画は 葛飾 北斎(葛飾 北齋)かつしか ほくさい
宝暦10年(1760)? ~ 嘉永2年(1849年)
号は、葛飾 北齋、前北齋、戴斗、為一、
画狂老人、卍 など。 作
「冨嶽三十六景 東海道品川 御殿山ノ不二」です。
☆晴れ。
午後から、投票終えて、ぶらぶら花見に行く予定です。
八分咲きかな?
まずは、
◆https://twitter.com/tokaiamada
東海アマ より抜粋、
#amaちゃんだ @tokaiamada · 3時間前
ネパールの地震 M7.9 直下型
☆http://www.liveleak.com/view?i=2a0_1429966807
Many people killed and injured in powerful quake in Nepal
#amaちゃんだ @tokaiamada · 4時間前
小出氏「福島第1原発は石棺を」 元京都大助教
☆http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2015042501001598.html
東京新聞 2015年4月25日
◎小出氏「福島第1原発は石棺を」 元京都大助教
原発の危うさに長年警鐘を鳴らしてきた元京都大原子炉実験所助教の
小出裕章氏が25日、東京都内の日本外国特派員協会で記者会見した。
事故発生から4年が経過した東京電力福島第1原発について
「チェルノブイリのように石棺で(放射性物質を)封じ込めるしかない」と述べ、
溶け落ちた核燃料の取り出しを目指す政府や東電の方針を否定した。
小出氏は、第1原発の現状について
「4年たっても現場に作業員が行けない事故は原発以外にない」と指摘。
1~3号機では、溶け落ちた核燃料が原子炉格納容器内に散らばっている
とみられることから「機器を使って取り出せる燃料の量は高が知れている」と話した。
(共同)
#amaちゃんだ @tokaiamada · 4時間前
百田尚樹も尊敬する元零戦パイロットが安倍首相を批判!
「戦前の指導者に似ている」
☆http://lite-ra.com/2015/04/post-1050.html
リテラ 2015.04.24
4月3日、米「ニューヨーク・タイムズ」に、第二次世界大戦時、
零戦のパイロットだった男性のインタビューが掲載された。
原田要さん、98歳。元大日本帝國海軍エースパイロットである。
原田さんは真珠湾攻撃では上空直掩隊として艦隊上空を警戒し、
セイロン沖海戦、ミッドウェー海戦に参加。
ガダルカナル島の戦いで撃墜され、重傷を負いながらも帰国し、
教官となって終戦を迎えた。
総撃墜数は19機。 自らの経験を記録したいくつかの著書を残している。
「Retired Japanese Fighter Pilot Sees an Old Danger on the Horizon
(元日本人戦闘機飛行士は差し迫った古い危機をみる)」──
そう題された「ニューヨーク・タイムズ」の記事は、
長野で行われた原田さんの講演会の描写から始まる。
彼はゆっくりと壇上に上がると、セピアに色あせた写真を掲げたという。
それは、革のフライトジャケットを着込んだ、若かりし頃の自分の姿だった。
そしてこう語った。
「戦争ほど恐ろしいものはありません」
「私は、あなたたちに私自身の戦争体験を伝えたい。
若い世代に、私と同じ恐怖を体験させないために」
講演会のあと、
原田さんは「ニューヨーク・タイムズ」のインタビューに応じている。
「私は零戦のコックピットから戦争を見ました。
いまだに私が殺した兵士たちの顔はよく覚えています」
「戦場でのかつての敵兵もまた、私たちと同じように父であり、息子なのです。
彼らを憎んだり、知りもしないでいることはできません」
「戦争は人間から人間性を奪うのです。
全くの他人を殺すか、殺されることを選ばざるをえない状況に置かれることによって」
「私は気がつきました。戦争が、私を人殺しへと変えてしまった。
私はそうありたかったわけではないのに」
人を殺したくない、そう思っていても、人を殺してしまっている──
戦場の現実を知る当事者の言葉は、重い。
記事には書かれていないが、原田さんの著書『最後の零戦乗り』(宝島社)には
神風特攻のエピソードも記されている。
1943年1月、原田さんは霞ヶ浦航空隊に教官として着任し、
海軍兵学校出身者3名を受け持つことになった。
そのなかの一人が関行男大尉(2階級特進後、中佐)だった。
初の神風特攻により、レイテ沖海戦で戦死した軍人である。
そして、原田さん自身もまた、霞ヶ浦航空隊にいたころ、
「参謀肩章を付けたお偉いさん」から特攻の志願を促されたことがあったという。
ガダルカナルでともに死の淵に立った戦友は、
「命令されたら仕方がない。こうなったら俺は志願するよ」と言って、戦死した。
原田さんは「俺はいやだ」と志願しなかったと書いている。
〈ミッドウェーでの「巻雲」での経験、ガ島から病院船での出来事、
とにかく私は、「命を大事にしなくては」
と、最後まで、命はむだにしちゃいけないと思っていた。〉
(『最後の零戦乗り』より)
──このエピソードを聞いて、なにかを思い出さないだろか。
海軍のエースパイロット、教官に転身、「命を大事に」。
そう、百田尚樹『永遠の0』の主人公、宮部久蔵である。
原田さんと宮部久蔵は、操縦練習生出身という点でも同じだ。
実は、百田と原田さんは少なくとも一度、会って話したことがあるらしい。
『永遠の0』出版後の2010年に、百田はツイッターでそのことをつぶやいていた。
実際、そんな縁もあり、前出の『最後の零戦乗り』の帯に百田が推薦文を寄せている。
原田さんは、百田に会ったときに
「(主人公の宮部は)いろいろな零戦搭乗員の話を聞いてから作った、ひとりの偶像です。
このなかには原田さんも入っています」と聞かされたという。
しかし、安倍首相を礼賛し、タカ派発言を連発する百田とは対称的に、
原田さんはインタビューのなかで、安倍首相の歴史認識や戦争への考え方に対して、
こう「鋭いジャブ」を入れている。
「安倍首相は必死で日本の戦争放棄を取り消そうとしたがっているように見える」、
そして、
「戦後の長い平和がひとつの達成であったということを忘れているように思えてならない」と。
積極的平和主義の名の下に、日本を再び「戦争ができる国」にしてしまった安倍首相。
その口から常日頃飛び出すのは「有事にそなえて」
「中国の脅威は予想以上」という国防論だ。
そこからは、原田さんが語る
「全くの他人を殺すか、殺されることを選ばざるをえない状況に置かれる」
「戦争が、私を人殺しへと変えてしまった」という生々しい血の匂いと、
背負うことになる罪の重さは、まったく感じられない。
原田さんはインタビューで、
「安倍首相ら最近の政治家は戦後生まれだから、どんな犠牲を払ってでも
戦争を避けなければならないということを理解していないのです」と語り、
そして、こう続けている。
「その点で彼らは戦前の指導者たちと似ているんです」
戦後、眠れないほどの悪夢に苦しめられたと語る原田さん。
夢のなかで彼が見続けていたのは、自分が撃墜したアメリカの飛行士たちの怯える顔だった。
自身の戦争体験をようやく語れるようになるまでに、何年もの時がかかったという。
記事は、原田さんのこんな言葉で締めくくられている。
「私は死ぬまで、私が見てきたものについて語りたいと思う」
「決して忘れないことが 子どもたち、そして子どもたちの子どもたちを
戦争の恐怖から守る最良の手段なんです」
安倍首相や百田に、その「恐怖」は想像もできないらしい。
北齋、二枚目、
「千絵の海 甲州火振」です。
戦争の狂犬=ユダ米、親中の論者ですが、
◆http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201504250000/
櫻井ジャーナル 2015.04.25
◎中露に対して軍事的な圧力を強めている米国としては、
韓国を怒らせる安倍首相の言動は頭痛の種
より抜粋、
アメリカのベン・ローズ大統領副補佐官は安倍晋三首相に対し、
日本によるアジア侵略に関し、
「過去の談話と合致する形で建設的に対処し、緊張を和らげるよう働きかけている」
と述べたという。
1995年に村山富市首相(当時)が日本によるアジアの「植民地支配と侵略」を認め、
「痛切な反省と心からのおわび」を表明した姿勢を継承しろ ということだが、
この発言をもって、
アメリカが歴史と真摯に向かっていることを示していると解釈してはならない。
例えば、ナチスに率いられたドイツがソ連を侵略し、
敗北した歴史を否定しているのがアメリカにほかならないし、
イスラエルによる先住民の虐殺、周辺への侵略を黙認している。
アメリカの先住民の虐殺を反省しているようにも思えない。
つまり、ローズ副補佐官の発言は
中国と戦う上で抱き込む必要がある韓国を刺激するなというだけのことであり、
ネオコン/シオニストは歴史の書き換え、改竄に忙しい。
(中略)
1945年4月にルーズベルトが執務室で急死してからウォール街は主導権を奪い返し、
ナチスの残党や協力者を保護する。
昨年2月にウクライナであったクーデターはその延長線上にある。
自分を狙ったクーデターを知った上でフランクリン・ルーズベルトは1938年4月29日、
ファシズムについて次のように語っている。
「もし、私的権力が 自分たちの民主的国家より強くなるまで強大化する ことを
人びとが許すなら、民主主義の権利は危うくなる。
本質的に、個人、あるいは私的権力をコントロールするグループ、
あるいはそれに類する何らかの存在による 政府の所有こそが ファシズムだ。」
フランクリン・ルーズベルトが考えるファシズムをヨーロッパへ広げるために
導入を計画しているのがTTIP(環大西洋貿易投資協定)であり、
環太平洋に導入しようとしているのがTPP(環太平洋連携協定)。
巨大資本が国を支配、つまり「オリガルヒ」が圧倒的多数の人びとの上に君臨する
システムの導入を目論んでいるわけだ。
これを「近代封建制」と呼ぶ人もいるが、その仕組みを作り上げるために
選挙結果を操作する仕掛けが作られていると言われている。
2000年のアメリカ大統領選挙では投票方法が原始的だったため、
多くの人に問題が知られてしまったが、04年には投票のコンピュータ化が進み、
操作は容易になった。
ケリーが投票結果について闘う意思があればアメリカの深層に光があたったかもしれないが、
アル・ゴアの時と同じように、そうした展開にはなっていない。
それでも不正が問題になり、オハイオ州ではコンピュータ・システムを使った
投票操作が裁判になっている。
その実態を知る立場にあったマイク・コネルが証言することになったのだが、
2008年12月19日にパイパー・サラトガが墜落して死亡している。
ワシントンDCからオハイオの自宅へ戻る途中だった。
生前、コネルはカール・ローブから脅されているとして保護を求めていた。
この「事故」は、1999年7月16日の出来事を思い起こさせる。
この日、ジョン・F・ケネディ・ジュニアを乗せたパイパー・サラトガも
自動操縦で飛んでいたはずの地点で墜落、本人と妻、その妻の姉が死亡しているのだ。
その翌年には大統領選が予定されていたのだが、事故の時点で最も人気の高い候補者は
出馬を否定していたJFKジュニアだった。
航空機にしろ、自動車にしろ、コンピュータ化が進んだ現在、
外部からハッキングされることは可能。
外部からコントロールされ、事故を起こすこともありえるため、
JFKジュニアは殺されたと考えている人はいる。
日本もアメリカも民主主義国家とは言えない状況で、
アメリカも中東やウクライナでは緊張を高める方向へ動いている。
ローズ大統領副補佐官の安倍に対する発言だけをピックアップすると、
アメリカの実態を見誤る。
北齋、三枚目、
「大津」です。
大津絵:
江戸時代を通じ、東海道滋賀県大津宿の名物となった。
初期の大津絵は佛画が多かった。
文化・文政期(1804- 1829年)には「大津絵十種」と呼ばれる代表的画題が確定し、
一方で護符としての効能も唱えられるようになった
(「藤娘」は良縁、「鬼の寒念仏」は子供の夜泣き、「雷公」は雷除けなど)。
鬼の寒念仏、外法の梯子剃り、藤娘、瓢箪鯰、鷹匠、
座頭、雷の太鼓つり、槍持ち奴、長刀弁慶、矢の根五郎、など。
現在では百余種とされる。
何時まで保つかねw
◆http://my.shadowcity.jp/2015/04/post-6933.html
ネットゲリラ (2015年4月25日)
◎和民に行く奴はこいつの支援者
より抜粋、
ワタミが漁師を月給15万でこき使おうという話なんだが、
漁師ってよく死ぬので、15万じゃ誰もやりません。
どれくらいよく死ぬかというと、有名な例では「マリアナ台風」というのがある。
マリアナ海域漁船集団遭難事件としてWikipediaにも項目がある。
6隻が沈没、1隻が座礁、死亡1人、行方不明208人という、
日本史上最大の海難事故です。
これらの船は、カツオを獲りに行っていたんだが、1965年なので、機帆船ですね。
まだ帆があって、エンジンの補助に帆を使う。
この時、戸田の船も沈んで、ずいぶんたくさん死んだ。
さて、森繁久彌という人がいたわけです。
森繁はヨットが大好きで、1964年にふじやま丸という
当時日本最大のヨットを建造している。
森繁は超売れっ子で、物凄く稼いでいたので、冷暖房付きの豪華なヨットだ。
森繁は、このヨットであちこちクルーズしていたんだが、
伊豆の戸田村に入港した時に、夜になって一人の若者が訪ねてきた。
「森繁さん、神さまとか仏さまとかを信じますか?」と聞かれて、
なんだ、妙なコトを言うヤツだなと話を聞いてみると、若者がトツトツと語り始めた。
と、ここから先は森繁が書いているので引用します。
☆http://blogs.yahoo.co.jp/nrg46644/50579027.html
安らぎへの道・ブッダの言葉 2010/6/10(木)
◎森繁久彌 氏 「 心を高く悟りて俗に還る 」、より
俳優の 森繁久彌氏は、 「 私は 熱心な 仏教信者でもありませんが ・・・ 」、
と 記しながら、青年漁師との交流と エピソードを紹介しています。
―― 北西太平洋の マリアナ沖の漁場は 魚の宝庫です。 戸田港の漁師たちは
台風が それるという天気予報を信じて、マリアナ沖で操業中でした。
しかし 天気予報がはずれて 台風に襲われ、あっという間に 百数十艘の漁船の
四分の三ほどが転覆し、当時十六歳の青年も 海に放り出されました。
気がつくと 木切れにつかまっていました。
逆巻く波が押し寄せ、木切れとともに
二十メートルも 体が持ち上がったかと思うと、一気に波の底に落ちてゆきます。
木切れだけは放すまいと、必死に抱きかかえていました。 一昼夜がすぎ、
「 もう限界だ。」
と 眠りかけたとき、船が視野に入り、救助されました。
デッキで二時間ほど眠り、目が覚めてみると、
デッキは海から引き揚げられた死体でいっぱいです。 青年は、
「 ない ! 木切れが ない ! 」、
と気づき、船長のところに飛んで行って、聞きました。
「 オレが つかまっていた木切れは、どうなったでしょうか ? 」、
「 木切れ ? そんなもん知らん。 お前、助かっただけでも喜べ。 太平洋の
ド真ん中で、木切れが見つかるわけがないだろ。 無理だ。 この馬鹿者。」、
と 取り合ってくれません。 ―― 三時間、四時間と 必死に頼み続けました。
船長は 青年の目をのぞいて、
「 ・・・・・ よし、わかった。 引き返してやろう 。 」
と言って、青年が救助された地点に 船が戻ったとき、
「 おい、お前の気の済むまで探せ。」、
と 船のサーチライトを点けてくれました。 夜の海面に光りが走ります。
船長と青年は波間を凝視しました。
三十分、四十分とサーチライトの光が海を照らし出します。
そのとき、波間に ピカッと光るものがありました。
即座に船長は、「 船を回せ ! 」、と指示を出し、
船は光を帯びたものへ近づいていきました。 青年と船長は同時に、
「 筏 ( いかだ ) だ !! 」、と 叫んでいました ・・・・・ 。
―― 青年は 盃を手に、遠くを見つめながら、
「 森繁さん、木切れは見つからなかったけれども、筏には 息も絶えだえの六人の
漁師が乗っていました。 ボクは、仏さまが存在するということを認めますよ。」
と 話し終わりました。
森繁久彌氏は、青年漁師の体験談を紹介したあと、
「 自分を救ってくれた 木切れに執着したところに、青年の想念や 思念を、
超越したものがあります。 これは理屈ではありません。」、
と 述懐しています。
このエピソードはこちらにも出てますね。講演の記録だそうだが、
話術の天才、森繁の語りなので素晴らしいです。
☆http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1996/00165/08/contents/08-020.htm
木切れの代わりに六つの命 俳優 森繁久彌
漁師というのは、そういう商売です。
水死体になった時に身元が判明する手がかりとなるように、刺青を入れる人も多い。
月給15万じゃ、刺青入りませんw
↑
♪ヤクザにゃ 強いマドロス【matroos】の~
別れのブルース
作詩:藤浦 洸 作曲:服部良一
唄:淡谷のり子
一、
窓を開ければ 港が見える
メリケン波止場の 灯(ひ)が見える
夜風 汐(しお)風 恋い風のせて
今日の出船(でふね)は どこへ行く
むせぶ心よ はかない恋よ
踊(おど)るブルースの 切(せつ)なさよ
二、
腕(うで)にいかりの いれずみほって
やくざに強い マドロスの
お国言葉(くにことば)は 違(ちが)っていても
恋には弱(よわ)い すすり泣き
二度と逢(あ)えない 心と心
踊るブルースの 切なさよ
1937年(昭和12年)に発表された歌謡曲。
淡谷のり子の歌唱により、日本コロムビアからレコード化され、
大ヒットの歌曲。
宝暦10年(1760)? ~ 嘉永2年(1849年)
号は、葛飾 北齋、前北齋、戴斗、為一、
画狂老人、卍 など。 作
「冨嶽三十六景 東海道品川 御殿山ノ不二」です。
☆晴れ。
午後から、投票終えて、ぶらぶら花見に行く予定です。
八分咲きかな?
まずは、
◆https://twitter.com/tokaiamada
東海アマ より抜粋、
#amaちゃんだ @tokaiamada · 3時間前
ネパールの地震 M7.9 直下型
☆http://www.liveleak.com/view?i=2a0_1429966807
Many people killed and injured in powerful quake in Nepal
#amaちゃんだ @tokaiamada · 4時間前
小出氏「福島第1原発は石棺を」 元京都大助教
☆http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2015042501001598.html
東京新聞 2015年4月25日
◎小出氏「福島第1原発は石棺を」 元京都大助教
原発の危うさに長年警鐘を鳴らしてきた元京都大原子炉実験所助教の
小出裕章氏が25日、東京都内の日本外国特派員協会で記者会見した。
事故発生から4年が経過した東京電力福島第1原発について
「チェルノブイリのように石棺で(放射性物質を)封じ込めるしかない」と述べ、
溶け落ちた核燃料の取り出しを目指す政府や東電の方針を否定した。
小出氏は、第1原発の現状について
「4年たっても現場に作業員が行けない事故は原発以外にない」と指摘。
1~3号機では、溶け落ちた核燃料が原子炉格納容器内に散らばっている
とみられることから「機器を使って取り出せる燃料の量は高が知れている」と話した。
(共同)
#amaちゃんだ @tokaiamada · 4時間前
百田尚樹も尊敬する元零戦パイロットが安倍首相を批判!
「戦前の指導者に似ている」
☆http://lite-ra.com/2015/04/post-1050.html
リテラ 2015.04.24
4月3日、米「ニューヨーク・タイムズ」に、第二次世界大戦時、
零戦のパイロットだった男性のインタビューが掲載された。
原田要さん、98歳。元大日本帝國海軍エースパイロットである。
原田さんは真珠湾攻撃では上空直掩隊として艦隊上空を警戒し、
セイロン沖海戦、ミッドウェー海戦に参加。
ガダルカナル島の戦いで撃墜され、重傷を負いながらも帰国し、
教官となって終戦を迎えた。
総撃墜数は19機。 自らの経験を記録したいくつかの著書を残している。
「Retired Japanese Fighter Pilot Sees an Old Danger on the Horizon
(元日本人戦闘機飛行士は差し迫った古い危機をみる)」──
そう題された「ニューヨーク・タイムズ」の記事は、
長野で行われた原田さんの講演会の描写から始まる。
彼はゆっくりと壇上に上がると、セピアに色あせた写真を掲げたという。
それは、革のフライトジャケットを着込んだ、若かりし頃の自分の姿だった。
そしてこう語った。
「戦争ほど恐ろしいものはありません」
「私は、あなたたちに私自身の戦争体験を伝えたい。
若い世代に、私と同じ恐怖を体験させないために」
講演会のあと、
原田さんは「ニューヨーク・タイムズ」のインタビューに応じている。
「私は零戦のコックピットから戦争を見ました。
いまだに私が殺した兵士たちの顔はよく覚えています」
「戦場でのかつての敵兵もまた、私たちと同じように父であり、息子なのです。
彼らを憎んだり、知りもしないでいることはできません」
「戦争は人間から人間性を奪うのです。
全くの他人を殺すか、殺されることを選ばざるをえない状況に置かれることによって」
「私は気がつきました。戦争が、私を人殺しへと変えてしまった。
私はそうありたかったわけではないのに」
人を殺したくない、そう思っていても、人を殺してしまっている──
戦場の現実を知る当事者の言葉は、重い。
記事には書かれていないが、原田さんの著書『最後の零戦乗り』(宝島社)には
神風特攻のエピソードも記されている。
1943年1月、原田さんは霞ヶ浦航空隊に教官として着任し、
海軍兵学校出身者3名を受け持つことになった。
そのなかの一人が関行男大尉(2階級特進後、中佐)だった。
初の神風特攻により、レイテ沖海戦で戦死した軍人である。
そして、原田さん自身もまた、霞ヶ浦航空隊にいたころ、
「参謀肩章を付けたお偉いさん」から特攻の志願を促されたことがあったという。
ガダルカナルでともに死の淵に立った戦友は、
「命令されたら仕方がない。こうなったら俺は志願するよ」と言って、戦死した。
原田さんは「俺はいやだ」と志願しなかったと書いている。
〈ミッドウェーでの「巻雲」での経験、ガ島から病院船での出来事、
とにかく私は、「命を大事にしなくては」
と、最後まで、命はむだにしちゃいけないと思っていた。〉
(『最後の零戦乗り』より)
──このエピソードを聞いて、なにかを思い出さないだろか。
海軍のエースパイロット、教官に転身、「命を大事に」。
そう、百田尚樹『永遠の0』の主人公、宮部久蔵である。
原田さんと宮部久蔵は、操縦練習生出身という点でも同じだ。
実は、百田と原田さんは少なくとも一度、会って話したことがあるらしい。
『永遠の0』出版後の2010年に、百田はツイッターでそのことをつぶやいていた。
実際、そんな縁もあり、前出の『最後の零戦乗り』の帯に百田が推薦文を寄せている。
原田さんは、百田に会ったときに
「(主人公の宮部は)いろいろな零戦搭乗員の話を聞いてから作った、ひとりの偶像です。
このなかには原田さんも入っています」と聞かされたという。
しかし、安倍首相を礼賛し、タカ派発言を連発する百田とは対称的に、
原田さんはインタビューのなかで、安倍首相の歴史認識や戦争への考え方に対して、
こう「鋭いジャブ」を入れている。
「安倍首相は必死で日本の戦争放棄を取り消そうとしたがっているように見える」、
そして、
「戦後の長い平和がひとつの達成であったということを忘れているように思えてならない」と。
積極的平和主義の名の下に、日本を再び「戦争ができる国」にしてしまった安倍首相。
その口から常日頃飛び出すのは「有事にそなえて」
「中国の脅威は予想以上」という国防論だ。
そこからは、原田さんが語る
「全くの他人を殺すか、殺されることを選ばざるをえない状況に置かれる」
「戦争が、私を人殺しへと変えてしまった」という生々しい血の匂いと、
背負うことになる罪の重さは、まったく感じられない。
原田さんはインタビューで、
「安倍首相ら最近の政治家は戦後生まれだから、どんな犠牲を払ってでも
戦争を避けなければならないということを理解していないのです」と語り、
そして、こう続けている。
「その点で彼らは戦前の指導者たちと似ているんです」
戦後、眠れないほどの悪夢に苦しめられたと語る原田さん。
夢のなかで彼が見続けていたのは、自分が撃墜したアメリカの飛行士たちの怯える顔だった。
自身の戦争体験をようやく語れるようになるまでに、何年もの時がかかったという。
記事は、原田さんのこんな言葉で締めくくられている。
「私は死ぬまで、私が見てきたものについて語りたいと思う」
「決して忘れないことが 子どもたち、そして子どもたちの子どもたちを
戦争の恐怖から守る最良の手段なんです」
安倍首相や百田に、その「恐怖」は想像もできないらしい。
北齋、二枚目、
「千絵の海 甲州火振」です。
戦争の狂犬=ユダ米、親中の論者ですが、
◆http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201504250000/
櫻井ジャーナル 2015.04.25
◎中露に対して軍事的な圧力を強めている米国としては、
韓国を怒らせる安倍首相の言動は頭痛の種
より抜粋、
アメリカのベン・ローズ大統領副補佐官は安倍晋三首相に対し、
日本によるアジア侵略に関し、
「過去の談話と合致する形で建設的に対処し、緊張を和らげるよう働きかけている」
と述べたという。
1995年に村山富市首相(当時)が日本によるアジアの「植民地支配と侵略」を認め、
「痛切な反省と心からのおわび」を表明した姿勢を継承しろ ということだが、
この発言をもって、
アメリカが歴史と真摯に向かっていることを示していると解釈してはならない。
例えば、ナチスに率いられたドイツがソ連を侵略し、
敗北した歴史を否定しているのがアメリカにほかならないし、
イスラエルによる先住民の虐殺、周辺への侵略を黙認している。
アメリカの先住民の虐殺を反省しているようにも思えない。
つまり、ローズ副補佐官の発言は
中国と戦う上で抱き込む必要がある韓国を刺激するなというだけのことであり、
ネオコン/シオニストは歴史の書き換え、改竄に忙しい。
(中略)
1945年4月にルーズベルトが執務室で急死してからウォール街は主導権を奪い返し、
ナチスの残党や協力者を保護する。
昨年2月にウクライナであったクーデターはその延長線上にある。
自分を狙ったクーデターを知った上でフランクリン・ルーズベルトは1938年4月29日、
ファシズムについて次のように語っている。
「もし、私的権力が 自分たちの民主的国家より強くなるまで強大化する ことを
人びとが許すなら、民主主義の権利は危うくなる。
本質的に、個人、あるいは私的権力をコントロールするグループ、
あるいはそれに類する何らかの存在による 政府の所有こそが ファシズムだ。」
フランクリン・ルーズベルトが考えるファシズムをヨーロッパへ広げるために
導入を計画しているのがTTIP(環大西洋貿易投資協定)であり、
環太平洋に導入しようとしているのがTPP(環太平洋連携協定)。
巨大資本が国を支配、つまり「オリガルヒ」が圧倒的多数の人びとの上に君臨する
システムの導入を目論んでいるわけだ。
これを「近代封建制」と呼ぶ人もいるが、その仕組みを作り上げるために
選挙結果を操作する仕掛けが作られていると言われている。
2000年のアメリカ大統領選挙では投票方法が原始的だったため、
多くの人に問題が知られてしまったが、04年には投票のコンピュータ化が進み、
操作は容易になった。
ケリーが投票結果について闘う意思があればアメリカの深層に光があたったかもしれないが、
アル・ゴアの時と同じように、そうした展開にはなっていない。
それでも不正が問題になり、オハイオ州ではコンピュータ・システムを使った
投票操作が裁判になっている。
その実態を知る立場にあったマイク・コネルが証言することになったのだが、
2008年12月19日にパイパー・サラトガが墜落して死亡している。
ワシントンDCからオハイオの自宅へ戻る途中だった。
生前、コネルはカール・ローブから脅されているとして保護を求めていた。
この「事故」は、1999年7月16日の出来事を思い起こさせる。
この日、ジョン・F・ケネディ・ジュニアを乗せたパイパー・サラトガも
自動操縦で飛んでいたはずの地点で墜落、本人と妻、その妻の姉が死亡しているのだ。
その翌年には大統領選が予定されていたのだが、事故の時点で最も人気の高い候補者は
出馬を否定していたJFKジュニアだった。
航空機にしろ、自動車にしろ、コンピュータ化が進んだ現在、
外部からハッキングされることは可能。
外部からコントロールされ、事故を起こすこともありえるため、
JFKジュニアは殺されたと考えている人はいる。
日本もアメリカも民主主義国家とは言えない状況で、
アメリカも中東やウクライナでは緊張を高める方向へ動いている。
ローズ大統領副補佐官の安倍に対する発言だけをピックアップすると、
アメリカの実態を見誤る。
北齋、三枚目、
「大津」です。
大津絵:
江戸時代を通じ、東海道滋賀県大津宿の名物となった。
初期の大津絵は佛画が多かった。
文化・文政期(1804- 1829年)には「大津絵十種」と呼ばれる代表的画題が確定し、
一方で護符としての効能も唱えられるようになった
(「藤娘」は良縁、「鬼の寒念仏」は子供の夜泣き、「雷公」は雷除けなど)。
鬼の寒念仏、外法の梯子剃り、藤娘、瓢箪鯰、鷹匠、
座頭、雷の太鼓つり、槍持ち奴、長刀弁慶、矢の根五郎、など。
現在では百余種とされる。
何時まで保つかねw
◆http://my.shadowcity.jp/2015/04/post-6933.html
ネットゲリラ (2015年4月25日)
◎和民に行く奴はこいつの支援者
より抜粋、
ワタミが漁師を月給15万でこき使おうという話なんだが、
漁師ってよく死ぬので、15万じゃ誰もやりません。
どれくらいよく死ぬかというと、有名な例では「マリアナ台風」というのがある。
マリアナ海域漁船集団遭難事件としてWikipediaにも項目がある。
6隻が沈没、1隻が座礁、死亡1人、行方不明208人という、
日本史上最大の海難事故です。
これらの船は、カツオを獲りに行っていたんだが、1965年なので、機帆船ですね。
まだ帆があって、エンジンの補助に帆を使う。
この時、戸田の船も沈んで、ずいぶんたくさん死んだ。
さて、森繁久彌という人がいたわけです。
森繁はヨットが大好きで、1964年にふじやま丸という
当時日本最大のヨットを建造している。
森繁は超売れっ子で、物凄く稼いでいたので、冷暖房付きの豪華なヨットだ。
森繁は、このヨットであちこちクルーズしていたんだが、
伊豆の戸田村に入港した時に、夜になって一人の若者が訪ねてきた。
「森繁さん、神さまとか仏さまとかを信じますか?」と聞かれて、
なんだ、妙なコトを言うヤツだなと話を聞いてみると、若者がトツトツと語り始めた。
と、ここから先は森繁が書いているので引用します。
☆http://blogs.yahoo.co.jp/nrg46644/50579027.html
安らぎへの道・ブッダの言葉 2010/6/10(木)
◎森繁久彌 氏 「 心を高く悟りて俗に還る 」、より
俳優の 森繁久彌氏は、 「 私は 熱心な 仏教信者でもありませんが ・・・ 」、
と 記しながら、青年漁師との交流と エピソードを紹介しています。
―― 北西太平洋の マリアナ沖の漁場は 魚の宝庫です。 戸田港の漁師たちは
台風が それるという天気予報を信じて、マリアナ沖で操業中でした。
しかし 天気予報がはずれて 台風に襲われ、あっという間に 百数十艘の漁船の
四分の三ほどが転覆し、当時十六歳の青年も 海に放り出されました。
気がつくと 木切れにつかまっていました。
逆巻く波が押し寄せ、木切れとともに
二十メートルも 体が持ち上がったかと思うと、一気に波の底に落ちてゆきます。
木切れだけは放すまいと、必死に抱きかかえていました。 一昼夜がすぎ、
「 もう限界だ。」
と 眠りかけたとき、船が視野に入り、救助されました。
デッキで二時間ほど眠り、目が覚めてみると、
デッキは海から引き揚げられた死体でいっぱいです。 青年は、
「 ない ! 木切れが ない ! 」、
と気づき、船長のところに飛んで行って、聞きました。
「 オレが つかまっていた木切れは、どうなったでしょうか ? 」、
「 木切れ ? そんなもん知らん。 お前、助かっただけでも喜べ。 太平洋の
ド真ん中で、木切れが見つかるわけがないだろ。 無理だ。 この馬鹿者。」、
と 取り合ってくれません。 ―― 三時間、四時間と 必死に頼み続けました。
船長は 青年の目をのぞいて、
「 ・・・・・ よし、わかった。 引き返してやろう 。 」
と言って、青年が救助された地点に 船が戻ったとき、
「 おい、お前の気の済むまで探せ。」、
と 船のサーチライトを点けてくれました。 夜の海面に光りが走ります。
船長と青年は波間を凝視しました。
三十分、四十分とサーチライトの光が海を照らし出します。
そのとき、波間に ピカッと光るものがありました。
即座に船長は、「 船を回せ ! 」、と指示を出し、
船は光を帯びたものへ近づいていきました。 青年と船長は同時に、
「 筏 ( いかだ ) だ !! 」、と 叫んでいました ・・・・・ 。
―― 青年は 盃を手に、遠くを見つめながら、
「 森繁さん、木切れは見つからなかったけれども、筏には 息も絶えだえの六人の
漁師が乗っていました。 ボクは、仏さまが存在するということを認めますよ。」
と 話し終わりました。
森繁久彌氏は、青年漁師の体験談を紹介したあと、
「 自分を救ってくれた 木切れに執着したところに、青年の想念や 思念を、
超越したものがあります。 これは理屈ではありません。」、
と 述懐しています。
このエピソードはこちらにも出てますね。講演の記録だそうだが、
話術の天才、森繁の語りなので素晴らしいです。
☆http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1996/00165/08/contents/08-020.htm
木切れの代わりに六つの命 俳優 森繁久彌
漁師というのは、そういう商売です。
水死体になった時に身元が判明する手がかりとなるように、刺青を入れる人も多い。
月給15万じゃ、刺青入りませんw
↑
♪ヤクザにゃ 強いマドロス【matroos】の~
別れのブルース
作詩:藤浦 洸 作曲:服部良一
唄:淡谷のり子
一、
窓を開ければ 港が見える
メリケン波止場の 灯(ひ)が見える
夜風 汐(しお)風 恋い風のせて
今日の出船(でふね)は どこへ行く
むせぶ心よ はかない恋よ
踊(おど)るブルースの 切(せつ)なさよ
二、
腕(うで)にいかりの いれずみほって
やくざに強い マドロスの
お国言葉(くにことば)は 違(ちが)っていても
恋には弱(よわ)い すすり泣き
二度と逢(あ)えない 心と心
踊るブルースの 切なさよ
1937年(昭和12年)に発表された歌謡曲。
淡谷のり子の歌唱により、日本コロムビアからレコード化され、
大ヒットの歌曲。