日記』)と、
すでにアメリカとの戦争での敗戦を想定していた。
日本の戦争指導者で当時、アメリカと戦争して勝てると思うものは、
だれ一人としていなかった。
真珠湾攻撃を指揮した山本五十六・連合艦隊司令長官は、
アメリカとの戦争を持ちかけられて、
「それはぜひやれといわれれば、初め半年か1年ぐらいは暴れてみせる。
しかしながら2年3年となればまったく確信はできぬ。
三国条約ができてしまったのは致し方ないが、こうなった上は、
日米戦争を回避するよう極力ご努力願いたい」と答える状況であった。
また、「アメリカと戦争するのは、ほとんど全世界と戦うことだ。
ソ連などあてにならぬ。自分は最善を尽くして長門の艦上で討ち死にするが、
その間に東京は3度丸焼けにされる。
近衛なんか気の毒だが、国民から八つ裂きにされるようなことになりはせぬか」
と吐露していた。
海軍の永野修身軍令部総長は、天皇から対米戦争で
「日本海海戦の如き大勝は困難なるべし」と問われたのにたいして、
「日本海海戦の如き大勝は勿論、勝ち得るや否やも覚束なし」と答える状況で、
敗戦は必至と見なしていた。
このように天皇制軍国主義が初めから負けるとわかりきっているアメリカとの戦争
に突入したのは、アメリカとの戦争を回避し
中国からの撤退にともなう国内の反乱よりも、
アメリカに日本民族の利益を売り渡して敗北する形を望んだことから来るものであった。
そのことは、近衛文麿が日米開戦時の企画院総裁・鈴木貞一の
「開戦は国内政治である」という言葉を引いて「なかなか含蓄あり」
といっていたことにも示されている。
その後の事態の進展は、昭和天皇が近衛文麿、吉田茂らの宮中グループを抱えて、
日本の単独占領支配を狙うアメリカに敗北することを待ち望み、
最終的に320万人もの国民を殺りくするにまかせ、
塗炭の苦しみを強い続けたことを教えている。
☆相通じて皆殺しを実行 民族的利益売り渡す
アメリカは、日本の奇襲を待って日本との戦争に乗り出した直後には、
戦時情報局のライシャワー(戦後の駐日大使)が、
「天皇を利用した間接支配」を提言したことを受けて、
「天皇を象徴(シンボル)として利用」することを対日占領政策として公式に定めた。
そして空襲においては、皇居の攻撃を禁止することを厳命した。
元駐日大使・グルーらが吉田茂、近衛文麿ら日本の「和平派」とされる人脈への工作や、
ザカリアス大佐のサンフランシスコからの短波放送を通じてその方向を貫いた。
また原爆投下や空襲では年寄り、女、子どもを無慈悲に焼き殺す一方で、
三菱や軍事、金融関連など
アメリカの戦後支配や財界の利権がからむ施設を露骨に保護していった。
こうしたことは、戦前からアメリカ支配層と天皇や皇室、財閥との間に
密接な人脈が築かれていたことによって可能であった。
対日戦略文書を起草したマッカラムは、
キリスト教宣教師の両親のあいだに長崎で生まれ、
少年時代を日本の諸都市で過ごした「日本通」とされ、
昭和天皇が皇太子のときに「駐日アメリカ大使館」でダンスを教えたことで知られる。
グルーは天皇や秩父宮、ザカリアスは高松宮と昵懇の関係にあった。
昭和天皇は戦後、原爆投下について聞かれたとき、
「広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ない」と公言した。
そこには、側近の木戸幸一が「陛下や私があの原子爆弾によって得た感じは、
待ちに待った終戦断行の好機をここに与えられたというのであった」
と語ったような原爆投下への本能的な感謝の気持ちが充満している。
海軍大臣であった米内光政も広島・長崎に原爆が投下されてすぐの8月12日、
「原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。
国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。
私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし
原子爆弾やソ連参戦でもない。
一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。
従って今日その国内情勢を表面に出さなくて収拾が出来る
と云うのは寧ろ幸いである」と言明していた。
日米戦争の最後の9カ月の間に 89万7000人、
すなわち78人に1人に当たる日本国民が殺された。
そのほとんどが非戦斗の市民であった。
ちなみに、アメリカ人は3万2000人が死んだ。
これは戦後対日占領支配をたくらむアメリカと、
天皇を中心とした日本の支配層が主従の関係にありながら、
日本国民が社会の主人公として新生日本を建設することを阻むために、
へとへとに疲れさせるという点で互いに結託していたことを教えている。
真珠湾攻撃と日米開戦は、そのような米日支配層の親分子分の関係を確立し、
戦後の対米従属支配につなげていく起点でもあった。
その内実は、安倍晋三が自慢する「日米同盟」にしっかりと受けつがれている。
再掲ですが、拙作三枚目、
「能 高砂」です。 水彩 32cm x 40cm 紙
無様な下痢壺、プーチンの失望と見切り、
◆http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50617
現代ビジネス 2016/12/30
◎日本の為政者に「独立国」としての誇りはあるのか?
プーチンが突きつけた問い 白井 聡
☆権力者のホンネ
2016年も終わろうとしているが、年末に起きたいくつかの出来事は、
いよいよ筆者が「永続敗戦レジーム」と名づけたものの
最終的な崩壊過程を告げているかのように見える。
「永続敗戦レジーム」とは、筆者が
著書『永続敗戦論――戦後日本の核心』において詳述した
戦後日本の親米保守派による支配体制を指す。
この体制は、第二次世界大戦における敗戦の意味を
出来る限り曖昧にすること(「敗戦」の「終戦」への呼び換えに象徴される)によって、
戦前戦中からの支配体制との連続性をできる限り維持しようとした。
無論その過程には、東西対立における米国陣営への日本の引き込み
という米国の強い意思が介在しており、旧支配層は、
アジア地域における米国の最重要のパートナーとなることによって、
戦後も支配的立場にとどまることに成功した。
言い換えれば、アメリカの属国になることを受け入れることによって、
日本国内での支配権を維持したのである。
この体制は、米国の庇護の下での復興、経済発展という点では
多大の成功を収め、戦後日本は「平和と繁栄」の時代として記憶される
ことになったが、東西冷戦構造の終焉とともに、その土台は失われた。
米国が日本を「庇護」する動機はなくなり、グローバル化の掛け声の下で、
むしろ「収奪」の側面が強くなる。
関係当事者たちが「世界史上稀に見る長期的で深い友好関係」と
自画自賛する日米関係の実態は次のようなものだ。
つまり、権力者たちが対米従属以外の方針をあらかじめ排除する
ことによって権益やポストを保持しているのだ。
この構造を劇的に表面化させたのは、沖縄・普天間基地移設問題をめぐって
発生した民主党鳩山政権の退陣劇であった。
この過程では、「米国との約束」を金科玉条、「錦の御旗」として奉じる
政治家や官僚が、米国の意思を過剰に忖度することによって、
沖縄県人の思いに正面から向き合おうとした鳩山氏を
「日米関係を危機に陥れる」と糾弾し、引きずり降ろしたのである。
☆惨めで哀れな民主主義
永続敗戦レジームのもう一つの致命的欠陥にも言及しておく必要がある。
それは、戦後民主主義の底の浅さを形づくっているということだ。
A級戦犯の一人に指名された岸信介の首相就任に代表されるように、
レジームの支配的中核部に「民主主義的精神を十分に持たない」と
戦後直後には指弾された勢力がとどまったという事情は、
社会の民主化に自ずと限界を設けることに帰結したが、
この現実を劇的に露呈させたのが3.11の福島第一原発事故にほかならなかった。
こと「原子力の推進」という国策をめぐっては、
国家とその追随者(代表的には大資本)によるあらゆる専横がまかり通ってきた
ことに、あらためて注目が集まったのである。
かくして、「失われた20年」によって経済的繁栄のメッキを剥落させた日本は、
不徹底な自由民主主義と
不健全な対外従属によって蝕まれた惨めな正体をさらけ出した。
この状態を指して、筆者は「永続敗戦」と名づけたのである。
それは、あの敗戦の事実を正面から受け止めないがために
敗戦状態が終了せずにダラダラと永続していることを指している。
そして、いわゆる政権交代の実質的な無意味性を証明した
民主党野田政権の後を襲って成立した第二次安倍政権は、
かかる状態に対する一種の開き直りを基盤としている。
ゆえにその方針は、「戦後レジームからの脱却」の掛け声とは正反対に、
その実態において、「永続敗戦レジームとしての戦後レジームの死守」
であると規定するほかない。
しばしば指摘されている安倍政権の政治手法の強引さは、
すでに基盤を失ったレジームをさらになお継続させようとする無理から生じている。
☆なに一つ日本のためになってない
以上のような視角から安倍政権を観察してきた筆者にとって、
露プーチン大統領の訪日は、きわめて興味深いイベントであった。
第二次安倍政権の主要政策は、その必然性を『永続敗戦論』一冊で
すべて説明可能である
(その具体的展開は2015年刊行の『「戦後」の墓碑銘』を参照のこと)。
しかし、北方領土問題の解決に道筋をつけて日露平和条約締結へと踏み出す
のだとすれば、それは『永続敗戦論』の図式によって説明できない事象が
同政権下で初めて発生することを意味するのだ。
また、そのような方向性が打ち出されることを筆者は期待してもいた。
筆者は安倍政権に対して原則的批判者としての立場をとってきたが、
それはもちろん「批判のための批判」をしたいがためではない。
『永続敗戦論』では、北方領土問題の解決のためには、
「四島一括返還」などという要求は引っ込めざるを得ない、
つまりは妥協するほかないことの歴史的背景を説明した。
だが、対外問題、特に領土問題のような
ナショナリズム感情を昂進させやすい問題において、妥協の決断を担えるのは、
リベラルな政権ではなく、保守政権であることは、歴史がしばしば証明している
(仏ド・ゴール政権におけるアルジェリア問題、米ニクソン政権におけるベトナム戦争など)。
ゆえに、筆者は安倍政権に対して、一日も早い退陣を願いながらも、
それが存在している以上、一つでも
肯定的な財産を残してほしいと期待してきたのである。
しかし、このような期待が、永続敗戦レジームを死守せんとする政権によっては
そもそも実現されるはずがなかったことを、今回あらためて思い知らされた。
その上、訪日直前および訪日時のプーチン大統領の領土問題についての発言の
踏み込み具合には、驚かされた。
だが、以下に見るように、少し考えてみれば、
それらの発言は道理に適っているのである。
☆プーチンは何を言ったのか
経過を振り返ってみよう。
12月のプーチン訪日が決まった当初(9月頃)、日本の報道機関(特にNHK)は、
「今度こそ本当に大きな動きがありそうだ」という雰囲気を漂わせた。
また、ロシア政府とつながりを持つと思われるニュース・ウェブサイト
「スプートニク日本」も同様の趣旨のコラムを掲載していた。
包括的経済協力のプランをテコとして、領土問題の原則的解決=平和条約締結へと
両国政府が本気で歩み始めていると推測させる報道が相次いだのである。
しかしその後、交渉成果の見通しについての観測は揺れ動き、
11月の米大統領選あたりからは、悲観的な論調がはっきりと支配的になった。
訪日直前期に至っては、むしろ「何か一つでも出て来くるのか」が
議論の焦点となった感すらあった。
そのなかで、ダメを押すがごとく出現したのは、
「朝日新聞」12月14日付の次の報道である。
11月に訪露した、安倍首相の側近中の側近である谷内正太郎国家安全保障局長は、
パトルシェフ安全保障会議書記が、
日ソ共同宣言を履行して2島を引き渡したならば「島に米軍基地は置かれるのか」
と問い掛けたのに対し、
「可能性はある」と答えたという。
時期と内容に照らせば、ロシア側の熱意が急速に冷めていった最大の要因は、
谷内氏のモスクワでの発言に違いないとの観測は成り立ちうるであろう。
常識的に見て、
自国に武器を向けてもらうために領土を譲渡する国などあるわけがない。
とはいえ、日米安保条約は地域的例外を認めていない以上、
歯舞・色丹が日本領となった時点で、
そこに米軍基地が置かれる可能性は論理的に発生する。
おそらくは、パトルシェフ氏の問い掛けは、文字通りの問いであるよりもむしろ、
日本の独立国としての意思の有無を問うものであった。
なぜなら、日米が対露戦力の増強を本気で図りたいのならば、
北海道に米軍基地を新設することも可能であり、
これを阻止する絶対的な手段をロシアは持たないからである。
してみれば、ロシア側が知りたかったのは、
安倍政権が真剣に交渉する相手に値するか否かということであり、
彼らは「値しない」という結論を得たに違いない。
このことは、プーチン大統領の訪日直前の「読売新聞」と日本テレビによる
インタビューでの発言が裏書きしている。
プーチン氏の次のような言葉は、国家元首の発言として相当に踏み込んだもの
であることには、注目されねばならない。
「日本が(米国との)同盟で負う義務の枠内で、露日の合意がどれぐらい実現できるのか
見極めなければならない。日本はどの程度、独自に物事を決められるのか。
我々は何を期待できるのか。最終的にどのような結果にたどり着けるのか」
「日本には同盟関係上の何らかの義務がある。
我々はそのことを尊重するのはやぶさかではないが、
我々は日本がどのくらい自由で、日本がどこまで踏み出す用意があるのか
理解しなければならない。
日本がどこまで踏み出すかを明らかにすることが必要だ。
これは二義的な問題ではない。平和条約署名という最終合意のために、
何を両国間の基礎とするかによって、結果は違ってくる。
これが、現在の露日関係と露中関係の違いだ」
あからさまに言えば、これは「一体あなた方に独自の意思というものはあるのか?
現に独立国でなく独立国たろうという意思すらも持たない国とは、
真面目な交渉はできない」というメッセージであり、
さらには「中国は独立国だが、日本はそうではない」とも示唆しているわけである。
訪日時の共同記者会見では、プーチン氏はさらに踏み込んで
1956年の日ソ共同宣言の直後に起きた「ダレスの恫喝」に言及した。
これは、日本が(四島ではなく)二島返還でケリをつけて
日ソ平和条約締結へと進むのならば、沖縄の返還はしない、
という圧力を当時の米国務長官ジョン・フォスター・ダレスからかけられた事件だ。
この事件は、戦後日本の外交が主体性を持ち得ず、
舵取りの最終審級を米国に握られてきたこと
(より正確に言えば、米国の意思を過剰忖度することによって
自ら主体性を放棄してきたこと)の象徴である。
無論、日本政府は、この事件の存在を公式に認めていない。
してみれば、このプーチン氏のメッセージを
ここでもよりあからさまに翻訳するならば、それは次のようになるだろう。
「あなた方日本政府のエリートたちが領土問題に関して
日本国民に隠している重大な事柄について、我が方は百も承知である。
約60年前にあなた方が米国から受けた屈辱のなかに、
さらになおあなた方は進んでとどまるつもりなのか?
そのような誇りなき人々と交渉する意味はない」
☆これではただの「ガキの使い」
果たして、日本のなかの一体誰が、プーチン氏のこれらの発言を
非礼で不条理なものとして非難できるだろうか。
『永続敗戦論』では、「ダレスの恫喝」が発生した経緯、
東西対立の構造と当時の日米の国力格差から
この恫喝に日本側が屈するほかなかった事情、
そして国際関係も国力格差も大幅に変容したにもかかわらず、
現在もなお、日本政府の北方領土問題への対応が
これによって呪縛されている様を詳述した。
これらの歴史を踏まえると、プーチン氏の至極当然の苛立ちが見えてくる。
安倍首相はプーチン大統領との親密な関係を繰り返しアピールし、
ウクライナやシリアの情勢をめぐって米露関係が緊迫するなかで、
あえてロシアとの接近を図った。
ロシア側からすれば、こうした動きは、語の真正な意味で日本が
「戦後レジームからの脱却」(すなわち、対米従属の相対化)を模索している
サインに見えたかもしれない。
それだけに、先に見た谷内氏の発言以降、失望の色を隠せなかったのである。
しかし、ロシア側が見落としていたのは、
永続敗戦レジームのエッセンスのごとき安倍政権が、
文字通りの「戦後レジームからの脱却」などそもそもできるはずがなかった、
ということではないか。
プーチン当局としては、一旦は本気になったがゆえに、徒労感は強いであろう。
しかし彼らは、3000億円の投資を呼び込むことで、
授業料はきっちり回収したのである。
翻って日本側はどうか。
米国自らが「世界の警察官役を降りる」と宣言した世界において、
「ワシントンに聞かないとお返事できかねます」としか言えない「ガキの使い」では、
もはや世界の誰も
まともに取り合ってくれないという事実を学んだ(はずである)。
その授業料は3000億円だった。
日露間で何かがともかく前進しているという体裁を取り繕うために、
それは持ち出されなければならなかった。
その原資は血税であるが、いまだ永続敗戦レジームを支持し続けている無知未熟な者は、
「独立国ごっこ」に興じ続ける限り、
高い授業料を破産するまで払い続けなければなるまい。
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下痢壺は伊藤俊輔(博文)を気取っておるのでは?
成り済まし明治帝・大室寅之祐は奇兵隊の分隊の一つ、「力士隊」隊士。
隊長は下忍といはれる伊藤俊輔。 桂小五郎は上忍らしい。
当時の力士は非人身分です。 田布施は鮮人部落。
下痢壺が今上の意向など聞く耳持たぬのは
伊藤俊輔(博文)を気取っておるからでしょう、オレが上だとね。